111 少年のひめい
「キャアアアッ! やめてっ……! お願い、やめてぇッ!」
声はかすれ、涙まじりに震えていた。
「ごめんなさいっ、ごめんなさい……っ……もう何もしないから……許して……!」
暗がりの中で、何かが倒れる音がした。
ガシャンッ──その拍子に、背中を強く打ちつけ、床を這いながら後ずさる。
何かが倒れた音とともに、うめくような声が響く。
「ッ……いや、ごめんなさい…… お願い、たたかないで!」
その声に、もう理性は残っていなかった。
「来ないで……お願いだ、こっちに来ないでっ!」
その顔は恐怖で引きつり、目は見えない“何か”を見開いていた。
だが“それ”は、確実に向かって、ゆっくりと──踏み込んでくる。
そのときだった。
押し殺したような、低く、にじむような声が響く。
「……あんたさえ、いなければ……
全部……うまくいってたのに……」
そう言って美歌の方を振り返った
黒い影が店の床を這うように揺らめき、
美歌はその様子を見つめながら、ゆっくり微笑んだ。
「相手が悪かったわね。——これで、おしまいよ。」
その言葉は静かだったが、
まるで宣告の鐘のように店内の空気を**ゴウン…**と震わせた。
しかし、黒い影はククッと低く笑い、
人の声とは思えないざらついた響きで返した。
「……それはどうかしらねぇ……?」
影の中心がぐじゅり、と蠢き、
女の形を歪に作り上げながら続ける。
「この子に憑依して……あなたを消してあげるわ、
この口汚しがぁッ!!」
ビシィッ!!
空気に亀裂が走るような音が響いた。
ひなは意識が無いままだった
美歌はその様子を見ても、表情を変えない。
ただ静かに、まるで“何かを待っている”ように成り行きを見つめていた。
黒い影はその無反応を嘲るように叫んだ。
「なぁに? 何もできないの? 見てるだけぇ?」
女の声は甲高く響き
店の壁に反響してキィイイイイイ……ンと耳を刺す。
影の女はひなに向き直り、
ゆっくりと手を伸ばした。
「じゃあ……行くわよ、ひなちゃん……」
指先が触れた瞬間——
ズオオオオオオオッ!!!
黒い風が渦を巻き、店内の椅子が吹き飛んだ。
蛍光灯が**パチパチッ!**と火花を散らし、
店全体がまるで強制的に呼吸を奪われたかのように冷え込む。
ひなの身体が突然跳ね上がり、
「っ——あ……!」
声にならない声を漏らした。
黒い影がその胸元へ、
まるで墨を水に落としたようにスーッと広がり、
体内へ吸い込まれるようにして入り始める。
ズブズブズブ……ッ!!
肉と影が混ざり合うような不快な音。
ひなの背中が反り返り、
口が勝手に開き——
「——ッアアアアアアアアアア!!!!」
ひなの悲鳴なのか、
女の笑い声なのか、
判別できない声が重なり合って響き渡る。
ギャアァァァァァァァ!!
ハハハハハハハハッ!!
ひなの瞳が濁り、
影の黒がその白目を塗りつぶしていく。
美歌は微動だにせず、
沈んだ瞳でひなの変化を見つめていた。
「……ほら、入っちゃったわよ……」
影の女の声が、ひなの喉から絞り出される。
その声は、ひなでも、女でもない。
“この世のものではない何か”の声だった。




