188話 静かな水面、揺れる心 - 湖畔に映る、それぞれの想い
夜明けの気配が空に滲み始める頃、小さな湖のほとりに、ふたりの影が並んでいた。
静寂の中、水面は鏡のように空を映し、時折吹く風が、そこにさざ波を描く。
鳥の声もまだ聞こえない。湖は、まるで時を忘れたかのようだった。
石を拾い上げたユリウスが、軽く腕を振る。
湖面に投げられた石が跳ね、静かな波紋をいくつも残して沈んでいった。
「……このあたり、朝の空気が澄んでいる」
「うん。……よく来るんだ、こういう場所」
ふとした間に、シュウがつぶやいた。
朝の光が彼の頬に淡く射し、まぶしそうに目を細めている。
「意外だな。君は、もっと賑やかな場所が似合いそうだと思ってた」
「それ、ちょっと失礼じゃない?」
シュウが苦笑する。
だが、否定する気配はない。
「……でもわかるよ、静かな場所って、何か大事なことに触れられる気がするんだ」
ユリウスは手の中で小石を転がしながら、湖の向こうを見つめた。
「僕は、小さい頃からずっと“誰かの未来を支える存在”になるようにって育てられた。
……アリアもそうだ。彼女には、何かを変えていく力がある。だからこそ……僕は、その足元を照らす灯火になれたらと思ってる」
「それでいいの?」
シュウが問う。
どこか不器用な、けれど誠実なまなざしで。
「本当は、誰よりも近くにいたいんじゃないの?」
ユリウスは少しだけ目を伏せ、そして意を決したように口を開いた。
「……僕は、ずっと“そばにいたい”と思ってた。でも、それと同じくらい、遠ざけたい自分がいたんだ」
静かな朝の光に包まれながら、彼の声は少しだけ震えていた。
「まだ幼かった頃、兄さんと王宮の中庭で剣の稽古をしていた時だった。……地下実験室から、怨念の影が溢れ出して、僕だけがそれに飲み込まれた。
兄さんは剣を持って必死に戦ってくれたけど、子供の力で太刀打ちできるものじゃなかった」
一瞬、ユリウスのまなざしが遠くを彷徨う。
「……怨念に囚われたまま、僕の心は暗闇の奥へ沈んでいった。誰の声も届かない場所にいて、時間の感覚さえ消えていた。
でも、兄はそれでも僕を見捨てなかった。
騎士団の副団長になった兄が、僕を補佐役として迎え入れてくれたんだ。制御できない僕の力を、そばで見守って……助け続けてくれた」
「……お兄さん、すごい人なんだな」
シュウがぽつりとつぶやく。
「うん。母上も、僕が自分で自分を抑えられないとき、何度もそっと抱きしめてくれた。……王族としてより、家族として。
だから僕は、あの影から抜け出せたんだと思う」
風が水面を滑り、ふたりの髪をそっと揺らした。
「でも最後の扉を開けたのは、アリアだった。
彼女は……怨念に侵食されるかもしれない危険を承知で、僕の精神の中に入ってきた。
迷っていた僕の手を取って、『出口はここにある』って――迷いなく導いてくれた」
「……それって、すごい覚悟だ」
「うん。だから、僕も覚悟を決めた。彼女が旅をするというなら、僕もその道を歩きたいと。
支えたい、というより、彼女の見る世界を、僕も見たいんだと思う」
シュウは黙ってうなずいた。
その静けさが、返事より深くユリウスを包み込んでいた。
「兄さんも……ルシウスも、そんな僕を黙って送り出してくれた。
『これは騎士団の職務とは別の、王族としての見聞の旅だと思えばいい』って。
母上も、『あなたの眼で世界を見てきなさい。それがきっと、誰かを守る力になるから』と」
少しだけ、ユリウスの目が潤んだ。
「だから、僕は今――こうしてここにいる。アリアの旅に、ただ“役割”としてではなく、人として向き合うために」
シュウがそっと湖に手を伸ばし、水面に触れた。
波紋が広がり、彼の映る像がふるえる。
「……それ、話してくれてありがとう」
ユリウスが驚いたように顔を上げると、シュウは優しく笑っていた。
「俺、癒しの力なんて、たいしたもんじゃないけど……“聞く”ことだけは、ちょっとだけ得意なんだ。
母さんが、昔ね。聖女見習いだったんだって。言葉を持たずに、痛みを見つけて寄り添う、そういうことを教える人だったって」
ユリウスは、ゆっくりと笑った。
「……そっか。君のその優しさは、ちゃんと受け継がれてるんだね」
「それなら、嬉しいな」
ユリウスは、ふっと息を吐いた。
「……話してよかった。なんだか、少しだけ、胸が軽くなった気がする」
沈黙が訪れる。
でもそれは、気まずさでも戸惑いでもなく。
語り尽くさなくても、心に届く“何か”があればいい。
朝の風が、湖面をすべり、ふたりの間をそっと撫でていった。
やがてユリウスが立ち上がる。
「朝ごはん、作りに行こうか。みんな、もう起きてくる頃だ」
「うん。……焼き魚なら俺に任せて!」
「それは頼もしい」
笑いあうふたりの背中を、陽光があたたかく包む。
水面には、広がった波紋がやがてひとつになり、穏やかな静けさを取り戻していた。
言葉にしきれなかった感情は、波のように胸の奥へと染み込み、心に静かな余韻を残していく。
ーーー189話へつづく
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※このお話の舞台はヨーロッパ風異世界であり、現実世界の歴史とは一切関わりありません。
作中に出てくる 国・文化・習慣・宗教・風俗・医療・政治等は全てフィクションであり、架空のものです。
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