105 やな予感
シュウはまだ落ち着かない様子で、首をかしげながらぽつりとつぶやいた。
「でもさ……なんで美歌さん、ひなに“任せた”って言ったんだろうなぁ……」
腕を組み、ゆっくり考えるように目を細める。
「影を追いかけて退治しちゃえば、それで終わりなんじゃないのか……? 普通なら。」
その言葉が空気に落ちた瞬間、店内の温度がまた一段下がった気がした。
店の奥の蛍光灯が、かすかにジ……と軋むような音を立てる。
胸の奥に、冷たい棘がひとつ刺さる。
“終わりじゃない”
その可能性が、急に現実味を帯びて押し寄せてきた。
「……確かに、変だね。」
私は自分でもわかるほど声が硬くなっていた。
美歌があんな険しい顔をしたのも、
“任せたわよ”とわざわざ私に言ったのも、
あれはただの脅威を追いかけるだけじゃ足りないと知っていたから……?
頭の中に、嫌な予感がゆっくりと広がっていく。
まるで店のどこかに、まだ“影の残り香”が潜んでいるような――
一寸先で、何かが息を潜めてこちらを窺っているような――
そんな、言いようのない重苦しさが漂い始めていた。
ドカンッ!!!
店内の空気を切り裂くような衝撃音が響き、
次の瞬間――
ガシャァァンッ!!
鋭い破片が散る音が弾け、私たちは思わず耳をふさいだ。
振り返ると、裏口のガラスが粉々に砕け散っていた。
「……え?」
冷気が店内に吹き込み、足元に細かな破片が転がる。
裏の扉が――勝手に開いている。
そして。
その開いた暗がりの向こうに……
“あの女”が立っていた。
窓から覗き込んでいた、あの女だ。
闇を引きずるように、ギィ……と足を一歩踏み出す。
砕けたガラスを踏むたび、ピキッ、パキ……と不吉な音が店内に響いた。
「シュウくん……」
その声は、甘いのに底が抜けている。
まるで何十人もの声が混ざったような、歪んだささやき。
「迎えに……来たよォ……」
ぞわり、と背骨に冷たい何かが這い上がってくる。
女は首をかしげ、笑っている。
その笑顔は人間の“形”をしているだけで、そこに感情は宿っていなかった。
一歩。
また一歩。
近づくたびに、空気がキィィ……と軋んで震える。
「さぁ……シュウくん。一緒に行こ……?」
その瞬間、シュウの肩がびくりと震えた。
顔から血の気が引き、目が大きく見開かれたまま――
身体が完全に固まってしまっていた。
「シ、シュウ……? 動いて……!」
思わず叫んだ私の声すら、女の冷たい気配に吸い込まれて消えていくようだった。
店内の電灯がバチッ、バチバチッ……と明滅し始める。
影が揺れ、床、壁、天井――まるで全てが彼女の手足になったかのように歪んでいく。
女はもうすぐ手が届く距離。
白く細い指が、ゆっくりと、嬉しそうに伸びてくる。
シュウの喉から、かすかな震え声が漏れた。
「……ひ、な……助け、て……」
そのかすれた一言で、背筋が完全に凍りついた。
恐怖が、ついに店の中まで入り込んできてしまった。




