君の涙
扉の前に立つ気配がした瞬間、
俺は分かった。
――エレノアだ。
ノックの前の、あの短い呼吸。
迷いと覚悟が混じる、微かな揺れ。
(……来た)
追いかけなかった。
呼ばれていなかったからだ。
だから、待った。
扉が開く。
「……エレノア?」
声が低く落ちたのは、
抑えているからだ。
ランプの光に照らされた彼女の顔は、
どこか遠くを見ているようで、
そして――何も言わないまま。
次の瞬間、
言葉より先に、涙が落ちた。
ぽろり、と。
理由も告げず、
説明もなく。
ただ、泣いている。
胸の奥の核が、
ぎり……と音を立てて軋んだ。
(……何を、言われた)
ノワールだ。
あの男の匂いが、まだ彼女に残っている。
怒りが喉まで込み上げる。
だが――動かない。
動けない。
勝手に触れたら、終わりだ。
「……エレノア?」
呼ぶ声が、自然と甘くなる。
心配と欲と抑制が、絡み合っているのが自分でも分かる。
エレノアは唇を噛み、
震える声で言った。
「ルベル……ごめんなさい」
その言葉だけで、
胸が締めつけられた。
謝る理由が分からない。
なのに、泣いている。
「こんなことを……今ここで言うなんて……
非常識だって……思ってます」
――違う。
非常識なのは、
泣かせることだ。
俺は、彼女を守るために在る。
「でも……お願い」
小さく息を吸う音。
その一瞬が、永遠みたいに長い。
「私を……抱き締めてくれますか?」
世界が、止まった。
(……許可)
その言葉が、
俺の中のすべてを縛る。
触れたい。
今すぐ抱きしめたい。
泣き止むまで、離したくない。
――でも、今は違う。
エレノアが「いい」と言うまで、
俺は動かない。
息を呑む音が、
自分のものだと分かる。
一歩も近づかないまま、
扉を閉める。
カチリ、と鍵がかかる音。
逃げ場を塞ぐためじゃない。
外の世界から、彼女を切り離すためだ。
「……触れて……いいか」
声が震えた。
懇願に近い問い。
エレノアは、迷わず頷いた。
コクン、と小さく。
その仕草だけで、
核が大きく揺れる。
――許された。
俺は、そっと手を伸ばす。
奪わない。
引き寄せない。
ただ、指先で、
エレノアの手を包む。
強くない。
だが、逃がさない。
導くように、
ゆっくりと距離を詰める。
ベッドへ。
座らせることもしない。
押し倒すこともしない。
ただ、同じ高さで。
指で、髪を梳く。
絡まった感情を解くように、
何度も、何度も。
「……大丈夫だ」
呪文みたいに、繰り返す。
理由は聞かない。
今は、聞かない。
泣いている理由より、
泣いている“事実”のほうが重い。
頬に手を添える。
壊れ物を扱うみたいに。
額へ。
こめかみへ。
そして――
ごく…喉が鳴った。
軽く。
唇が、触れた。
触れた、だけ。
それでも、
胸の奥が大きく波打つ。
(……初めてなのに)
初めての口付けの日に、
彼女は泣いている。
それが、
どうしようもなく、やるせない。
「……いいか」
もう一度、確認する。
エレノアは、
答えの代わりに、
俺の服を掴んだ。
――それで、十分だ。
唇を重ねる。
深くしない。
求めすぎない。
けれど、逃げない。
エレノアの涙が、
頬を伝う。
その雫を受け止めるように、
そっと、腕に迎え入れる。
抱き締める力は、強くない。
だが――
二度と離さないと、決めている。
「……ここにいる」
低く、確かな声。
「俺は……ここにいる」
エレノアは、
俺の胸に顔を埋め、
静かに嗚咽を漏らした。
理由は聞かない。
聞かなくても、
泣かせた“誰か”を、
俺は忘れない。
ランプの灯りが揺れる。
夜は深い。
今の俺には、
一番危うくて、
一番残酷だった。
ルベル視点




