幸福という毒
薪ストーブの火がぱちぱちと音を立てていた。
冬特有の澄んだ冷気が窓の外を満たし、
そのコントラストで、部屋の暖かさがやけに際立って感じられる。
その温度差の中で──
エレノアは俺の隣に座って、糸車を回していた。
白い指先が糸をつまみ、やわらかく撚る。
そのわずかな動きを追うだけで、胸の奥が熱を帯びる。
(……どうして、こんなにも綺麗なんだ)
触れて、と求められたわけじゃない。
なのに、もうすでに指の感触まで記憶してしまっている。
エレノアが指先を少し震わせると、
俺は反射のように口を開いていた。
「ここ……少し緩んでる。指、貸して?」
「え、あっ……こ、こう?」
俺の手の中に、エレノアの指が触れる。
ほんの一瞬。
ほんのわずかな温度の重なり。
それだけで、内側の核がぐらりと揺れた。
(もっと触れたい)
そう思った瞬間、喉がひどく熱くなる。
でも、エレノアは微笑んでくれる。
「そう。……上手いよ、エレノア」
褒めると、彼女は小さく肩をすくめて頬を染める。
それを見るたび、理性が薄く透けていく。
本当は、
撫でたい。
抱き寄せたい。
手の甲に口づけして、震えている指を甘噛みしたい。
だけど。
――“許可がないと触れない”
ルールを破れば、エレノアが困る顔をする。
それだけは見たくなくて、俺は何度も息を殺した。
(エレノアが望む触れ方以外……してはいけない)
その掟だけが、ぎりぎり俺の理性を繋ぎ止めている。
……だけど。
最近のエレノアは違う。
前のように距離を取らず、自然に肩に寄りかかってくる。
袖をつまんで、
手を借りて、
ときにはふっと体重を預けて。
たぶん本人は無意識なのだろう。
けれど──
そんな小さな触れ方ひとつで、俺の中では世界がひっくり返る。
(……そんなふうに触れたら、俺だって……限界がある)
ストーブの前の温度より、
エレノアの体温のほうが、ずっと熱い。
糸車の音が止み、
彼女が「できた」と笑う。
その笑顔があまりにも柔らかくて、
胸の奥で、何かがゆっくり音を立ててひび割れた。
(エレノア。
君はきっと知らないんだろうな……)
触れていいと言われる幸福は、
触れられない苦しみよりも、ずっと残酷だということを。
許されたぶんだけ欲しくなる。
与えられたぶんだけ、奪いたくなる。
“もっと”
“もっと”
“もっと”
その感情が、骨の芯まで染み込んでしまう。
エレノアが糸の束を抱えて立ち上がる。
ほわっと舞い上がる髪の先が、俺の頬に触れた。
それだけで、また核が震える。
自制がわずかにきしむ。
(……まだ大丈夫。
エレノアが望むなら、まだ抑えられる)
嘘じゃない。
でも、真実でもない。
抑えられる範囲は、日に日に狭まっている。
触れられる回数が増えるほど、心が飢えてしまう。
獣ではない。
けれど、獣よりもたちが悪い“執着”が、俺の中で育っていく。
いつか、
エレノアが無邪気に触れてきた手を、
そのまま離さず、抱き寄せてしまいそうだ。
その未来が、
甘くて、怖い。
エレノアは明るい声で言った。
「春になったら、ルベルに新しいローブを作るね」
その言葉で──
俺はほんの一瞬、呼吸を忘れた。
自分のために何かを作ってくれる。
それは“選ばれた”という証のようで、
胸が苦しくなるほど嬉しかった。
(……エレノア。
君が俺のために手を動かすとき……
俺は自分の理性を保っていられるだろうか)
遠くの雪解けの音すら聞こえないほど、
エレノアだけを見つめてしまう。
彼女が笑えば、俺の世界は満ちる。
彼女が触れれば、俺の理性は崩れる。
幸福は、毒だ。
甘くて、逃がさない。
そして俺は今日もまた、
その毒を自ら吸い込みながら、
エレノアの隣に座り続ける。




