227 辿る夢路の、遠い果て 4
「相談したいことがあって来たんだ」
二杯目のお茶を振舞われ、ギアノが片付けを済ませるのを待ち、改めて向かい合い。
ユレーはこう切り出すと、まずはマティルデに追い出されたことから説明していった。
「あたしはのんきに、ちゃんと世話をしてやればいつか落ち着くって考えてた」
「うん」
「マージの話を気にもしなかったってのに……」
ギアノは目を閉じて、祈りを捧げたようだった。
「それでね、ギアノ。魔術師のことなんだから、魔術師に相談した方がいいんじゃないかって思うんだけど」
ギアノは頷いているが、迷っているように見える。
眉間に小さく皺を寄せ、口を閉ざしたまま、目を遠くに向けていた。
「あんたなら、誰か知っているんじゃないかと思って」
「頼れそうな人なら、確かにいるよ」
「頼めないかな。あの子がおかしくなったのは、魔術師に弟子入りした後からなんだ」
最後に会った日から再会するまでの間。
そう長くもない日々で、目を離していたことが悔やまれる。
どんなに嫌がられても、迷惑がられても、一緒にいてやれば良かった。
マージに見捨てられた、ヌウの方を優先したと嘆く少女に、寄り添ってやれば良かった。
後悔はいくらでも湧き出して、心を飲み込もうと渦を巻く。
体がぶるりと震えて、ユレーは手を強く握り、思わずマージの名を呼んだ。
「わかった。今から行ってみる。いるかどうかわからないけど、とりあえず訪ねてみるよ」
沈黙が破られ、ユレーは管理人に目を向ける。
ギアノは穏やかな笑みを浮かべて、小さく首を傾げてみせた。
「だけどさ、やらなきゃいけないことがあるんだ。食事だのなんだの、準備しなきゃならなくって」
「そうなのかい」
「頼んでもいい?」
ギアノに微笑みかけられ、力が抜けていくのがわかる。
「アデルミラが全部わかってるから、手伝ってくれないか」
「ああ、わかったよ」
「それと、今日は、部屋に泊めてもらって」
「え? そんな……。いいのかい」
ギアノは立ち上がり、廊下の先にいたアデルミラに声を掛けている。
ユレーの今夜の寝床が確保され、すぐに夕食の支度が始まるからと言われ、厨房に向かった。
するとそこには、驚くほど美しい少女がいた。
狭く使い込まれた厨房に似合わぬ美貌は、輝きを放っていて、眩い。
驚くユレーの為に、アデルミラが間に立ち、紹介をしてくれる。
「クリュさん、ユレーさんです」
「へっ、クリュって、あんたがサークリュード・ルシオ?」
ユレーのあげた声に、クリュは小さく頷いている。
エルンの話は本当だったし、こんな風に会って良かったのかわからないし。
戸惑っていると、美しい青年はユレーをじっと見つめており、なぜだか焦ってしまう。
「あなただったんだね」
「へ、なにが?」
「レテウスにいろいろ教えに来てくれてたんでしょ。ギアノに聞いたよ」
急に貸家の住人の名を出され、今度はきょとんとしてしまう。
クリュはレテウスたちと共に暮らしていると説明をして、ありがとうと礼を言ってくれた。
「そうか、もう一人探索者が住んでるって、言われたことがあったっけ」
「うん、それが俺。レテウスは覚えが悪いから、大変だったんじゃない?」
クリュは声も態度も穏やかで、ユレーを警戒している様子はない。
隣でアデルミラが微笑んでおり、つまり、先に説明をしてくれていたのだろう。
「坊ちゃんは元気?」
「多分ね。今は旅に出てていないんだ」
「へえ、そうなの……。あれ、それじゃあ坊やは?」
「あはは、坊やなんて呼んでるの? シュヴァルはレテウスと一緒だよ」
あの貸家には何度も行ったのに、クリュと遭遇したことはなかった。
知っていれば、マティルデの言葉に惑わされずに済んだだろうか。
それとも、とんでもない極悪人だったと勘違いさせられただろうか。
いろいろと想像を巡らせているうちに、何故クリュがここで料理に勤しんでいるのか不思議に思えて、問いかける。
「あんな立派な家があるのに、どうしてここで芋の皮剥きなんかしてるんだい?」
「レテウスたちがいないと、ちょっと心細くってさ」
あの怒った顔の三男坊がいなくて、心細いのは何故なのだろう?
疑問が浮かんだ瞬間、答えに行きつき、ユレーは申し訳ない気分になっている。
「マティルデが探し回ってたから?」
「うん、まあ。……それもあるよ」
「ごめん、その」
「あなたのせいじゃないでしょ。謝らなくていいよ」
クリュは静かにこう答えて、次の芋に手を伸ばしている。
普段からよくやっているのか、慣れた様子でナイフを動かしなから、ぼそりとこう呟いた。
「ギアノも謝ってきた」
「なにをだい」
「マティルデって子が、俺を探しまわってたこと」
薄青の瞳がぱたぱたと瞬き、こんな声が続いた。
「よっぽどみんなに可愛がられてるんだね」
「……そうだよ。本当のあの子は、明るくて、おしゃべりで、おっとりとした可愛い子なんだ」
不安と期待が入り混じり、胸いっぱいに溢れていく。
マティルデに会いたかった。
出会った頃の、可愛いばかりのあの少女に。
やがて、廊下から声が聞こえるようになっていった。
屋敷の住人たちが帰って来たのだろう。みんな腹を空かせていて、食事の用意をする為に、厨房へ次々にやって来て作業を始めている。
若者たちは皆へとへとで、料理の腕が良い者は少ないようだ。
けれど、誰も彼も一生懸命に、苦手なことにも取り組んでいる。
それは清々しい光景で、ユレーは戸惑っている若者に声をかけ、片付けも手伝ってやった。
忙しなく働いている間に時が流れて、食堂の混雑は終わったようだ。
ギアノも戻ってきたらしく、厨房を覗き込んで微笑んでいる。
「やあ、大体終わったのかな。アデルミラ、ユレーさん、ありがとう」
「俺も手伝ったよ」
「クリュもありがとな」
四人で夕食をとることになったが、準備をアデルミラとクリュに任せて、ユレーは食堂でギアノと向かい合っていた。
「話をしてきたよ。先に言っておいた方がいいかな、俺が頼んだ相手は、ロウランって名の魔術師なんだ。知っているかもしれないけど、遠い西の国から来た黒い肌の人だよ」
「それって、あのお髭の、ウィルフレドって人の恋人の?」
「うん? うーん、それは、どうなのかな。どんな関係なのか俺にはわからないけど、でもまあ、その人で間違いはないよ」
「その人も樹木の神官長と結婚するって噂を流されているって聞いたんだけど」
ギアノはこくこくと頷き、聞いていたんだねと呟いている。
「ロウランさんはキーレイさんに協力してて、一緒にホーカ・ヒーカムの屋敷を調べてるんだ」
マティルデが言っていた「異国から来た売女」なのではないか。
激しく罵る姿を思い出すと胸に痛みが走って、ユレーは目を伏せている。
「ロウランさんは少し厳しいところがある人だけど、信頼していいと思う」
「厳しい人なのかい」
「……迷ったんだよ、ユレーさん」
「どういう意味だい、ギアノ」
「相談できそうな魔術師は二人居て、どちらに頼もうか、俺は正直、迷ってた」
屋敷を出た時にはまだ決めていなかったとギアノは言う。
ユレーは首を傾げて、何故ロウランに相談したのか、問いかける。
「家の手前のところで、ロウランさんが立ってたんだ。俺が来るのをわかってたみたいに」
「待っていたのかい」
「わからない。偶然かもしれない。けど、こう言われたよ。困っているみたいだなって」
「そんな理由で?」
「いや、ちょっと違う。でも、説明するのは難しいな。長くなっちゃいそうだし、食事が終わってからにしようか」
アデルミラとクリュが皿を運んできて、テーブルに並べてくれる。
マティルデを見守るだけの時間とは違って、生き生きとした顔が並ぶ食卓は心地良かった。
クリュの瞳は美しく、アデルミラの微笑みは優しく、ギアノの眼差しは頼もしい。
暖かい時間は心に積もる昏い記憶を溶かす力があり、心が少し自由になったようにユレーは思った。
「じゃあ、後片付けも頼んだよ」
アデルミラとクリュを厨房に残し、ユレーが招かれたのは管理人の部屋の隣の小部屋だった。
相談の為の部屋なんだよとギアノは言い、向かいの椅子に腰をおろしている。
「ロウランさんとは明日、ホーカ・ヒーカムの屋敷の前で落ち合う約束をした。俺とユレーさんも来るように言われてる。早朝なんだけど、それ以外の時間では駄目らしい」
内緒話は早速始まり、いいかな、と問われた。
ユレーは頷いたが、戸惑ってもいる。
「あそこで落ち合うって、なんとかしてもらえるってことなのかい」
「そうみたいなんだよね……」
ギアノの視線が逸れていく。
「聞いてないの?」
「話はすごくシンプルだったんだ。時間がかかったのは、頼むかどうか迷ったからで」
確かに、ギアノの戻りは遅かった。大勢の住人が屋敷に戻り、食事を作って食べ終わるまで、帰ってこなかった。
「ロウランさんは多分、俺よりもずっと、事態をはっきりと理解しているんだと思う」
「調査をしていたから?」
「そうかもしれない。結局ね、言われたのは、全部任せろってことだけなんだ。解決してやるから、口を挟まず、余計な話を他人にしないようにって。それだけだったんだよ」
「その魔術師の言う解決って、どうなることなんだい」
「元通り、だよ。マティルデを元に戻してくれるのは間違いない」
だけど、とギアノは呟いている。
ユレーは黙ったまま、続きを待つ。
「少しだけ痛みに耐えろって言われちゃってさ」
「痛み?」
「今の状況はとても厳しい、完全な元通りを望むのは贅沢な話で、特別に引き受けてくれるんだって」
「ギアノ、もしかして無理させたんじゃ……。いくら請求されたんだい」
「いや、そうじゃない。そんな話じゃないんだ」
「魔術師への頼み事は、高くつくものなんだろ」
ユレーは焦っていたが、ギアノは小さく笑って、支払いはないから大丈夫だと繰り返した。
「かわりに、特別メニューを用意するんだ」
「メニュー?」
「ロウランさんは俺の作るものを気に入ってくれててさ。ちょうど最近、いいものが手に入ったからね。心配しないでいいよ」
既にその魔術師の胃袋を掴んでいたということか。
ユレーは思わず吹き出し、ギアノもほっとした様子を見せている。
「つまり、その魔術師に全部任せるかどうかって話だったんだね」
「そういうこと。多分だけど、キーレイさんにも言わないでおけってことだと思う」
「神官長さんにも?」
「直接言われたんじゃないけどね」
「いいのかい、そんな」
共に魔術師の屋敷を調査していたキーレイ・リシュラに黙って、マティルデに起きた問題を解決する。
あの子を穏やかに戻すだけなら、そうたいした問題ではないような気もするが、神官長に内緒にする理由があるのだろうか?
「あんたはそれでも頼んだってことだよね」
「うん。……ロウランさんには前に一度、協力してもらったことがある。すごく鋭い人なんだよ。それに、今周囲にいる人たちの顔ぶれからいって、魔術師としての力も相当なんだろうと思う」
そのロウランが厳しい状況だと断言し、解決を望むのすら贅沢だというのなら。
マティルデが落ちた穴は、相当に深い。
「だとしたら、解決できる人も、方法も、ほとんどないんじゃないかって思ったんだ。できると言える人がいること自体、すごいんじゃないかって」
ギアノは落としていた視線を戻し、ユレーへと向ける。
「俺はこの間、マティルデに会った。会ったんじゃないな。あの時はクリュを捕まえようとやって来ただけなんだから。あんなに目を血走らせて、クリュの名前を大声で叫んで、隣の神殿まで追いかけて行って、暴れてさ……。信じられなかったよ。何度呼びかけても、返事もしない、こっちを見もしない。俺とティーオに、クリュを捕まえろって命令してきて、挙句に、役立たずなんて吐き捨てて」
魔術師の屋敷では、ユレーに同じようなことをしていた。
自身に浴びせられた言葉が脳裏に蘇り、体が震えてしまう。
「ユレーさん、俺はね、マティルデのこと、可愛い子だって思ってたよ。ちゃっかりしてて、呆れることもあったけど」
「うん」
「ユレーさんもマージも、きっと同じ決断をするだろうなって思ったんだ」
「ギアノ」
「ごめん、勝手に決めて」
俯く青年に、ユレーは語り掛けていった。
「謝るんじゃないよ、あんたの言う通りなんだから。あたしもマージも、頼めるなら絶対に頼んでた。だって、あのままになんて、しておけないだろ」
あんなの、マティルデじゃない。
本当のマティルデではない、別ななにかなんだから。
明日の朝、なにが起きるかはわからない。
行って魔術師がどうするのか、信じて、黙って、見守るしかない。
話は終わり、もう休むように言われて、部屋へと案内された。
優しい雲の神官はユレーの心が休まるように、マージの魂が癒されるように、そして、マティルデの身が守られるように祈ってくれた。
癒しの力が働いたのか、ベッドに横になるなり、眠りの中に落ちていく。
夢を見たように思った。
マージと、マティルデと共に過ごした懐かしい日々のような、光で満たされたような夢を。
「よく来たな、ギアノ。お前がユレーか」
早い時間に起き出し、ギアノと二人で向かった先は、街のど真ん中、魔術師ホーカ・ヒーカムの大きな屋敷。
約束通り、黒い肌の魔術師が待ち受けていた。
とろんと垂れたような大きな瞳が目立つ、恐ろしいほどに美しい女だった。
「ロウランさん、おはよう」
「ああ、おはよう。感謝しているぞ、ユレーとやら。今日は良い日になるだろう」
ロウランはくるりと振り返ると、大きな門を勝手に開けて中に入っていった。
思わず、ギアノの顔を見てしまう。
管理人の青年は覚悟を決めた表情で、行こうと小さく囁き、ユレーも歩き出す。
薄暗い庭を抜け、屋敷の扉の前に辿り着き、魔術師に問われた。
「鍵は持っているか?」
「え、ああ、持っているけど、まだ使えるかな」
マティルデに追い出された時、渡されていた鍵も現金も鞄に入ったままだった。
もう付け替えられているのではと思ったが、魔術師は受け取った鍵を差し込み、回している。
「あの娘がお前にこの鍵を預けたのだな?」
「うん。でも、もう二度と来るなって言われてる」
「だが、鍵を取り返さなかったのだろう」
ロウランはにやりと笑って、堂々と扉を開け放った。
中は暗く、廊下の先はまったく見えない。
魔術師がふわりと手を振ると、持っていた鍵が輝きだし、辺りを照らした。
「ギアノ、持っていてくれ」
輝く鍵はギアノに託され、少し遠くまで光が届くようになった。
廊下の隅のあちこちに、ごみが落ちている。
まるで初心者が大勢入り込む迷宮の道のように、散らかっていた。
まだ、新しい召使いは見つかっていないのだろう。
それとも、扱いの悪さにあっという間に逃げ出してしまったか。
廊下をまっすぐに、静かに進んでいく。
目指しているのは奥の、突き当たりの扉のようだ。
マティルデが出入りしていた部屋の前に辿り着くと、ロウランは足を止めて、くるりと振り返った。
「さて、二人とも」
この先にマティルデ・イーデンがいると、魔術師は囁く。
「眠っているかな。それとも、眠れずに悶々としているか。わからんが、決着はすぐにつく。心配はいらん。争いにはならない。誰かが流血するような事態は起きない。マティルデ・イーデンも、お前らもだ」
「ロウランさん、その、昨日言われたことなんですけど」
「今から話す。なに、たいしたことではないよ」
ロウランは吐息のように、ふふ、と笑い声を漏らした。
大きな目をにっこりと細めて、いかにも機嫌が良さそうだった。
「お前らの望みは、マティルデ・イーデンを元通りにしたいというものだな」
ギアノと目を合わせ、ユレーは力強く頷いている。
「先に説明をしておこう。あの娘がなぜあんな風になってしまったか」
「教えてくれるのかい」
ロウランはゆっくりと頷き、以前、変わってしまう前のマティルデにも会っていたと話した。
「あの娘はとんだ甘ったれで、自分に都合の良い話ばかりを信じる愚か者だった」
思わず顔をしかめたユレーに、魔術師は小さく首を傾げている。
「もう少し聞こえの良い言葉で言ってやった方がいいか? 無邪気で、疑うことを知らず、……なるべく楽な方へ流れる傾向があるようだった」
これでいいかとロウランは言う。
意地の悪い言い方だが、マティルデを知っているのは確かなようだ。
「だが今は、勝手な恨みや嫉妬に塗れ、他人を陥れるのに夢中な卑怯者だ。平気で嘘を振りまき、居丈高に振舞い、気に入らない相手は口汚く罵るようになった」
「どうしてなのか、あんたにはわかるのかい」
「ああ。あの娘は師匠と慕ったはずの愚劣な魔術師の犠牲になったんだ。理由はわからんが、ホーカ・ヒーカムは既に死んでいる」
「え?」
「あの魔術師は運命に抗おうとし、新たな体に自分の魂を移そうと企んだ」
衝撃的な発言はさらりと流され、ユレーはギアノと顔を見合わせていた。
「もしかして、マティルデは」
「ああ、そうだ。ホーカ・ヒーカムにはもっと欲しい体があったが、手に入れられず、仕方なくあの娘の体を奪ったのさ」
「仕方なく?」
「そうだ。魔術の使えぬ体とは知らなかったのかもしれんな。若く愛らしい姿を得たが、それだけだ。目論見はすべて外れ、あとは貯め込んだ金を使うだけの人生を送るしかない」
それで満足すればいいものを。
ロウランは呆れたように呟き、笑っている。
「失ったものが大きすぎて、今は全方位に八つ当たりをしているといったところだろうよ」
「ねえ、そんな、師匠に体を取られたなんてさ、あの子はどうなったんだい。本当にもとに戻せるのかい」
「疑うか、この俺を」
青紫の瞳が、暗がりの中で輝く。
魔術師の体は大きくはないのに、圧倒されて、震えてしまう。
「あ、いや。ううん、そんなことは」
「ふふ、脅かしてしまったか。なに、心配はいらん。間抜けな三流の使った半端な魔術など、一瞬で片が付く。今日お前らを付き合わせたのは、もうひとつ理由があるからだ」
よろめくユレーを支えながら、それは何かとギアノが問う。
「ホーカ・ヒーカムはこの街では有名なようだが、魔術師としての腕はそう良くはない。だから、マティルデ・イーデンは無事だ。かけた術も簡単に解ける」
「そうなんですか」
「ああ。だが、効果はかなりのものだ。そうなってしまったのは、マティルデ・イーデンのせいでな」
「マティルデのせい?」
「あの娘はホーカに会ったことなどないのに、師匠への強い忠誠心を持っている。他に縋るものがないと思い込み、優しく迎え入れられた、期待されたと勘違いし、怪しげな薬でただでさえ乏しい判断力を鈍らされていたからだ。その上、ホーカの執念が織り込まれたローブを身に纏い、呪いの込められた石を後生大事に持ち続けていた」
ロウランの語りは淀みなく、確信に満ちている。
「あの娘がホーカの術を受け入れ、この期に及んでまだ尽くそうと考えているせいで、今の状態になっているというわけだ」
「そんな」
「仕方がない。そうなるよう、幾重にも仕掛けられていた。とはいえ、あの娘も悪い。何度も判断を誤っていたからな」
呆然とするユレーに、ロウランはこう囁いてくる。
今すぐ逃げろと教えてやったんだぞ、と。
「二度も警告してやったというのに、あの娘は甘い夢に縋った。現実と向き合うのを怖れ、楽な道に逃げたんだ」
だから少し、痛みに耐えてもらう必要がある。
ユレーは心を震わせながら、目の前の魔術師をまっすぐに見つめた。
「なにをしたらいい?」
「最後の責任を取ってくれ。これから、マティルデ・イーデンの記憶を消す。この街に来てからの出来事、すべてを」
言葉の意味が入って来なくて、ユレーは思わずギアノを見つめた。
ギアノも顔を青くして、視線をあちこちに彷徨わせている。
「この街に来てから、すべての出来事を?」
「お前たちのことは忘れる。まだ出会っていない状態になると言えばいいかな」
「そんな……、じゃあ、マージのことも忘れちまうのかい」
思わず声をあげたユレーに、ロウランは冷たい声で答えた。
「あの娘は自身が魔術師になれたと勘違いしている。誰もが否定してきた夢を叶えてやったという思いも、ホーカ・ヒーカムの怨毒を強くしているんだ。二人を引き離す方法は他にない」
「でも」
「考え直すか? だが、もたもたしてはいられんぞ。時間が経てば、魂まで取り込まれてしまう」
「まさか、いなくなっちまうのかい」
「少しずつな。あの娘を元通りにできるのは今だけだ。今が最後の機会と考えろ」
痛みに耐えねばならないのは、本人ではなく、ユレーの方だったようだ。
あの思い出が消えてしまう。マティルデがマージのことを忘れてしまう。
涙がみるみる溢れて、こぼれ落ちていく。
とても立っていられなくなって、床にへたりこんでしまう。
「ユレーさん」
ギアノの手が背中に触れている。
大きな熱い手のお陰で、なんとか喚かずに済んでいるのだとユレーは思った。
「大丈夫……、だよね? ロウランさん、少し待ってもらってもいいかな」
「良くはない」
「ごめん」
「仕方がないな」
蹲ったまま、僅かな熱を頼りに、心をなんとか動かしていく。
魔術師はなにもかもわかっていた。ギアノが言った通り、マティルデをよく知っていて、なにが起きたのか理解し、きっと世界でただ一人、解決する力を持っている。
仕方がない。これが、マティルデの選んだ道の果てなのだから。
普段から口煩く言われていたのに、心を入れ替えなかったから。
何事も安易に考えて、よく見える方へ流されて、誰も知らない深い水底へ辿り着いてしまった。
探索者だったら、命を落としたとしても、仕方がないねで済まされる。
こんな機会を与えられたことこそが、奇跡的だ。
本当ならなかったもの。今掴まねば、消えてしまう。
「……元通りのあの子に、本当に戻せるんだよね?」
「ああ。能天気で生意気な小娘に戻してやるから、故郷へ帰してやるがいい」
「その方が、いいんだよね。マティルデは、安全なところで、家族と一緒に、幸せに暮らした方が、いいんだよね」
背中に暖かいものが触れたように思った。
マージが後ろから抱きしめてくれているような気がして、ユレーはゆっくりと立ち上がっていった。
「頼むよ、魔術師ロウラン。どうかあの子を、もとに戻して」
「いいだろう。すぐに片をつけてやる」
決心が鈍らないようにするためか、本当に時間がなかったのかはわからないが、ロウランは振り返って扉を開いた。
「待たせたな」
開くと同時、中から吠えるような大声が響く。
マティルデはなにかを振りかぶった状態で飛び出してきて、ロウランめがけて振り下ろそうとしたようだ。
長い棒のようなものは虚しく空を切り、青紫色のローブがひらりと揺れる。
魔術師同士の戦いは本当に一瞬で決着がついてしまった。
マティルデは額を黒い手に捕まれて、ゆっくりと床に落ち、それでおしまい。
「マティルデ」
薄紫色の寝間着姿の少女に駆け寄り、頬に触れる。
すこし荒れているものの肌は暖かく、まぶたが微かに震えていた。
「マティルデ、ねえ、マティルデ」
何度か呼びかけると、愛らしい瞳がぱっちりと開いた。
少女は暗がりの中でゆっくりと起き上がり、きょとんとした顔で三人を見つめている。
「だあれ? やだ、夢を見てるのかしら」
のんびりとした声が響き、彷徨っていた視線が、ギアノの顔で止まる。
「テイバンおじさん?」
「いや、違うよ」
「……でも、そっくりよ。南通りの道具屋のおじさんに」
知った顔がいたからか、マティルデはにっこり笑っている。
けれど状況はどう考えてもおかしなもので、すぐに異変に気付いたようだった。
「わたし、こんな寝間着を持っていたかしら」
「マティルデ、説明するよ。でも、まずは着替えた方がいいね」
「あなたは誰? どうして私の名前を知ってるの」
「これから話すよ。でも、長くなるからさ。こんな格好じゃ外に出られないだろ」
「そうよね、寝間着のままじゃ笑われちゃうわ」
少女を連れて部屋の中へ入り、灯りをつけて、着替えを見繕う。
どれもこれも紫色ばかりな上、マティルデにはだいぶ大きいようだ。
それでもいくつか見繕って着替えるように言い、ユレーは廊下へ出て、まずはロウランに礼を言った。
「本当に元通りになってた。あたしたちのことも、覚えてない」
「伝えておいたはずだがな」
「あの、ごめんなさい」
「構わんよ。それより、この後の方が大変だぞ」
「そうだね。どうしてこんなところにいるのか、どう話せば納得してくれるかな」
ギアノに向き直り、ユレーはいつの間にか固まっていた決意を伝えていく。
「あたしがあの子を送っていくよ」
「いいの、ユレーさん」
「ああ。家族にも説明した方がいいだろ。マッデンとかいう奴にも、余計なことを言わないよう頼まなきゃ」
もう迷宮都市に行きたいなんて言わないように。
言い出しても、連れて来たりしないように、伝えた方がいいだろう。
「ギアノ、時々でいいから、マージの墓に花を供えてやってくれないかな」
「もしかして、もう戻ってこないつもり?」
「うん。……もともと、街を出るつもりだったんだよ。探索にも行けそうにないし、ただ働くだけなら別の街でもいいんだから」
自分に言い聞かせるように一気に吐き出し、涙を堪えて、ユレーは声を絞り出していく。
「こんなこと頼めた義理じゃないんだろうけど、ヌエルのことも気にかけてやってくれないか」
「わかった、いいよ」
「ダング調査官にも世話になったんだ。よろしく言っといてくれるかい」
「自分で言った方がいいんじゃない?」
「いや、もう、行く。マティルデを連れてすぐに出る」
そうしないと、きっと決心が鈍ってしまうから。
「雲の神官長にも伝えておいて。最後に世話になったから」
まだ、いくつもの顔が脳裏に浮かび上がってくる。
リティと、ゾース。エルンの明るい笑顔も思いだされて、たまらない気持ちになっていく。
「レテウスの坊ちゃんと、シュヴァルにも」
「もう、多いよ、ユレーさん」
顔をくしゃくしゃにして笑うギアノに、ユレーはまた涙をこぼしていた。
「ごめんね、最後まで迷惑かけて。あんたには本当に世話になったね、ありがとう、ギアノ」
「世話になったのは俺の方だよ」
「あんたほど優しくていい男、見たことないよ」
マティルデとの恋の行方を心配する前に、自分がギアノを狙っていた方が良かったのかもしれない。
そんな考えにふっと笑って、管理人の胸に拳をぶつけた。
「アデルミラと幸せにね。あの子にも、お礼を言っておいて。本当に親切にしてくれてありがとうって」
背後の扉が開く音がして、ユレーは振り返った。
マティルデは出てくるなり、服がぶかぶかだと文句を言っている。
「服は買いなおそう。家に帰るんなら、ちゃんとした服の方がいいもんね」
「うん。あ、でもわたし、お金を持っていないの。どうしようかしら」
鞄の中には、ホーカ・ヒーカムの金がたんまりと入ったままだ。
これくらいはもらっていいだろうと考えて、ユレーはにやりと笑ってみせる。
「大丈夫だよ、あたしが払うから」
「いいの? あの、あなたの名前はなんていうのかしら」
なんとか笑顔を作って、ユレーは名乗った。
たまらなく寂しい気分だったが、マティルデは微笑み、よろしくお願いしますと小さく頭を下げている。
そんな二人を満足げに見つめていた魔術師は、ギアノの手から光る鍵を取り、マティルデに向けた。
「この鍵はお前のものか?」
「え? 違うわ。きれいだけど、光ってるなんて変な鍵ね」
「では、俺がもらっても構わんな」
マティルデはぽかんとしていたものの、いいと思うわと答えた。
ロウランがふわりと手を振ると、廊下のあちこちについた燭台に火がつき、屋敷の中は一瞬で明るくなっている。
「じゃあ、行こう、マティルデ。あんたの家はなんて街にあるんだい」
「ルフールってところよ」
聞き覚えがない名前だが、ギアノがこう声をかけてくれた。
「ここからだと南東の方だと思う。南門から馬車に乗ればいいんじゃないかな」
「ありがとうね、ギアノ」
なにか言いたげな管理人に手をあげて、ユレーはマティルデを促し、屋敷の出口に向かった。
決して忘れないと誓いながら、向かう方向を未来へ定めていく。
まずはどこかで着替えを買って、お弁当を用立て、馬車の発着場へ向かえばいいだろう。
どうして迷宮都市にいたのか、理由を考えなければならない。
振り返りたい気持ちを堪えて、マティルデに笑顔を向けて、ユレーは迷宮都市最後の一日を踏みしめながら進んでいく。
「ねえ、さっきの人、すごく綺麗だったわね」
無邪気に囁く声が聞こえてきて、ユレーは足を鈍らせている。
マティルデが探していると話していた、もう一人。
そういえば異国から来た黒い肌の美女は、違う名で呼ばれていたし、神官だと言われていなかっただろうか。
「なんだかどきどきしちゃって、話しかけられなかったわ」
けれど今更、気にしてなどいられない。
これから始まる大仕事の為に、頭を動かさねばならないのだから。
大きな扉を開いて外へ出る。迷宮都市は朝を迎えており、大通りに辿り着けばもう大勢が歩いているだろう。
◇
「あの」
廊下には、二人きり。
ユレーたちの姿が見えなくなって、ギアノはロウランに問いかけていた。
「もしかして、ここの鍵を手に入れるのも予定に入ってました?」
屋敷の鍵は今、魔術師の懐に入っているはずだ。
ひそかに交わされたやり取りがどうしても気になって、ハラハラしながらも口に出したのだが。
「気にする必要があるか? この屋敷の主は死んだのに」
「……気にしない方がいいですか」
「ふふ。頼んでいいか、ギアノ。キーレイと共にいると、こんなやり方はできんでな」
ロウランは口元に笑みを湛えて、ギアノを見つめている。
「あの娘をどうしても救いたいと頼まれて、仕方なく」
そんないい訳ができる「良い機会」だったと言いたいのだろう。
ユレーとマティルデは街を去ったし、どんな理由にも利用ができそうだ。
「言っておくが、簡単ではなかったんだぞ。一瞬に見えただろうが、俺はとても消耗している。美味いものを食わせてもらわねば、しばらくの間、力が出なくて困るだろう」
「準備はしてあります」
「本当か、ギアノ。またいいものを作ってくれるのか」
ご機嫌な笑顔になった魔術師は料理人の腰に手をまわし、早く帰ろうと囁いてくる。
ニーロに頼んでいたらどうなっていただろうと、ギアノは考えている。
あのおっとりとしたおしゃべりに、のんきに笑う様子。
マティルデは本当に元に戻った。ギアノたちのことを忘れて、呪縛から解放された。
ロウランは約束通りにしてくれた。
けれど、見えない計画が潜んでいたような気がしている。
「このお屋敷が欲しかったんですか」
思い切って問いかけたギアノに、魔術師は微笑んで答えた。
「お前の料理が味わえればそれで充分だ……などと、俺が言うと思ったか?」
長い睫毛の下から、青紫色の瞳が向けられている。
鋭く、強く輝いて、ギアノは思わず息を呑んでいる。
「ふふふ、嘘だよ、ギアノ」
「本当に?」
「こんな屋敷などいらんよ。いやらしい色で飾って、悪趣味極まりない」
ホーカ・ヒーカムの屋敷には、紫色が溢れている。
やや赤みの強い紫で、ロウランの瞳とは印象が違う。
「迷い道は二度と起きないし、屋敷の調査もあとは地下を見るだけだ。キーレイもようやく解放される」
「そうですよね」
「あの娘が振りまいていた噂もそのうち収まるだろう。万事解決だよ、ギアノ」
確かに、ロウランの言う通り。大きな問題が解決されている。
すべての住人に関わるであろう迷い道も、キーレイを困らせたであろう嫌な噂話も。
神官長には立場があり、強引なやり方はできない。
だから、ロウランは自分たちの頼みを引き受け、すべてまとめて片付けた。
死者も弟子もあるべき姿に戻しただけ。
説明は簡単に出来る。誰も文句など言えないだろうと思える。
ロウランにしか出来ないやり方があり、望む者がいた。
ただ、それだけの話だと考えればいい。
扉を潜り抜け、二人で並んで外に出る。
腹が減ったと呟く声にギアノはようやくほっとして、笑みを浮かべていた。
最後に大きな門を閉めて、静かに祈る。
マティルデとユレーの未来が明るいものになるように。
「なあ、ギアノ。朝飯も食わせてくれないか」
「あはは、いいですよ」
朝日に照らされ、不安はすべて打ち払われていく。
意識をいつも通りの管理人のものに切り替えて、ギアノはロウランと共に、カッカーの屋敷へと帰っていった。




