触れないと苦しい
王都へ向かう準備が進む部屋の中。
薄い春光が窓から差し込み、
床の木目を静かに照らしていた。
旅の荷造りをしながらも、
胸の奥のざわつきが消えない。
そんな時だった。
背後から、低く甘く、押し殺した声が落ちる。
「……エレノア。触れていい?」
振り返れば、ルベルが立っていた。
その瞳はいつもより深く、
真紅が揺れ、焦点が私だけを射抜いてくる。
「ど、どうしたの?」
震える声で問いかけると、
ルベルは一歩、音もなく近づき――
「今……エレノアに触れないと、苦しい」
その言葉は、
胸の奥に直接触れられたように甘くて、危険で。
(く、苦しいって……そんな……)
思わず息を吸う。
その瞬間。
ルベルの指先がわずかに伸び、
けれど彼は自分で動きを止める。
許可がなければ触れない。
触れたいのに触れられない。
その理性が残酷なほど彼を縛っている。
(……このままじゃ……壊れそう)
私は静かに両手をひらき、
胸の前で小さく――
「……おいで」
招いた。
ルベルの瞳が、はっ、と大きく揺れる。
(い、今……エレノアが……俺を……呼んだ……?)
驚愕と歓喜が一瞬で混ざり、
彼の呼吸が乱れるのがわかった。
次の瞬間、
ルベルは堪えきれないように腕を伸ばし――
エレノアの頬へ、すり寄った。
「……ん……ルベル……?」
頬に触れる髪、
鼻先をかすめる彼の熱い息。
そのたびに胸が跳ねる。
(あ……嬉しそう……)
腕にしがみつくように押し寄せてくる温度。
まるで帰る場所を探していた子が
やっと安らげる場所を見つけたみたいだった。
だが。
その甘さのすぐ裏で、何かが限界を越えた。
ルベルの呼吸が深く沈み、
頬から顎へ、首筋へ――
慎重に、でも確実に滑り降りていく。
「ル、ベル……?」
答えは返らない。
代わりに――
かぷ。
小さな痛みと熱が、首の付け根に走った。
「っ……!」
瞬間、全身が跳ねあがる。
だが痛みはすぐに消え、
代わりに甘く痺れるような感覚が広がる。
ルベルはゆっくりと唇を離し、
名残惜しそうに跡を指でなぞった。
そこには、
小さく、薄い――
赤い印がついていた。
「……ごめん。
我慢……できなかった」
謝りながらも、
その瞳は満ちていた。
独占の光で。
所有の熱で。
「エレノアの……印。
……“俺の女”って……わかるように」
「あ、あの……ルベル……」
胸が熱くて、声が震えた。
怒れなかった。
痛くなかった。
ただ、どうしようもなく――胸が苦しくなるほど甘かった。
だがその直後。
コンコン。
扉が叩かれる。
「エレノア、お取り込み中かな?」
ノワールの涼しい声。
ルベルの気配が一瞬で変わる。
真紅の瞳が細くなり、
さっきまでの甘さが嘘のように消える。
(……またこいつだ……
エレノアを見る……触れようとする……
邪魔だ……)
胸の奥で、理性を溶かすような黒い熱が燃え上がった。
ノワールが来るたびに、
ルベルの“限界”は静かに壊れていく。




