95 無為無策
翌日、調査団で聞いてもなにもわからず、では友人を頼ってみようと考えリシュラ商店へと向かう。
取り次いでもらってわかったが、オルフリオは今朝早くに王都へ戻ってしまったらしい。
だが、薬草屋の後継ぎは客人を招き入れ、もてなし、じっくりと話を聞いてくれた。
「我々の店では家の取り扱いはありませんから、信頼のおける者を紹介します。私はまだこちらに移り住んだばかりですから、詳しい者に聞いてみましょう」
きっと良いところを紹介してもらえるだろうと若旦那は話したが、使いをやる前に、レテウスへこう確認している。
「その……、本当にこの街に家を買われるのですか? 良い造りの家もあるでしょうが、王都とは少し勝手が違いますよ」
兄である神官長のような強さはキーファンにはないが、眼差しの誠実さは同じだとレテウスは感じていた。
きっかけはあまり良くないものだったが、昨日出会えたことはこの上ない幸運だったのだろう。
お茶とお菓子を振舞われ、座り心地の良い椅子にほっとしながら、続報をのんびりと待つ。
大きな商店の後継ぎは手際が良いようで、午後にはもう、家の売買をしているという商人が現れていた。
男の名はザントラ・コリン。迷宮都市に家を建てて売り始めたバルシュートの店で働いてもう二十年というベテランだと言う。
「あのバロット家のご子息が家を探されていると聞き、飛んで参りました」
ザントラは絶えず笑みを浮かべながら話す男だった。
新しいものや、造りの良い家についてよく通じているらしく、次々に「良い案」を提示してくれる。
「無彩の魔術師と呼ばれる青年を知っておられるか」
「ええ、ええ、もちろん。大変有名な探索者ですから」
「できるだけ、彼の家の近くに用意をしたい」
「あの辺りですか? 探索者ばかりが住むところで、レテウス様にはあまり相応しくないのではと思いますが」
探索者向けの貸家と売家。シルサージ通りとトゥメレン通りにも物件はある。
広めの貸家と、少し小さくなるが造りの良い売家。それぞれの特徴を説明してくれたものの、どちらにしても「探索者向け」でしかないとザントラは首を振っている。
レテウスは悩んだが、ザントラはとりあえず現物を見るべきだと三男坊へ話した。
キーファンに見送られ、不動産屋の馬車に乗り、迷宮都市の南側へ。
まずは商人たちの暮らす通りに並んだ立派な家に案内されたが、中はかなり簡素な造りだった。
いくつかの「優良物件」の次に、探索者向けの売家を三軒紹介される。
説明された通り、家自体が小さい。だがザントラによれば、一人か二人で暮らすには充分な広さなのだという。売家を手に入れられるのはかなり腕のいい探索者であり、彼らは小さな住処で気ままに暮らすらしい。
最後に紹介された貸家は、まず入る前に通りの様子が気に入らなかった。あちこちに物が落ちているし、窓が壊れていたりして小汚い。
家の中は不潔とまではいえなかったが、壁といい扉といい、見た目が貧相で悲しい気分になるほどだった。
「なるほど。よくわかった」
ザントラは多くを語らず、ただ頷くだけだ。
また馬車に乗って、今度はバルシュートの店に連れていかれ、料金の説明を改めて受ける。
「百万シュレール?」
「はい」
最初に案内された屋敷は百万シュレール。二軒目はもっと高くて、百十五万シュレールなのだという。
レテウス個人で動かせる金額ではなく、頭の中では逃避行が始まって、自分の先祖は王都の家を一体いくらかけて作り上げたのか考え始めていた。
「探索者向けの売家ですと、二十五万から四十万シュレールほどでご用意がございます。大きい家の方がどうしても高くなりまして」
「そうなのか。一応、貸家の値段も参考までに教えておいてもらえないか」
「貸家もですか?」
ザントラは少し驚いた顔をしたものの、貸家のシステムは売家とは違うことを説明してくれた。
「貸家は大体が五人用で、七、八人くらいまでなら一緒に暮らせる大きさです。月々決まった額を払うのですが、最初に借りる際には何か月か分、まとめて払うように決められております」
「まとめて払う?」
「ええ、まだ未熟な探索者向けのものですので。すぐに支払えなくなったなんて話になっては困りますからね」
ほとんどの業者が、三か月から六か月分を最初に払わせるらしかった。
安ければ七千、新しく良い物件ならば二万程度まで上がるとザントラは言う。
丁寧な案内に礼をして、レテウスは少し考えさせてほしいと答え、店を後にしていた。
リシュラ商店へ送ろうかと提案されたものの、キーファンはきっと仕事中であり、戻る理由も特にない。
少し慣れてきた迷宮都市の道を歩きながら、レテウスは太い眉毛をびくびくと動かし、唸っていた。
王都の実家に戻って資金を用意しなければならないが、どこにするか先に決めておく必要がある。
そこまで豪華なところにする必要はない。自分が長く暮らすためのものではないのだから。
家を用意するのは、ブルノーこと、ウィルフレド・メティスの頼みだから。
まだ十一歳だという子供に、安心して暮らせる場所を用意してやる約束をしてしまったからだ。
家族もない子供の面倒を見る。
迷宮都市の道の上で、はたとレテウスは気付いた。
そもそもこの「子供の預かり」は、一体いつまで続く話なのか?
ようやくこんな根本的な部分に思いがいたって、レテウスは低い声でまた唸っている。
通行人たちは異様な男の様子に気が付いて、そっと道を開けていく。
悩みながら歩いているのに、なにも頭に浮かんでこない。
具体的になにをどう考えたらいいのかが、そもそもレテウスにはわからない。
自分がわかっていないということ自体を貴族の三男坊は理解できておらず、空っぽのままフル回転を続けて、ただひたすらに消耗していく。
無為な散歩道を歩き通し、調査団の宿舎近くにたどり着き、顔をしかめていた。
あの屋敷の管理人、ぼやっとした顔の青年ならば、なにもかもすぐに解決できるのか。
そんな馬鹿な、とレテウスは思った。
そもそも家を用意するのにぽんと金を出せるはずがない。引き受けたところで、子供を預かるのは随分先になってしまうだろう。
子供の世話をする、働き者のメイドだって探さねばならない。
迷宮都市などという場所でちょうどよい人材が見つかるのかどうかも、想像がつかなかった。
普段はほとんど使っていない部分を酷使してしまったようで、頭が痛い。
三男坊がしかめっ面のまま宿舎へ戻ると、入り口に仁王立ちをしている男がいて、目が合ってしまった。
「レテウス!」
よく通る大きな声で呼んできたのは、実の兄であるラチェウス・バロットだった。
レテウスとは違い、母に似た優しい顔立ちをしているが、性格は弟同様真面目な努力家で、やや短気なところも同じ。
「兄上、どうされたのですか」
「どうしたもこうしたもない。姿を見ないと思ったら、迷宮都市に来ているとはな」
今日の昼に土産を片手にオルフリオが現れ、レテウスと迷宮都市で会った話をしたらしい。
「調査団の制服を着こんで街をふらふらしていたと聞いたぞ」
「人を探していたのです、ふらふらしていたわけではありません」
「まさか、『あの男』を探しているのか?」
ブルノーの所在がわからなくなった時、最初にこの話題をもちかけた相手はラチェウスだった。
長男とは違った扱いを受ける兄弟であり、共に王宮へ顔を出しているので、次兄もブルノーを知っていると考えてのことだった。
だが、ラチェウスは顔をしかめて、そんな話はするなとしか言わなかった。
「そうなのか、レテウス」
「……ええ、そうです。この街に腕の立つ戦士が現れたと聞いて」
「馬鹿な真似を。今すぐ帰るぞ」
夕暮れ時にもう調査団の宿舎にたどり着いているのだから、オルフリオに会ってすぐに馬を走らせてきたのだろう。
「兄上」
「用意があると言うのなら早く済ませるんだ」
「兄上、私はブルノー・ルディスを探し出しました。彼に会って、話したのです」
レテウスの主張は、兄の拳に弾き飛ばされてしまった。
突然右の頬を叩かれ、三男坊はよろめき、宿舎前の路上へ倒れこんでいる。
「そんな名前の男などいない」
そうだろう、と兄は囁く。
レテウスは突然の暴力に動揺したものの、この展開に納得していなかった。
「なぜ皆、そんな嘘を言うのです。彼は王宮にいたし、今はこの街にいます」
「本当か? お前が会ったのは、本当にその男なのか?」
本人は否定している。だが、レテウスにとってウィルフレドと名乗る男は、密かに憧れ、剣を交え、その強さを存分に知りたいと思える唯一の存在である、ブルノー・ルディスで間違いなかった。
「どうなんだ、レテウス」
「私は彼に会ったし、頼まれたことがあるのです」
「頼まれごとだと? 一体なにを?」
いつもは馬鹿正直な受け答えをしてしまいがちなレテウスだったが、この兄の質問には沈黙を貫いていた。
迷宮都市で家を用意して、子供を預かり世話をする。口にした途端、また殴られるに違いない。
「お前の勤めをすべて放り出してまでしなければならないのか? こんなところで油を売って、ぶらぶらと彷徨い歩くことが?」
今日は既に働き尽くしてしまったようで、頭がちっとも動かない。
怒れる次兄になんと答えればいいのか、レテウスにはまったくわからない。
口はぱくぱくと動いたものの、結局声は形にならず、一音ですら発することができないままだ。
「もういい! お前は馬鹿だとわかっていたが、本当にどうしようもない大馬鹿者だったようだな!」
ラチェウスはもう一度手を振り上げると、弟の左頬を思い切り打った。
「もう帰ってこなくていい! 私などより父上はもっとお怒りだ。これからはバロットの名に頼らず、自分の力で生きていけ。調査団も王都の騎士団のものだから、手を借りることは許さん。二度と頼るな!」
ラチェウス・バロットが右手を挙げると、入り口近くにいた調査団員たちが動き出し、ばたばたと走り始めた。
次兄はくるりと回って背中を見せ、弟へこうとどめを刺した。
「母上に泣きつけばどうにかなるなどと思うなよ。そんな真似をしたら、マリアーネとのことをすべて話すからな」
入り口で転んだままのレテウスに、調査団員が寄ってきて膝をつく。
「ダング調査官」
「ラチェウス様の命令です。お引き取り下さい」
荷物を抱えて呆然とする三男坊のもとに愛馬が連れてこられて、扉は閉められてしまった。
たいした荷物などありはしない。街で買った着替えが一式あるだけで、服と馬と、少しの現金だけがレテウスの持ち物のすべてになってしまった。
兄との時間はあまりにも激しく、短いものだった。自分になにが起きたのか、実感がない。
家にもう戻るなと言われたのだと、愛馬とぼんやり進んでいくうちに気が付いていた。
困り果てたレテウスが向かったのは、午前にも訪れたリシュラ商店だった。
キーファンへの取次ぎを頼むと、三度目の訪問だと知っている者が伝えにいってくれて、遅い訪問を実現させてくれた。
「どうなさったんです、怪我をされたのですか」
「いや……。その、なんというか」
「物件を見に行かれたのでしょう? なにか起きたのですか」
「いや、いや、違うんだ。家の案内はちゃんとしてもらった」
誤解されては困るという気持ちが先走り、レテウスは自分に起きた事件を馬鹿正直にキーファンへ伝えてしまう。
薬草業者の二代目は随分驚いたようだが、やはり親切な男だったらしく、客のために部屋を用意し、愛馬も預かるよう手配をしてくれた。
「申し訳ない、直接の友人でもないのに」
「これもなにかの御縁なのでしょう。もう夜ですし、よく休んでください。痛むようでしたら医者を呼びますが」
そこまでしてもらうほどではないとレテウスは断ったが、夕食の後に、腫れが早く引くという薬が用意されていた。
ありがたいが、これから先、明日からのことを考えると不安しかない。
どうすればいいだろうのか。
頬がじんじんと痛んで、なかなか眠れない。
もう帰ってくるなと言われてしまった。
兄よりも父の方が怒っているらしい。
もう、バロットの名を口にしてはならないのか。
ブルノーの行方に関する話題は、父に伝えたことなどなかったのに。
兄は逐一、すべて報告していたのかもしれない。
そんな話はもういい、お前の気にすることではない、そんな男などいただろうか?
ラチェウスがまともに取り合ってくれたことなどなかった。ブルノーの話は、してはならぬものだった。
レテウスはやっと気が付いたが、いくらなんでも遅すぎたのだろう。
もう、王都に戻れないのか。
レテウスは強く目を閉じ、深く長いため息を吐き出している。
母に泣きつけば、なんとか家に入れてもらえるだろうとは思う。
末っ子の三男坊には少しだけ、母は甘いから。
けれどマリアーネとのことは知られたくない。
ラチェウスの口を塞ぐ良い方法が思いつかない。
兄の弱みなど知らない。浮かんでくるのはすべて些細なことで、脅しの材料にはならないだろう。
薬が効いてきたのか、頬の痛みが遠のいていく。
かわりに眠りの波が寄せてきて、レテウスの意識は深く沈んでいく。
母や兄、父の夢を見たように思った。
だが、夢の終わりに現れたのは家族ではなく、鋭い目をした戦士の顔で。
「やはりあなたには無理でしたか」
ウィルフレド・メティスは美しい顔に笑みを浮かべ、冷ややかな視線をレテウスへ向けている。
「お帰り下さい」
黒い壁の家の扉が、静かに閉まっていく。
慌てて指を差し込み、阻止しようとする三男坊へ、母の声が届いた。
「なにをしているんです、レテウス。早く戻って来なさい」
声はみるみる遠のいていく。
家の扉が閉じて、母の姿が消えようとしているのがわかった。
けれど、振り返れない。
景色が霞んでいく中、レテウスはやっと理解していた。
どちらにするか、選ばなければいけない。
一方しか扉を開けられないのだから。
あの黒い家か、自分が生を受けた王都の屋敷か。
今、手を伸ばすべきはどちらか。いや、自分が手を伸ばしたいのは、どちらの扉なのか?
夢から覚め、レテウスは用意された着替えを身に着け、朝食に招かれていた。
リシュラ家の両親は娘のもとを訪れていて留守にしているらしく、二人だけなので是非、とキーファンは話した。
二代目の隣には妻のフロリアがおり、随分昔に見かけたことがあると笑いかけてくれた。
「それで、これからどうされるおつもりなのですか?」
フロリアは愛らしい顔立ちをしており、首を傾げる仕草によって魅力がより引き立てられている。
馬鹿正直にすべてを話したレテウスを、心配そうな顔で見つめてくれていた。
「私は、ブルノー様との約束を果たす」
「王都へは戻られないのですか」
「勘当されてしまったから」
「でも……、一度ちゃんと御両親と話された方が良いのではありませんか」
「そうかもしれない。だが、私はこの街に残ろうと思う」
レテウスは胸に力を入れて、心の形を整えていった。
無理などではない。自分はなんでもできる人間だと、証明したいと強く思った。
「それで、本当に図々しいお願いなのだが」
キーファンへ目を向け、馬だけ預かってもらえないかと頼んだ。
迷宮都市では馬での移動はあまり好まれていないようだし、どこにでも預けられる場所はないようだから、と。
妻に視線を向けられ、二代目は小さく頷くと、愛馬についてこんな提案をしてくれた。
「実はうちではなく、コラス・ヘルドという商人に頼んで預かってもらったのです。コラス殿はとても馬が好きなお方で、自分の馬を何頭も持っておられるということなので」
様子を見に行くついでに、相談してみてはどうか。ありがたい提案を受けて、まずは愛馬問題からとりかかる。
リシュラ商店の馬車に乗り、コラスのもとへ向かってみれば、話はあっさりとついた。
コラス・ヘルドはレテウスの愛馬の美しさをすっかり気に入ったと言い、時々乗ってもいいという条件で、預かってもらえることが決まる。
できれば譲ってもらいたいくらいだという話までしてきたのだから、よほど馬が好きなのだろう。
手入れの様子も随分丁寧で、レテウスはすっかり安心してリシュラ家へと戻ってきている。
「ありがとう、なにからなにまで」
「お役に立てたようで良かった」
キーファンとフロリアの優しい笑顔は温かいが、頼ってばかりはいられない。
ここからは家探しをせねばならず、レテウスは二人と別れ、しばらく歩いたのちにはたと気が付いて立ち止まっていた。
どの家が良かっただろう、と考える以前の問題だった。
買うにしても借りるにしても、資金がない。
実家に頼れないのだから、手持ちの金でどうにかするしかない。
だが、財布の中に残っているのはせいぜい千シュレールに届かない程度で、つまり、一番安い貸家ですら用意できない状態だ。
よくも意気揚々と歩いていられた。
ここからは自らの力だけで未来を切り開く、などとよく思えたものだとレテウスは考える。
リシュラ家から出る時、なぜあんなに明るい気分だったのか、さっぱりわからない。
そろそろ昼になる頃で、迷宮都市は明るい光に照らされている。
大勢の人が行き交っており、たくさんの会話が街にあふれていた。
今日の昼飯をなににするかだの、新しく仕入れたいものがあるだの、もっとちゃんとやれと叱責する声だの、あちこちから聞こえて騒がしい。
レテウスはひとり、ふらふらとあてどなく進んでいく。
誰にも頼らずに歩いたせいで、方向すらわからない。
辺りには店が立ち並んでおり、食べ物も武器も衣服も売っている。薬を売る店も多いようだ。
こんなにも人がいて話す声が溢れているのに。
逆に孤独を覚えて、レテウスは人気のない方へふらふらと進んでいった。
並んでいた建物が途切れ、ぽっかりと広く空いている空間がある。
一体なんだろうと思いながら進んでいくと、正体がわかった。地面に大きな穴がひとつ空いている。
迷宮の入り口なのだろう。
周囲には誰もいない。迷宮には混みあうところと、人の寄り付かないところがあると聞いていた。
人が寄り付かないのは、難しい場所だから。
教えられた話を思い出しながら視線をあげると、穴の向こう、少し離れたところに座り込んでいる誰かがいるのに気付いた。
「サークリュード!」
迷宮の穴の向こう側で膝を抱えていたのはクリュで、レテウスは思わずそばへ駆け寄っている。
「レテウス」
「なにをしているんだ、こんなところで」
相変わらず美しい白金色の髪を輝かせ、クリュは立ち上がると三男坊へ向けて首を傾げてみせた。
「思い出したいんだ」
「思い出したい?」
「俺、どうしてかわからないけど、一年くらい閉じ込められててさ。その間のこと、全然思い出せなくって」
「閉じ込められていたのか」
「気が付いたらここにいたんだ。アダルツォとたまたま会って、それで一年くらい記憶がないってわかった」
クリュが思い出したいのは、軟禁中ではなく、そうなる前になにがあったのかについてなのだという。
レテウスにはさっぱり理解ができなかったし、記憶の回復の手助けはまったくできないだろうと思ったが、顔を知った人間との再会は喜ばしい出来事だった。
「サークリュード、力を貸してほしい」
「え? 金ならないよ」
「そんなことはいいんだ。話を聞いてくれないか」
悩みの本質は資金不足でしかないが、その前に。
今の悩みは、なにから手を付けたらいいのかわからないことだった。
今夜寝泊りするところですら、どうしたらいいのかレテウスにはわからない。
近くにあった狭苦しい安食堂でクリュと向かい合い、現状について説明していく。
「ブルノーって人を探してただけじゃなかったの?」
「探し出せば解決すると思っていたのだ。だが、そう単純ではなかった」
「あのウィルフレドって人がブルノーなのは、本当に間違いない?」
「間違いない」
クリュは青く輝く瞳でレテウスをじっと見つめている。
三男坊の視線は力強く、なんの根拠もない台詞だと見抜くのは困難なことだ。
「あの近くに家を用意するっていうなら、貸家がいいんじゃない? 安いし、引き払うのも楽だろ」
「貸家か」
「見に行こうよ。空いているところを確認して、交渉したらいいんじゃない?」
「交渉してどうなる?」
「安くしてもらえる」
「そんなことができるのか」
クリュは白い手で口を抑え、くすくすと笑っている。
疲れ果てたレテウスは、クリュが笑う理由がわからない。
可愛らしい顔だと思いながら、ぼんやりと見つめ、はたと気付いてまた問いかける。
「サークリュード、探索はうまくいけば相当な富を得られるというが、本当なのか」
「あはは。そんなの、相当慣れててうまくやれる人だけだよ」
「私は剣を使える」
「剣を使える奴なんていくらでもいるよ。俺だって使えるぜ。鹿も倒したんだからな」
「鹿?」
「うん。鹿は皮も肉も高く売れるし、角はもっとだから」
クリュの話がさっぱり理解できず、しばらくの間二人の話はかみ合わなかった。
長々と同じ話を繰り返した挙句、一度やってみればいいとクリュが言い出して、レテウスは迷宮へ引きずりこまれている。
飛び出して来た魔法生物とやらは倒せた。だが、クリュはこんなやり方では駄目だと文句を言い、戦利品を得られる倒し方について説明をされている。
次からは言われた通りにしたつもりだが、違うと言われ、しばらくの間、貴族の三男坊は街の地下で兎を倒し続けていった。
なんとか「良い倒し方」をできるようになったが、皮と肉を剥ぎ取るのは不快極まりない作業で、クリュに丸投げをしてまた苦情を言われている。
「なんだよ、レテウスは。面倒なことは全部俺にやらせて」
文句を言いながらも、クリュはしっかりと作業を続けた。
探索など自分のすることではないとレテウスは考え、クリュは情けない同行者に不満を抱いたようだ。
戦利品を売っても大した収入にはならず、三男坊の悩みは解決しそうにない。
それとも、熟練の探索者であれば、もっとスマートに、戦うだけで大金を手に入れる方法を知っているのだろうか。
「そんなのあるわけないだろ。もっと強い敵とか、危険な罠をかいくぐって貴重なものを手に入れるんだよ」
また安い食堂に入って二人で夕食をとっているが、クリュの視線は厳しさを増している。
「そんなに貴重なものがあるのか、迷宮の中には」
「あるよ。『帰還の術符』なんか一枚十万シュレールで売れるんだから」
「そんなに?」
散々苦労した兎は、百シュレールにすらならなかったのに。
レテウスが驚いていると、クリュは呆れたような顔をして、今日の宿はどうするのか三男坊へ尋ねた。
「調査団の宿舎はもう使えないんだっけ」
レテウスは力なく頷き、しょうがないな、とクリュが呟く。
「じゃあ、北の方で空いてる宿を探そう」
迷宮都市を訪れた時、客引きに勧められなかった安宿なら、今日の稼ぎで二人泊まれるという。
最早世界はレテウスの知っているものではなかった。
クリュに手を引かれ、言われるがまま。
勝手に決められても、受け入れるしかない。
安宿の部屋は狭く、ベッドは小さい。足がはみ出てしまうし、漂う臭いすら気に入らない。
唯一の慰めは隣ですやすやと眠る麗しいクリュの寝顔だけで、同室の知らない男のいびきの音に耐えながら、レテウスもようやく眠りについていた。




