103 任せたわよ
男はふいに動きを止め、ゆっくりと振り返った。
その目は焦点が合っているようでどこも見ていない。だが、美歌を捉えた瞬間だけ、まるで獲物を見た獣のようにギラリと光った。
次の瞬間、男の身体は糸が切れた人形のように崩れ落ち、カウンターの手前で膝から沈んだ。酔っているにしては不自然な、力が一気に吸い取られたような倒れ方だった。
「え……?」
ひなの喉から、小さく息のような声が漏れる。
倒れた男の背中がゆっくりと痙攣し、その影が、ぬらりとねじれながら床を這っていく。
気のせいではなかった。影は男の体から“離れて”、まるで生き物のような素早さで店の外へと滑り出していく。
店の扉に触れた風が、寒気を伴って一気に吹き抜け、ヒヤリと頬を撫でた。
美歌はその気配を逃さず、じっと影の通った方向を睨みつけ、ゆっくりと息を吐いた。
まるで覚悟を決めた者だけが持つ静かな呼吸だった。
そしてひなの方へ振り返る。
「……あとは任せたわよ、ひな。」
その声は優しかった。けれどその奥に、戦いに向かう者の決意が混じっていた。
「憑依したって、あなたなら大丈夫。自分をしっかり貫いて。」
ひなは返事が出来ず、ただ強ばったまま美歌を見つめるしかなかった。
だが美歌は、そんなひなにふわりと微笑む。
安心させるための微笑み。
でも、その瞳の奥はもう戦場を見ていた。
「行ってくるからね。」
そう言い残すと、美歌は迷いなく扉へ駆け出した。
開きかけの扉が激しい風を吸い込み、ガタリと揺れる。
次の瞬間、美歌の姿はその闇の向こうへ溶けるように消えた。
店内には、まだ男の倒れた位置からじわりと広がる不気味な冷気が残り、
ひなは思わず腕を抱いて震えた。
――本当に、始まってしまった。




