許可の重さ
ルベルの部屋の前で、
エレノアは一度、呼吸を整えた。
胸の奥がぎゅう、と締めつけられる。
さっきまでノワールの書斎に満ちていた冷たい空気が、
まだ肌に残っている気がした。
――こんな時間に。
――こんな気持ちのまま。
非常識だと、わかっている。
それでも。
ノックする前に、扉が開いた。
「……エレノア?」
ルベルは、まるで最初から
彼女が来ると知っていたかのように立っていた。
部屋の奥から漏れる、静かなランプの光。
木の匂いと、ほんのり混じるルベルの魔力。
そのすべてが、張りつめた心をほどく。
エレノアは、何も言えなかった。
言葉より先に、
ぽろり、と涙が落ちた。
「……エレノア?」
声が、さらに低く、甘くなる。
呼びかけは一言だけなのに、
そこに含まれる心配と欲と抑制が、重なっている。
エレノアは唇を噛み、震える声で言った。
「ルベル……ごめんなさい」
涙を拭おうとして、手が止まる。
「こんなことを……今ここで言うなんて……
非常識だって……思ってます」
視線を上げる。
真紅の瞳が、逃がさないように彼女を捉えていた。
「でも……お願い」
小さく、息を吸う。
「私を……抱き締めてくれますか?」
その瞬間、
ルベルが息を呑む音が、はっきりと聞こえた。
一歩も近づかないまま、
彼はしばらく動けずにいた。
――触れたい。
――触れたら、戻れない。
その葛藤が、目に見えるほどだった。
それでも、ルベルは静かに扉を閉め、
カチリ、と鍵をかけた。
外界を遮断する、わずかな音。
「……触れて……いいか」
震えた声だった。
懇願に近い問い。
エレノアは、迷わず頷く。
コクン、と小さく。
その仕草だけで、
ルベルの理性が大きく揺れたのがわかった。
彼はそっと手を伸ばし、
指先でエレノアの手を包む。
強くない。
けれど、離さない握り方。
導くように、ベッドへ。
座らせるでもなく、
押し倒すでもなく。
ただ、距離を詰めて。
ルベルは、指でエレノアの髪を梳いた。
絡まった感情を解くように、何度も、ゆっくり。
「……大丈夫だ」
囁きは、呪文のようだった。
エレノアの瞳を覗き込み、
壊れ物を扱うように頬へ手を添える。
そのまま、額へ。
次に、こめかみへ。
そして――
軽く。
唇が触れた。
触れたというより、
確かめるような口づけ。
それでも、
胸の奥が大きく波打つ。
ルベルの瞳が揺れる。
熱を宿しながら、必死に抑え込んでいる色。
彼はもう一度、確認するように囁いた。
「……いいか」
エレノアは、答えの代わりに
そっと彼の服を掴んだ。
それで、十分だった。
震える息とともに、
ルベルは唇を重ねた。
深くない。
求めすぎない。
けれど、逃げない口づけ。
エレノアの頬を、涙がはらはらと伝う。
その雫を受け止めるように、
ルベルは彼女を腕の中へ引き寄せた。
抱き締める力は、強くない。
だが、逃がすつもりのない抱擁。
「……ここにいる」
低く、確かな声。
「俺は……ここにいる」
エレノアは、彼の胸に顔を埋め、
静かに嗚咽を漏らした。
ランプの灯りが、二人を包む。
夜は深く、
けれど、ここで時間は止まった。
――この先へ行かない、という選択が、
今は一番、危うくて、甘かった。




