56 神官探し
「お帰りコルフ、こんなに遅くまでどこに行ってたんだ?」
しかも、あのウィルフレドと。カミルの疑問は当然のもので、コルフは正直に魔術師の屋敷へ案内していたと答えた。
「あんなところになんの用事で?」
自分がしたのと同じ疑問をルームメイトが口にして、コルフは思わず笑った。
カミルとコルフが使っている部屋にはアルテロとカランという少年たちも滞在していて、なんだなんだと会話に割り込んでくる。
「ウィルフレドってあの大きくて立派な髭の人だろう。あの人と出かけていたのかい」
「無彩の魔術師の仲間なんだろう、あの髭の人は」
滞在歴は短くとも、ウィルフレドの名は既に迷宮都市中に知られ始めている。
最も近くでその出世ぶりを見てきたのは、カッカーの屋敷に住み着いている若者たちで、コルフが「あの」ウィルフレドと二人でお出かけをしていたとなれば、気になるのも仕方ないだろう。
「ただの道案内だよ。魔術師の住処はちょっと特殊なんだ」
「へえ、そうなのか。魔術って習うにも高いんだろう? あれ? 無彩の魔術師に教えてもらえればタダになるんじゃないのか」
「一緒に暮らしてるんだっけ。いいなあ、魔術の授業は一回につき百シュレールくらい払うんだろう? コルフも頼んで教えてもらったらいいじゃないか」
アルテロもカランもまだ、探索者のうちのほとんどを占めている「田舎から大金持ちを夢見てやって来た若者」でしかない。カミルが罠について熱心に学んだり、コルフが魔術を習うために節約をしていることを、すごいなあ、で流してしまう程度の超初心者だった。
二人が無邪気にはしゃいでいるうちは、込み入った話はできない。
適当に話題を逸らし、そろそろ寝た方がいいと提案し、部屋の灯りを消す。
水を飲んでくるからと、カミルとコルフは部屋を出て、階下の食堂へ向かった。
大きなテーブルがいくつも並んでいて、いくつかのグループが小声で話し合っている。
カップに水を入れて、部屋の一番隅の席に座って、二人はそろってやれやれとため息をついた。
「フェリクスたちの部屋に移動させてもらおうか。アルテロもカランも悪いやつじゃないけど」
「ちょっと浮かれ気味だよね」
カッカーの屋敷には大勢の若者がやってきて滞在するが、入れ替わるスピードはそれなりに早い。
やっぱり諦めると故郷へ戻っていったり、どこかの店の従業員に転職をしたり、迷宮の渦に飲まれて戻ってこなかったりする。それぞれの部屋には大抵四つずつベッドがあるが、埋まったり空いたりして忙しない。
どの部屋に通されるのかは、ヴァージが決めている。どの部屋にいくつ空きがあるのか把握していて、何人で来ようが勝手に割り振られるようになっている。
けれど今、フェリクスとティーオが使っている部屋は二人だけのはずだ。せっかく組んでいるのだから、この際一緒になってしまえばいいのではないか。
ウィルフレドを案内した時の話と一緒に、部屋の問題についても意見を出して、カミルとコルフはにっこり笑った。
「昨日出かけている間に、一人来たんだよ」
次の日の朝、仲間と合流するなり、野望は打ち砕かれてしまった。
フェリクスとティーオの後ろには、きょろきょろと辺りを見回している少年がいる。名前はヨンケというらしく、まだ十四歳で、重い物をたくさん持てるのが自慢らしかった。
「へえ、よろしく。それじゃあ、今日の予定を決めようか」
フェリクスとティーオに「それじゃあ」と言われて、ヨンケは慌てている。
「これから、どうしたらいいのかな」
「朝だし、まずは食事したらいいよ」
「え、え、食事って、勝手にとっていいの?」
「ちょっと待って。あ、ガデン、いいところに! ねえガデン、ちょっと!」
おどおどとしたヨンケの為に、ティーオはやってきた「噂好き」のガデンへ手を挙げた。
「なんだ、ティーオ。なにを知りたい?」
「おはようガデン。こっちは昨日来たばかりのヨンケ。ヨンケ、ガデンはなんでも知ってるんだ。ここでのルールは昨日も聞いたかもしれないけど、もう少し詳しく教えてもらって。僕らは小銭稼ぐのでせいいっぱいなんだ、博識のガデン、可愛い新入りを導いてやって。よろしく頼むよ」
あっという間にご機嫌をとって、初心者をガデンに預け、ティーオたちは隅の席へ移動していく。
「コルフ、戻ったのは随分遅かったの?」
カッカーの屋敷での朝食は、ちょっとした戦争のような状態になりがちだ。
初心者たちが家を出たい時間帯は決まっている。なるべく早く。食事はそれぞれで用意するのが決まりだが、多少はヴァージが用意してくれるし、余力のある時は他人のために働こうという暗黙の了解もあって、誰かしらがパンを焼いていたり、スープを作っていたり、金銭的余裕のない者が飢えないようになっている。
前日に疲れ果てていたり、探索に行ったのに得るものがなかったりした者が多い時、食糧は早い者勝ちになり、あっという間になくなっていく。
そんな争いは避けるに限る。フェリクスたちの今朝の食事は、樹木の神殿近くに出ていた屋台で買ったものだった。
最近になって、カッカーの屋敷に滞在する若者に狙いを定めて売りにくるようになったようだ。初心者しかいないとわかっているからか、味はそこそこだが、値段はぐっと抑えられている。
「遅くなったよ。ウィルフレドの用事が長くかかって、その後一緒に食事をしてから戻ったんだ」
「どこまで行ってたんだ、そんなに遅くなるなんて」
カミルにもした話を、フェリクスたちにも聞かせていく。
同室の親友には、誰と会っていたのか「おそらく」という一言を添えて話しているが、あと二人の仲間には伏せておくべきだろう。
はっきりとはしていないが、昨日ウィルフレドが会いに行ったのは、ティーオを襲った悪党のうちの一人のようだった。被害者である二人に、わざわざ伝える必要はない。
「俺は入り口で待ってて、うっかり寝ちゃってさ」
「気になるよな、ウィルフレドが会いたいなんて」
「確かに。でも、気にしたって仕方がないだろう」
どうせ、どんな事情があるかは語られない。
聞きたいことがあるというが、ウィルフレドがなにを知りたいのかなんて、想像もつかないことなのだから。
「で、今日だけど」
カミルが切り出し、三人で頷く。
「昨日決めた通り、神官殿に会いに行くのでいいよな」
案内のために出かけた後、残った三人でどうすべきか話し合っていたと、コルフも昨日の深夜に聞かされていた。
あちこちの神殿に出かけてようやく見つけた、探索についてきてくれる神官だったのに。行きはやる気に満ち溢れていたのに、迷宮の中が想像と違っていたのか、すっかりビビって早く帰る羽目になってしまった。
「アデルミラって、可愛いのに根性があったよねえ」
昨日来てくれたのは、皿の神に仕える十八歳のハリガンという名の神官だった。
ハリガン・エッシュは迷宮都市より南にある港町ジョットンデンの出身で、幼い頃から神官として修行を積み、噂に聞くラディケンヴィルスで自身を鍛えたいと願ってやって来たと話していた。
「本当だよ。考えてみれば、お兄さんのアダルツォだって、大きな借金を背負ったかもしれないけどさ。失いかけた仲間を地上に戻したってことだよな。すごいことだよ、それって」
「橙」は混み合っているので、誰かを試すのなら「緑」に行くのが妥当だと探索者たちは考えている。
業者たちはそれを知っているので、最近では午後から仕事を始めるようにしているところが多いらしい。
昨日、フェリクスたちは「緑」へ向かい、ハリガンと共に五層まで進んだ。
試しに行くなら、六層の泉まで。探索者たちはそう考えるが、迷宮に夢を見過ぎた神官には遠すぎる道のりだったらしく、五層に降りた瞬間、もう帰りたいと駄々をこねられ、仕方なく来た道を戻っていた。
「考えさせてほしいって言ってたけど、駄目なんじゃないかな」
二度目の挑戦をしてもらえるか、カミルが代表して尋ねた。ハリガンは青い顔をして震えていたので、期待はできないのではないかと、四人は考えている。
「でも、今日確認しに行くって言っちゃったし。一応、行かないと」
「あっちの方の神殿はもう全部回ったもんな。駄目だったら次はどうしようか」
樹木の神殿で誰か来てくれないかと、四人は考えていた。
屋敷の隣なので、暮らしているうちにほとんどの神官たちと顔見知りになる。
けれど最近、いろいろと任されていたキーレイが仕事のほとんどを割り振ったとかで、全員に忙しいと断られてしまっていた。
「南側の方って、船と流水だっけ」
船の神殿は、商人たちの暮らす豪邸ぞろいの住宅街の途中に。
流水の神殿は、上級探索者たちが暮らすトゥメレン通りの先にある。
どちらも探索初心者がうろつく通りではなく、なんとなく気が進まない。
「いや、行こう。神官はいた方がいいんだから」
気おくれするティーオとカミルに向けて、フェリクスは力強く話した。
「そうだね。ちゃんと探した方がいいに決まってる」
コルフが頷いて、四人の心は決まった。
仲間探しが最も大切な初心者の仕事。
誰が言ったのかは知らないが、街へやって来た若者に、あちこちで贈られる言葉だった。
「よし、じゃあ早く食べて、行こう」
一文無しからやり直し始めたフェリクスとティーオにとって、新しくできた屋台はありがたい存在だった。お手頃価格なのだから、味が薄いのは我慢しておくべきだろう。
片付けを終えると、四人は皿の神殿へ向かって歩いた。
カッカーの屋敷は、迷宮の描く四角よりも少し南にある。
皿の神殿の場所は、街の北の端。「橙」の迷宮の更に先、北西の酒場街と、初心者向けの安物を扱う店の主たちが住む控えめな家が並ぶ通りの間に建っている。
迷宮へ挑もうと張り切る探索者たちの流れに乗って歩き、人の波が途切れてもまだ北へ。
はるばる皿の神殿へやって来た四人を、ハリガンは待っていてくれたようだ。
「昨日は申し訳なかった。その……」
「いいんだ。迷宮は大変なところで、みんな最初は驚くし、大抵なにかしらのミスをするんだから」
フェリクスが落ち着いて話す様を、ティーオたちは見つめていた。
軽口の多い三人よりも年が上だし、口調も穏やかで、フェリクスが一番交渉には向いている。任せたとばかりに、ティーオもカミルもコルフも、後ろに並んで成り行きを見守っていく。
「やはりまだ早かったと思うんだ」
ハリガンはぐったりと項垂れていて、どうやらこれから先も同行してもらえそうな気配がない。
「わかった。そう判断したのなら仕方ない」
無理強いするわけにもいかないからと話すフェリクスの腕を、ハリガンは突然掴む。
「いや、その、申し訳なかった。申し訳なかったから、他の神官を紹介するので」
少し待っててくれと言い残し、ハリガンは神殿の奥へ走り去っていく。
昨日すごすごと帰って、どう償おうか考えたのかもしれない。
ありがたい申し出に、青年たちの心はほんのりと浮かれ始めていた。
「女の子だといいな」
カミルが呟き、コルフが笑う。
「それなら最高だ」
「すごいベテランの年増が来るかもしれないぞ」
ティーオの台詞に、フェリクスは顔をしかめた。
「そんなことを言うもんじゃない」
「はは、ごめんごめん」
神殿の入り口で朗らかに待っている四人のもとへ、ハリガンが戻ってくる。
その背後にいたのは残念ながら男性だったし、ひどく個性的ないでたちをしていた。
「こちら、皿の神官で、モルディアス・ハ」
「マスター・ピピと呼ばれたい」
ハリガンの台詞を遮って、新たにやって来た神官が前へと進む。
ティーオよりも背は低いが、体の体積は大きい。まあるい体はなんとも愛らしいフォルムで、ハリガンと同じ神官衣を着ているはずだが、見え方はまったく違う。
瞳も大きく丸くキラキラと輝き、口元にはくるんと巻いた形の細い髭があり、眉毛は太く下がっていて、髪は黒々として艶があるが、ぺたりと頭に張り付いている。
皿の神官のかぶる小さな帽子がちょこんと頭に乗っていて、ひとめ見ただけの印象は「曲者」だった。
「マスター・ピピ?」
「マスター・ピピと呼んでくれなければ嫌だ」
なんと答えたらいいのか、よくわからなくて四人は唸った。
ハリガンへ視線を向けると、ヘタれ神官は慌てた様子で、それではと言い残して去っていく。
「ちょっと!」
「私よりもずっと力のある方ですから!」
カミルが追おうとすると、曲者神官が前に立ちふさがった。
「探索に行きたいのなら、マスター・ピピが協力いたす」
「はあ」
「昨日は『緑』へ行ったと聞いた。今日も『緑』へ行かれるか」
ハリガンが行けるのなら、「緑」が妥当だろうと話はついていた。なので、ピピに代わっただけなのだから、「緑」に行くのが妥当なのだろう。
「我の準備は整っておる。万端であり、どんな傷も癒す。マスター・ピピに任せよ」
カミルが勢いよく、仲間に向かって振り返る。
どうする? の無言の問いに、三人は悩んだ。
ハリガンよりも力があるというのが本当なら、きっと問題はないのだろう。
「緑」の地図はある。軽く潜るための準備はしてきている。
不思議な人物のように見えるが、探索者としての腕の良さは、性格とは関係ない。
「ニーロさんの師匠も変わってたっていうよな」
コルフが呟き、
「スカウトのロビッシュって人もだ。だけどものすごく腕がいい」
カミルも続く。
ひょっとしたら、この神官もただものではないのかもしれない。
前向きに考え、ティーオは力強く頷く。油断はしない。頼ろうとせず、実力を見極めればいいのだ。
昨日のハリガンと扱いは同じ。そう気が付いて、フェリクスも心を決めた。
「わかりました。では、同行をお願いします」
「マスター・ピピと呼んでくれなければ嫌だ」
「では、そう呼びます」
なんのマスターで、どうしてピピなのか。長い付き合いになればそのうちわかるだろう。短い付き合いで終わるのならば、知らなくていいことだ。
ピピを加えて五人で「緑」へと向かう。後ろから押せば、ころころと転がっていきそうだと考えながら、新たな仲間の可能性とともに進んでいく。
「橙」の混み合っている入り口付近を避けて、「青」の入り口のある方へ向かう。
「マスター・ピピ、食糧は持っていますか?」
「マスター・ピピは食料を持っている」
「青」の入り口の周囲にはなにもない。皆、なんとなく恐れているのだろう。他の迷宮の入り口周辺には、道のぎりぎりまで露天商が並ぶのに、「青」の入り口の周囲は広く開いていて、通りかかる者すらいない。
「マスター・ピピは何歳なんですか」
「マスター・ピピは十二歳」
皿の神殿から「緑」の入り口までは、それなりの距離がある。
なのでその間に、多少のやりとりはしておくべきで、互いについて知る努力をする時間にしなければならない。
フェリクスが代表して質問を投げかけて、他の三人はその様子を見守っている。
フェリクスに心の中で謝りながら、間に入らないように後ろを歩いていく。
少し年上という理由だけでリーダー的な扱いをされているフェリクスのお陰で、マスター・ピピの正体が少しだけわかっていた。
出身は王都デルシュレーよりももっと東の、小さな農村のバリアムというところ。
年齢が十二歳なわけはない。どう見ても、四人よりもずっと年上だろう。詐称の理由はわからないが、知りたくもないので追及はしない。
けが人を放っておくのが嫌で、迷宮で苦しむ人を減らしたいと願っており、髪型にはこだわりがある。
神官衣を動きやすく改造しており、帽子は針金で留めてあり、靴は故郷で作った羊の革製のもの。
ピピという名は自分でつけたもので、迷宮都市に挑む勇者に必要な称号になっているという。
「マスター・ピピは恐れない」
「ありがとうございます」
途中から、なんの意味もない台詞をたびたびピピが吐き出し、フェリクスは適当な相槌を打っている。
早くこの時間が終わらないかと足を速めてみたが、神官はペースを崩さず、悠々、堂々とゆっくり歩いている。
それでも、探索になれば話は変わる。
四人はそう信じて「緑」の扉を開いた。
入る前に分け前について五等分と決め、できれば六層へ行き、無理ならばすぐに言うように約束をして、中へ入った。
意外なことに、ピピは迷宮の中では至極まっとうな神官になった。
町の隅でみかけるよりも大きな鼠が出てきてかじられてしまったティーオの足を、すぐに癒してくれた。
噛まれて破けてしまったズボンには、ぐるぐると包帯を巻いていく。
戦闘には参加せず、ピピは後列でコルフと並んで歩いた。
道案内をするカミルの指示に従って、五人で進んでいく。
「きれいな花を、マスター・ピピは愛している」
「あれは普通の花ではありませんけど」
コルフの言葉に、ピピは穏やかな微笑を湛えている。
ピピの神官としての仕事は完璧だったが、探索者としての振る舞いは感傷的なものだった。
「緑」には初心者も多くやって来るので、時々見知らぬパーティとすれ違うことになる。
その中にけが人がいるとわかると、ピピは一目散に駆けつけて、相手が警戒していようが驚いていようが、構わずに傷を癒し、包帯を巻きつけた。
ただ治療してくれるだけとわかれば、相手は安堵し、感謝の言葉を口にする。
カミルは突然駆け出すピピにヒヤヒヤしていた。罠があったらかかってしまうし、床に広がる蔦の中には棘が生えているものもある。ピピはしっかりとした造りの革のブーツを履いているが、迷宮の中に「絶対に安全」な場所などない。
「マスター・ピピ、いきなり走ると危ないですよ」
カミルが声をかけても、ピピは微笑むばかりだ。
「マスター・ピピは誰も見捨てない」
「立派だと思いますけど、罠にかかるかもしれないし」
「神の加護に守られしマスター・ピピ。その歩みは止まることがない」
参ったな、と聞こえた。カミルの呟くような声を聴いて、コルフは思わず笑った。
一休みしようと三層目で立ち止まり、ちょうどいいでっぱりの中に五人は収まっていた。
水を飲んだり、軽く食べたり、用を足したり。
四人は悩んでいた。探索を続けるべきなのかどうか。
マスター・ピピの神官としての実力は問題なさそうではあるが、意思の疎通という面ではどうなのだろうと。
まったく通じないわけではない。めちゃくちゃなことをするわけではない。
困っているのは、見知らぬけが人を見つけた時だけ。
今のところ、二回だけだ。それで癒しの力が切れてしまったわけでもない。
本人がすぐそばにいるせいで言い出せなかっただけで、カミルもコルフもティーオもフェリクスも、同じことを考えていた。
妙な人材で、仲間にするには面倒じゃないかと。
だけどそんなふんわりとした不安だけでは、決定打にならない。
花がきれいだとピピは言う。けれど、構わずに触ったり近寄ったりはしていない。
けが人を癒しに行ってしまう。罠については不安だが、考えてみれば、これは愚かな行動と言えるのだろうか。
六層まで行こうという最初の目標を、変えるのかどうか。
四人は無言のうちに考え、それぞれ神官へ視線を向けた。
件の皿の神官は、まあるい体の前に手を組み、大きな目を閉じて、仕える神に祈りを捧げていた。
共に行く仲間が守られるように。若い命が容赦なき渦の底に飲み込まれないように。
すべての命が地上へ戻り、希望に溢れる明日を迎えられるように。
皿の神は、人々に食事を与え育てる神だと考えられている。
皿を並べた食卓を囲んで、体も心も育てていくのが大切だと神官たちは説いている。
素朴な農村などで特に愛される教えであり、迷宮の中にあっても他人に手を差し伸べるマスター・ピピは皿の神官らしい男だといえた。
迷宮は容赦のないところで、優しいばかりの人間には辛い場所になる。
そう知っていてもなお、自分たちの為についてきてくれた、とフェリクスは考えた。
ティーオも似たような考えを辿ったし、鬱陶しいなと思っていたカミルとコルフは自分たちを少しだけ恥じた。
「六層までは行ってみようか」
ピピと仲間になるかは、また別な話だ。
神官としての役目は立派に果たしてくれている。
大きな迷惑をかけられたわけではないのだから、今すぐに地上に戻って解散しようとまでは思えない。
そんな結論に至って、フェリクスの言葉に三人は頷き、ピピにも声をかけ、再び「緑」の道を歩き出した。
迷宮の中でけがをしたり、毒を浴びてしまったら?
傷を治し、毒を消し去る薬はある。けれど、けがは一瞬で治らないし、毒を浴びれば苦しい思いをする。
神官のいる旅路は、安堵に満ちたものだった。
マスター・ピピはぶつぶつとおかしなひとりごとを呟くが、けがには機敏に反応してくれた。
フェリクスを癒し、ティーオが食らってしまった毒を浄化し、兎に噛みつかれたカミルの足には包帯を巻いてくれた。
マスター・ピピは鞄を持っておらず、持ち物すべてを神官衣の中にしまいこんでいるようだ。
手当をされた時にカミルが目にしたのは、服の中に隠された大量の包帯だった。
マントのような上着をめくると無数のポケットがついていて、小さくたたまれた包帯が詰まっているのが見えて、カミルは驚きのあまり妙な声をあげてしまった。
「緑」の六層まで、地図に書かれた最短のルートを辿っていく。
些細な怪我と、毒の棘に触れるアクシデントはあったが、五人は無事に回復の泉にたどり着いていた。
「やあ、あったあった」
カミルが声をあげて、四人はほっとして泉の前に並んだ。ひしゃくを手にとり、泉の水を汲んでいく。
癒しの水は体中を一気に駆け巡って、疲労や痛みを取り去っていった。
歩き続けて重くなった足に、敵を倒すために剣を振った腕に力を満たし、魔術を使って消耗していた気力を溢れさせてくれる。
「予定通り、これを飲んだら戻りますから。マスター・ピピも」
コルフが水を飲み終わるのを確認して、カミルが振り返ると、「緑」の通路には四人しかいない。
自分とコルフ、フェリクス、ティーオ。
まあるい大きな優しい神官の姿が、なぜか見えない。
「あれ?」
カミルの呟きに、フェリクスとティーオも事態に気が付いて目を走らせた。
蔦が這い、時には大きな葉っぱが揺れ、花が咲いている緑色の道の上は静かで、あんなに鬱陶しかったひとりごとが今は聞こえない。
「マスター・ピピは」
フェリクスとティーオがそれぞれ違う方向へ歩いて、曲がり角を覗き込んでいる。
「マスター・ピピ?」
どうやら姿が見えないらしく、二人はすぐに戻ってきて、水を飲み終えたコルフも焦りの表情を見せている。
「さっきまでいたよな?」
「いたよ。探索はお任せあれって言ってた」
回復の泉は探索者にとって至福のスポットだった。癒しの恵みを受けられるだけではない。魔法生物も泉の周辺にはあまり出ないと言われている。
ほんの少しだけ油断してもいい場所という意識があって、それで、ピピを見失ってしまったのか。
確かに、浮かれていた。周囲に敵はいなかったし、足音も聞こえなかった。最初にカミルが飲んでいる間は他の三人も注意深く周りを見ていたのに。
第一の目的地によく設定される「六層目の泉」までの道は、さほど難しい道のりではない。「緑」自体、そんなに難度の高い迷宮ではない。
けれど、最短ルート以外にも道はある。別れ道もあれば、落とし穴だってある。
「どっちに行ったんだ」
カミルの呟きに答えられる者はいない。
四人は戸惑いながら、同行してくれた神官の名を呼び続けたが、残念なことに返事はなかった。




