232 揺らぐ魂
痩せた男は立ち上がると、まっすぐにニーロを見つめた。
ゆっくりと一度、二度まばたきをして、掠れた声で問いかけている。
「……ラーデンは?」
ニーロが瞳を向けてくる。
世にも珍しい灰色をキーレイに向けて、かすかに表情を曇らせ、ゆっくりとヴィ・ジョンへ視線を戻した。
「ラーデン様を知っているのですか」
「あの夜を忘れることなど、できるはずがない」
また、ニーロの視線が向けられる。
かつてこの街で探索をしていた魔術師ラーデンは、「偏屈」の通り名をつけられていた。
カッカーが変わり者だったと話すくらいで、きっとなんでも弟子に話し聞かせていたわけではないのだろう。
ニーロの瞳には驚きの色が見え隠れしている。ホーカ・ヒーカムのしもべからこの名が出てきたのは、キーレイにとっても意外な出来事だった。
「あなたの名は?」
若い魔術師に問われて、男は身をぶるりと揺らした。
「エラン・デラン」
「何故ヴィ・ジョンと名乗っていたのですか」
エラン・デランと名乗った男は明らかに戸惑い、きょろきょろと目を彷徨わせている。
「ヴィ・ジョン?」
「あなたはホーカ・ヒーカムの屋敷で働いていました」
「ホーカの? 何故……? いや、知っているぞ。私は、確かに、ヴィ・ジョンだ。そうだ。私の名はヴィ・ジョンでございました」
「エラン・デランではなく?」
ニーロの問いに、答えはしばらくなかった。
エランだかヴィ・ジョンだか曖昧な男は、落ち着かない様子でぶつぶつとなにか言っている。
キーレイとニーロが黙ったまま見守っていると、男の動きは突然止まった。
なにかに気付いたように神官長へ目を向けて、腕につけていたしるしを指さし、問い掛けてくる。
「それは、神官長の証?」
「私の名はキーレイ・リシュラ。樹木の神殿でまとめ役を引き受けています」
「ああ、そうでございました。高名なる探索者であり、樹木の神殿の偉大なる長。キーレイ・リシュラ様!」
急にしゃっきりと話しだす男に戸惑いながらも、キーレイはここへ来た理由を男に告げた。
「ホーカ・ヒーカムの屋敷について、聞きたいことがあるのですが」
「なんでございましょう、キーレイ・リシュラ様」
姿はすっかり違っているが、受け答えはヴィ・ジョンのものに戻ったようだ。
問いたいことは山のようにあるが、先ほどまでの様子を思い出すと、聞いていいのかどうか悩ましい。
「ニーロ」
「聞いてみましょう、キーレイさん」
相談は一瞬で終わり、神官長は仕方なく、覚悟を決める。
「ホーカ・ヒーカムの屋敷の下にある、地下について」
「地下?」
笑みすら浮かべていたはずのヴィ・ジョンは一気に顔を青くして、見てわかるほどにガクガクと震え始めていた。
「そんなものが、あったでしょうか?」
男の異様な様子を見て、キーレイは思い出していた。
二度目の迷い道が起きて、ニーロと共にあの屋敷に行った時のことを。
あの時屋敷に居たのは弟子のベルジャン・エルソーで、最初のうちはなにを聞いても曖昧な答えを繰り返していたのに、途中で急にしゃっきりとして、襲撃者をなんとかするよう、まるで命令するかのように頼んできた。
「あの時と似ていないか」
ニーロにこう囁いてみるが、反応が鈍い。
「そうか、気分を悪くしていたんだったな」
「なんの話ですか、キーレイさん」
「ベルジャン・エルソーだ。迷い道が起きた時、屋敷にいたホーカの弟子が似たような反応をしていた」
若い魔術師はゆっくりと頷いて、考えを巡らせている。
顎に手を当てて、目を閉じて。
「あの屋敷では、大勢の若者たちが意思を奪われた状態で暮らしていたのでしょう」
ニーロもキーレイも実際には目にしていないが、コルフやウィルフレドは見たと話していた。
誰も彼も薄い布を一枚巻いただけのほとんど裸の状態で、ぼんやりと佇んでいた様を。
彼らがどこへ行ったかわからないままだが、クリュははっきりとこう証言している。
一年以上閉じ込められていたが、その間の記憶はなく、今も思い出せないままで困っているのだと。
「マティルデという少女も性格を大きく変えていたと、ウィルフレドが話していました」
ホーカ・ヒーカムは薬で他人の意識を奪い、自身のいいように操っていたのだろう。
恐ろしい魔術の可能性にキーレイは身を震わせ、心が強く持てるよう、祈りを捧げた。
ひそひそと話す二人へ、ヴィ・ジョンが目を向けている。
屋敷にいた時のように澄ましていたが、額には汗が浮かんでいるし、顔色は青いままだ。
「エラン・デラン」
「……私を、呼ばれましたか? 懐かしい響きです。まるで、自分の名のような気がいたします」
「あなたがそう名乗ったんです。ヴィ・ジョンというのは、ホーカに与えられた仮の名なのではありませんか」
「ホーカ。ホーカ、ヒーカム」
「湧水の壺の造り手で、街の真ん中に大きな屋敷を建てた、女魔術師のホーカ・ヒーカムの行方を探しています」
「壺。湧水の、確かに。術師ホーカは、一体どこへ?」
「死んでしまったのではないかと言う者がいるのです」
男が今、エラン・デランなのか、ヴィ・ジョンなのか。
狭間で揺れて定まらないような気配で、どうしたものかとキーレイは考えていた。
「屋敷へ連れて行ってみませんか、キーレイさん」
「行って大丈夫だろうか」
「わかりません。でも、あの屋敷についてなにか知っていそうなのは、もう彼くらいしかいないのでは?」
ヴィ・ジョンとしての記憶があるなら、なにもかも知っている可能性がある。
ただ、キーレイたちに素直に協力してくれるかはわからない。
エラン・デランには何が起きたのだろう? 何故ホーカに仕え、違う名を与えられたのか、聞き出せそうな気はするが。
ニーロの言う通りだと考え、キーレイは痩せて顔色の悪い男へ向け、こう問いかける。
「ホーカ・ヒーカムの行方とあの屋敷について調べたい。協力してもらえないでしょうか」
「……もちろんでございます。街で最も名高き偉大なる探索者、リシュラ神官長様」
エランかヴィ・ジョンか、わからないがとにかく男は急にしゃっきりとして、部屋の外に向かって歩き出した。
体が随分弱っていそうで、屋敷までまともに歩いて行けるかどうか、不安でたまらない。
「リシュラ神官長。……あのう、この方は元気になられたのですか?」
廊下の途中で車輪の神官に声を掛けられ、キーレイは答えに詰まった。
「そうではなさそうだが、調査に協力する気になってくれたようで」
「戻るところは、あるのですか」
用が済んだ後、ここに戻って来るかどうか気にしているのだろう。
確かに、戻る場所があるのなら、神殿で世話になるのはおかしい。
とはいえ、ホーカの屋敷に戻るのが正解なのかどうかは、今の段階ではわからない。
「後のことは私が引き受ける」
「よろしいのですか。その、どこの誰かははっきりとしたのでしょうか?」
本人がどう自覚するかはわからない。だが、真実はひとつだけだ。
「ホーカ・ヒーカムの屋敷で働いていた男なのは間違いない」
「そうですか」
保護された当初、ヴィ・ジョンではないと言っていたから、神官が首を傾げるのも仕方ない。
今、自分がすべて引き受けるのも決して正解ではないのだろうが、これもまた仕方がないと、心を決める。
行って問いに答えてくれるのなら、その方が絶対にいいのだから。
これ以上なにもかもが謎のままにしておくよりも、はっきりとした情報が欲しかった。
男はふらふらしながらも歩き、明らかに街の中心へ向けて進んでいる。
キーレイもニーロと共に口を閉ざしたまま、速度を合わせてホーカの屋敷へと向かった。
よろめく男に手を貸し、支えながら、たっぷりと時間をかけて歩き、目的地にたどり着いた時にはもう街に夕日が差し始めていた。
「ニーロ、もし体調に変化があるようだったら言ってくれ」
「わかりました」
ホーカがいなくなり、薬の効果もなくなったのなら、前回のような事態にはならないだろうが。
念のために声をかけると、魔術師は静かに頷いて答えた。
門を開け、庭に向かい、階段を隠す置き物を動かしていく。
ヴィ・ジョンはおどおどとした顔をしているが、なにも言わない。
「ニーロ、灯りを用意してくれないか」
おそらくはロウランが放っていった棒が落ちていて、ニーロはそれを拾い上げると、ゆらりと手を振った。
二人を促し、キーレイから足を踏み入れる。
足元に気を付けるように、どちらへ曲がるか告げながら、鈍い銀色の人造迷宮を目指した。
最後に低いところにある小さな穴を潜り抜けると、ニーロは驚いた様子でこう呟いている。
「こんなものが地下にあったのですね」
「ああ。屋敷の中にも入り口が隠されていた」
「何故庭から入ったのです?」
「分厚い絨毯が敷かれているし、かなり重たいタイルで蓋がされているんだ」
「そこを簡単に開ける方法があったのでしょうか」
「どうしてそう思う?」
「庭から出入りしていれば、誰かに見られる可能性があります」
確かにな、とキーレイは思う。
これまでに地下の存在を知られずに済んでいたのは、出入りする様子を見た者がいなかったから、なのだろう。
「ヴィ・ジョン、あなたはここに来たことがありますか?」
男は瞳を震わせていて、答えない。
キーレイが様子を見守っていると、ニーロから声が上がった。
「エラン・デラン。あなたはここへ来たことが?」
男の首がゆっくりと動いて、傍らに立つ魔術師の方へ向けられる。
そして今度は、縦に、またゆっくりと動いた。
「ここは一体、誰の家なのでしょう」
若い魔術師は、銀色のタイルが張り巡らされた秘密の空間を見つめている。
視線を巡らせて、壁にも床にも、通路の先にかすかに見えている扉にも目を向けているようだ。
「あの扉ですか?」
「ああ」
強い薬の効果で満たされていた、マティルデを見つけたところ。
おそらくはあの時、目覚めた瞬間から「ホーカ・ヒーカムになっていた」のだろう。
そして、壁の向こうには更に大きな秘密が隠されていた。
朽ちた玉座と誰にも知られずに眠り続けていた男が今も、扉の向こうで待っている。
「行ってみましょう、キーレイさん」
ニーロが歩き出し、男も何故かついていく。
なのでキーレイも、二人の後を追って歩いた。
あの扉の向こうは狭苦しい小さな部屋なのに、途轍もなく大きな秘密が隠されているに違いない。
胸のうちに、不安ばかりが満ちていく。
祈りを捧げながら、ゆっくりとした歩みで、扉へ向かって進んでいった。
「気分はどうだ、ニーロ」
「大丈夫です」
「そうか。だが念の為、私が開けよう」
ここまで来たからには、行ってみるしかない。
覚悟を決めて扉に手を掛け、開けて、中の様子を灯りで照らした。
ロウランと共に来た時と、変化はない。
大きな台があり、壺が置かれていて、その奥の壁が崩れ落ちている。
「ああ」
急に男が声をあげて、早足で奥に進んでいった。
床に落ちた瓦礫を踏んで、その先へ。
「彼が誰なのか、知っているのですか」
椅子に縋り付くようにしている男へ問いかける。
キーレイもすぐ傍まで進んで、魔術の光で秘密を照らした。
「エラン・デラン」
あえて「本当の名」で呼びかけてみると、男は膝をついたまま、くるりと振り返った。
「これは、きっと、ガリンダムです」
「ガリンダム? この屋敷の前の住人なのですか」
「いいえ、違います。ガリンダムは私の友人で、共に学ぶ為にここへ来ました」
「なにを学びに?」
「魔術を。誰も知らない、素晴らしい秘術を見出した男がいると、噂に聞いたから」
後にヴィ・ジョンとなった「エラン・デラン」の友人が、何故こんなところに埋められていたのか。
キーレイはニーロを振り返ったが、若い魔術師は部屋のあちこちを調べて回っているようだ。
「ここに住んでいたのは誰なのでしょう」
ホーカ・ヒーカムが屋敷を建てる前。ここに住んでいた魔術師の名を問い掛ける。
エラン・デランはぽっかりと口を開けたまま、痩せた体を左右へ揺らしている。
「我々は、魔術を学ぶ為にここへ来ました」
「そうなのですね」
「ガリンダムとその弟と共に王都からやって来て、師匠探しをしておりました。最も良き師を探し出す為に、噂話を聞いては訪ねていたのです」
「……もしや、ラーデン様ともその時に?」
「ええ。ラーデンも、それに、ホーカも」
「ホーカ・ヒーカムもですか」
「二人は既に魔術を身に着けていましたが」
突然言葉が途切れて、どきりとしてしまう。
エラン・デランは虚空に目を向けたまま動きを止め、顎が外れてしまいそうなほど口を大きく開けている。
「無理に思い出す必要はありません。エラン・デラン、少し休みましょう」
男が口走った「あの夜のこと」。
この場には死者が隠されていたのだから。
なにかとんでもないことが起きたのだと考えるしかない。
キーレイが肩に手を置くと、男は荒々しくそれを払った。
そんな真似をした癖に、次の瞬間、両腕を強い力で掴まれている。
指が肉に食い込んで、痛みが走っていく。
驚きに包まれて動けない神官長へ、エラン・デランは大声で叫んだ。
「恐ろしい魔術師が潜んでいたんだ!」
「落ち着いて下さい、どうか」
「あれは触れてはならぬものだった。だから、ああするしかなかった! あの子はなにも悪くない!」
声にならない絶叫が部屋中に溢れて、キーレイはひたすらに祈りの言葉を繰り返している。
枯れ木のようにやせ細っているのに、エラン・デランの力は恐ろしい程強くて、振りほどけない。
「ああ、若き魔術師よ! これは決して、思い出してはならぬことだった!」
「ニーロ」
絞り出した自分の声のあまりの弱々しさに、キーレイはまた驚いている。
どうにかしなければと焦っていたが、修羅場は次の瞬間勝手に終わってしまった。
エラン・デランは叫び声をあげた顔のまま、ゆっくりと背後に倒れていったから。
目と口を大きく開いたまま、急に力を失い、瓦礫の上にばったりと落ちていった。
「キーレイさん、大丈夫ですか」
「ああ。……いや、わからない」
ニーロが近付いて来て、倒れた男の首筋に触れる。
顔の前で手を振り、手首を取って、こう呟いた。
「死んでしまったようです」
「なんだって」
キーレイは何度か呼吸を繰り返し、気持ちを鎮め、男の様子を確かめていった。
ニーロの言った通り。もう、こと切れている。勝手に生き返らせるわけにもいかず、見開いていた目を閉じてやることしかできなかった。
「なんてことだ」
調査の為にやって来たのに、死体を増やしてしまうとは。
祈りを捧げながら、これからどうすればいいのか、キーレイは途方に暮れている。
「一度ここから出ましょう」
魔術師に袖を引かれて、秘密の部屋から出た。
薄暗い迷宮のような通路で、二人は静かに向かい合っている。
「こんなことになるとは思いませんでしたが、落ち着きましょう。僅かですが、新たにわかったこともありました」
「ああ、そうだな」
ヴィ・ジョンとしてホーカに仕えた日々については聞けなかったが、この屋敷を訪ねた理由はわかった。
ガリンダムという男の名に、ラーデン、ホーカまで共にやって来たであろうことも聞いた。
古くから暮らしている者に問えば、なにか聞かせてもらえるかもしれない。
ゆっくりと呼吸を繰り返しながら、どこまで調べるべきか、キーレイはまた悩んでいた。
「ひとつ、気にかかることがあります」
「なにが気になった?」
「ガリンダムなる人物についてです。弟と共に王都から来た、と言っていましたね」
「心当たりでもあるのか」
神官長の問いに、ニーロは静かに頷いている。
「勘違いかもしれませんが」
「構わない。教えてくれないか」
魔術師は再び頷き、こう語った。
以前、ポンパを訪ねた時に出会った、隣人について。
「ポンパがなかなか出て来なくて待っている間に、グラジラム・ポラーが現れ、声を掛けてきたのです」
「ポラーは確か、私塾を営んでいる魔術師だったか」
「ええ。彼は魔術師らしからぬ欲のなさで知られた人物です。授業料を安く設定し、じっくりと弟子に向き合うのだと。皆、早く魔術を会得したいと考え、他の塾を選んでしまうそうですが」
ニーロは小さく首を傾げて、これは二年ほど前の出来事だと付け加えている。
「彼は僕の名を呼び、ラーデンの弟子というのは本当なのかと問いかけてきました。僕はそうだと答え、会話は終わってしまったのですが」
「それだけ?」
「ええ。ラーデン様は街に来る前に、知り合いはいない、カッカー様以外には誰もいないと言っていたので、不思議に思ったのです」
「その時にグラジラム・ポラーと話さなかったのか?」
「ポンパが出て来てしまったので」
なるほどと呟いて、キーレイはニーロを見つめた。
灰色の瞳に鋭い光を瞬かせており、グラジラムを訪ねるべきだという思いが勝手に湧き上がって来る。
「長くこの街で暮らしているかもしれないし、行ってみるか」
「キーレイさん、もう時間も遅くなりましたし、明日にしておきませんか」
「しかし」
「休んでおくべきです。今はきっと、いつものように冷静ではないでしょうから」
二人の立つところのすぐ傍に、木の扉がある。
中に二人の男の屍を抱いた、迷宮都市の中で今最も深い闇に包まれた、秘密の部屋があった。
「あの二人の埋葬をしなければ」
「明日にしましょう。グラジラム・ポラーを訪ねてからの方が良いと思います」
「彼がなにか知っていると思っているんだな」
「わかりません」
こんな答えを耳にして、キーレイはゆっくりと、細く長く、息を吐きだしていった。
確かに、いつも通りではない。エラン・デランに掴まれた腕はまだ痛むし、目の前で誰かがあんな死に方をしていったのは、初めての出来事だったから。
「そうだな。わかった。明日にしよう」
このまま放っておいていいのかわからないが、勝手に片付けるのも違うように思う。
扉を閉めておけば、二人については誰にも知られることはないだろう。
「腕はどうですか。痛むのではありませんか」
「少しな。だが、大丈夫だ」
「屋敷の中に繋がる入り口というのは?」
「あっちだ。まっすぐに進んでいくと、梯子がかかっている」
念のために見ておきたいと言われて、通路を進んだ。
銀色の迷宮のような地下を進んで、屋敷の真下へ。
ニーロは梯子を上って行ったが、開ける方法はわからなかったらしい。
すぐに戻って来て、小さく首を傾げていた。
「どうやってこの入り口を見つけたのですか」
「調査に来た時に、ロウランが地下があるのではないかと言い出したんだ。屋敷の中になにもなさすぎて、どこかに秘密の空間があると考えたようだった」
「屋根裏などはないのでしょうか」
「上にはなにもなさそうだと言っていたよ」
どうやって確認したのかはわからないが、ロウランはきっぱりと言い切り、キーレイはそれを信じた。
「地下の入り口がありそうな部屋について、ここだと示してきた。それで業者たちに協力をしてもらって、入口を見つけた」
「庭の出入り口は?」
「あそこは後からわかったんだ。ミッシュ商会のミンゲが、とても鋭くてね。隠されていた入り口を見つけて教えてくれたんだ。屋敷側の入り口を見つけたのもミンゲだよ」
「なるほど。協力してもらって良かったですね、キーレイさん」
主だった業者から一人ずつ協力してもらったが、誰に来てもらうか選んだのはロウランだった。
皆経験豊かな採集係ばかりだが、その中でも優秀な者を見抜いていたのかもしれない。
話を終えて、二人で庭の出入り口へ向かい、置き物の位置を戻した。
迷宮都市は夜を迎えており、無人になった魔術師の屋敷の庭は闇に包まれている。
「明日の朝のうちに、グラジラム・ポラーを訪ねてみましょう」
「ああ、わかった」
「今日はよく休んでください」
いつもならば自分が言うような台詞を投げかけられ、キーレイは頷いている。
朝はロウランとやって来て、謎の死体を見つけた。
その後再びここへ来て、まさか、もう一人死者を増やしてしまうとは。
樹木の神殿前でニーロと別れて、キーレイはまっすぐに神像の前に進んだ。
心を落ち着けなければと考え、跪き、祈りを捧げていく。
自分の仕える神に、そして、母なる大地の女神に向けて。
「リシュラ神官長、お戻りでしたか」
背後から声がして、キーレイは立ち上がる。
やって来たのはネイデンで、そろそろ寮へ戻る時間なのだろう。
「随分お疲れのようですが」
「大丈夫だよ」
「明日はどこかへ行かれる予定はございますか」
朝から魔術師を訪ねる予定だと告げて、神殿のことを任せきりにしていることを詫びる。
ネイデンは首を振って、街の為に働いているのだからと、穏やかに話した。
「ああ、そうだ。ケルディのことなんだが。夜中に街の北の方に居たと聞いたが、なにがあったのかな」
ニーロの言葉を思い出し、ネイデンに改めて問いかける。
ベテランの神官はキーレイを長椅子に招き、自分の聞いた話だがと、ケルディに起きた出来事を話してくれた。
「探索者の為の出会いの酒場で、よからぬ人物に出会ったそうなのです。共に行くと約束をしたら、サークリュードという若者に止められたとか」
「クリュに?」
「ええ。サークリュードの注意を聞いて探索にはいかなかったものの、寮に戻った後、街の北にある店で待っていると言伝があったそうです。これはシュクルが対応したというので、確認しました」
「よからぬ人物というのは?」
「名前は聞いておりません。ケルディがどうしても話したかったのは、その後に起きた出来事のほうでして」
「夜に出かけて、ニーロに会ったことか」
「ええ……。どうも、サークリュード・ルシオだけではなく、他にも会いに行くなと止める者がいたようなのですが、それでも結局、指定された店へ向かってしまい、最終的に無彩の魔術師殿に会って説教されたということでした」
「他にも? 誰に止められたのだろう」
「名前は言いませんでしたが、子供だと口走っておりました」
迷宮都市に子供は少ない。
クリュが関わっているのなら、シュヴァルだと考えるのが自然だろうか。
「わかった、ありがとう」
「もうよろしいのですか?」
「まだ他に、聞いておいた方がいいことがあるかな」
「ああ……。いえ、どうしても伝えなければならないほどのことはありません。お隣の住人たちからも少し、敬遠されたようだというくらいで」
「えっ」
「仕方がありません。少しばかり、高圧的でしたから」
充分に言って聞かせたし、本人も反省しておりますので。
ネイデンはこう話し、ケルディの教育は任せてほしいと言い出している。
「頼んでいいかな」
「ええ。腹を割って長い時間話しましたので、ケルディも私を信頼してくれていると思います」
「ありがとう、ネイデン」
二人で礼をしあって、仕事を終える。
しっかり休むようネイデンにも言われてしまったので、家に戻り、食事をとって、早めに床に就く。
濃密な一日がやっと終わる。
まだなにも終わってはいないのに、今こうして自分の部屋で過ごせることがありがたくてたまらない。
疲れが押し寄せて来て、体は眠りの波に攫われてようとしている。
けれど一方で、心は不安に捉われたままだった。
深い眠りの波が打ち寄せる岸辺で、迷宮都市を訪れたばかりの神官の身を案じている。
衝撃的なことばかり起きたのに、すべてを差し置いて、ケルディに声をかけた男について考えていた。
明日、ニーロに問わなければならない。
その男の名を。カッカーの親族であると知って、声をかけたのかを。
うつらうつらとしながら、明日についても考えが巡っていった。
グラジラム・ポラーとは、会ったことがない。
名は聞いたことがある。魔術師にしては珍しく穏やかな人物なのだと。
年齢がどのくらいなのかはわからない。若くはないはずで、キーレイよりは年上だろう。
勝手に働いてた頭もようやく静まり、いつの間にか眠りについていた。
働き者の神官長は次の日も早くから起き出して、魔術師との約束の為に準備を進め、自宅を出た。




