172話 影の囁き - 封印された意志の覚醒
空気が変わったのは、夜が深まった頃だった。
焔の谷に淡い星霊の光が灯り、儀式が静かに幕を閉じたその後。
一同が休息を取っていた静けさの中で、それは、息を潜めるように忍び寄ってきた。
「……聞こえる?」
アリアがぽつりとつぶやいた。
誰に向けた言葉かは、自分でもわからなかった。
谷の奥から、風とは違う“ざわり”とした気配。耳ではなく、心のどこかに直接触れてくるような──
(……囁いてる。誰?)
声にならない“何か”が、胸の奥で震えていた。
「結界、少しだけ乱れてる」
ユリウスが険しい顔で岩の裂け目を見つめる。手のひらをかざすと、結界の紋がぼんやりと揺らいだ。
「これは……内側からの干渉か」
「動いた、ってことだな」
マコトが剣の柄に手をかけ、足音を立てずに前へ出る。彼の背には、既に気配を察したモルンがぴたりと寄り添っていた。
モルンの朝焼け色の鱗が、警戒に応じて微かに波打つ。首元のたてがみが静かに逆立ち、金の瞳が谷の奥を睨む。
その隣で、イリスが「ぽよん」と揺れた。
虹色の体が小さく震えている。
「イリス、……怖いの?」
アリアがフードの中にいるイリスへと手を伸ばした瞬間、ふわりと脳裏に“かすかな映像”が流れ込んできた。
……冷たい石の床。
ひとりきりの祠。
暗闇の中に、誰かが閉じ込められている。
(これは……記憶?誰の……?)
「アリア、なにか見えたのか?」
シュウが心配そうに近づいてきた。
白衣風の旅装の裾が風に揺れる。
アリアは少しだけ頷き、そっと眉を寄せた。
「……誰かが、ここでずっと……祈ってた。でも、願いは届かなかったの」
「たぶん、“封印”に触れたせいだ」
エリオットが言葉を継いだ。
長杖の先に、淡い防御魔法の紋章が浮かぶ。
「星霊の契約が断たれた場所……その断絶の奥に、“何か”がまだ眠ってる。その声に、君が呼応してるんだと思う」
「……どうすれば、いい?」
アリアが問う。
「聞くべきかもしれない」
マコトが言った。
表情はいつものように読めない。
ただ、剣に添える手だけが、強く握られていた。
「相手が敵かどうかを決める前に、まず、真実を知る必要がある」
「けど、危険かもしれないぞ。封印されたってことは、それだけの理由があったはずだ」
ユリウスが肩をすくめるようにして言った。けれどその瞳には、どこか過去を思い出すような迷いも宿っていた。
「……でも、わたしは知りたい」
アリアは小さくつぶやいた。
「この声が……もし、長い時間の中で忘れられていったものなら。もし、それが誰かの“想い”なら……」
その夜、アリアは焚き火のそばで目を閉じた。
静けさの中に、確かに“何か”がいる。
──どうして……ここに来たの?
(わたしは……)
──あなたは、どちらの世界の人間なの?
(どちらでもない。でも……)
──おまえも、裏切るのか?
……その言葉に、心が波立つ。
「……違う」
小さく、口にした。
「私は……誰も、見捨てたくないだけ」
その瞬間、アリアの胸の奥が熱くなった。
モルンのたてがみが光り、イリスの体が柔らかく震える。
モルンが近づき、アリアの肩に額を寄せた。
「……ありがとう。モルン」
ほんのわずか、谷の奥の空気がやわらいだ気がした。
「……この封印、開けるつもりか?」
翌朝、マコトが言った。
アリアは少しだけ迷ってから、うなずいた。
「“対話”してみたいの。閉じ込めたままじゃ、本当のことは見えてこない」
「じゃあ俺は、その間ずっと、剣を構えてる」
マコトはそれ以上何も言わず、静かにうなずいた。
「結界の補強はしておく。暴走しても、ある程度は抑え込めるように」
エリオットが長杖を掲げ、魔法の紋を描いた。
「……ありがとう、みんな」
アリアは一歩、谷の奥へと進んだ。
不気味な囁きは、もう聞こえない。
ただ、奥の奥から、何かがこちらを見ている気がする。
モルンとイリスが、静かに後ろからついてきた。
(封印の中にあるものが、敵なのか味方なのか。まだわからない。でも──)
──わたしは、向き合う。
そう強く、心に決めた。
その瞬間、地面の奥から、かすかな光が走った。
静かに、何かが目を覚ましかけていた。
──173話へつづく
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※このお話の舞台はヨーロッパ風異世界であり、現実世界の歴史とは一切関わりありません。
作中に出てくる 国・文化・習慣・宗教・風俗・医療・政治等は全てフィクションであり、架空のものです。
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