【三百二十二 玉果の血】
機嫌を直したかに見えた鉄扇公主だったが、彼女はすぐに表情を険しくさせて青峰剣をふるった。
「はぁっ!」
青峰剣と如意金箍棒がぶつかり合い、打ち合い、激しく音を立てる。
太上老君が拵えた傑作の一つ、如意金箍棒の硬度は高いはずなのに、鉄扇公主のもつ細身の青峰剣にはヒビ一つはいる様子がない。
(細身の剣なのになんて固く、そして重い……!)
軽やかな身のこなしの鉄扇公主の一撃はそれと反してとても重く、さすが義兄弟の選んだ奥方だと舌を巻いた。
「そんなに焦らなくとも、あたくしは夫と違って玉果には興味ありませんわよ」
「なに?!ならばなぜお師匠様を追うんだ!」
孫悟空の問いかけに、鉄扇公主は表情を消した。
冷たい光のない瞳の奥に、怒りの青い炎が見えるようだ。
「ただ、人の身であたくしを欺いたことが許せないだけ」
そう言うと鉄扇公主は孫悟空の目の前から姿を消した。
「くそ、どこへいった……?!」
孫悟空はキョロキョロと辺りを見回す。
「お師匠さま、いつまで逃げるんですか!さあこちらへ!」
「沙和尚!狐阿七大王殿を逃さねば!」
「もう彼は兜率天へ行きました。お師匠さまが逃げる必要はないのですよ」
「そ、そうでしたか……!よかった」
「まったく、何という無茶をするのです」
荒い息をつき二人が笑い合いながら膝をついたその時だった。
「お師匠様、悟浄、逃げろ!」
孫悟空の叫び声が響いた。
それと同時に、神速で踏み込んできた鉄扇公主があっという間に玄奘を青峰剣を逆袈裟に斬り上げた。
錦襴の袈裟が切り裂かれ、赤い飛沫が上がる。
途端に甘く熟した果実のような香りが一帯に広まった。
「ほう、これが噂に聞く玉果の血か」
鉄扇公主は頰についた玄奘の血を指で拭ってひと舐めした。
「ああ、これはなんたる美味。ひと舐めしただけで活力が湧いてくる。妖怪たちが血眼で求める意味がわかったわ」
うっとりと呟く鉄扇公主の傍で、沙悟浄は呆然と血溜まりの中に横たわる玄奘のそばに、荒い息をついてひざまづいていた。
むせかえるような甘い血の匂いにくらくらする。
舐めたい、食らいたい、むしゃぶりつきたいという欲望が沙悟浄の中に渦巻く。
玄奘が玉果ということは知ってはいたが、金襴の袈裟が防いでいたという強烈な匂いに、なんとか抗い耐える。
震える両手は赤く染まり、匂いだけでも美味だということがわかるくらいだ。
口につければ天にも昇る心地の味を感じられるだろう。
しかしそれよりも。
沙悟浄は拳を握った。
玄奘から流れ出る血はどんどん血溜まりを広げていく。
「だめだ、あなたをまた失うわけにはいかない……!」
玄奘の前世に出会ってから何度も骨として再会を繰り返してきた。
九つの頭蓋を集めて待ち望んだ再会を果たしたのに、今度こそはと生きて巡り会えた今世なのにまた、玄奘に命を落とさせるわけにはいかない。
沙悟浄は玉果の血の匂いに惑わされないよう息を止めると、腰に巻いていた布を切り裂き玄奘の傷口に当てきつく縛りつけ、必死に布を抑えた。
「お師匠さま、逝かないでくれ、おれをまた、この世に置いていかないでくれ!!」
じわりじわりと赤い染みが広がっていき、意識を失っている玄奘は浅い呼吸を繰り返している。
「安心なさいな。すぐにあなたも同じところに送って差し上げますわ!」
鉄扇公主が青峰剣についた玄奘の血糊を、振るって落とすと、沙悟浄を斬ろうと構えた。
沙悟浄は止血をしているため身動きが取れず、鉄扇公主を睨むことしかできない。
青峰剣の刃が光を反射して青く光った。
「八戒!すぐに玉龍を起こせ!!」
孫悟空が叫んだ。
玉龍の如意宝珠なら、玄奘の命を救えるはずだ。
そして玉果の臭いに惑わされないよう、鼻と口を肩に巻いていた黄巾で覆い、太上老君の肩を掴んだ。
「太上老君、お師匠様を兜率天に運ばせてくれ!観音菩薩たちにも連絡を!俺様は沙悟浄と一緒に、鉄扇公主をぶちのめす!」
そういって孫悟空は如意金箍棒を伸ばして一っ飛びに鉄扇公主の元へと向かっていった。
「いや……あの出血では……きっともうたすからぬ。無理だろう……」
太上老君はその場に膝をついて項垂れた。
「バカ言うな!助かる!助ける!俺様たちが絶対お師匠様を死なせねえ!」
孫悟空は怒鳴った。
太上老君だけではなく、自分を奮い立たせるために。
「大丈夫だ。大丈夫、大丈夫!」
孫悟空の如意金箍棒を握る手の震えはなかなかおさまらなかった。




