【三百二十一 孫悟空、義弟の妻と対峙する】
玄奘は足を必死に動かした。
狐阿七大王を助けるため無我夢中に。
生まれてすぐ家族と生き別れになった玄奘には、家族が散り散りになるその辛さと寂しさがよくわかるから、何とか力になりたかったのだ。
それが、囮になること。
きっと弟子たちが鉄扇公主を防いでくれると信じての行動だ。
寺で子どもたちと鬼ごっこをしたり、脱走をした時に鍛えたため脚には自信がある。
さて囮になったかなと玄奘がチラッと後ろを振り返ると。
「お師匠さま、何という無謀を!」
鬼の形相をした沙悟浄が迫ってくるのが見え、玄奘は顔を青ざめさせ息を呑んだ。
(これは捕まったらまずいことになりそうですね……)
鉄扇公主よりもまずいかもしれない。
「……っ!」
玄奘は脚を踏み締め速度を上げた。
「あっ、なんで逃げるんです!これじゃ守れないじゃないですか!」
沙悟浄が叫ぶが、玄奘は速度を落とさずにそのまま走り続けた。
一方、狐阿七大王にとどめを刺そうと青峰剣を振り上げていた鉄扇公主は一瞬驚きに目を見開きそれから唇をわななかせた。
それから口角をぐいと上げ、にたりと笑みを浮かべた。
「ただの人間があたくしの一撃を受けて動けるとは……いやまさか、この青峰剣の放つ斬撃があの坊主には効いていなかったということか?!」
鉄扇公主は笑顔だが、言葉には悔しさと怒りが滲み出ていた。
ただの人間に欺かれたことがとても辛抱ならなかったのだろう。
「お前にあたくしの剣を振るう価値などない!」
「ぐぅっ!」
鉄扇公主は狐阿七大王を踏みつけ、青峰剣を鞘に収めると玄奘へ向かって駆け出した。
「おおっと、お師匠様のところには行かせないぜ!」
しかし玄奘を追いかけようとした鉄扇公主を孫悟空が阻んだ。
「ほう……」
鉄扇公主は身をかがめ鞘から素早く青峰剣を抜いた。
その動きは神速。
「っと!」
孫悟空は如意金箍棒を構え、鉄扇公主の剣撃を全て受け止める。
大きく甲高い音をたてて如意金箍棒と青峰剣がぶつかる。
「狐阿七大王殿、こちらへ。さあ金丹を」
太上老君は重傷の狐阿七大王に金丹を渡し立たせる。
「ここはわしらに任せ、あなたも兜率天へ」
「感謝します。悔しいですが私は足手まといのよう……あとはお願いします」
悔し涙を流しながら、金丹で回復した狐阿七大王は金炉精たちを追いかけて行った。
さて、と太上老君が玄奘の方を見ると、沙悟浄が彼に追いついたところだった。
「全く、観音菩薩の苦労が思いやられる」
太上老君はため息をついてやれやれと首を振った。
鉄扇公主は孫悟空と鍔迫り合いをしながらハッと何かに気づいて笑みを浮かべた。
「ああ、あなた様が斉天大聖孫悟空様ですね。夫からお噂はかねがね。お義兄さま、お初にお目にかかりますわ」
お互い力を込めて鍔迫り合いをしているのに、鉄扇公主の声は力みがない。
孫悟空は彼女の意図が分からず不気味に思いながら、力を込めて押し返すと返事をした。
「ああ。俺様が封印されてる間にあいつが所帯を持つなんざ、想像もつかなかったぜ。あいつは……牛魔王は元気なのか?」
距離をとってお互いに睨み合いながら世間話をするちぐはぐな状況だが、孫悟空から出た夫の名に、鉄扇公主は頷いた。
「ええ。相変わらず大酒飲みで野望も果てしなく高い方ですわ」
だが次の瞬間、踏み込み、青峰剣の切先が孫悟空に襲いかかる。
「っと!」
孫悟空はそれを数本の毛先を失いながらもギリギリでかわした。
「こんな出会いでなければ、お義兄さまをわが城でおもてなしいたしましたのに」
残念そうにため息をついて言う鉄扇公主は青峰剣を縦横無尽に振るう。
「いや、これも充分な“おもてなし”だぜ」
それまで鉄扇公主の剣撃をただ受けとめていただけの孫悟空は如意金箍棒を握り直すと鉄扇公主に向けて突き出した。
「牛魔王から聞いているだろ?俺様は戦うことが何よりも好なんだって!」
「ふふっ!」
鉄扇公主はひらりと蝶のように身を翻して避けると軽く笑った。




