309枚目 「理屈と心火」
一方その頃、祭壇入り口。
よく晴れた夜だというのに、カフス売りの商人は霧の中に居る気分だった。
耳鳴りがする。目が霞む。身体は、どうやら動く。
「っ!!」
危険を察するより先に腕が動く。何処からか距離を詰めたらしい蟲爪を地面へいなした。
広い場所を与えられたことで無双しているクリザンテイムのお陰もあって鎧蜘蛛の数には苦戦していなかったグリッタだが――いま、その左太腿には槍でも刺さったかという穴が開いている。
蟲爪を避けきれなかったのではない。
唐突に傷穴が開いたのだ。前触れなく穴が開き、骨が折れる音がした。
グリッタは岩肌に背をつけ、必死の思いで蜘蛛の足を振り払った。無理な動きをする度に、足元でねじれた草葉に赤い血が滴り落ちていく。
(本来なら足の骨が折れた状況で闘うなんぞ無理に決まっているが、実際は二本の脚で立ち回れるときた――これほど奇怪なことはない)
間違いなく、グリッタがこれまで経験したことがない大怪我だ。それなのに身体能力が損なわれていない。痛みで顔が歪めど、意識はクリアなままで思考に支障がない。
カフス売りは何が原因でそうなったのか、検討するまでもない答えを探す。
(傷に対して出血が異様に少ない……呪いの類か、キー坊に向けられた攻撃ってことだな)
前触れなく足に穴が開いたのも『代替者の心臓』が原因ならば説明がつく。
バクハイムを発つ際に交渉した魔術師にかけられた「呪い」の効果は、「連動先の相手が受けた攻撃の負荷」を肩代わりするものと聞いているからだ。
(てっきり肩代わりは概念的なもので、どのような内容でも心臓をもっていかれるもんだとばかり思っていたが……この調子なら、あと数回は身代わりになれそうか?)
しかし「呪い」と呼ばれるからには大きな欠点があるはずだ。
外傷を肩代わりしているグリッタが、どうして自由に走り回ることができているのか。
意識が飛びそうになる度に半強制的に覚醒を促してくる頭痛が、どういう理屈なのか。
(まさかとは思うが、死ぬに死ねなくなる魔術を重ね掛けされている、なんてことはないよな?)
――脳裏に過るのは、呪いの剣を携えた針鼠の背姿だ。
しかし少年が「強欲なるもの」をグリッタに使うとは思えない。それにあの剣は「切った物をそれ以上壊れなくする」ものであって、出血が止まらない現状とは合致しないのだ。
ラエルたちは、グリッタが取引した魔術師が嫌な手を使う相手なのだと言っていた。
あの絵描きは禁術の行使を「良心ゆえに呵責なく」行える人物だ、とも。
……禁術?
「――は、っははは、ははは、なるほどなるほど、もしそうなら、これはとんだ呪いかもしれないな!! あの男、さてはカフス売りのお兄さんに個人的な恨みでもあったかね!?」
バクハイムで渡された手紙の内容から、当たらずとも遠からずだとカフス売りは予想する。悪意の有無を判断するだけでは警戒が足りなかったと、今更になって思い知る。
だがカフス売りの事情など襲い来る鎧蜘蛛には関係ない。大鎧蜘蛛にはもっと関係がない。
目下の不安は、キーナや祭壇へ行った面子が今も無事でいるかどうかだ。
嫌な予感が当たるなら、キーナはグリッタとは逆に身動きがとれなくなっている可能性すらある――と、ほぼ正答に近い考察をした額をかすめ、蟲爪が背後の岩に突き刺さった。
皮一枚を捲ってだくだく流れる血に「どう考えても今のは避けられただろう」と戸惑いを覚える。グリッタは、視界に混ざった砂嵐に顔を歪めた。
痛みによる集中力の低下。現実逃避。問題解決の先延ばし。
「待て。どう考えても、いま考えることじゃあなかったな!?」
長剣の柄を鎧蜘蛛の側頭部に叩き込み爆発させる。剣に仕込んでいたカフスの魔術を起動させたのだ。奥の手だったが死ぬよりはましだ。
グリッタは蟲腹を蹴り飛ばし距離を取る。祭壇へ続く洞窟の前まで立ち位置を戻す。
明らかに、注意散漫になっている。
痛みは動くたびに身体に響き渡る。しかし身体は不自由なく動く。
成程。この相反した状況が原因で、「傷」は悪化するに違いない。
熱湯に手を晒せば火傷をする。熔けない氷を握り続ければ凍傷になる。
普通なら「熱い」、「痛い」と感じた時点で反射的に自らを防御するだろう。
だがグリッタにかけられた魔術の本質が「外傷の身代わり」ではなかったとしたら? 「身代わり側の反射機能を阻害」することで可能な限り奮戦状態が維持できることに、真価があるのだとしたら?
もし、そうだとすれば――この後、俺はどうなる?
(ああ、これは貧血だ。派手に動き回れるお陰で血を流しすぎる可能性を考えていなかった! 道理で集中力が足りない割に頭ばかりが回る。……ということは、なんだ。簡単に諦めることも、意識を手放すこともできないってことか?)
「ふはははは!! 全く――性格が悪い呪いだな!!」
カフス売りは憤る思考を取り払おうと首を振る。血が足りないせいで頭がぐわんと揺れる。吐きそうだし目は回るし、目の前の蟲は再生しているし。しかし呪われた身体は退避を許さない。
原因が分かれば話は早い。目は冴えたまま、剣先は震えず、血が滴る足を気にせず腰を落とす。
弱音がこぼれる前に、先手を打って見栄を張る。
「最高じゃないか!!」
この身体がまだ戦えるというなら。
濁る瞳を歪める。カフス売りは不敵な笑みと共に長剣を振り下ろした。
「――さて。鎧蜘蛛の検討はここまでにして、肝心な話をしよう」
剣戟の音と、小石交じりの岩埃。打ち付けられる強風と砂、乾く喉。
「これから俺たちは『鎧蜘蛛を掃討する』んだけど、厳密には蟲の息の根を止めることが目的ではない。同時に、彼らの再生や増殖を阻害することも目的ではない」
防御魔術を展開するので精一杯なラエルの目には、数刻前の風景がある。
「俺たちの最終目標はあくまでも『変質個体化した女性の捕縛』。その為に必要なのが『彼女の役目を引き継ぐ、次代の大蜘蛛の孵化』だ。ここまではおさらいだね」
黒木肌の小屋。河の上に作られた人工島。
……水が嫌いな筈の、鎧蜘蛛。
水が嫌いなのに、船に乗ったキーナを狙ってまで攫っていった鎧蜘蛛。
「トカさんの見当違いでなければ、卵床は祭壇真上にあったアレで間違いない。問題は、それをどうやって孵化させるかだ――ちょうど、卵床へ向かって鎧蜘蛛が魔力の繋がりを持つ瞬間をラエルが目撃している。この辺りはジェムシさんとの証言と一致した。見た人がそう言うんだから、間違いないだろう」
情報を整える度に疑問が増える。
祭壇へひとり赴いたエヴァンは、本当に次代のために捕まえられていたのだろうか?
次に灰髪の少年を攫ったのが「より安定した孵化」のためならとっくに捧げられてもおかしくなかったのに、そうならなかったのは何故?
後を追って突入したサンゲイザーが、魔力値の低い獣人であるにもかかわらずエヴァンと同様に見逃がされた理由は?
大鎧蜘蛛は、キーナのことを「活きのいい捧げもの」と言ったらしい。
「――手合わせした個人的な感想として。俺はあの人を、割と嘘吐きだと思っている」
直近で言葉を交わした針鼠は、同類を紹介するような目をして、そう言った。
「キーナを狙う」指示が鎧蜘蛛に通るなら、なぜ彼女は橋を作らせてまで川の浮島を襲わせる指示を出そうとしなかったのか?
補給物資を届けたツァツリーたちを妨害した際、蟲の質量に物を言わせることもできただろうに、何故そうしなかったのか?
「ラエルたちが魔力の流れを目にしたのは、『鎧蜘蛛を再起不能にした後』だった。間違いないね?」
走馬灯のような回想と共に――紫目には今だって、見えている。
洞窟内に漂っていた魔力が、つぎつぎ卵床へ向かっていく様子が。
卵床へ吸い込まれて消える、鎧蜘蛛から溢れた魔力の残滓が。
「つまり鎧蜘蛛は卵床から活力を得ているわけじゃなく――寧ろ『子どもたち』が『卵床に魔力を注ぐ側』なんじゃないかと、俺は推測する」
人間同士でも魔法具の使用を推奨される魔力共有は、人間と蟲の間で行うには乖離がすぎる。
加えて、鎧蜘蛛が魔力を喰らい生きているなら、敢えて人間を襲うメリットもない。彼らにとっては祭壇周辺が最も効率の良い餌場である。人間の魔力は、白木聖樹に比べれば砂粒にも満たないものだろう。
以上のことから、人間の魔力は「直接は卵床の餌になりえない」とハーミットは結論付けた――だから人と同化した大鎧蜘蛛は鎧蜘蛛を差し向けるのだろう、と。
大鎧蜘蛛が人質を取ってまでラエルたちとの対立を選んだ理由は、次代の孵化の為に必要な魔力を再生途中の鎧蜘蛛からかき集めるためだったのだろう、と。
(私たちにできるのは、次代が孵化するまで鎧蜘蛛を殺し続けること)
八つ脚八つ目の鎧蜘蛛を、できる限り多く砕く。
次代の大蜘蛛を孵化させ、彼女を祭壇から解放するために。
(あの人が、どんな思いで鎧蜘蛛を子どもたちって呼んでいるのか……私には理解できないけれど)
黒魔術の猛攻が眼前で弾ける。障壁を保ち続けて手がしびれて来た。
(例えこの選択が正しくなくても、あの人を連れ帰ることができるなら、私は)
腰元の引き出しの箱から、東市場で仕入れた魔力補給瓶を引っ張り出す。ジェムシにひとつ渡して、ラエルも蓋を開ける。
目の前で張り直された『翼甲の盾』の向こうが晴れたのは、ラエルが瓶口を唇にあてたのと同時。ほんの一瞬のことだった。
火の粉と砂礫が強い追い風を受けたことで取り払われ、ちょうど風下になったラエルとジェムシとノワールの耳に断片的な会話の内容を届ける。
――『それにしても、諱を詠唱に絡めなければ魔術が使えないような子どもが見習いを名乗る日が来るだなんて……お前たちはいつだって魔術を愚弄し足らないようね』
その言葉がラエルたちの耳に入ったのは、偶然だった。
作戦を思えば都合が良く、ただしこの後を踏まえると最悪のタイミングであり、ラエルにとってもジェムシにとってもノワールにとっても衝撃的ではあったものの、この中で一番の若輩がラエルだったことは致命的だった。
――『あの身体で魔術士を目指す、ですって? 面白くない冗談は辞めてくれない?』
その嘲りが誰を指しているのか、ラエルには分かってしまった。
もし、人生経験があるジェムシがラエルの立場であれば、一秒は思案したかもしれない。ノワールだって同じ状況下にあれば、熟考の後に翼を広げたことだろう。
ラエルだって冷静になろうと努力はした。
ハーミットがトカのぼやきを耳にした際、とっさに息を潜めたのと同じように。明らかな挑発に、物分かりのいい自分であろうとした。
けれど少女は、四天王強欲の様に大人ではない。
――『ここを生き延びたとして、あの少年が魔術士になるなんて夢に等しいことだわ』
理屈が焚き木にくべられて、右肩のナイフが光色を強くする。
敵として対峙するから。
彼らにとって私は、本当の子どもではないから。
そんな個人的な理由で、ラエルはこれまで発言の所々に気を遣っていたのだが……これが全くの意味をなさなくなった。いま、何をすべきか、何がしたいのか。この時ばかりは迷いすらしなかったのだ。
――だから次の瞬間、少女の拳は大鎧蜘蛛の頬に叩き込まれていた。
岩を殴りつけた錯覚をする。
流しきれなかった反動で腕が痺れていく。
歯を食いしばり、衝撃で解けた指を再び拳の形にする。
ラエルは口を開いた。
「母さん。今、私の友達のこと、侮辱したわね?」
それが自らの弱点だと、分かっていた。




