113 ひなの異変
黒い影は、完全に追い詰められていた。
ヒュンッ!
ザンッ!
ギャァァン!!
渾身の力を込めて放った刃の風も、
呪いを乗せた突進も、
すべて——紙一重で躱される。
かわされる。
かわされる。
かわされる。
一撃も、当たらない。
「……っ、……ッ!!」
黒い影の呼吸が乱れる。
ひなの身体の奥から、
**ギリギリ…ギリギリ…**とはぎしりをする音が響いた。
苛立ちが、恐怖に変わり、
恐怖が、怒りへと反転する。
「な、なんなんだ……!!
お前……ッ!!」
ドンッ!!
床を踏み鳴らし、
黒い影は叫ぶように問いかけた。
「お前は何者だぁぁぁぁぁ!!」
その叫びは、
もはや威嚇ではなかった。
助けを求める悲鳴に近かった。
すると——
美歌は、
深く、深く息を吸い、
まるで哀れむように肩をすくめた。
「……本当はね」
コツ……コツ……
一歩、前に出る。
「お前みたいなのに教えるのは、
正直、勿体ない気もするんだけどさ」
その声は低く、
しかしはっきりと、
逃げ場を塞ぐように響いた。
「——教えてあげるよ。」
店内の空気が、
**ズン……**と沈む。
「私はね、
鬼子母神の末裔。」
その瞬間——
バチィィィン!!
空気が弾けた。
床に走る亀裂。
壁の結界が、淡く光る。
「……あんたらとは、
格が違うんだよ。」
その言葉に、
黒い影が——ビクリと震えた。
「……え……?」
一瞬だけ、
本能が“危険”を察知した。
だが次の瞬間、
黒い影は無理やり笑い声を作り出す。
「……は、はは……
なに言ってやがる……」
ヒュゥゥゥ……
乾いた笑い。
「そんなもん……
知らないねぇ……!!」
強がり。
それは、誰の目にも明らかだった。
その震えた声、
乱れた呼吸、
ひなの身体を通して伝わる恐怖。
美歌は、
それをすべて見抜いた上で一
静かに、微笑んだ。
黒い影は、完全に理性を失っていた。
「ぐ……ぐぅぅ……!!
な、なんだ……この女……!!」
ブォンッ!!
ブォンッ!!
ブォンッ!!
ひなの身体の内側から、
無数の風が暴れ出す。
床が**ガタガタッ!と揺れ、
天井の照明がギィィ……**ときしみ、
空気が重く、濁っていく。
「おかしい……!!
ただの人間の器のはずだろうがぁ!!」
ひなの身体は前のめりに崩れ、
膝が床に**ドンッ!**と叩きつけられた。
——それでも、倒れない。
歯を食いしばり、
肩を震わせながら、
必死に“中から押し返している”。
「……っ……
……シュウ……」
か細い声。
だが、確かに“ひなの意識”だった。
その瞬間——
ズ……ン……
空気が、沈んだ。
ひなの頭頂部から、
**ピキッ……**と何かが割れるような音がして、
次の瞬間——
バァァァァァァ……!!
七色の光が、
“柱になりきれないまま”噴き上がった。
完全な解放ではない。
だが——確実に、何かが目覚めている。
「な……なんだこの光……!!
や、やめろ……!!
中から……中から焼かれる……!!」
黒い影は悲鳴を上げるが、
逃げられない。
逃げ場が、ない。
光は、ひなの身体の外へは広がらず、
すべて——内側で渦を巻いている。
それはまるで、
霊を追い出す光ではなく
霊ごと“包み込み、縛り付ける檻”。
「く……くそ……!!
この女……器じゃない……!!
檻だ……!!」
ひなの身体が、**ビクンッ!!**と跳ねる。
苦しそうに、
それでも必死に、
胸の前で拳を握りしめる。
——美歌の言葉が、
まだ、奥に残っている。
「信念を貫いて」
「守ると決めた気持ちを、離さないで」
「……負け……ない……」
ひなの唇が、
かすかに、確かに動いた。
すると——
ゴォォォ……!!
七色の光が、
今度は内側から黒い影を締め付ける。
「ぐぁぁぁぁぁ!!
やめろ……!!
お前……目覚めかけてるぞ……!!」
黒い影の声には、
はっきりと——恐怖が混じっていた。
だが、まだ——
完全には、追い出せていない。
光と闇が、
ひなの中でせめぎ合い、
店内は嵐の前のような緊張に包まれる。




