静かな台所で
台所に立った瞬間、
俺はゆっくり深呼吸をした。
落ち着け。
落ち着け……。
さっき、エレノアの手を包んだ温度。
その柔らかさ。
ほんの少し近付いただけで震えた気配。
そして――
肩に頭をのせたとき、
彼女が驚きながらも受け入れてくれたこと。
全部、まだ指先に残っている。
(……離れなかった)
本来なら、すぐに離れるはずの彼女が。
俺の腕から逃げなかった。
それがずっと胸の中心で熱く燃え続けている。
「……っ」
切りかけていた野菜に力が入り、
危うく潰しそうになって手を止めた。
駄目だ。
今の俺は……限界が近い。
彼女の“触れていい”という許可。
あれが、どれほどの意味を持つのか。
(エレノアが……俺を、求めてる)
その事実が、息をするたび胸の奥で暴れた。
けれど――
同時に、彼女を不安にさせたくない。
怖がらせるのは絶対に嫌だ。
だから、
「……っ、今は……距離を置かないと」
自分に言い聞かせるように呟いて、
包丁を握り直した。
カン、カン、とまな板に響く音だけが静かな台所を満たす。
それでも。
それでも――
指先に残った“彼女の温かさ”は
消えてくれない。
(……もうすぐだ)
無意識に思ってしまう。
いつか、
エレノアが本当に触れられる未来。
規則でも距離でもなく、
互いの意思で。
(……その日が、来てほしい)
ほんの僅かに笑みが漏れた。
けれど同時に、
抑えていた独占欲が喉元で静かに牙をむく。
(誰にも……渡したくない)
心の声は誰にも聞こえない。
けれど確かに、そこにあった。
俺はもう一度深呼吸して、
エレノアのために夕食の続きを作り始めた。




