静かな決断
エレノアの部屋の前で、
ノワールは足を止めた。
夜の邸は静まり返っている。
だが、その静寂の底に――
わずかな“熱”が混じっていた。
(……なるほど)
扉の向こう。
抑えた声。
息が擦れる音。
そして、魔力の“濃度”。
直接聞こえるほどではない。
だが、長年魔術師として生きてきた感覚が告げている。
――近すぎる。
人が、そう簡単に纏わない温度。
互いの魔力が、溶け合いかけている兆候。
(……すでに、境界が薄い)
ノワールは一度、目を閉じた。
そして、わざと――
間を置き、音を立てて扉を叩いた。
コン、コン。
「エレノア。
お取り込み中かな?」
声はいつも通り、柔らかく。
あくまで“何も知らない顔”で。
数拍の沈黙。
その間に、
扉の向こうの空気が一気に乱れるのを感じた。
(……今、離れたな)
ドアが開く。
そこに立っていたエレノアは、
明らかに呼吸が浅く、
頬に熱が残り、
視線が定まっていなかった。
そして――
彼女のすぐ後ろ。
半歩もない距離に立つ、ルベル。
紅い瞳。
抑え込まれた感情。
だが、完全には隠しきれていない“衝動”。
(……やはり)
空気が、すでに絡み合っている。
ノワールは微笑んだ。
「邪魔をしたなら、すまないね」
エレノアは慌てて首を振る。
「い、いえ!
その……ちょうど……!」
言葉が続かない。
それがすべてだった。
ノワールは視線を、
一瞬だけ――
ルベルに向ける。
紅い瞳と、視線が交わる。
その刹那。
(……暴走寸前だな)
魔力の流れが荒い。
抑制はしている。
だが、それは“意志”ではなく――
エレノアの存在に依存している抑制だ。
彼女が拒めば、壊れる。
彼女が揺れれば、踏み越える。
(……危険すぎる)
ノワールは、静かに息を吐いた。
「エレノア。
明日の出発は、朝食の後で問題ないか?」
「は、はい……」
「ゆっくり休むといい」
そう言ってから、
もう一度だけ、ルベルを見る。
――冷静で、確信に満ちた眼差し。
(王都へ来た時が……彼の、最後だ)
エレノアを守るためなら、
躊躇はしない。
たとえそれが、
彼女の心を一時的に傷つける選択でも。
ノワールは踵を返した。
階下へ向かう足音は、
ゆっくりと、だが迷いなく。
その背中で、
ひとつの決断だけが、
静かに、確実に固まっていた。
――封印は、必要だ。
ノワール視点




