距離が崩れた瞬間
エレノアは、何かを考え込む時は視線が少し遠くなる。
今日もそうだった。
薬草棚へ歩く途中、
小さく眉を寄せて、違う世界に心が飛んだようにぼんやりしていた。
「エレノア──」
呼びかけようとした、その瞬間。
彼女の足が、椅子の脚に引っかかった。
(危ない)
思考より先に身体が動いた。
腰と腕を支え、ふわりと抱き寄せる形になってしまう。
エレノアの身体が俺の胸に預けられた。
「っ……大丈夫か?」
いつもなら、
ここでエレノアは真っ赤になって慌てて離れるはずだ。
“触れちゃダメ”
“許可するまで触れないで”
そのルールを守るために、
俺より先に彼女のほうが距離を取る。
……はずなのに。
(……離れない?)
腕の中のエレノアは、
まるで俺から離れるのを“待っている”みたいに、
そのままじっとしていた。
俺が触れた腕に、細い指がぎゅっとしがみついてくる。
胸の奥で、鎖が切れるような音がした。
「エレノア……?」
小さく呼んでも、彼女は目を逸らしたまま動かない。
心臓の鼓動が、やけに大きく響いてくる。
(……触れていい、ってことなのか?
それとも……俺が離れるのを、試してる?)
違う。
そんな打算は、この人はしない。
ただ、ルールを作った本人が迷っている。
俺との距離を。
それが──嬉しくて、堪らなくて。
胸の奥のどす黒い独占欲が、静かに、確実に膨らんでいく。
(そんな顔で、そんな距離で……離れるなって言うなよ)
理性が、ひどく軋んだ。




