そして、僕は知る
「ぼ──」
僕も、森川さんのことが好きだよ。
そう口に出しかけた言葉が、最初の一音だけを発したまま詰まってしまった。
好きと言われたから単純に好きと言葉を返して、はたしてそれでいいものか?
森川さんからすれば、挨拶を返されたような、下手をすると儀礼的な返事として受け止められやしないだろうか。
そんな疑念が言葉を押し留めてしまった。
好きだとは言えないわけではない。
言っても嘘にはならない。
好きか嫌いかの二択なら、まず間違いなく好きだと断言できる。
ずっと気になる女の子として意識していたし、このまま成長して関係が進展したりしたときには、お付き合いなんかをしちゃう的な予感を感じなくもなかった。
だがしかし、森川さんの考えている好きと、僕の好きでは好きの中身が違うかもしれない。
彼女の言う好きというのが、もしも僕の考えているところの好きを遥かに凌駕するレベルの好きっぷりで、当然のごとく好きというからには将来に結婚するのは勿論のこと、式は本当に親しい人たちだけを招いて海の見える小さな教会で上げることとか、新婚旅行の行き先もエジプトとトルコに決まっていたりして、子供は少なくとも二人は欲しいよねとか、共働きで大変だけれど暖かい家庭を築いていくこととか、あとは子育ての環境とか親の介護とか一生を添い遂げる系の覚悟ががっちり決まっているくらいの好きだとしたらどうする。
軽はずみに、僕も好きだよなんて応じるのはよくない気がする。
僕にそれだけことが約束できる自信があれば言えるのかもしれない。
大人になることの意味を知らない、向こう見ずな子供であれば言えたのかもしれなかった。
だが僕のなかにいる死者の声が、中途半端な大人の心が、僕を臆病にしていた。
「僕はね、森川さんのことを──」
「うん」
だからせめて好きと応えるかわりに、誠実に、正確に、僕が彼女に対して思っていることを伝えることにした。
「この一年かな、なんとなく気になって、教室での森川さんのことを目で追って見ていたよ、それでね……」
僕は伝えた。
不器用な言葉で。
たくさん見つけた、彼女の良いところを。
真面目で思いやりに溢れる、とても尊敬できる人だということ。
とても素敵な笑顔をすること。
勉強は得意だけど、運動音痴だったり方向音痴だったりして、弱点もあって可愛いところ。
一緒にいて安心できること。
できたらもっと一緒にいて、森川さんのことをもっと知りたかったってことを。
「ありがとう……」
森川さんの瞳から、大粒の涙がこぼれた。
「……ごめんね……私……泣かないって、鷹月君とはちゃんと笑顔でお別れをしようって決めてたのに……」
「僕こそ、ごめん……なんかむしろ泣かせたみたいな感じで」
「いいえ……いいの。鷹月君がくれた言葉のひとつひとつが嬉しかったから」
それからまた彼女は謝って、涙が止まるまで、少しのあいだ待ってほしいと頼んだ。
泣いている顔を見られたくはないだろうから、再び僕らは川面に視線を戻し、流琵子川の流れを眺めて森川さんが落ち着くのを待った。
水の音にかき消されそうなほどか細い声で「私、本当はお引っ越ししたくない……」と呟くのを耳にした。
それはたぶん僕が初めて聞いた、無理だと知りながらも口に出さずにはいられなかった森川さんの我が儘だと思った。
「ねえ、鷹月君」
「うん」
「実はね……ひとつだけ……お願いがあるの」
控えめに、申し訳なさそうにする森川さんの様子に、僕は引っ越しのことをどうすることもできないような無力な子供だけど、僕に可能なことなら何でもしてあげたいと考えた。
「何かな?」
「……もしも……もしもね、嫌だったら断ってもらって構わないから……」
森川さんは顔を赤くしながら、腕に下げていた小さなバッグのなかに手を差し込む。
「変な子だと……思われるかもしれないけど私ずっとね、鷹月君のこと見ていて……それで思っていたことがあるの」
森川さんのことを僕が変だと思うなんて、そんなはずがない。
そう考えた僕の前で、彼女は何かのケースをおもむろに取り出すと大事に丁寧に、それを開く。
「私、鷹月君がこれをつけたらきっと……きっと似合うって」
細い指先で大切そうにかかげられた、その物体。
黒くシャープなフレームに嵌め込まれた二枚の透明なレンズが太陽の光を反射させて輝く。
それは、眼鏡だった。
なぜだか一瞬、僕が前から夢見ていた眼鏡をかけた森川さんが見たいという願望を、なにか不思議な第六感で感知していて、それを叶えるためにこれを用意してくれたのだろうかという思考がよぎる。
だがそうではなく、森川さんは眼鏡を、僕にかけてほしいと言った。
たしかに言った。
「これを、僕が?」
「……ごめんなさい……やっぱり変だよね……わ、忘れて──」
「いいんだ。大丈夫」
焦りながら眼鏡をケースに戻そうとする森川さんを止める。
ようやく僕は理解した。
僕らは、お互いの姿に同じ幻想を抱き続けていたのだと。
こんなにも通じ会う心の持ち主に、出会っていたのだと。
「えっ……いいの?」
信じられないという顔の森川さん。
たしかに、僕でなければ彼女の願いを理解できなかったかもしれない。僕でなければ。
「いいよ。……森川さんの手で、僕にそれをかけてくれないかな」
「わ、私の手で……」
ためらいながらも、勇気を振り絞って森川さんは頷いた。
「わかったわ……じゃあ、目を……閉じていて」
「うん」
僕は両目を閉じ、森川さんが優しく慎重な動作で眼鏡をゆっくりと伸ばし、両耳と鼻の上に固い感触が収まるまでを待った。
森川さんの緊張と期待と興奮が、フレームを通して伝わってくるように感じた。
「いいわ。目を開けて」
目を開き、度の入っていないレンズ越しに森川さんを見る。
彼女は瞬きを忘れ、息を飲む。
「思っていたとおり……いいえ……それ以上に似合っているわ」
「それはよかったよ」
僕の視点では、眼鏡をかけた鷹月孝一がどんなことになっているのか想像するしかない。
たぶん地味キャラに磨きがかかっているだけのような気はする。
でも、重要なのは森川さんが喜んでくれているということだった。
森川さんは、また泣きそうになっている。
しかし僕が見たいのは涙ではない。
「次は、森川さんの番だよ」
「──えっ、私?」
「そう。僕も、これをかけた森川さんが見てみたい──さあ目を閉じて」
彼女が目を閉じた瞬間から、すべてが夢物語のなかにいるかのようにことが進んだ。
高鳴る心臓の鼓動を抑えながら僕は眼鏡を、世界で最もそこにあるべきと信じて疑わない場所に置く。
すべてが神聖な儀式であるかのようだった。
そして一言「いいよ」と告げる。
それから見たものは言葉に言い表せないほど素晴らしいものだった。
この世に女神が舞い降りたのだと、僕は思った。
そして夢が叶った喜びに感謝した。
僕はこのときのことを永遠に忘れはしないだろう。
眼鏡は僕のために選んでくれたプレゼントだということなので、ありがたく貰うことにした。
使いどころはない気がするし、森川さんの他に眼鏡姿を見せようとも思わないけれど。
そして新しい住所に、僕が選んだ眼鏡を贈ることを約束した。
これから先、お互いに負担にならないペースで近況を連絡して、別々の学校でも頑張ろうねという約束も交わした。
それから僕は、森川さんにも夢があることを聞いた。
「私ね、小説家になりたいの」
「それはいいね! 森川さんなら絶対になれるよ。それで作品が原作として評価されて、漫画化したりアニメ化したりするんだ。アニメ化のときには、ドラマCD版とキャストに変更があったりして従来のファンから失望されたりもするけど、やがては森川さんの原作が素晴らしいこともあって受け入れられていくんだ。やがてはアニメの第二期、第三期があって、ついに劇場版……そして海外での映像化の話が……あ、ごめん……なんかダメなスイッチが入っちゃった」
「うふふ……いいの。鷹月君のそういうところも好きだから。でもね、私が考えているのはね、おこがましいことだけど二時間サスペンスドラマをまた元気にすることなの」
「そっちかー」
森川さんは、犯人を崖に追いつめる系の小説を書きたいらしかった。
「今ね、超絶イケメンで派手な探偵の捜査を協力する、地味だけど優秀な刑事が主人公のストーリーを考えているの」
「バディものかー」
キャラのモデルになっているのが誰と誰なのかは聞かなくてもわかる。
夢の話は、親友の皆川さんですら話したことのない秘密だと森川さんは言った。
僕に打ち明けたからには実現できるように頑張らないといけないってことも。
「鷹月君も、サッカーを頑張ってね」
「うん」
話は尽きなかった。
まだ彼女の知らないことが、知りたいことが多過ぎた。
でもやがて日が傾き始めた。
あまり森川さんのご両親を心配させるわけにもいかない。
連絡することを改めて約束して僕らは別れることにした。
送っていこうかと言ったけど、今日はここでいいからと森川さんは固辞した。
「もしも……もしもね、お互いに大人になっても、まだ私たちふたりがどちらともに、もっと好きになった人が現れなかったら……そのときはここで会いましょう?」
「うん」
森川さんらしい、控えめで、慎重で、思いやりを感じさせる約束の持ちかけかただ。
だから素直にできる約束だと、即答できた。
「じゃあね」
「うん……じゃあね」
さよならという言葉を使わずに僕らは別れた。
そして、彼女は去り際に一度も振り向くことはなかった。
だから堪えきれずに流した僕の涙を、見せずに済んだ。
こんなにも、ひとりの女の子のことが心を占領してしまったことは今までになかった。
前世でも、二次元がほとんどとはいえ、三次元の女の子にも興味を抱いたことはあった。
でもここまで気持ちをかき乱されたことはない。
胸が痛む。
だがそんな痛みでさえ、現実に僕が森川由希という名の女の子と出会い、お互いを知るなかで築いた関係が幻ではない証なのだと思えば、それはとても大切なものと感じた。
彼女がついさっきまでいた川岸に立って、そこにいない姿を思い描くうちに、どんなにもその存在が自分のなかで大きくなっていたかを思い知る。
やっと僕は、この期に及んでから、今の気持ちが世の中で使い古された表現で言い表せるものだということを理解した。
手にした眼鏡ケースを、そっと胸に寄せる。
固い感触が、この数時間に起きたすべてのことが幻影ではなかったと教えてくれる。
僕は恋をしていた。




