普通とは異なる気配
台所へ駆けていくエレノアの足音が遠ざかり、
静かになったリビング。
ノワールは、残された湯気の消えかけたカップを見つめながら
ゆっくりと息を吐いた。
(……少しからかっただけなんだが。
ずいぶん可愛い反応をするようになったな)
けれど――
それ以上に気になる存在がいる。
ノワールは視線を台所のほうへ向けた。
エレノアの慌てた声、
ルベルの返事にならない声。
金属の散乱する音。
普通は、あんな派手にひっくり返せば
もっと混乱する、もっと慌てる。
だが――
あの“間”は、違った。
(……音を立てたタイミングが、妙にいい)
ノワールは椅子から立ち上がり、
何気ない顔で台所へ歩いていく。
廊下に入った瞬間――
微かな魔力の揺れが、空気をかすめた。
(……まただ)
まるで、
ノワールが“見ようとした先”だけが
わずかに歪むような感覚。
気配を消す技術でもない。
抑えた魔力でもない。
もっと――本能的で、獣のようで、
けれど理性的に練られた“隠し方”。
(普通ではない。
そもそも……人間の気配としては異質すぎる)
ノワールは足を止めた。
エレノアの声がする。
「ほんとに大丈夫? 手、痛くない?」
優しく、心配そうな声。
その隣で、ルベルの低い返事。
ノワールは、廊下の陰からそっと二人を見つめた。
ルベルは、こちらに背中を向けている。
肩越しにちらりと振り返ったその一瞬――
“目”が合った。
はずなのに。
ノワールの深い灰色の視線を、
ルベルはまったく“驚かなかった”。
(……見えていた、か)
普通なら気配を殺されて近づけば、
視線だけで反応が出る。
それがない。
むしろ――
ルベルのほうが、ノワールより先に
“こちらを察していた”ような余裕すらある。
エレノアは気づいていない。
そこがいっそう不自然だ。
(……やっぱり、あの男。
ただの青年じゃない)
ノワールは静かに歩み寄ると、
いつもと変わらない穏やかな声で話しかけた。
「エレノア。手伝いに来たよ。
ルベルも……大丈夫か?」
エレノアはぱっと笑顔を向けてくるが、
ルベルの笑みは固い。
その奥の、読みづらい光。
あれは――
獣が縄張りを侵されかけているときの目だ。
(さて……エレノア。
君はどこまで知っている?)
ノワールは、ひとつ静かに結論を下した。
(あとで、ルベルについて詳しく聞く必要があるな)




