327枚目 「経緯絡んで織りを成す」
魔王城浮島。五つの棟で構成される城の中央には、噴水広場と呼ばれる区画がある。
ラエルにとっては、苔フード改め絵描きを名乗る変人――現在指名手配中のスターリング・パーカーと再会した因縁の場所であり、時箱事件によって破壊された場所のひとつでもあった。
事件直後、ラエルは当時気を失っていたこともあって「ここに巨大な骸骨兵が現れて戦闘になったのだ」と説明されても実感が沸かなかったのだが。
噴水は、ラエルの記憶と変わらない形でそこにある。
「修復工事の後に来るのは初めてね。割れた部分が見分けられないくらい元通りというか」
「ああ、ここにある建築物には形状記憶の魔術が使われているはずだからね」
「形状記憶? どうりで復旧が早かったわけね」
ラエルが顔を上げると、隣でハーミットのコートと鼠顔が外れていた。火照った顔を見るに、どうやら暑かったようである。
今日のハーミットは、首まで覆う黒い刺繍帷子はそのままに軽めの礼服を着付けている。のりを効かせたシャツに、黒に近い茶をベースにした刺繍飾りのベストだ。
店から噴水広場までは距離があったので、歩いている内に熱が籠もったのだろう。服に合わせて整えられていた髪は、既に湿気と摩擦でぐちゃぐちゃになっていた。
金髪少年は襟の位置を整えて、躊躇いなく髪を崩すと指櫛を通した。
一連の行為をそれとなく観察していたラエルは、直ぐに琥珀色と目が合うことになる。
肌にはりついた髪を払い、ハーミットは石のベンチに鼠顔とコートを置いた。
「そうだな、俺の要件は後にしよう。ラエルから話してほしい」
「そう? それじゃあ遠慮なく」
ラエルは鞄に手をやると、見慣れない色合いの紙を引っ張り出した。
それは黒い契約紙だった。筒状に巻かれたそれが、黒い紐と黒い封蝋とで縛り固められている。
「王様にね、契約の更新を勧められているの」
ハーミットは三秒ほど、事態を飲み込むのに深慮して。その間に持ち得る情報をひっくり返しては脳内検索をかけたのだが、どこにも該当するものは無かった。
監視する側としてラエルに関するあれこれを把握しているつもりだった金髪少年は熟慮した後、現在この周辺を残火の手によって人払いしていたことを思い出して口元から手を離した。
「……っいつ!?」
「イシクブールに王様が来た、次の日よ。返事は何時でも良いって聞いたのだけど……内容が、内容だから。貴方には知らせたほうが良いと思ったのよ。気になる?」
「きっ、気になるけど――」
ハーミットはラエルが手にしている契約紙に目をやった。
契約がなされる前なのか、なされた後なのか、ハーミットの目には見分けがつかない。
ラエルは契約紙を指で遊ぶと、自らの口元を隠すようにした。
「そう。でも私、これを貴方には見せたくないのよね」
無骨な黒紐についた紐留めが、かちあって音を立てた。
噴水があるこの場所で、水音に勝って響いたように聞こえたのは……二人の間に、痛いほどの沈黙があったせいだろう。
ハーミットは、ラエルの意図を探ろうと琥珀の目を見開いている。
ラエルは口を引き結ぶ。
ここで引いたなら――全てが、台無しになってしまう。
「……検閲を拒否する自由は、私にもあるわ。これは、貴方には読まれたくない」
それは、ハーミットが浮島に戻るまでの間に、ラエルが何度も頭の中で繰り返した言葉だった。
これまでの期間、魔導王国からの監視と管理に不満を言わずに甘んじていたラエルである。ここまではっきりとした拒絶を示すのは、初めてのことかもしれない。
「まさか、俺を相手に取引でも始めるつもり?」
「いいえ。私の署名が済むまで、待っていてほしいだけ」
剣呑な空気を纏ったハーミットに、ラエルは肩を竦めて背中を見せた。
そこにあった石のベンチに腰を下ろすと、契約紙を鞄の内側に沈める。
「四天王の権力に逆らう力なんて私には無いもの。力ずくがお望みならこの場で署名するけれど、それ以外の抵抗をするつもりはないわ」
「……契約内容を読まれたくないって、本当にそれだけか?」
「そうよ? 取引するつもりはないって言ったじゃない。ただのお願いよ、お願い」
「お、お願い?」
「貴方は監視役だから、監視対象からのお願いなんて普通は聞けないでしょう? だから良心に訴えかけてるのよ。察しなさいよね」
ラエルは、意図して声のトーンを明るくした。
この話がきっかけで場の空気が沈むかもと思うと、嫌だった。
「……俺に、内容を隠す動機は?」
「読まれると私が恥ずかしいからよ」
「君が恥ずかしくなるようなことが書いてあるのか? 王様との契約紙に……?」
すっかり毒気を抜かれたハーミットは、疑問に思ったこと全てを口にする勢いだった。
……どうやら、一触即発の事態は避けられたようである。
ラエルはハーミットが身につけている装備を全て把握しているわけでは無いが、コートと鼠顔を外したとして、例え腰元にあるナイフを抜かなかったとして、徒手空拳で対峙されたところでラエルに勝ち目はない。
ラエルが魔術を発現するより早く、かなり手加減をされた上で地面に転がされて、魔術も動きも封じ込まれた上で制圧される未来が、容易く想像できた。
(封蝋には、無理に解くと私の署名がされるように仕掛けをしているけれど……彼が素手で触るなら、この仕掛けは機能しなくなる)
逆に、ハーミットにさえ約束を守ってもらえたなら――ラエルが署名するまでの期間は、契約紙の内容を隠し通すことができるのだ。
これが、ラエルにできる精一杯である。
王様から送られてきた契約紙の文面を目にしてからずっと、せめてこの件には誰も巻き込むまいと胸中に決めていた少女の、悪あがきだ。
(……そうだ。確か、ハーミットからも話があるって)
そうして、ラエルは俯けていた顔を上げた。
まさか、ハーミットがラエルの一挙一動を見逃すことなく見ているとは思わずに。
真正面から目が合ってしまった。
紫目の動きから、一瞬の安堵と動揺を見抜かれたことを、悟った。
(最後に見せたあからさまな混乱は、演技だった?)
一歩を踏みしめるように距離を詰めてくる金髪少年から、黒髪の少女は目を離せない。
しかしハーミットは、あと数歩という距離のところで足を止めた。
呆然とするラエルに苦笑すると、指櫛で形ばかり直した金糸の髪を気まずそうに掻き回すのだった。
「……俺は、君がその契約紙に同意した場合に起こるかもしれない理不尽を、最小限にしたいと思ってる。実を言うと、その中身にも心当たりがあるんだよ」
ラエルは一瞬、ハーミットが何を言ったのか分からなかった。
内容を咀嚼する為の間を置いて、ラエルは徐ろに口元を指先で覆った。
「え。あれっ、そうなの?」
「そうなの」
ハーミットはラエルの言葉を繰り返したが、そこにラエルをからかう意図はないようだった。寧ろ、ラエルの対応と反応に少なからず安堵しているようにすら見える。
不安げな視線を向けられていると気がついたのか、ハーミットは眉根を下げてニコリとした。
「すぐに署名をしなかった君の判断を評価するよ。……俺は、その契約紙が君の手に渡っていることも知らなかったから。ガワだけでも確認できて助かった」
「それなら、私の提案し損じゃあないの」
「うーん、どうだろう。俺が知らない間に文面が改変されている恐れもあるし。実際に読んでみないことには、ね」
「……読みたいの?」
「うん。でも、敢えて詮索しないよ。俺の部下にも関わらせない。嫌なんだろう?」
「…………」
気を遣ってくれてありがとう、と言いかけたラエルは「はっ」とする。
眼の前の金髪少年が、苦笑からニコニコとした満面の笑みに表情を変えていたことに。ラエルは今更になって気がついた。
何だかいい笑顔すぎて、嫌な予感がする。
主導権を握っていたのはラエルだったはずなのに、いつの間にか――。
「だから、俺の方から取引を持ちかけることにしようと思う。中身は、今日俺が君に話す予定だったネタでどうかな?」
「……っ!! 貴方ならそう言うと思ったわ……!!」
完敗だった。何処からどう見てもラエルの完全敗北だった。
抗いようもなく、ハーミットのペースに飲まれた瞬間だった。
「俺は、君が署名を行う前に契約紙の内容を把握したい。君は、君が署名を行うまで俺に契約紙の内容を知られたくない。間違いないか?」
「間違いないわよ……!!」
「うん。それなら、君が署名をする前に契約紙の内容を俺に開示してくれるなら――俺は、君の興味を引けそうなとっておきの情報を、ひとつばかり提供すると約束しよう」
ハーミットは口元に手を添え、ラエルの頬へ顔を寄せる。
「――ラエル・イゥルポテーは、何故監視を受けなければならないのか」
少女は、心臓を鷲掴みにされた錯覚をした。
ハーミットは、顔を上げたラエルからすぐに距離を取った。いたずら好きの少年のように、子どもらしい笑みを浮かべた。それは、いつの日か目にした極悪人の演技に似て、獰猛な美しさを孕んでいた。
人売りの天幕で目にした光景が、白昼夢に過る。
金糸の髪が乱れる。風に攫われバラけて舞う。
琥珀の瞳に、熱はない。
「そろそろ、ちゃんとした理由が知りたくなる頃だろうと思ったんだけど。どうかな?」
「…………」
ラエルは、ハーミットに話したことを後悔しているわけではない。
契約紙については、存在がばれる前に明かしてしまう方がラエルにとっても都合が良かった。交換条件についてもラエルの得になるような内容である。彼女には受けない理由がない。
だからこそ。今のハーミットが、何故あの頃の演技を再現するように振る舞ったのかが分からない。ラエルには、ハーミットの考えていることが全く理解できなかった。
故に、提示された取引がどれだけ甘言であろうとも――ラエルは即答で返事を返すことをしなかった。できなかった。
そんなラエルを責めることも急かすこともなく、ハーミットは肩から力を抜いた。いつもと同じ雰囲気を身に纏ったかと思えば、脱いでいたコートに袖を通し鼠顔を被る。
ラエルの左肩を叩いて顔を上げさせると、人差し指で二棟の方角を指し示した。
紫目は革手袋の指先を追う。
二棟の方角から、影がひとつ走ってくるのが見えた。
次の瞬間、目を丸くしたラエルに飛んできたのは――それはそれは華麗な、飛び膝蹴りだった。
「避けるなこらああああああ!!」
「ちょっとおおおおおおおお!?」
ラエルは間一髪、石のベンチから飛び退いて事なきを得た。一方、砕けたベンチからのそりと起き上がる紅いシルエットにも覚えがある。
「あああああ!! 避けてごめんなさい!?」
覚えがある、と認識したところで「避けてしまった」ことを思い出したラエルは、大混乱したままその場で頭を下げた。腰の角度が九十度で、針鼠は危うく吹き出すところだった。
「いや、今のは命の危険があっただろう。どう考えても避けて正解だよラエル」
「そ、そんなこと言ったって、石に着地したようなものでしょう!? 怪我、怪我してない!?」
「ここの軍人は頑丈だから大丈夫」
「ふ、ふふふふふ。その通り!! こんな状況下にあって他人の心配をするだなんて頭がお花畑にも程がありますねぇ!! ラエル・イゥルポテー!!」
砂埃に塗れて起き上がった影は女性の声を発して、発動させていた白魔術を霧散させる。
クリーム色のショートヘアを埃まみれにしながら、ストリング・レイシーはラエルに狙いを定めると赤い瞳を歪め――爛々と。
「つべこべ言ってねぇで面貸せぇですぅ!!」
「す、ストれ」
「ラエル!!」
「う」
黒髪の少女は咄嗟に身体を後ろに引こうとしたが間に合わなかった。いつの間にかハーミットがラエルの背に腕を回していたのだ。
逃げる方向を選択し損なったラエルは、あっという間に赤魔術士の腕に捕まった。
首に絡まるかと思われた指は通り過ぎて、黒色の背中を抱きしめて。
「――おかえりなさい!! よく、無事に戻りましたねぇ!!」
それは、極めて純粋な祝福の意味での抱擁だった。
受け止めてみて初めて、ラエルは自分の膝が折れていたことを知る。
自分の身体に、逃さないと言わんばかりに抱きついてきたストレンの姿を知る。
「ぇ、ぁ……え?」
「全く、二日も浮島を走ることになった身にもなってくださいよう、本当に帰ってきているのか分からなくて、でも五棟には居ないって聞いて……!! そこの針鼠が教えてくれるまでマジで何処に居るか分からなかったんですけどぉ、よっくも煙に巻いたように逃げまくりましたね貴女はぁ!? 戻ってるなら戻ってると言えぇ!!」
「え、あの、ちょ、それはたぶん」
ラエルがストレンたちに会わなかったのは、ハーミットの図らいで間違いない。
だが、隣で何も言わずに口元へ人差し指を寄せてみせた針鼠の言い分としては、「今は、そんなことはいいからストレンの相手を頼んだ」といったところだろう。
「待って、待ってストレ、ストレンさん。私は、私は――」
「なぁにがストレンさんですか馬ぁ鹿!! 全部聞いてますよぅ、あのクソ父様から!! 貴女、よくもそんな状態でよく王様についていこうなんて思いましたねぇ!? 魔術師は精神面のセルフケアが大事だって、散々話したばかりでしょうがぁ!!」
「違っ、そうじゃなくて……知って、いるなら、どうして」
「はあ? どうもこうもありますか!」
痛いくらいに抱きしめられていた身体がようやく開放されて、ラエルは息を目一杯吸い込んだ。顔が熱い。目が熱い。喉が絞まる。言葉がうまく、でなくなる。
ストレンはそんな様子のラエルに、「ぎっ」と目を細めてみせた。
何度も噛んだ跡がある唇と、腫れた涙袋に隠れた隈。妙につやつやとしている目から、涙は落ちなかった。
「母様が死んだことは悲しいです。でも、貴女が無事だったことは嬉しい。なーんも頼りにならなかった父様と、監督役も護衛役もこなせなかった針鼠には怒り心頭しかねぇですよぅ!!」
「と。飛び火した……? 聞くべきじゃなかったかも……?」
「ははははは!」
針鼠は空笑いし、すかさず放たれた赤魔術士の蹴りをひらりと躱した。
「構わないよ。女子会に男子の居場所はないからね! 心置きなく楽しい夜を過ごすといい」
「え? 私、このままストレンに引き渡される流れなの?」
「そうだよ? 打ち合わせていた通り、後はよろしくお願いします。ストレンさん」
「……言われなくてもぉ、ラエルが鬱屈した顔を見せなくなるまで、毎日毎日楽しい女子会をしてやりますとも。野郎の出る幕はありませんよーだ」
「ははは。頑張ってね、ラエル」
「どういうこと?」
「君はしばらくの間、烈火隊のお世話になるってこと」
針鼠は言って、五棟の方角へ踵を返した。
どうやらストレンと合流させるまでが、彼が請け負っていた仕事だったらしい。この後は鼠の巣に籠もって研究か、はたまた自室に戻って休息を取るのか。
ラエルはハーミットのことを、やはり何も知らない。
「あぁ、そうだ」
思いついたように振り向く鼠顔に、ラエルは息を呑んだ。
「さっきの話。近い内に返事をくれると嬉しいな」
「――っ、分かってる。真面目に考えて、返事をするわ」
「うん、待ってるよ。それじゃあ、また明日」
手を降るのと同時に、背針がモサモサと連動する。
去っていくハーミットに少しだけ手を振って、ラエルはようやくストレンと顔を合わせた。
何も変わりがない赤魔術士の振る舞いに――随分と、久しぶりに会う気がした。
「……ラエル。強欲とのお話って、何のことですぅ?」
「真面目な話よ。私が、決めなくちゃいけない話」
「そうですかぁ。そうですかぁ。ようやっと、色恋の話ですかぁ?」
「違うわよ」
「ちぇっ」
ストレンは口を尖らせて、ラエルを引き起こす。
まさか「それどころではないのだ」とは。ラエルには、言い出せなかった。
自室に着いて内鍵を閉め、ハーミットは長いため息を吐いた。
膝を折り、蹲って床の一点を凝視する。
ストレンの勢いに押されて退散できたから良かったものの、ハーミットは専ら自分自身の立ち回りの下手さに頭を抱えずには居られなかった。
(特に、あの時。俺が先に話題を決めていたらと思うと、考えるだけでゾッとする)
ラエルが「過去」ではなく「これから」に視点を置いていることを認識したことで、当初話そうとしていた内容を明かすのが、適切な判断だと思えなくなったのだ。
だから、別の情報を提供する流れにせざるをえなかった。
ラエルがあの契約紙を持っていることには、確かに驚いたが。
(危なかった。危うく、切るべきでない手札を使うところだった。咄嗟に取引条件にしたネタも、温存していたものではあるけど……前者は、墓までもっていくしかないな)
突如現れたストレンに驚きを隠せなかったラエルの顔を、思い出す。
ハーミットの根回しに「してやられた」と、抑えていた感情全てで歪められた顔を。
鼠顔を外した少年はその光景を前にして――誰よりもこの場に居るべきだった故人に、静かな怒りをおぼえていた。
(何が、「どちらでもいい」だ。最初から諦めている人間を、どう助けろというんだ。……貴女は、俺を殺してでもこの場に生きて立っているべきだったんじゃないのか。シャトル・レイシー……!!)
「っ、いてて」
歯が軋む音がして、手のひらに食い込んだ爪に気がついて。
ハーミットは即座に立ち上がると靴を脱ぎ捨てベッドに雪崩込み、無理矢理身体を脱力させた。
(この怒りは、俺だけが知っていればいいか)
秘密を抱えるのは慣れている。今更ひとつ増えたところでどうともない。
だから、目下の問題は別にある。ラエルに提供するといった情報の開示について、ハーミット自身の心の準備がどれだけ必要なのかということだ。
(……いいや、今更の覚悟は必要ない。情報を提供した結果、彼女と縁が切れても構わないさ。これまで嘘と方便で翻弄してきたのはこちらだったし。俺も、そろそろ報いを受けるべきだろう)
嘘を吐く気はないのだが、全てを信じてもらえる気もしなかった。
狼少年の発言は、その度に信用と価値を下げる。ならばそれを逆手に取ろうか。
ハーミットが嘘を吐かずにラエルの注意を逸らすことが叶うなら、それに越したことはない。
(さぁ。もうひと仕事だ)
ハーミットは積まれた書籍の間を縫って、壁紙の意匠の一部を押し込んだ。
支えが外れる音がして、部屋の隅に敷いていたカーペットがたわんだ。もう一度押し込むと壁紙は元の形状に戻り、床のカーペットも元の形に戻る。
金髪少年はそれを確認して立ち上がると、シャワー室前の床を踏み込んだ。
床板が数枚外れて、現れた細い縦穴に梯子が降りる。
ベッドの真下辺りまで続く通路を突き当たると、黒い扉が一枚あった。
暗闇の中。壁にあるカンテラを手に、ハーミットは扉を開ける。
扉の向こうには、ひたすらの闇があった。それを、カンテラの明かりで部屋にする。
……柄のない、黒の壁紙。炭樹の梁が剥き出しの天井。
ここは、かつて彼の自室だった場所だ。
今は、書斎のような扱いであるが……その散らかりようといったら表の部屋とは比べ物にならず、まず床が見えない。
目に見える範囲の床面は全て、紙と文字とで埋め尽くされていた。まだ新しい書類束が床に積まれ、折り重なって足の踏み場を無くしている。
裸足になった金髪少年は新たな情報を腕に抱え、悠々と文字を踏みしめる。
黒い壁の一面には、星を表すように釘が打ち込まれている。
打ち込まれた釘には、星座を編むように黒や灰の糸がかけられ――いや、訂正しよう。ひとつやふたつどころではなく、夥しい数でなければ、そう見えただろうか。
紙の類は全て床にあるからか、壁を見る限りはアートにしか思えない。
これがもし芸術に思えなければ、そこに見いだせるものは狂気と執念のみだろう。
ハーミットは腕を組む。
視線と沈黙をもって、釘と糸を辿る。
(……船都市から石工の町へ運ばれた、生贄のための家族たち。砂漠からアダンソンまでの経路と成り行きは判明した。だが、結局誰が賊を雇ったのかが分からない)
張り巡らされた糸と打ち込まれた釘頭とに正しく関連を見いだせるのは、意図をもってこれらを使って情報を整理する当人の思考回路だけだ。
(搬送に加担した賊。協力者と、依頼者の存在――封鎖されている白砂塵の領域への侵入を果たせる立場の人物である可能性)
釘を飾るように、今日も情報が継ぎ足される。
キニーネ・スカルペッロへと向けられた大鎧蜘蛛の『鉄火』を、結果と傷口に分散して負担させた身代わりの魔術。
(本村での戦闘について、グリッタさんとキーナ君に関する報告……明らかに『代替者の心臓』の効力範囲を超えた現象を確認)
実際に起こったことを鑑みれば、代替の部位を「心臓」に限らず、「全身」を対象にした魔術であったかのような印象を受ける。万が一、他に追加されている要素があるとすれば。考えられるのは反射や拡散……分散、だろうか。
つまり、グリッタたちに付与されていた魔術はひとつではなかったとみて間違いない。
結果としては二人とも助かったわけだが――流れ者であるはずのスターリングがリスクを犯してまでバクハイムに留まり、グリッタと取引した動機は――まだ分からないままだ。
(サンゲイザーとジェムシさんの記憶に相違があった理由。バクハイムに滞在していたスターリングの意図……)
足の踏み場がない部屋で、ぽつんと置かれている唯一の棚を椅子代わりに、ハーミットは手元の資料へと意識を移した。
一番新しい情報源は、イシクブールとサンドクォーツクの週報だった。
月末に行われる祭りに向けて、テナントや協賛店舗、当日やってくる有名人などの特集が組まれている。
要人の名を確認するついでに暗号を解読して、強欲は現地の情報を得る。
(船都市サンドクォーツク。年に一度の漁獲祭、かぁ)
琥珀の目は濁りを湛えたまま、数度瞬きを繰り返す。
彼はやがて大きな欠伸をすると、資料を床に置いて部屋を出た。
黒と金。立場と思惑。
経緯は絡んで織りを成す。
科の在処は――依然、霧の中にある。




