315枚目 「劈開のない意志」
――ラエルが起動した罠は、いわゆる「落とし穴」の類だった。
床が消え、浮遊感を味わう間もなく落下が始まる。直ぐに深い闇が三人を飲み込んだ。成長を止めない魔晶石の切っ先が金髪少年を捉え損ねて空振りする。赤紫のネオン光は、みるみる遠ざかり暗中の星になった。
何を選ぶことが最善だったかなど、岐路に立つ当事者には分からない。選んで結果が出た後ですら分かったものではない。評価を行うためには納得するための理由が必要になるが、残念ながら選択に対する指標が用意されてはいなかった。
後悔しないと決めても、後悔はするものだ。
覚悟したと口にしても、覚悟できたかは分からないように。
護りたいと口にしても、個人の力に限りがあるように。
落下時に無意識で掴んでいたレーテのベルトとハーミットの腕を、離すことがないように握り直す。ラエルは残った魔力と集中力を総動員して状況の把握に努めた。
明かりは腰のカンテラのみで無いに等しい。落下の速度で視界から逃げていく壁面を観察する余裕などない。専らの思考は「どう着地するか」、「着地できる地面が用意されているのか」の二つに絞られた。
ラエルは、トカの手から返された手帳を思い出す。何度も教えを書き綴っていた最後の数枚は、見事に黒塗りにされていた。炭樹の炭でも使ったのだろう。
塗りつぶされた言葉は目に入らなくなったが、記憶には刻まれている。否定された、棄却された事実はあっても、果たしてどれが倫理的に間違っている教えだったのか、ラエルはその全てを理解していない。
何が正しいのか分からないまま。ラエルは、ここまで来てしまった。
(っ――せめて目測でもいいから、高さが分かれば!!)
一考する時間も惜しい。思いついた方法は突飛で、実行可能かも分からない。だが。
「ハーミット! 私の腕、下に向けられる!?」
「っ、ああ!」
意図を察したのか、器用に身体を捩ったハーミットがラエルの右腕を落下先へ向けて固定した。黒魔術士の指先から、火系統魔術の陣が現れる。
「『点火』っ!!」
蝋燭の灯火とは似ても似つかない、炎の帯が放たれる。スカルペッロ邸宅の裏庭で試し打ちした際は、発現時にそれなりの距離と速さを誇っていた。もし、落下するより火が伸びる速度が勝るなら――いま、「ぢり」とぶつかった感触がして。ラエルは間髪入れず口を開く。
「『旋――っぐ、かはっ!!」
しかし。ウィンド、と言い終わる前に、ラエルの喉が詰まった。風魔術を発動するには魔力が足りなかったのだ。懲りずに魔族の魔術を模したなら尚更だった。
地面までの距離が明らかになったところで魔力切れとはついていない。多分、叩きつけられるまでに数秒もない。最後の力を振りしぼって、レーテが二人の頭を庇う。
(駄目。助からない)
死ぬ順番が入れ替わるだけで、この高さでは全員助からないのは確実だった。
(誰も――助けられないなんて)
ラエルは、これから訪れる痛みを想像して頭が痛くなった。
既に口の中で血の味がしていた。実は喉も痛かった。
身体を焼く熱。痛み。濁流のような魔力の波。魔力暴走の予兆――――――――――――闇を成すすべなく落ちる中で、赤紫が閃く。
それは星になった魔晶石の色ではなく。
「え」
――紙のような布のような帯のようなそれである。ラエルの右腕から発生し、ハーミットを巻き込み、レーテの背へと回り込むと、大切な人へ渡す贈り物を飾る如く三人を包囲――梱包、した。
脳裏を過ったのはイシクブールの骨竜の像。骨守の信仰を明かされた際に起きた魔力暴走で現れた、ラエルも知らない術式。
理解の及ばない状況が連続する中で、黒髪の少女は思考するのを辞めなかった。
魔導王国浮島で配り回ったリリアン。その包装をする際にリボンを結んだことを、連想した。
その思考が伝わったのかは定かではない。ただ、赤紫の包装紐は帯状の見た目を編み上げボウリボン状に形を変えると三人を受け止め――――――落下は、そこで止まった。
得体の知れない緩衝材に大の字になりながら、地面が膝下ほどの距離にあると気づいて……三人はようやく、止めていた息を盛大に吐き出したのだった。
「流石に死んだかと思ったわ」
「……そうだね」
命あっての物種である。ラエルは現在、レーテが余していた魔力供給瓶 (ラエルは日の摂取量を超えている為、ひと瓶だけ飲むことを許された)を少しずつ飲み込みながら、針山になった両腕の応急処置を受けていた。
滅多刺しになって感覚がない右腕と、痺れはあるものの動かせる左腕。その両方がハーミットの手により速やかに包帯で覆われていく様子を、ラエル自身は他人事の顔で眺めている。
ハーミットだって身体のあちこちに怪我をしているだろうに。どうしてそうまでして必死なのか。と少女が指摘すれば、ハーミットとレーテは揃って首を横に振って、二人同時に長文のお小言を口にした。事前の打ち合わせもなかったのに気が合うことだ。
反論しようにも正論がすぎるので、ラエルは抵抗せずに身を任せている。
(抵抗する体力も勿体ないし。レーテさんが壁を調べている間は、このままね)
ラエルは、力を抜いたまま視線を上にした。
ここに天井はなく、紫の星が点と光っている。
何処まで落ちたのかは不明だが、手近な範囲に出口は見当たらない。底まで来ても息ができることを踏まえると、どこかに穴が空いているものだと思いたいのだが。
(……それに。私の腕からあんなものが出たのに、ハーミットもレーテさんも、あんまり驚いていないというか……追求がないのは、ありがたいけれど)
咄嗟に肩を擦ろうとして、包帯ごしに痛みを思い出す。
左方から「大人しくしていなさい」と、小言が耳に刺さった。
二の腕から飛び出た謎の包装紐は二本あった。前回より一本増えていたが、それらは三人を受け止めた後で原型を留めずに消えてしまっている。
ラエルも「あれ」を目にするのは二度目だが、一体どういう理屈で発現するのか再現性を掴めないままだ。
(今回は、どこも古傷が開かなかった。魔力暴走は……着地したあとにハーミットが手を握ってくれたから、大丈夫だったんだと思うけど)
ついでに比較すれば、骨竜の前で抱いたような焦燥も憎悪もなかったように思う。どうすれば助かるのか――助けられるのか、ばかりを考えていた気がする。
(以前ハーミットに相談した時は「聞かなかったことにする」って、言われたのよね)
隣で真剣に処置をする少年の脳天が視界に入った。つむじが揺れて、戦闘で崩れた髪が更に乱れるのを何度も耳に引っ掛け直していた。
金髪少年が、「それ」が何なのか分からないから怖い、と言ったことを思い出す。
(……追求するのもされるのも、ここを無事に出たあとの話になりそうね)
レーテが何も口を挟まなかったのも、空気を読んでのことだろう。そう、ラエルは思考を切り替えた。
「助かったけど、生きた心地はしないわね」
「晶化に巻き込まれるよりは生存率上がったと思うよ?」
「それはそうだけれど。貴方、ここから這い上がって戻るつもり?」
「まさか。できると思うか?」
「貴方が否定すると『実はできる』ように聞こえるのよ」
少女の言葉に少年は肩を竦めた。
ハーミット・ヘッジホッグは壁を蹴れても空は飛べないのだろう。
「壁と壁の距離が近いなら考えただろうけど、要救助者二名を担ぐとなると無理だね。俺の脚力はあくまで、平坦な道を三人分の重さでも走れるように鍛えてるだけだから……重力に逆らって壁を登るとなると、ね」
「ちょっと頑張ればいけそうな気がするわね」
「無理だよ。……無理だよ? こればかりは嘘じゃあない」
ハーミットはラエルの頭に乗ったままの鼠顔を小突いて、自虐混じりに半笑いになった。無理なものは無理だが、この場から脱出しなければならない事実は変わらない。そして、魔力と魔術はハーミットの分野ではない。
ラエルが魔力供給瓶を飲み干して顔を上げる。穴の底には罠もなく、また範囲も狭かったので、レーテが壁に手を付きながらぐるりと一周して戻ってくるまで、そう時間はかからなかった。
二人の会話も聞いていたらしい、レーテは神妙な顔つきで腕を組む。
「上に戻るだけなら、私が土魔術で階段を作れば済むんだが、ここは特殊な場所だからね。まず、下手に壁を揺らすと魔晶石の結晶塊が降ってくる可能性がある。」
「……それは、当たったら痛そうね」
「棘々だしね」
「ああ、それに魔晶石は水晶がベースになっているからね。割れる方向の予測が難しいから防ぐにしても気を使うことになる。相手が魔晶石でなければ魔力障壁でも盾の役を果たせるんだが、魔力の塊が相手なら物理的に土の傘を被った方が命の危険は少ないときた」
「土の傘ですか。そんなに重たいものを装備した人間を支える階段を作ろうものなら……」
「その通りだとも、やはり階段づくりは得策ではない。どうせ、天井は隙間なく魔晶石で塞がれていることだろうし……ただ、目視できる範囲では脱出経路も見当たらなかったんだがね」
「……」
「……」
「……最後まで聞きなさい二人とも。心配せずとも収穫はあったさ。これを見たまえ」
ハーミットとラエルを呼び寄せて、結界術使いが指を振る。カンテラに照らされたそこには明らかに凹凸の度合いが違うツルツルに磨かれた箇所が存在していた。
結晶砂岩ばかりの上層とは違い、ここは土と砂が混ざった地層のようだ。つまり、土魔術や錬成魔術で容易に変形させることが可能なのである。レーテはカンテラで壁を照らしながら口角を上げた。
「物質の引き伸ばしと表面の硬化をほぼ同時に行った痕跡がある。全体に通っている魔力も均一だ。錬成術で間違いないだろうね」
「これを塞いだのはサンゲイザー……ということですか?」
「ああ。魔力の質も見たが、まず間違いないだろう」
レーテは笑った表情のままで苦い顔をした。どうやらラエルの腕の状態を見た今になって、蜥蜴の獣人を手放しに信用していいものか悩んでいるらしい。
「あの人を疑っているの? 私は、特別問題視する必要はないと思うけれど……」
ラエルたちを射た「彼」ならともかく、蜥蜴の獣人は味方であるはずだ。というのも、ラエルにはサンゲイザーがハーミットを裏切る様子が想像もつかなかったのだ。
尤も、ラエルはサンゲイザーがハーミットのファンであることを知らないので、ただの勘である。時に鋭い直観は的を得る。
二人の会話を聞いていたハーミットは、魔術で塞がれた壁に容赦なく手を押し当てて解術することを選んだ――少年の腕は瞬く間に崩れた壁の中に埋もれて、土塊の中で何かを掴む。
引きずり出してみれば、それは赤錆色の布に包まれた一エドゥクほどの細長い「何か」だった。
少年は慌てて、手袋をしたままの左手に持ち替える。
「どうかしたかい?」
「……いえ。これが何かはさっぱりですが、一応は助け舟みたいです」
ハーミットは何でもない風を装って振り返る。
数秒前まで錬成術式で埋められていた壁は、いまは冷たい虚を開けていた。穴の先には急勾配で簡素な階段があり、上へ上へと続いている。
「他の道はありません。信じましょう」
金髪少年は包みを手にしたまま、琥珀を濁らせた。




