【三百十一 玄奘、九麻夫人のために経を読む】
沙悟浄たちはやっぱりね、とため息をつき諦めの表情である。
「私は僧です。あなた達のお母様が快癒されますよう、お経を詠ませていただけませんか?」
気休めにしかならないかも知れませんが、という玄奘の申し出に、金炉精と銀炉精は顔を見合わせた。
(金炉、どうする?)
(どうしよう、銀炉……)
視線で会話をしながらも、金炉精も銀炉精も戸惑い答えを出せずにいる。
確かに玉果である玄奘の読経は、もしかしたら病気の回復に効き目があるかも知れないけれど、退魔の呪文でも唱えられたら、衰弱している母親はひとたまりもないだろう。
どうしよう、と困った二人は叔父の狐阿七大王を振り返るが、叔父は玄奘の弟子たちに土下座をしており、玄奘の申し出は耳に入っていないようだ。
師である太上老君を振り返ると、太上老君は不適な笑みを浮かべ、「面白そうじゃないか」と呟いた。
幸いその言葉は小さくて、金炉精と銀炉精にしか聞こえなかった。
「玄奘殿、ぜひ共に参ろう。崑崙を救ったあなたの読経ならば、もしかしたら彼らの母親に奇跡を起こせるかもしれぬからな」
太上老君のお墨付きに不安が吹き飛んだのか、金炉精と銀炉精は途端に顔を輝かせて立ち上がった。
「玄奘様、こちらへ!」
「よろしくお願いします、玄奘様!」
そして小さな狐の手で玄奘を引き、母親の元へと急いだ。
「あっ、待ってください!さあ、弟子の皆様もこちらへ……!」
狐阿七大王も孫悟空たちを促すと、慌てて甥っ子達を追いかけた。
九麻夫人の部屋の前に控えていた精細鬼と伶俐虫という小鬼を下がらせ、狐阿七大王は部屋の中に太上老君と玄奘たちを案内した。
玄奘たちは大人数で部屋に入ることは憚られると、玄奘と沙悟浄のみが入室した。
猪八戒と孫悟空は、玉龍の持つ如意宝珠で突入した時の壁の穴を塞ごうと、そちらへ向かった。
「お客さまでしょうか」
普段よりも人の気配が多いことに気付き、目覚めた九麻夫人がか細い声で尋ねる。
「姉様、金炉と銀炉の師である太上老君様が様子を伺いにきてくださいました」
「まあ、それは……!太上老君様、息子たちがお世話になっております」
狐阿七大王の言葉に九麻夫人は急いで身を起こそうとする。
「ご夫人、そのままで結構ですよ。二人とも兜率天でよく働いてくれています。ご心配なく」
普段の偉そうな様子からは想像もつかないような優しい声で太上老君が九麻夫人を労る。
この場にいたら孫悟空は変な顔をしただろうなと、沙悟浄は思った。
「お気遣いありがとうございます……母親の私が言うのもなんですが、二人ともとても心の優しい子で……でもやんちゃなところがあるのでご迷惑をおかけしていないでしょうか……」
「とんでもない。確かにやんちゃなところがありますが、私も二人の明るさに助けられています。ご夫人が懸念されるようなことはありませんよ」
「それは……ありがとうございます。そう言っていただけて、心配事が減った心持ちですわ」
九麻夫人は、寝台そばにいる金炉精と銀炉精に手を伸ばし、その頭を撫でた。
二人とも嬉しそうに笑っている。
母親の前で師匠から褒められ少し誇らしげにも見える。
「姉様、それからもうひと方……旅の僧の玄奘殿が、姉様の健康祈願の経を読んでくださるそうですので、お連れしました」
「まあ、それはそれは……」
「初めまして、九麻夫人。私は玄奘と申します。夫人の体調が悪い中、突然押しかけてすみません」
「いえ、そんな……よいのです」
「玄奘殿は人間の世界ではかなりの高僧でして。彼の旅も時の皇帝たっての命令によるものなのです。崑崙も彼のもつ類稀なる力に救われました。きっと、ご夫人の力にもなることでしょう」
「金炉も銀炉も玄奘様のお力に助けられたのです」
「玄奘様はとてもすごいお坊様なんですよ!」
金炉精と銀炉精の言葉に九麻夫人は嬉しそうに微笑んだ。
「それはそれは。玄奘様、子どもたちがお世話になりました。本日はどうぞよろしくお願いいたします」
「はい。精一杯努めさせていただきます。九麻夫人は楽な姿勢でお過ごし下さい」
九麻夫人は玄奘に頷くと、やはり体がしんどいのか寝台に横たわった。
玄奘は簡易的な祭壇を準備すると、線香を焚き、経を読みはじめた。




