321枚目 「漆と針」
届いたのは、黒魔術士の声だった。
ラエルは、鼠頭と黄土色のコートに腕を通していた。両腕は包帯の下に隠れ、防具はどの部位も煤けてボロボロで。頬に貼られた湿布とガーゼと、首元に指痕が痣になって残っていた。
蜥蜴の獣人は少しばかり目を見開いて、立ち耳の獣人の喉を突き破ろうとしていた矛先を僅かに浮かせた。
「……ここに来るまで、アンタ一人じゃあなかっただろうが。針鼠はどうしたよ」
「貴方がその槍を振り下ろそうものなら、あらぬ方角から飛びかかるんですって」
「成程、どっかには居るわけだな。石工の町ん時然り、騙し討ちが得意なことで」
サンゲイザーは槍の位置を変えることなく、黄金の目で紫目を見据えた。
「で? オレはどうしてアンタの意見を聞かにゃぁならねぇんだ?」
ラエルはサンゲイザーの言葉に息を呑んで、眉間の皺を深くした。
「全部聞いてただろう? コイツは勝手な思い込みで暴走した馬鹿野郎だ。今後も大した白黒の判別はつけられねぇだろうし、生かしておいても特に良いことはねぇぞ」
サンゲイザーは、感情を含まない声音で淡々と言う。
万全な左腕で握られた土槍は、ファレの喉元に突きつけられたままだ。
しかし、その気ならば満身創痍のラエルが声を掛ける間にトドメを刺すこともできたはずなのだ――サンゲイザーは、ラエルの返答を待っている。
黄金の瞳に射られながら、恐怖を持たない少女は目を逸らすことなく一歩、前に踏み出る。
「良い悪いを決めるのは貴方じゃないわ。もっと言えば私もハーミットも、そんなことを決められる立場にない。貴方だって、今更ファレが死んだところで何も変わらないって――無駄に殺すことになるんだって、分かっているんでしょう?」
「に、にゃあ……」
「ファレ、貴方の意見は聞いていないわよ。というか全部回線硝子で聞いていたから寧ろ黙っていて頂戴。良い?」
この期に及んで猫を被ろうとするファレを一蹴して、ラエルは覚束ない足取りでサンゲイザーに向かって行った。
すぐに短槍と尾先が届く間合いになった。それでもラエルは距離を詰める。
ラエルはサンゲイザーが持つ土槍に手をかける。
力自慢の獣人が構えた槍は、弱った少女の手押しではぴくりとも動かない。
「サンゲイザーさん。私にとって殺人は正しくないし、死ぬことも正しくないの。だから私はファレを死なせない。絶対に、絶対に生きたまま連れて帰る」
「アンタらが後悔しても、オレは責任を取らねぇぞ?」
「貴方に責任をとってもらうつもりなんかないわ。ファレを生かすのは私たちの責任よ」
「テメェは、それで満足なのかよ」
ラエルは、黒く裂けた黄金の虹彩を見続ける。
蜥蜴が何を思って槍を抜いたのか、ラエルには分からない。今は、知る必要もない。
黒髪の少女は、注がれた眼差しに答えるだけだ。
「ええ」
それは熟慮する間もなければ、思考する間もない即答でもなかった。
ラエルは考えて。決めた。
ファレを生かすことを、選択した。
「…………」
サンゲイザーは土槍をくるりと回した。矛先が空を向き、錬成術は解かれ土塊になった。
移動するのも億劫そうにしながら、サンゲイザーは静かにファレから距離をとる。
出来合いの切り株に腰を下ろすと、尾を丸めて肘をつく。ちらりと後方に視線を投げれば、すぐそこの木の影から金髪少年が出てきた。
黒服ごと影に紛れるようにして、金糸の髪が朝日に揺れている。
蜥蜴の獣人は顎でラエルを示すと、肘をついた手に顎を乗せた。
ラエルは、ファレから槍が離れた時点でサンゲイザーへの興味を無くしている。
手足が砕けているとはいえ、相手はファレだ。今になって噛みつくことはないと思いたいが……ラエルがああ言った以上、蜥蜴がその面倒をみることはない。同時に、ハーミットが剣を抜いたまま歩いていくのを止めるつもりも、なかった。
ラエルは砕けて飛び散った義肢の破片を気にしながら、一欠片も踏まないように避けて、しゃがみ込む。
半開きのままになった白藍色と銅色の目に手を振って見せて、反応がないことを認識する。胸元に刺さったまま折れた矢を見て、ラエルは唇を噛んだ。
死んではいないが重症だ。虫の息と言ってもいい。
「ファレ。私の話、聞いてくれる?」
先程のやりとりを鑑みて、耳と喉はまだ健在なのだろう、と当たりをつける。
読み通り、呼びかけに応じて鍵尻尾がゆらゆら立ち上がった。直ぐに地面にへたってしまったが、返事としては十分だった。
「……そう。聞こえるのね」
ラエルは言って、息を吸った。
気持ちを落ち着けるための深呼吸で、鉄混じりの土の匂いを味わう。
紫目は数秒、閉じられて。
次に開いた時、そこに憂いはなかった。
「ファレが指摘した通り、魔法瓶には脆弱性があったわ。私とハーミットは、サンゲイザーさんから事前にそのことを聞いていた。もし母さんを説得できないまま捕縛すれば、最悪の事態が起こるって、知っていたの」
「…………」
「分かっていて、それでも生き残るつもりで――私は、心中も視野に入れて突入したのよ。……この辺のことは、ハーミットに後でしっかり怒られてくるから。ここで洗いざらい吐いてあげる。貴方がしたことだって、私の一言で背中を押してしまったようなものだもの」
「…………ラエ、ル?」
ファレは、何かを察して首を動かそうとした。
ラエルはそれを制して、口を動かし続ける。
「貴方の矢は届いた。でも、貴方が殺した訳じゃあない。あの人は、私を庇うために無理をしたから死んだの。あの人は、私が死なせたのよ」
――獣の虹彩が、細い線のようになる。
ファレは「にゃぁ」と相槌をうつことができなかった。
「母さんのことは残念だったけれど、覚悟はしていたから大丈夫。……私に、あの人を助けられるほどの力や手段が。なかっただけ。足りなかっただけ、だから。だから貴方には」
ラエルはそこまで口にして、目を丸くした。
死に体である筈のファレが、無い腕を地面に着いて身体を起こしたのだ。膝を傷だらけにして立ち上がろうとするのを見て、ラエルは咄嗟に手を貸した。
そこに、握ることができる手のひらは残っていない。砕けた炭樹の義肢に体重が乗って、ラエルの手のひらに食い込んだ。どうやらファレは、ラエルの首に自らの腕を絡めようとしたようだった。
抱擁――親愛を意味する行動。相手の隙を突くための、もしくは慰めのための……いや、縋り付くための。
だが、絡める腕が半分になった今では叶わない。
「……ファレ?」
「い、嫌だ……ラエル、泣かないで。ファレが悪かったから。ファレが、間違ってたから……ファレが、謝るから。ファレの、せいにしてよ。ファレのせいにしてってば……!!」
ぼたぼたと。針葉の落ち葉に音を立てて水が落ちた。血の色をしていない、透明な。
ラエルは俯いたまま叫ぶファレを前に、ひとり首を傾げた。
「……私、泣いてなんかいないわよ? というか、貴方は仇を討つことができたんでしょう? どうして貴方が泣くのよ」
その言葉は、本人が意図せずともトドメになったらしい。
腕を抑えられたままでいたファレの力が抜ける。色違いの両目から、止めどなく水が溢れては毛並みと地面を濡らしていく。
ゆっくりと地に降ろされた両腕を、ファレは義肢の根本が軋むほどに何度も叩きつけた。痙攣を起こすように何度もえづきを繰り返し、発語は呂律を悪くし、口にする内容は要領を得なくなっていく。
ラエルは、誰かがしゃくりあげながら本気で泣くのを初めて見た。
初めて見たから、悲しみや怒りよりも、戸惑いが勝った。
「投降してくれるわね、テゼォロ=ファレ。私、貴方には罪を償ってもらいたいの」
「ぁ……うぅ……ぅぅううあああぁ……!!」
ラエルは、ハーミットに視線をやった。
金髪少年は何も言わず、右手に持っていた魔法瓶を差し出す。
手袋を外したハーミットは、ラエルとファレの傷に触れて『鉄火』を解術する。
やがて振るわれた呪剣が、ファレの肩に浅い切り傷をつけた。
ラエルたちが中洲に浮かぶ炭樹の小屋に戻っても、そこに人の気配はなかった。
白む空を眩しげに見つめながら、サンゲイザーは小舟にロープを結ぶ役をかってでた。
「ちょうど良いや。皆の安否が気になるだろうけど、ラエルは暫く休むこと。いいね」
「起きていちゃ、だめ?」
「……あぁ。あれだけ戦闘した後だからね、仕方がないよな」
ハーミットはラエルの野宿キットを引っ張り出し、空き部屋の中に簡易的な寝床を組み立てた。ラエルの腕の包帯がしっかり留まっていることを確認して手を差し伸べる。
革手袋には、小さな薬瓶がこれみよがしに握られていた。
「薬の力は必要?」
「うっ……眠れなくても、ちゃんと休むわよ。勘弁して頂戴」
イシクブールで睡眠薬を盛られた記憶が蘇ったのか、ラエルは引きつった顔を隠そうともせず、補助を拒否した。腰を下ろしただけでも、どっと疲れが襲ってくるのが分かった。
「冗談だよ。でも、休んでほしいのは本当だ。寝転がっているだけでも効果はあるから、そうしててくれると嬉しい。俺は、外で見張りをしてくるよ」
貸していた鼠顔を被り直して、金髪少年は黄土色のコートに袖を通す。
ラエルは針衣の背を目で追った。ハーミットは振り返り、襟を曲げて口元を見せた。
……ファレを魔法瓶に捕まえた後も、特別ラエルに変わった様子は見られない。それは、ハーミットにも同じことが言える。
ラエルは、ほんの少し眉根を潜めた。
「どうかした?」
「貴方。どうして祭壇前で、私のおでこにキスなんかしていったのよ。戦闘が始まったばかりだったのに、判断が鈍って魔術を使えなくなってたら、どうするつもりだったの?」
なので、黒髪の少女は意趣返しのつもりで聞いておくことにした。今になっては遠い記憶のように感じられるが、祭壇に押し入ったのは半日前にも満たない昨夜の話である。
忘れているとは言わせないわよ。と、ラエルは追撃の言葉を添える。
ラエルがこの場で問いかけることができたのは、たまたま本人の思考が冴えていたからで――感情が万全ならば、このような質問をすることは決してなかっただろう。
その場合、現在ラエルが目にしているような針鼠の動揺っぷりを目にすることもなかったに違ない。
ハーミットは一瞬、身に覚えがないと言わんばかりの顔をした後。直ぐに後悔と羞恥を混ぜくたにしたような顔で口の端を噛むと、鼠顔を下ろして顔を隠した。
ラエルは意外な反応に、「ぽかん」とした。
「ごめん。昔の家族との癖が出たんだ。気持ち悪かったろ」
「え? いや、私は別に」
「気をつける。次は無いから、安心してくれ」
俯けていた顔を上げると、四天王強欲は「いつも通り」の仮面を被った後だった。
ラエルは引き留めようと伸ばしかけた腕の痛みに顔を歪める。
ハーミットは眉尻を下げ、心の底から申し訳無さそうにしていた。
それは普段吐かれる嘘と違って、少年の本音を代弁する為の嘘であるように見えた。
「エヴァンたちが戻ってきたら、ちゃんと起こしに来るよ」
「……分かったわ。おやすみ、ハーミット」
「おやすみ、ラエル」
扉が閉まる。静寂が満ちる。
眠れるとは思わないが、ラエルは横になることにした。
血を流した身体が、一刻も早い休息を求めている。
ラエルは。何も考えないように目を閉じた。




