涙
ゴールが決まった。
剛士のアシストから、ミドルシュートを決めることができた。
最後は僕にまわってはきたけれど、チームで手に入れた得点だ。
その後、試合は総力を上げて攻め上がってきた春間サッカークラブの怒涛の押し込みをひたすらしのいだ僕らが、逆にカウンターから追加点を決めて3-1で終了した。
白鳥琉生がドリブルで持ち上がったところは大上先輩と木津根で挟んで阻止した。
そこでこぼれたルーズボールに対して、急所をつくようにゴール前に侵入してきた田貫が巧みに蹴ったボレーシュートは、田貫の十八番を奪うような矢吹の守備参加によって守りきることができた。
そこからの反撃で、剛士と僕のパス交換がうまくはまり白鳥不在の春間ディフェンスを強襲すると、最後は味方ゴール前から走った矢吹がそのまま相手ゴール前までを走りきって、僕のパスからゴールを決めたのだ。
矢吹がとにかくよく走った。
試合後、ヘナヘナと倒れたまま寝転がる矢吹に声をかけると「鷹月君、僕はもう疲れたよ……」などと返してきた。
ルー◯ベンスの絵画を見上げつつ、となりにパト◯ッシュが寝ていたらたぶん危険なところだったと思う。
2点差をつけて、スコアのうえでは快勝という印象の勝利をおさめた僕らだった。
しかし、点差が開いてからの終盤が楽な戦いであったわけではなかった。
それどころか、最後に白鳥は恐るべき抵抗を始めたのだ。
真理の応援があれば、琉生は負けることはない。
そのジンクスがいかに強固なものだったかを思い知らされることになった。
最後に僕らの勝利に立ちはだかったもの。
それは涙だった────
兄の敗北を目の前にして、白鳥真理は泣き出した。
号泣だった。
ギャグマンガだったら足元に水たまりができあがるであろうほどの。
だがそれは美しくも哀しい涙だった。
可憐な外見の少女が大粒の涙をこぼしながらも目を逸らさず、兄の戦う様を必死に見つめ続ける姿は、その場の空気を一変させた。
サッカーグランド全体と周辺を巻き込んで、同じ哀しみに引き落としてしまう。そのくらいの存在感と影響力が彼女にはあった。
最初のうちはそれを見て「何よあの子」的な気持ちで面白くなさそうな顔をしていた剛士のファンクラブメンバーたちですら、いつの間にか真理に一定の感情移入をしてしまうことを強いられていた。
大好きな人に、心から応援しているチームに負けてほしくはない。
そんな想いは彼女らにも共感できるものだった。そして、純粋に汚れない気持ちで兄のチームを応援し、敗色濃厚となってしまった今、涙を流しているのだとしか考えられない表情を真理はしていたのだ。
真理は計算して泣いているわけではない。
この雰囲気を、あの賢しい少女はあざとく造り出して演出しているのではないか。そんな疑いを抱いた者は、時間とともにむしろ自分の心がいかに汚れているかを痛感させられるはめに陥った。
その場のみんなが真理の心からの悲哀を信じた。
そうして涙は、僕らを襲うはかりない重圧となったのだ。
実のところ、真理にとっては琉生の敗戦は未知の恐怖であっただろうし、それを予感させられること自体が耐え難い悲痛をもって彼女を苦しめたことだろう。
それは間違いない。
「これが……噂には聞いていたけどよ」
異様な空気に支配されたフィールドで、剛士が言った。
剛士と僕は、春間の試合を何度か観に行ったりするうちに、このことを少しばかり耳に挟んではいたのだ。
「うん……。聞いてはいたんだけど……予想以上にすごいね、白鳥真理の『泣き落とし』は」
僕は親友に同意した。
春間の試合に観戦に来ていた父兄などのあいだで、ときおりまことしやかに噂話で上っていたことだ。
一昨年のこと、ある試合において真理の『泣き落とし』が発動したらしい。
その時にも、サッカー場全体がなんだかものすごい感じになり、3点差があったのを春間サッカークラブがぐいぐいと追いついて最後には引き分けにまでもちこんだというのだ。
女の涙は武器だと言った人がいる。
僕は噂を少々、軽視していたことを認めないといけなかった。
真理の涙は、武器どころか恐るべき最終兵器と言えた。
本人の預かり知らぬところで命をかけている戦いの、ラスボス的な意味で真理自身が最後の難関となるのは、ある種の皮肉という気にもさせてくれる。
「うっ……うわぁ……!」
最もこの攻撃で痛手を受けていたのは矢吹だった。
顔面蒼白で、調子にのって2得点とか決めちゃったりなんかして申し訳ございません。もういたしませんという顔をしていた。
判決を言い渡される前の罪人のようでもあった。
何も悪いことはしていないはずなのだが。
プロサッカーの試合において、満員の観客席をチームカラーに染め上げたサポーターがつくる雰囲気は、ホームのチームに勇気を与え奮起を促し後押しをするし、アウェイのチームにはまさに敵地に立っているという精神的な圧迫をもたらすものだ。
白鳥真理は、それをたったひとりで成立させていた。
不思議と、競り合いでこぼれたボールも春間の選手ばかりに引き寄せられていくようだった。
セカンドボールが拾えない。これは地味にきつい展開だ。
我慢すべき、耐え抜く時間帯を僕らは過ごした。
心強かったのは、守備の要である大上先輩と木津根が雰囲気に流されにくいタイプだったことだ。
寡黙なキャプテンである大上先輩は、小学生にして職人気質というのか、自分の仕事を黙々と遂行するタイプだ。
木津根はもともと空気を読まないやつだ。もしかすると、わかっていながら合わせる気がないだけなのかもしれないけれど。
ゴールキーパーの網守先輩が情に流されやすい人なのを考えると、あらためてゴール前でスイーパーの役目を務める木津根のチームへの加入は春間との戦いを勝ち抜くためには必要不可欠な絶対条件だったと言えるのかもしれない。
最後の数分とロスタイムは、随分と長く感じられた。
僕も本来のポジションである守備的ミッドフィルダーの『守備的』の部分を発揮するしかなかった。
サッカーにおいて2点差というのは危険な点差だと、とあるサッカー解説者は言っていた。
1点を詰められたときに両チームに与えられる精神的効果が計り知れないからだろうと僕は思う。
だから僕は全力で戦った。
守備を捨てて攻撃的なポジションまで出てきた白鳥琉生と競り合い、嫌なところをついてくる田貫の動きをケアして走った。
「なんだか……うれしいな」
ロスタイム間近のとき、白鳥が僕に話しかけてきた。
「うれしい?」
意味がわからなく、白鳥の顔を思わず2度見したが確かに彼は微笑んでいた。
「君は真理と仲良くしていたみたいだから────いや、もう、マジでやめろってくらい仲良く───ん……いや、スマン。そうじゃなくて……」
一瞬、憎しみの炎をちらつかせた白鳥だが、すぐに微笑みの表情に戻る。
それはそれで怖い。
「君は真理の涙を見てしまっては、もうまともに試合ができないんじゃないかって心配していたんだ。でもそうじゃなかった」
「……」
「こうして最後まで全力を尽くして戦ってくれる。だから例え負けても──」
そう口にして、白鳥は首を横に振った。
「──違うな。キャプテンの僕が最後まで諦めてはいけない。……君が手を抜かずに戦ってくれるから、遠慮なく逆転することができる……それがうれしいんだ!」
白鳥は自分自身の言葉通り、試合終了の笛が鳴らされるそのときまで諦めずに立ち向かってきた。
そんな姿に鼓舞されるように、春間の選手たち全員が一丸となって攻めてきた。
僕は試合の終わりを焦がれるように待った。
主審のお兄さんがホイッスルを長く吹くために大きく息を吸い込む瞬間をスローモーションのように見ていた。
その時は、攻めを急いだ田貫がゴール前にロングボールを蹴り込み、それを網守先輩が叱咤しながらジャンプキャッチをしたタイミングで訪れた。
そんな風にして、僕らは勝ったのだった。
雨とともに幕を上げ、涙とともに幕を下ろす。そんな試合だった。
これで原作では起きることがなかったとされていた、白鳥兄妹が揃った試合での敗戦を実現させることができた。
肩の荷が下りる。そんな言葉を、なんだか実感してしまった。
不思議なくらいに、これでもう大丈夫だと思った。
うまく説明できないし論理的にみても真理がこのまま無事に生きていくことが絶対だなんて保証はどこにだってないはずだけれど、なんだか安心することができたんだ。
だから僕にできることはやり遂げたと思う。
命をかけた戦いは終わったんだ。
「お兄ぢゃん! お兄ぢゃん! お兄ぢゃ────!」
人目もはばからずに兄にすがりついて泣きわめく真理。
困り顔の琉生は優しく頭を撫でている。
「ごめんなざい……あたしが……遅れたから……ちゃんとぜんぶ応援してながったからだよね」
「ちがうよ、真理。真理はちゃんと応援してくれたじゃないか。負けたのは真理のせいじゃないよ」
いつもとは慰める立場が逆転した、めずらしい光景だ。
「でも、でも、お兄ちゃんが……ごめんなさい……」
「いいんだ、真理。謝るなら僕のほうだ。応援してくれたのに負けて、ごめんよ」
「そんなの……駄目だよ……これは何かの間違いよ……だって、私のお兄ちゃんがサッカーで負けるはずないのに」
駄々をこねるように事実を認めようとしない真理。
琉生は、兄というよりは父親のような顔になって少女を諭す。
「真理、僕たちは負けたんだ」
「──お兄ちゃん!」
「……負けたことは悔しいよ。勝てなかったことは辛い。チームの最後の試合になってしまったことは寂しいよ。でもね」
「……でも?」
涙腺を崩壊させたままの真理と同様に、琉生の瞳は潤んでいた。
だが彼は、涙をこぼすことはなかった。
「御覧野第二は強かった。とても、ね。だから、僕はこの試合で負けてしまったことを、少しも恥ずかしいとは思わないんだ」
真理は何かを答えようと唇を震わせた。
しかし言葉は言葉にならず、再び兄にすがりつくと真理はユニフォームをハンカチ代わりに泣き続けた。
もう彼女の涙は、まわりの人々を圧倒的な悲しみに引きずり落としてはいない。
今では兄妹の姿は、どこか微笑ましい光景だ。
白鳥琉生はきっともう大丈夫だろうと思う。
家族だから、兄妹だから、近すぎる距離感では、ときにはお互いを傷つけてしまうような言葉を投げつけてしまうかもしれない。
だけどそんな傷はいつかは修復できるに違いない。
原作でも、真理に不幸な出来事さえなければ琉生はあそこまで人格を堕とすこともなかったんじゃないだろうか。
──終わったんだな。
そんなことを考えた僕の頭の中で、アニメ放送でいうところのエンディングテーマの前奏が流れ始めた。
そのくらいの、終わった感があった。
気のせいか、そのへんの空間にスタッフやキャストのクレジットが浮いているようでもある。
監督も戻って、前野先輩の怪我が大したことはないと報せてくれた。
ヘロヘロになった矢吹は西に肩を借りながらも、ホッとしたような、それでいてどこか満ち足りたような顔をしている。
「勝ったな!」
「そうだね」
僕は親友とハイタッチを交わす。
「このまま全国までいこうぜ!」
「……うん、そうだね」
「──ちょっと、あんたたちねぇ!」
泣きわめいていたはずの白鳥真理が、目を赤く腫らしながらもズカズカと、剛士と僕に向かって歩いてくる。
その先の地面はちょうど転びやすい感じに、雨でできたぬかるみが渇ききらずに残っていた。
またこのパターンか……。僕は、疲労した身体に言い聞かせ、次に起きるに決まっていることのために身構える。
「お兄ちゃんを負かしておいて、次の試合も勝ち進まなかったりしたら……ぜーったい、許さないんだか────らァッ?」
頭の中で流れるエンディングテーマの前奏の音量が高まる。
そして、歌が始まる────




