310枚目 「嘲笑する骨喰らい」
はじめて人の顔を殴った感触は、間違っても肉に触れたとは思えないものだった。
手袋越しに注がれた剣呑な視線に、拳は一歩及ばず障壁に阻まれたのだと理解する。
うなじを走った悪寒に、危険を察知してラエルが飛び退く。飛び込んできたラエルを庇うようにハーミットが間に立つ。
大鎧蜘蛛はそれを目で追ったものの、動かず。
剣戟と魔術が止み、祭壇には久方ぶりの沈黙が満ちた。
追撃の気配はない。魔術陣を編む気配もない。
ジェムシは祭壇へ距離を詰めようとするも、岩の花弁を乗り越え飛び掛かって来た鎧蜘蛛に阻まれた。
槍と蟲爪の攻防が二人の耳に入る――が、二人は振り向こうにも大鎧蜘蛛から目を離せない。肌を滑る汗が気持ち悪い。ラエルは目を見開いたまま思考する。
(……私の拳は彼女の顔に届かなかった。ダメージが無いのに動きを止めたのはどうして? まさか目的を達した? でも孵化に必要な魔力は、まだ不十分のはず)
この膠着から、どう行動するのが正解か分からない。
障壁を殴りつけた反動で指先まで痺れている。
衝撃で解けたそれを、再び拳の形にする。
怒りの原因を思い出す。いま、ラエルが聞かなければならないのは。
「母さん。今、私の友達のこと、侮辱したわね?」
――過ぎてみれば、数秒のことだった。
虚空を見つめていた大鎧蜘蛛も、ラエルへと視界を絞る。
『諱を口にしなければ魔術を扱うこともできない不適格者は、間違っても魔術士には成れない。私は、事実を言っただけよ』
「撤回して」
『どうして?』
「私が、嫌だからに決まってるでしょう――『点火』!!」
詠唱と共に、ラエルは母親の顔を見据え火の帯を放つ。赤白の光色が軌跡を描いたかと思えば、大鎧蜘蛛の爪を覆っていた氷塊が砕け散った。
氷片が熱を持った晶砂岩を滑り、水は熱され姿を消す。
大鎧蜘蛛は口元を抑えていた指を崩す。歪みが溢れた。
『どうでもいいことを気にして前に出るのは、魔術士でなくとも自殺行為でしかないわよ?』
「どうでもいいなんて思ってないから物申しに来たのよ。私だって、友人が悪く言われたら嫌な気分にもなるわ。それに」
直後、振り下ろされた二本の蟲爪をハーミットの剣が受け止める。
針鼠は無言のまま、ラエルの言葉を待つ。
大鎧蜘蛛を前に、紫目は怯まない。
「……それに。魔術師見習いの健やかさに嫉妬することで、貴女が私たちを退けられない理由を誤魔化そうとしていたりする? 遮ろうとしたってことは、もしかして図星?」
恐怖の欠落を活かすには十分すぎる虚勢が、見栄を通り越し真実味を帯びていく。
与えられる衝撃が僅かでも構わない。魔術士には思考のブレこそが命取りになる。
舌戦で思考を乱す方法は、目の前に立つ針鼠から嫌というほど学んだ――
『少し見ない間に、喧嘩を売るのが上手になったじゃない』
――直後、鼓膜を刺すような音がして。ちっとも状況が好転していないと気が付いたときにはもう遅かった。
少しでも気を抜けば母親には届かないと分かっていたのに、ラエルはその瞬間、反応できなかった。世界が白黒になる。音が二重に聞こえる。呪いの言葉が降り注ぐ。
同時に、ハーミットの靴底がラエルの鳩尾に入った。手合わせで受けたものと比較にならない強さで蹴り飛ばされたラエルは、咄嗟に受け身を取って着地する。
蹴り飛ばされた割に距離は取れなかったが、大鎧蜘蛛の魔術は不発に終わったらしかった。
その代わり、蟲爪の先が岩へと落ちる。
受けとめられていたはずの黒い鎌は少しの砂塵を巻き上げて、針鼠はその場からひと息に飛び退く。追撃に振り下ろされた蟲爪の先には、灰色の破片。
ハーミットは何も言わず、再びラエルを庇うように剣を構える。
不殺を可能にする呪いの剣は、手のひらほどの刃を残して先がない。
「っ――――!!」
砂嵐が耳を塞ぐ。白昼夢が過る。
ほんの三日前に起こしたばかりの間違いが、他ならない自分のせいで繰り返された。それも以前より酷い結果を伴って、だ。
(また)
成長してない。
(また、私のせい)
危険に晒している。
(死にかけたのは私じゃないのに、勝手に肌が粟立つ。護られた現実が苦しい。首を絞めるような罪悪感がある。私が膝を折るのはどう考えても間違っているのに、身体が上手く動かない。呼吸が浅いのは空気が薄いせい?)
この思考に何秒使った?
「――ラエル!!」
浅く、息を吐いた気配がした。
震えた鼓膜から、徐々に血の気が戻っていく。
針に身を包んだ鼠顔は黒髪の少女を振り向くことなく、折れた剣の柄を握りしめる。
少しも揺れないコートが、革の重さと呼吸の静かさを伝えてくる。
「もう一度だけでいい。前を見てくれ」
苦言を呈されるだろうと覚悟して身を固くしたラエルに、針鼠はそんなことを感じさせない声で語りかける。
「君には、彼女のことがどう見えてる?」
ラエルには、それが疑問を多分に含んだ「問い」であるように聞こえた。
霞む目を開く。距離を取ったことで呪いを放つのを辞めた大鎧蜘蛛は、自ら作った足場が抱える熱を逃がそうと、炎の矢を降らせんと魔術陣を輝かせる。
『「火球重ねて爪弾く」!!』
「っ、『受け流――」
詠唱は間に合わず、しかし二人の前には瞬く間に障壁が展開された。
これまで見せかけていた『受け流す壁』の形状から、魔術の偽装が剥がれ落ちる。幻影の障壁は大鎧蜘蛛に看破され、脆弱な盾へと在り方を戻す。
現れたのは魔力の一枚板ではなく、樹の表皮にも似た疑鳥の目玉模様。ひとつひとつが小さなそれらは、たったひとつ火の矢を受けると砕け散った。
獣鱗を模った魔力塊が周囲に燃え落ちる。
障壁魔術が全く使えないラエルをフォローするために、今の今までノワールが展開していた偽装防御壁――獣魔法『疑岩の鱗』が効力を失った瞬間だった。
ラエルの腰元、灰色のケープの内側で伝書蝙蝠が翼を畳む。
ラエルは謝ろうとして、『同調』越しに拒否される。ノワールは「黙って前を見てろです」と、針鼠が口にしたのと同じ言葉を繰り返した。
『……ふ、ぁは。あははは、……えぇ、いいでしょう』
「――ははは!! これはこれは、強烈な邪魔が入ったね!!」
ハーミットは大鎧蜘蛛の声を遮り声を張った。
『いま、彼らの元に追加の「子どもたち」を向かわせました。彼らが切り刻まれておくるみになるのが先か、貴女たちが私をどうにかするのが先か。万が一後者なら、間違いだったと認めてあげてもいいわ』
「――ラエル!! もう一度聞くよ。君には、彼女のことがどう見えてる!?」
針鼠は、刃が折れた剣で炎の矢を叩き落としながら問う。
「彼女は、強力な魔術を扱う変質個体か。剣を折る怪力を持った鎧蜘蛛か。はたまた、越えられない師匠か!」
それは、聞き覚えのある言い回しだった。
傍目にも明らかな虚言を口にするときの口調だった。
嘘を騙る為に吐かれた言葉が、口にした全てを裏返そうとする。
「それともなんだ!?」
再びの「問い」に。ラエルは、ハーミットの背中越しに大鎧蜘蛛の姿を見る。
黒く細い爪を手足に、祭壇の中央からは決して離れない大鎧蜘蛛。
黒魔術を操り、動きが俊敏で隙がない、憎々しい姿をした、狂暴で美しい蟲。
その実、顔を赤く上気させて、きつく絞った目元と眉間の皺を伴って、ラエルが何かへまをした時に、心配半分怒り半分でにこやかに詰め寄ってくる……よく知った人物の表情にも見えた。
「わ……私、には」
ラエルには。彼女の紫目には――
「怒りで集中を乱された時の、魔術士に見える……」
――白黒の砂嵐は去り、世界に色がつく。
その答えを聞いて。虚勢か安堵か、ハーミットは口角を上げた。
ラエルは息を呑む。ノワールをひと撫ですると思い切ってハーミットの隣に立った。少年は少女を咎めない。
既に我を無くしかけている大鎧蜘蛛が、何度目かになる『火球重ねて爪弾く』を唱える。
洞窟を点々と色付ける火矢を前に、ラエルはようやく本心を吐露した。
「……母さんが怒ったのはいいけれど、面倒さが増した気もするわね」
「そうだね。いよいよ手加減を考える余裕がなくなってきたとも言える」
「盾は看破されちゃったし、次は走って避けるしかないものね」
「うんうん。呪いの剣も片手剣になって心許ないもんね!」
「ぅぐ……っ!! ごめんなさい!!」
「ははははは! いいよ、さっきのアレは俺もムカついた。……俺は、君が怒ってくれたお陰で冷静になれたんだ。差し引きしても利が勝つさ」
大鎧蜘蛛の手から放たれた炎の矢が、天井付近で放物線を描く。
迫る矢に身構えたラエルと対照的に、ハーミットは折れた剣を下ろした。
今度こそ大鎧蜘蛛から視線を外さないよう気合を入れていたラエルは、隣の少年の行動を視界の端に捉えて思わず二度見した。そのままハーミットはリラックスした様子で身体のあちこちを伸ばしていく。
「は、ハーミット?」
「結果として彼女の集中が乱れているなら、さっきより闘いやすくなるんじゃないか? ほら、母親のことは、俺より君たちの方がよく知ってるはずだろう?」
「こんな状況で呑気な顔して何言ってるのよ!?」
「――『釘を飾る網』!!」
「!!」
使えない障壁魔術を無理やり発現しようかと天井を仰いで、ラエルは周囲に張り巡らされた魔力糸の存在に気が付いた。
網の様に張り巡らされた半透明の魔力塊が、太さを増して壁となる。
太る糸の様子は、まるで空気に罅を走らせたように。布の様に薄い「糸の壁」は、全ての火矢を受け止めるとたちまち激しく燃え上がり、その場から消え失せた。
「君に分析されるのは不愉快だが、その通りだ。獣もどきの四天王」
唖然とするラエルの前に悠々と鏡面の靴で空中を下りて来たのは、言うまでもなく糸術使いのトカだった。
「い、いつから」
「……見ていたか。という意味の質問に答えるなら、少し前からだよ。さて四天王、この場は私とラエルに任せてもらおうか」
「理由を聞いても?」
流された会話にラエルが顔を歪める間も、壁は張り直されて燃え上がる。防ぎもらした火矢をハーミットが叩き落とすと、トカは焦る素振りもなく言葉の続きを口にした。
「槍持ちの義腕に罅が入っている。遠隔から補修したが、どれだけ保つか分からん。故に時間を稼ごうかと思ってな。道中のことを踏まえれば、蟲の扱いは慣れたものだろう? 君は、彼の応援へ行って欲しい」
「なるほど、そういう事情ならここは任せます。というか説明しようと思ったらできるんですね? ラエルのこと、どうかよろしくお願いします」
「……二言も多い。どの口が言うか」
「同僚の口ですが?」
ハーミットが視線をやると、ラエルは頷いて背を探る。少女が腕を戻すと、そこにはノワールの姿があった。見ごたえのある黒毛玉となった伝書蝙蝠ノワールの姿が。
これまでラエルと行動を続けた結果――魔術の補助をしつつ、走ったり転んだりを一心同体で耐えきった結果――黒毛は乱れ、毛艶は消え、整った毛並みなど何処にも見当たらない。
黒飴の目はラエルの手を離れながら、ジトり。と鼠顔の硝子玉を一瞥した。
(あとで噛まれそうだなぁ)
と、思いながらもハーミットは黒毛の眉間をぐにぐに解す……やはり噛まれた。
獣魔法の偽装が利かなくなった今、飛べない蝙蝠は格好の的である。彼が連れている方が、ラエルもノワールも安全だろう。
「ノワールちゃん、ここまで盾を作ってくれてありがとう。ゆっくり休んで頂戴」
『ふ、針鼠の全速力を耐えるのに比べればこのくらい何ともないです。気にするなです!』
「ノワールは頼りになるよなぁ。それじゃあ俺は全速力でジェムシさんと合流するから、また後で」
『針鼠てめぇノワールの言ったこと聞いてたです!?』
「気を付けてね。ハーミット、ノワールちゃん」
「勿論。君たちもね」
『です!』
ハーミットは懐に抱えたノワールと小言の応酬をしながら、糸の壁が消えたタイミングを見計らい駆け出した。火矢の一部が針鼠の少年を追うが、護る対象を変えて身軽になった彼に、大鎧蜘蛛の魔術が中ることはなかった。
ラエルは呼吸をひとつして、黒手袋を深く嵌め直す。
トカは糸の防壁を張りながら、口を開いた。
「シャトー。自殺を望むにしては周囲を巻き込みすぎじゃないか? 君のことだ、我々の目的も把握しているだろう。君が足掻く理由は既にない。闘うことが楽しいなら罪を償った後で幾らでも相手になってやろう。そろそろ、観念したらどうだ」
それは、祭壇から離れた岩の花弁の端から語りかけるには小さな声で。しかし独り言というには聞き手を想定した語り口だった。
きりきり、きりきりきり、と。
大鎧蜘蛛は、蟲爪を岩に打ち付ける。
『天井で、ずっと黙りこくっていると思ったらそんなことを考えていたの、ニートカ? 貴方なら分かってくれると思っていたのに……貴方は。あなたたちは!!』
蟲の牙は顎を噛みしめた。
『――私が、望んで子を殺めるものと思うのか!!』
叫びが、歪な奇声となって耳に突き刺さる。
赤黒い爪で岩肌に黒い痕を刻みながら、母親は喉を開いた。蟲の顎が幾つも覗く、異形の――かつて人間のものだった喉を。
人型の身体に纏わりついた橙の炎。岩を作った魔術の反動を火の魔術に変換し、限界まで熱され赤く染まった鎧爪。黒い爪からはがれた氷は一滴残らず蒸発する。
『私は、シャトー。シャトル・ラングデュシャーデ=レイシー!! 禁忌を侵した黒魔術士の直系にして二色を修めた灰の魔導士、死に嫌われた杼――今はこの村の惨劇を綴り、語り、嘆きと業を身に宿す骨守の伝承者、骨喰みの蟲である!!』
歪んだ咆哮は。いまも愛する男と、成り行きで育てた少女に向けて。
『悔い改めよ人間風情が!! この地に踏み入り我が子を殺し!! 夥しくも圧顔無恥に我が眼前に現れたこと!! その罪、身を捧げて初めて漱がれると知るがいい!!』
蟲の瞳は、他の誰をも映さない。




