323枚目 「黎明に至らず」
嫌がらせかと思うほどの振動は、ラエルにとって心地良いものだった。
砂の上に寝ていたあの頃は、地中から響く様々な音が子守唄代わりになっていたからだ。
酷く疲れた日は、凍った間欠泉から滴る水音から涼を。燻る薪の音からは暖を。
遠くで三つ首鷹が鳴けば、夜が来たのだと分かった。
風に擦り混ぜられる砂の声も、悲鳴のような嵐の声も、疲れた身体の前には等価だった。
全てがないまぜになる感覚と、水底に引きずり込むような睡魔。
湿った木材の匂いと、煮詰められた塩の香り。蹄鉄と車輪の音。
短く長い、夢を見た。
覚めて欲しくない夢だった。
ラエルが目を開けると、そこは既にイシクブールへと向かう馬車の中だった。
補蟲大作戦の実行から一日。
今代の能力により本村の結界が解かれ、ラエルたちはバクハイムへ戻ることになった。来るときは二日かかった渓谷の道のりは、トカの糸術式による足場の補助とスタラクタスの案内もあって一日もかからなかった。
スタラクタスの言葉を意訳するエヴァン曰く、一行が通ってきた道よりもバクハイムにある聖樹側――渓谷を更に西へ行った場所の洞窟から、ほぼ一直線にバクハイムまで行けるという話である。
「どうしてこうも道中の案内がスムーズなのかというと、俺がバクハイムへ逃げ延びたときの道のりと、ほぼ同じだからっすね」
衛兵は笑いながら言ったが、その場の誰もが苦い顔をしたのは言うまでもない。
バクハイムまでの帰路は、安全の確保と列の安定を図るために必要最低限の人数で挑むことになった。
お荷物になる自覚があったキーナ、カフスを使い切ってしまったグリッタ、立ち上がるにも人の手を借りる必要があるジェムシとクリザンテイム、そしてファレ。この五人は魔法瓶の中で待機することとなった。
道中を行くのは、ラエル、ハーミットとノワール、ツァツリーとサンゲイザー、エヴァンとスタラクタス、レーテ、トカ。七人と二匹だ。
本来ならレーテとツァツリーも魔法瓶入りしたほうが安全だろうが、生憎残った瓶の数が足りず消去法で徒歩組となった次第である。
ツァツリーは無表情になる練習をしつつ、短くなった足をぶらぶらとさせている。
どういう理屈なのか背が縮んだ彼女だ。身体が小さくなったことで歩幅は小さくなり、同様に体力も落ちている……ので、最終的に「運んだほうが早い」と言い出したサンゲイザーの腕の上に腰を落ち着けることになった。
持ち上げられた瞬間は「高いぃ! 無理ぃ! 下ろしてぇ!」などと大変煩かったものの、暫くの後に慣れたようだ。落ちない程度にバランスを取りながら、器用にうたた寝を始める始末である。
サンゲイザーは我関せずといった態度を貫きつつも、ツァツリーが滑り落ちそうになる前に、こまめに尻尾で押し戻すことを繰り返していた。
すっかり翼を治したノワールは、久々に飛行能力を活かした斥候役を担った。今代が仕事を始めたおかげか、来た時よりは目鼻が効くようになったと嬉しそうに飛び回った。
……とはいえ、エヴァンとスタラクタスが指し示した洞窟は、入口に足を踏み入れてすぐに見覚えのある鮮やかな光景が広がっていたので、一行はどうしても足を止めることになったのだった。
鮮華粘菌と魔晶石の小さな水晶塊。びっしり壁を覆うほど酷いわけではないが、これでも十分、生物の生態に干渉しかねない影響力を持つ魔力溜まりである。
先ほど説明した通り、本村の高魔力地帯化については今代がどうにかしている最中であり、この場には小規模な魔力食いを行うことしかできない『分身』のスタラクタスがいるだけだ。小蜘蛛一匹に頼っての浄化作業は、現実的ではない。
「でも、魔晶石と鮮華粘菌が自生してるってことは……」
「しゅるるる。このままだと通れねぇってこったな」
「んー、今代さま曰く『脱皮と餌化を繰り返せば、そう時間は要らないかと思います』だそうですが。負担が……え? ええと。レーテさま、力を貸していただけますか」
「私かい?」
いきなり白羽の矢が立った結界術使いにエヴァンとスタラクタスが何やら相談をして……結果、ラエルたちはレーテが作った『満月の砦』の内に入り、内側から玉転がしをする要領で洞窟内を探索、道中の魔力濃度は結界内の分をスタラクタスが綺麗に食べきる――という荒業で、強行突破することになった。
当然、同じ球体の中に七人と二匹が入るとなれば、それはそれはカオスな状況に陥る羽目になったのだが、その様子は割愛する。
七人と二匹は押し合い圧し合いしながら魔晶石で塞がれた石扉に差し掛かり、それを開いた。
転がり出た先、小部屋になっていたその場をスタラクタスが浄化して……まだ新しい食材を乗せた籠と、その下に敷かれた石板とを見比べ、各々は顔を見合わせた。
そこは、バクハイム村長宅の地下にあった手彫りの小部屋。
来るとも分からない本村の住人の為に食物を捧げ続けていた、あの場所だったのだ。
どうにかバクハイムに辿り着き、あの夜から二日目の朝が来た。
骨守の本村からバクハイム、そしてイシクブールに戻ろうと帰路を急ぐ馬車に揺られるラエル・イゥルポテーにとって――バクハイムへ帰還し、イシクブールに戻る馬車に乗り込むまでの道中の記憶は、酷く曖昧なものである。
道中も意識はハッキリとしていたはずだが、より正確に表現するなら「あまり詳しく憶えていられなかった」と言うほうが正しいだろう。
バクハイムに戻るまでの道のりを含めて――バクハイムから指名手配中の絵描きが逃げおおせた事実を知っても、麦畑の刈り痕が耕し直されて次の苗が植わっている長閑な風景を目の当たりにしても、命ある帰還に心から喜ぶ村長のお礼を真正面から耳にしても……ラエルはどの報告にも心を動かされることなく。都度、曖昧に微笑むだけだった。
ラエルは、頭の中で渦巻く感情を、まだ自分事にできていない。
あの日からずっと、見えているものと触れるもの全てに、現実味を感じられない。
(全て、夢だったら)
母代わりであったシャトーが祭壇に捧げられて大鎧蜘蛛と混ざり、変質したことも。
父代わりであったトカが、頑なにラエルのことを娘扱いしないことも。
ノワールの翼のことも。キーナの目のことも。エヴァンの腕のことも。
力を使いすぎたツァツリーが、重すぎる代償を支払ったことも。
ラエルの一言で追い詰めて、酷い選択をさせてしまったファレのことも。
(私がアダンソンを恨んだりしなければ。骨守の祈りを暴かなければ。父さんと母さんを探さなければ――少なくとも、キーナさんとツァツリーさんは……ハーミットとノワールだって、巻き込まなかったんだ)
だが。
ラエルとハーミットがイシクブールを訪ね探りを入れていなければ、バクハイムに植わった聖樹の発見は遅れ、高魔力地帯化による被害は避けられないものとなっていただろう。
無理を言って骨守の本村へ踏み込む決断をしなければ、トカとシャトーの行方は分からずじまいだっただろう。
巻き込まれた渥地の酸土の賊たちは、本村に閉じ込められたままで、一生を終えることになったかもしれない。
もしもキーナが鎧蜘蛛に連れ攫われず無事だったなら、衛兵エヴァンはあのまま飢えて、他の部屋に横たわっていた遺体の仲間入りをしていたかも知れない。
蟲の長となった大鎧蜘蛛が、もし理性を保てなくなるまで疲弊してしまっていたら。被害は本村に収まらず、バクハイムもイシクブールも危なかったかもしれない。
そして。もし、彼女が最期まで理性を保てなかった場合。鏡面のスタラクタスは無事に栄養袋から自立して、不完全な今よりも安定した今代として生まれることができたのだろうか……無事に、引き継ぎを行うことは可能だったのだろうか?
(今更。もしもの想像なんて、無駄かもしれないけれど)
ラエルは微睡みに抗い、目を開ける。
(それでも。私は)
……いつの間にか、強く口の端を噛んでいたらしい。
ラエルは徐ろに傷跡を舐めて、舌に伸ばした鉄の味を飲み込んだ。
やがて馬車は止まり、各々が荷物を手に外へ出る準備をする。
馬を走らせていた行者が外から扉を開け――その青ざめた顔と震える様子に、ただ事ではないとラエルたちが身構えたのは、その時だった。
「――やあやあ! 石の町を救った英雄諸君。長旅ご苦労さま、どうにか無事だったかな?」
魔族訛りの声で、外から声がかかる。
ラエルは声を耳にしてから姿を目にするまで、てっきりあの絵描きもどきなのかと思っていたが……予想は外れだった。
乗り合わせていた内の半分は、顔を引きつらせながらも得物を構えようとしてレーテに震える手で制される。針鼠も同様に、無言で「敵じゃない」と指示を出した。
ただ、そうする割に。ハーミットは立ち上がり損ねたラエルを庇うように立った。
ラエルはノワールを膝に乗せたまま、呆然と扉の向こうを見ていた。
白い石畳の上に子どもがひとり、立っている。
いや、正確なことを言えば。実際に子どもの姿をしているのか、ラエルには分からない。何故ならその人は、目にする人それぞれに、様々な姿をしていると言うのだから――。
「あんまり帰りが遅いものだから。迎えに来たよ、ラエル・イゥルポテー君」
黒い髪。頭上には銀冠、背には引きずるほどに長いマント。
胸元には赤い石に銀の石座のブローチ。
星が瞬く青い瞳が、瞬くことなく紫目を捉える。
魔王は黒革の手を差し伸べ、ラエルのエスコート役を申し出た。




