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12 Gates City  作者: 澤群キョウ
19_Over Again 〈命の護り手〉

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85 逃亡のはじまり

 こっちが裏口だからと案内されて、建物の隙間を進んでいく。

 狭い道でも、二人は小柄だから大丈夫。

 普段は恨めしい自分の小ささが役に立っていて、嬉しいけれど、情けない。

 けれど汗でびっしょりと濡れた妹の前で、悪態をつけるはずもなく。

 とにかく、早くたどり着かなければと進んでいった。


「ここです、兄さま。厨房に繋がっているはずです」

 妹に促されるまま、庭に入り込み、色あせた木の扉の前へと進む。

 中からは良い匂いがしていて、昼食の時間が終わったあとなのだろうと思った。

 きっと鍋は空っぽだ。そう思った瞬間、腹の虫が鳴いて、アデルミラはようやく笑った。


「誰かいるかな」

 アダルツォの問いに、妹は首を傾げている。

「ヴァージさんがいるかもしれません」

 今の時間なら、後片付けをしている最中だろうから。

「アデルが頼りになると言っていた人だな?」

「そうです。きっと助けてくれると思います」

「なら、行こう」


 ぼそぼそと二人で話して、決意を固めていく。

 今更後戻りはできないのだから、早くした方がいい。


 ところがドアノブに手をかけた瞬間、扉が開いてアダルツォは思い切り額をぶつけていた。

「わあ、誰かいたのか。ごめんごめん」


 中から出てきたのはどこかで見たような顔をした男で、転んで悶えるアダルツォへ手を差し伸べている。

 アデルミラは困惑した顔をしているようなので、知り合いではないのだろう。


「誰なのかな? どこから入って来た?」


 いきなり裏庭から入ろうとしたのだから、不審者だと思われて当たり前。

 事情を話さなければならないが、頭が痛い。

 まだ転げる情けない兄の代わりに、妹が前に進み出ていく。


「私はアデルミラといいます。雲の神官で、以前、こちらでお世話になっていました」

「ここで?」

「はい。フェリクスさんに会いに来たのですが、今、屋敷にいらっしゃいますか?」

 男はゆっくりと二人の姿を見つめて、ほんの少しだけ首を傾げた。

「どうしてこっちから入ってきたのかな」

「それは、その……」


 もともと滞在していて知り合いもいるのに、こんな風に裏口から入ってくる理由など、普通ならないものだ。


「ん?」

 アデルミラのマントの内側からしたかすかな声に、三人とも気づいていた。

 妹は焦り、男は眉間に皺を寄せている。

「赤ん坊の声がする」

 女の子のマントをはがすような真似をせず、男はただ、まっすぐにアデルミラを見つめている。

「随分声が小さいな。弱っているんじゃないか?」

「そうなんです。ヴァージさんに手を貸してもらいたくて来たんです」

「君の……」


 まさか、と思ったのだろう。男はそれ以上言わず、赤ん坊がいるのなら早く入るように手招きしている。


 アダルツォとアデルミラが揃って中へ入ると、屋敷は随分きれいに片づけられていた。

 以前足を踏み入れた時には、もう少し汚れていたように思ったが。

 

 男は厨房を抜けて、廊下を曲がり、奥の部屋へと二人を案内していく。

 

「ここは倉庫なのではありませんか?」

 アデルミラの不安げな声に、男は穏やかな声で答えた。

「俺の部屋として使っているんだ。今は俺が屋敷の管理を任されている。ギアノ・グリアドだ、よろしくな」

 ギアノは改めて訪問者の姿をまじまじと見つめて、困惑した顔でこう呟いている。

「よく見たら二人ともボロボロじゃないか。なにがあったんだ?」


 自分の使っているベッドだから心配いらないとギアノに言われて、アデルミラは抱いていた赤ん坊をようやく下ろした。

 交代で抱えて連れてきた、大切な預かりものだ。

 過酷な旅で、なかなか休息がとれずにいた。

 無事に連れていけるかどうか、本当に不安な道のりだった。


「この子に飲めるものを用意しよう。着替えもさせないと。ビアーナが使っているものを借りてくるよ」

「あの、ヴァージさんはいらっしゃらないのですか?」

「新しく家を建てるための準備をしているんだ。呼んだら来てくれるとは思うけど、今、ちょうど誰もいなくてね。できることからやっていこう。この子は随分小さいけど、生まれたばかりなのか?」

「生まれてから、十日ほどしか経っていません」

「そうか。まずはこの子に必要なものを揃えていこう。君たちも大変そうだけど、赤ん坊が優先だ」


 兄妹は揃って頷き、ギアノの言う通りに動いた。

 家主夫婦の部屋に勝手に入りたくはないけどと言いつつ、新しい管理人の動きには無駄がない。

 小さな服が用意され、水を汲んだたらいと、体を拭くための布もあっという間に用意されていった。


 赤ん坊は弱々しく、声を小さく漏らすだけだ。

 旅に連れ出すまではもっと元気だった。小さくて壊れてしまいそうな程だったが、母を求めて可愛い声をあげていたのに。


「ごめんなさい」

 ふいにアデルミラが呟き、兄は雲の神への祈りを口にしていった。

 この子に与えられた試練は厳しいが、必ず乗り越えられるはずだ。

 無事に迷宮都市へたどり着いた。追手がついていることを考え、念のために西側から入って、同じ神に仕える兄弟の力を借りられた。

「大丈夫だ、ここまで来られたんだから」

「そうですね、兄さま。泣いている場合じゃありませんよね」


 体に巻いていた布はすっかり湿っていて、あちこちが赤くなっている。

 濡らした布で優しく拭いて、清潔な乾いた服で体を包んでいく。


 着替えが終わると、ギアノが皿と匙を持って戻ってきた。

 手慣れた様子で赤ん坊を抱き上げていて、アダルツォたちよりもずっと子供の扱いを知っているように見える。

「世話をしておくから、二人も着替えておいで。洗い場に服をいくつか置いておいたから」


 今は信じて任せるしかない。

 カッカー・パンラという名の通った人の屋敷で管理を任されているのなら、信頼に足る人物のはずだ。

「ありがとう。アデル、行こう」


 妹に案内させて、洗い場へ移動し、二人で交代で体を清めていった。

 疲れがどっと押し寄せて、瞼に重さが集中していく。

 ギアノは小さめの服を用意してくれたようだったが、どれもアダルツォには少し大きい。

 アデルミラにはもっと大きいだろう。けれど、贅沢は言っていられない。


 疲労のせいで身支度には時間がかかってしまい、二人は着替えを終えると慌てて管理人の部屋へ戻った。

 ギアノは上手に布を体に巻き付けて、赤ん坊を胸の前にすっぽりと収めている。


「おなかがすいていたみたいで、ちゃんと飲んでくれたよ。最初はちょっと弱々しかったけど、良かった。この子は強く育つだろう」

「ああ、ありがとうございます……」

「ギアノだよ。誰か、似ている人がいたのかな」


 確かにどこかで見たような顔で、アダルツォの脳裏にも何人かの他の名前が浮かんでいる。

 そんな扱いに慣れているのか、ギアノの顔は涼しいままだ。


「フェリクスは仲間たちと『赤』の下見に行くと言って出かけててね。夕方には戻ると思う」

 それまで少し眠った方がいいんじゃないかと、管理人の男はやさしげな顔で笑った。

「それとも、なにか食べるか。すぐに食べられるものがあるから、用意しようか」

 赤ん坊の世話についても、心配はいらないと言う。

 誰か頼めそうな者が戻ってくればヴァージを呼びに行ってもらうし、このまま預かっていてもいいから。

 願ってもない話ばかりが飛び出してきて、兄妹は揃って感謝の言葉を口にしている。


「それで、君は? アデルミラと?」

「ごめん、名乗るのをすっかり忘れてた。俺はアダルツォ・ルーレイ。アデルは妹で、二人とも雲の神官だよ」

「アダルツォとアデルミラだね。それで、どうする? とても疲れているように見えるけど」


 確かに、おなかがペコペコだった。

 けれど、それ以上に眠い。眠いが、腹が減って眠れないかもしれない。


「どうしようか、アデル」

 不肖の兄に問いかけられ、妹は困った顔をしたが、すぐにかわりに決断してくれた。

「なにか食べるものを、少しもらえますか?」

「わかったよ。食堂で食べる? それとも、俺の部屋を使うか」

 ベッドの隣で食べれば、すぐに休めるという提案のようだ。


 部屋を借りると頼んだ二人のために、あっという間に用意が進んでいった。

 いつの間にか床の上には寝床が一つ増えていて、疲れ果てた兄妹は軽い食事をとると、揃って眠りの海に沈んでいった。




「アダルツォ」


 まだ、体が重い。頭もちっとも働かない。

 ぐだぐだと動かないアダルツォを、声をかけてきた誰かが容赦なく揺らす。


「兄さま、起きて!」

「おう!」


 妹の大声に飛び起きて、アダルツォは驚いていた。

 部屋の中には妹の他に四人の男がいて、自分を見つめている。

 以前、樹木の神殿で会った四人組だ。フェリクスと、元気なティーオ。あと、二人。

「ごめんごめん、今起きる」

 そうだ、迷宮都市へ戻ってきたんだった。

 あの長い旅路がまるで夢の中の出来事のように遠く感じられたのは、久しぶりに安眠できたからなのだろう。

 床の上で慌てて起き上がり、アダルツォは最近いつも腹の上に置いていた小さな相棒がいないことに慌てた。

「あの子は?」

「ギアノさんが見てくれています」

「ああ、そうか。そうだ、大丈夫なんだよな」


 窓には光を遮るための布がかけられていて、部屋の中は薄暗い。

 けれど色合いからして、夕方になったのではないかとアダルツォは思った。


 妹は先に目覚めて、髪や服装をちゃんと整えたようだ。

 目をこすりこすり立ち上がり、兄も裾を下に引っ張り、あまった袖をまくって、部屋へやってきた探索者たちへ向かい合った。


「それで、どうしたんだ、アデルミラ」

 戻ってくるなんて、とフェリクスは言う。


 四人の中でもっとも真摯なまなざしをした男で、妹が心を砕いていた相手だった。


「フェリクスさんに大切なお話があるんです」

 アデルミラは話しながら、兄の肩をつついてくる。

 アダルツォは自分の荷物を探して、見つめて、引き寄せ、胸に強く抱いた。

「俺たちは聞かない方がいい?」

 ティーオが首を傾げてきて、兄妹は顔を見合わせる。

「すみません、ティーオさん。とても個人的な話なんです」


 再会を喜んでいる暇はなく、ティーオたちとの話は後回しにしなければならなかった。

 どうやら客が目覚めたことに気付いたようで、ギアノも部屋に戻ってきてのぞき込んでいる。


「話があるなら、奥の部屋を使うといいよ。相談のための部屋、わかる?」

「はい、わかります。あの」

「この子のことなら心配しないで。あれからまたちゃんと飲んだし、着替えさせているよ」


 顔を出したついでとばかりに、ギアノはティーオたちに、ヴァージを呼んできてくれないか頼んでくれている。

 話の早い男に感心しながら、アダルツォはフェリクスを連れて、奥の部屋へと向かった。



 神官の兄妹がいきなり因縁の迷宮都市へ戻ってきて、個人的な話があるなどと言ってきたら、困惑するのは当然だろう。

 指名を受けたフェリクスの表情は硬く、更に、アデルミラが連れてきた赤ん坊をじっと見つめている。


「アデルミラ、その子は?」

「フェリクスさん、落ち着いて聞いてくださいね」


 これからする話は、すべてが推測に基づいたものだ。

 人違いの可能性がある。

 けれどきっと、本当なのだと兄妹は思っている。だから、命がけで小さな赤ん坊を抱いて逃げてきた。


「この子はまだ生まれたばかりで、名前はつけられていないんです」


 フェリクスの視線は、アデルミラとアダルツォ、二人のはざまで揺れている。

 なにを言われるのか想像がつかないのだろう。

 それは、仕方がない。

 彼はきっと、もっと希望に満ちた結末を夢見ていただろうから。


 アデルミラは口をきゅっと結んで、続きを言い出せないでいる。

 仕方がない。フェリクスの思いをすぐそばで見てきたのだろうから。


 それならば、自分が言うしかない。

 アダルツォはゆっくりと口を開き、目の前の青年に告げた。


「君の妹のシエリーが産んだ子なんだ」


 少し遅れた「おそらくは」の言葉は、フェリクスの耳に届いただろうか。


 あの時、アデルミラに頼まれて迷宮都市へ来た日。

 樹木の神殿でこっそりと聞いた、フェリクスにとって最愛の妹の名を、こんな風に話さなければならないなんて。


「シエリーが?」

「そう、本当につらいことだけど、とても弱っていたみたいで。みんな、助けようと頑張ったけど」

「まさか……」


 そう、その、まさかだ。

 口に出すのが苦しい。アデルミラはもう涙をこぼしている。

 最早言う必要がないくらいに、部屋に満ちた空気がシエリーの運命を物語っている。

 

 けれど、はっきりと告げねばならなかった。


「少し早い出産になった。時間がかかって、体が耐えられなかったみたいだ」

「死んだのか」


 青年の鋭い目がきつく閉じて、涙がとめどなく溢れていった。

 口から漏れていた唸るような声は、慟哭に変わっていく。


「フェリクスさん」


 今はそっとしておくしかない。

 アデルミラの肩に手を置き、部屋の外へと促していく。


「少し待とう」

「ええ……」


 妹の口から祈りの言葉が出てきて、アダルツォもそれに合わせていった。





 はじまりは、アダルツォが故郷へ戻ってすぐのこと。

 いや、それよりも前から始まっていた。


 二人の暮らすのどかな街の雲の神殿へ、一人の女性が連れてこられたのがきっかけだった。


 ようやく帰って来た息子が散々叱責を受けて、妹には呆れつつも無事の帰還を喜ばれていた頃、神殿から使いがやってきた。

 神殿にやってきた女性は夫から身を隠しており、できるだけ遠い所へ逃がしてやりたい。

 そのために、協力してほしいという依頼だった。


 ところが女性はひどく弱っている上、子供を身ごもっているという。

 同じ年頃の女性同士、なんとか元気づけてやれないかと、アデルミラが呼ばれたという話だった。


 ぜひ力にならせてほしいと出かけていった妹は、夜になると青い顔をして戻って来た。

 どうしたのか、と母は問う。

 アデルミラは答えず、夜が更けてから兄を呼びだし、ひそひそとこんな話を打ち明けてきた。


 保護された女性は、迷宮都市で出会ったフェリクスの妹なのではないかと思う、と。


「どうしてそう思うんだ?」

「フェリクスさんから聞いた話ととても似ているんです。離れた街の領主の息子に無理に嫁入りさせられて。そのために、彼女の家族はみんな追放されたって」

 でも、本当は「追放」などではないと思った、とアデルミラは言う。

「言葉は濁されていて……。もっと残酷な行いがあったような、そんな話ぶりだったんです」


 自分を探すために迷宮都市への馬車に飛び乗った、勇敢な妹のアデルミラ。

 その旅路の最初に出会ったのが、フェリクスという名の青年だった。

 アデルミラと一緒に危機に遭い、ともに乗り越えた間柄だという。

 ラディケンヴィルスに来る前に、家族を皆殺しにされ、妹を権力者に奪われている。

 だから、アデルミラに協力してくれた。街を去った後も兄の話を心に留めて、アダルツォをも助けてくれた。


 フェリクスは兄妹二人にとって「恩人」だ。

 その恩人の最後の家族である妹、どうしても救いたいと願っている大切な人が、目の前にいるのかもしれない?


「似たような境遇の娘かもしれないよな?」

「そうなんです。名前も伏せられていますし、どこの街から来たのかもわかりません。でも、同じ色の瞳をしているし、フェリクスさんに似ている気がして」


 ピンときた、というのが一番の理由だとアデルミラは話した。

 確信しているような話しぶりだが、なんの証拠もない。結局、偶然の可能性は捨てきれない。


 二人でどうしたらいいのか、夜な夜な話し合っていった。

 それで出てきたのが、名前を確認するという案だ。

 件の娘は夫から捜されているようなので、秘密裏にことを進めた方がいいという話になった。

 それで、アダルツォは急いで迷宮都市へ向かって、フェリクスから聞いた名を胸にあっという間に故郷へ戻ったのだ。




「アデルミラ、久しぶりだね」

 食堂の隅に二人で座っていると、フェリクスの仲間のうち、名前のわからないコンビがやってきて向かいに腰を下ろした。

「カミルさん、コルフさん。お元気でしたか」

「ああ。ご覧の通り」

 聞きたいことがあるのだろう。フェリクスの声は食堂まで届いているし、アデルミラは赤ん坊を抱いている。

 どちらも気になるのだろうが、仲間の悲しみをずけずけと聞くのは悪趣味だと判断したようで、カミルの方がまずこう切り出してくる。

「その子は?」

「心配しなくても、アデルの子じゃあない」

「兄さま」


 一番疑問に思われるのは、間違いなくこれだろうと思える。

 迷宮都市で若い女の探索者は少ないから。

 アデルミラはまるで子供のようにちんちくりんだが、思いを寄せる物好きはいるだろうと兄は考えている。


「フェリクスになにかあったのか」

 コルフからこんな問いが出てくるのは当たり前だが、アダルツォは答えの用意ができていない。

 アデルミラも同じで、なにを話せばいいのかわからないようだ。

「あった……んだと思う。まだ全部話せてはいなくて。確認できていないけど」

 

 とにかく、とても不幸で悲劇的な出来事があった。

 アダルツォの呟きに、コルフとカミルは同時に祈りの言葉を呟いている。


 それっきり、食堂の隅で四人は黙ったまま座り込んでいた。

 カミルとコルフは仲間の心中を案じ、雲の神官の兄妹はより詳しい話をしなければと覚悟を決めている。


 赤ん坊がすやすやと眠っていることだけが救いになっていた。

 旅の途中と違って、すっかりきれいになっている。色つやも随分よくなったように見えた。


「アデルミラ、アダルツォ」

 廊下の奥からフェリクスが現れて、真っ赤な目をしたまま、すまなかったと呟いた。

「謝らないでください」

 もう少し話を聞かせてくれないか。

 フェリクスの囁くような声に頷いて、再び奥の部屋へ、四人で向かう。


 テーブルにつくと、管理人の男が飲み物を持ってきてくれた。

 赤ん坊も預かってくれるという。

 アデルミラは少し悩んだものの、世話を頼んで小さな小さな赤ん坊を渡した。


「ギアノはなんでもできるんだな」

 フェリクスの声は低く、とてつもなく暗い。

 それでも大切な家族のことを、なぜアデルミラたちが告げてきたのか話してほしいと願った。


「一度、妹さんの名前を聞きにきたことがあったでしょう?」

「覚えているよ。どうしてそんなことを聞きに来たのか、とても不思議だったから」

 ただ無事を祈るだけにしては、おかしなことを言っていたように思った。

 フェリクスがこう話して、アデルミラは兄の物言いを謝り、アダルツォも身を小さくするしかない。


「雲の神殿に匿われてきた女性がいたんです。私と同じくらいの年頃だからと言われて、お手伝いに行きました。とても辛い思いをしている人だから、手助けが必要だと頼まれたんです。それで会いに行って、私、はっとしました。その人を一目見た瞬間、フェリクスさんを思い出しましたから」


 

 家族から引き離され、よく知りもしない男の妻にされて、ついには子を身籠って。

 そんな経緯しか聞かされなかったが、連れてきた人たちの話ぶりから、きっとそれ以上の悲しい出来事があったのだと感じさせられた。

 どんな話をしても、女性は遠くを見つめたまま、悲しげな瞳に涙をためるだけで、一言も話さなかった。


 嫁ぎ先からは、ひっそりと逃がされたのだという。

 あまりにもひどい仕打ちだと感じた誰かが、哀れに思って逃がしたのだと。

 いくつかの神殿の力を借りて、縁もゆかりもないアデルミラたちの街へたどり着いていた。

 とはいえ、そこまで遠くから来たわけでもなかったという。

 あまりにも深い悲しみに暮れていて、本人に逃げる体力も気力も残っていなかったし、おなかの子のことを考えれば無理もできなくて。

 とにかく、できる限り離れたところへようやく辿り着いた、という話だった。


「名前も、どこから来たのかも明かされませんでした。それは、私たちの安全のためでもあります」

 

 だから、アデルミラはフェリクスに聞こうと決めたらしい。

 名前を呼んで本人だとわかったら、あなたのお兄さんは無事でいると伝えたかったのだと。


「兄さまが帰ってきてから、私は待っていました。お世話のために他の神官がいつも控えていましたから。二人だけになって、名前を呼べる日が来るのを待っていたんです」


 チャンスはなかなか訪れず、日にちばかりが経っていく。

 女性は悲嘆にくれたまま、おなかだけが少しずつ大きくなっていく。


「そして、ようやくその日は訪れました。おなかを抑えて少し苦しそうな顔をしたので、お医者様を呼びに、お世話係の人が出ていって」


 アデルミラは女性の手を取り、強く握って、呼びかけたのだという。

 何度も何度も、シエリーさんと呼びかける。

 すると急に、女性ははっとした顔をして、アデルミラをまっすぐに見つめた。


「フェリクスさんの妹でしょうと、呼びかけました」

 フェリクスは黙ったまま、神官たちの話の続きを待っている。

「あなたのお兄さんと出会った、無事でいますよとお伝えしたんです。でも」

「でも?」

「返事を聞く前に、神官たちが慌てた様子で入って来ました。見つかってしまった、追っ手が来たって」


 そこからは、嵐が来たかのようだった。アデルミラは目を閉じ、手を組んで、雲の神への祈りの形を作っている。


「追っ手? あいつが来たのか?」

「それはわからない。君の言うあいつと、俺の話す領主の息子が同じかはまだわからないけど。でも、フェリクス。もしもあの子が本当に君の妹なら……、大切な家族について知らずにいるのは嫌だろうから。だから話すよ」


 震える妹の手を取り、雲の神への祈りを唱えて。

 アダルツォは、フェリクスをまっすぐに見つめたまま話を引き継いだ。


「領主の息子自身は、もう妻にした女に興味はなかったようだ。無理矢理奪っていった癖に、自分に靡かなかったのが気に入らなかったと聞いている。あの女の子を追っていたのは男の母親で、領主の妻だったらしい。自分の息子の嫁ではなくて、おなかの子の方が目的だったらしくてね」

 

 あんな陰気な女などもうどうでもいい、と領主の息子は目を逸らし。

 無駄な血縁が増えては困る、というのが領主の妻の言い分で。


「みんなで協力してなんとか神殿からは逃がした。けれど、産気付いてしまってね。本当に……。本当に、大変な思いをさせてしまった。慌てて逃げ込んだ隠れ家で、歯を食いしばって子供を産んだ。最後はアデルの手を取って、なにか伝えたそうな顔をしていたんだけど」


 言葉は結局、聞こえなかった。

 だから、本人には確認できていない。

 シエリーという名なのか、フェリクスの妹だったのか。


「これ、俺が描いたんだ」

 アダルツォは自分の荷物の中から、一枚の紙を取り出してフェリクスへ差し出した。

「どうだろう。俺、人の顔を似せて描くのは得意なんだ。俺は何度も彼女に会ったわけじゃないし、笑った顔も見ていない。でも、あのきれいな顔が笑ったら、どれだけ素敵になるだろうって思って描いたんだよ」


 子供の命と引き替えに静かに世を去っていった悲しい娘の似顔絵を見て、フェリクスは震えている。


「妹さんだと思いますか?」

「ああ。間違いない。この顔を、俺はよく知ってる」


 フェリクスはまた、とめどなく涙をこぼしていった。

 声をあげず、ただ絶望の淵に深く沈んでいる者の、悲しすぎる涙だった。


 アデルミラは確信をしていたようだったが、アダルツォは間違いであればいいと願っていた。

 いや、違うよ。こんな顔じゃないんだ。どこかで妹と同じような運命を強いられた、悲しい女性がいたんだなと、フェリクスが静かに祈ってくれるような、そんな結末が待っていてくれたらと思っていた。

 もちろん、起きた悲劇には変わりがない。悲惨な運命を歩んだ者がいて、これから生きていけるかどうか、守る者のない赤ん坊がひとり残されてしまうのだから。


 知らない誰かになら降りかかっていい悲劇など、この世にはない。

 もし人違いなら、彼女は誰にもその名と死を知られずに、たった一人で天に召されていったことになる。

 それも酷く悲しい出来事で、いくつもの祈りの言葉が必要だと思っていた。


 どちらも等しく、同じ重さの悲劇だ。

 けれど、兄妹を救ってくれたフェリクスに希望が残されればいいと思っていたのも確かだった。


 船の神に問いかけていく。

 あなたの用意した運命は、一体我々になにをもたらしていくのでしょう? と。

 ただの人の身であり、修行中の神官であるアダルツォにはまだわからない。


 大事に守ってきた似顔絵はくしゃくしゃになり、兄の涙で濡れていく。

 炭で描いた線が滲んで、シエリーも泣いているようだった。


 アダルツォは立ち上がってフェリクスの右肩に手を置き、祈りの言葉を呟いていく。

 アデルミラも立ち上がり、フェリクスの左肩に手を置いて、兄と声を合わせていった。


 神々が特別に、天へ召された美しい魂を癒してくれるように。

 膝元で待つ家族のもとへたどり着き、安息で満たされますように。


 過酷な運命を乗り越えた勇敢な魂を掌に特別に招き、祝福を授けて下さいますように。

 


 二人の神官の祈りの声は、しばらくの間、屋敷の奥の部屋を静かに満たしていった。

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[一言] 88【19_Over Again 〈命の護り手〉   85 逃亡のはじまり】感想 まさかそんな……。 シエリー……フェリクス……なんという悲劇か……
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