221 夜明け前(下)
昨日もまともに食べなかったのだから、朝食くらいはとっておいた方がいい。
そうわかっていても、手が動かない。そもそも、昨日の夜眠れたかどうかすらヘイリーにはよくわからない。
一口だけ齧ったパンの前で、顔を覆って項垂れる。
そんな風にしていれば心配されるのは当たり前だし、助手が声をかけるのも必然だっただろう。
「ダング調査官、お休みになられた方がよろしいのでは」
のろのろと顔をあげると、ガランと目が合った。
顔色が良くない、隈が目立つなど、思いやりの言葉がいくつも並べられていく。
「ガラン」
「なんでしょうか」
「少し付き合ってもらえないか」
朝食を時間をかけてたいらげて、資料を置いている部屋へと向かう。
ガランは既に中で待っていて、ヘイリーに不安そうな顔を見せていた。
「大丈夫ですか。昨日、無彩の魔術師が訪ねてきたと聞きましたが」
「ああ。会いに行ったが不在で、留守番の者が伝えてくれたそうだ」
「それで夜に来られたのですね」
無言で頷き、昨日という日を思い返していた。
あれこれ話を聞いて、気にかかることがあったから。
ガランと共有しておくべきだと考え、朝から順に記憶を辿っていく。
「資料を見ていたら、ポンパ・オーエンがやって来て、例のごとく勝手にぺらぺらと話し始めたんだが、その中で『紫』の迷宮の調査の話になった。チェニーが担当して、無彩の魔術師やリシュラ神官長に力を貸してもらったというものだ」
「死体が残っていた件ですね」
「ああ。その時に、ポンパ・オーエンがひとつの仮説を教えてくれた。外から持ち込まれた死体は消えないのではないかという考えで」
「外から持ち込まれた?」
「仮説であって、確実ではないのだろうが」
しかし、死体は消えずに残り続けた。
本当に持ち込まれたというのなら、なんらかの企みがあってのことではないかと考えたことを、ガランに明かしていく。
「その後、墓地に向かった。死者に話を聞ければいいのにと考えてしまって……。馬鹿げていると思うだろうが」
「とんでもない、そんなことはありませんよ」
「ありがとう。そこで、男に声を掛けられたんだ。荒れ地で穴掘りをしている男だが、思いがけない話を聞けた」
「どんな話だったのですか」
いつの間にか、ガランはペンを用意してメモを取る準備を済ませていた。
ヘイリーの聞いた話を資料として残そうとしているのだろう。
助手の行動に感謝して、ヘイリーは意識を動かし、集中して記憶をなぞっていく。
「話したのはリュージョという名の男で、あの場所に何度もやって来る人間は珍しいと俺に声をかけてきた」
「なるほど」
「マージの墓に花があって、誰が供えたのか考えていたんだ。よく女性が来ていると言っていたから、ユレーなのだろうな。墓を作ってもらえる者などほとんどいないという話になって、それで、何度も死体を埋めに来ている連中がいると聞かされた」
ガランの顔色がみるみる青くなっていく。
ペンを放り出して、大地の女神に祈りを捧げているようだ。
既に死体を埋めたところでも構わずに放り入れる話で更に驚かせてしまったが、重要なのはこの後だ。
「もしやと思って、ジュスタン・ノープの似せ書きを取りに戻ったんだ」
「その男に見せたのですか」
「ああ。何度も死体を埋めに来ていた、最近すっかり見なくなったと言っていた」
「なんという……」
助手の青い顔を見て、ヘイリーはしまったと思っていた。
ジュスタン・ノープの名を何故知っているのか、ニーロに聞くのを忘れていたと気付いたから。
「どうかしましたか?」
「いや、肝心なことを聞き忘れていたんだ。そもそも、ジュスタン・ノープの名を知っていた理由を聞こうと思っていたのに」
「無彩の魔術師に?」
「ああ。今日訪ねて、また会えるだろうか」
額を押さえ、ため息をつく。
無理矢理動かしていた体がどっと重くなり、自分の間抜けさが悔やまれて仕方ない。
「いつになったらまともにやれるようになるんだ、俺は」
後悔はそのまま弱音に代わり、ヘイリーの口から勝手に飛び出していく。
「なにを言うのです。頑張っておられるではありませんか」
「どうだかな。そもそも、こんな風に事件を調べてまわるような器ではないんだ。王都でも、剣を振るくらいしかしていないんだから」
ガランは立ち上がり、部屋を出て行ってしまった。
自虐など聞くに堪えないものに違いなく、情けなくてまたため息をついてしまう。
気怠さに抗えずに時間を無駄にしていると、再び扉が開き、ガランが温かいお茶を持って戻って来た。
「まずはこれを飲んでください」
「……すまない」
「少しお休みになられた方がいいと思いますが」
その気はあるかと問われたが、受け入れられなかった。
今の情けない気分の晴らし方がわからない上、どうしようもない悔しさもあって。
「昨日は何人かに話を聞いた。有用な話もあったんだ。ガランがいてくれればと何回も思った」
「それは光栄です。では、思い出して聞かせて下さい。ちゃんと記録して、資料にして残しましょう」
ぼんやりと頷くヘイリーに、助手の男は首を傾げている。
「あの、ダング調査官。思い悩んでおられるようですが……。少し、いいように考えてみませんか?」
「いいようにとは、どういう」
「私の祖父は神官だったんです。その祖父がよく言っていたことがありまして」
「そうなのか。立派な方だったのだろうな」
「いえいえ、神官といっても自称なのです。本当に小さな集落で、神殿を護る者がいなくなった時に、自分がやると名乗り出ただけなのでして」
「名乗り出た……?」
「ええ。いい加減な話でお恥ずかしい限りなのですが、人の少ない田舎で、それでよいとなったそうなんです。幼い頃は私も祖父を立派な人だと思っていましたが、仕事は適当なものでした」
ガランは苦笑いをしているが、いいことも言っていたと話した。
決して学のある人間ではなかったが、とても前向きで、救われることもあったのだと。
「もちろん当てはまらない場合もあるのですが、物は考えようだというのが祖父の考えでして」
例えば十シュレール入った財布を拾った場合。
大金を期待していれば、たったこれだけかと思うような額だが、得られたこと自体を喜べば、十シュレールも大きな恵みになる。
「財布を拾ったのなら、持ち主を探すべきだと思うが」
「まったくその通りです。すみません、ダング調査官。例えがよくありませんでしたね」
こほんと咳ばらいをして、ガランは表現を考えたようだ。
新たな例えは思いつかなかったようで、鼻に皺を寄せながら、こんなことを話していく。
「昨日は朝からポンパ・オーエンが押しかけて来たのでしょう。あの魔術師の話は無駄に長くてなかなか終わりませんが、聞いたお陰で消えなかった死体の秘密について、……知見を得られた」
「ふふふ」
「この話を聞いて、墓地へ行こうと思いつかれたから、リュージョなる男と話が出来たのでしょう。似せ書きの男が何度も来ていたことも確認できています」
「……なるほど。いいように考えるとはそういうことか」
「そうですそうです。なにごとも前向きに、成果として捉えればいいのです。私は今聞いた話を、捜査で得た情報としてこうして書き記していきますから。どんな情報も、いつ役に立つかわかりませんからね。些細な違和感の正体に後から気付いたこともあったではありませんか」
ガランはさらさらとペンを走らせ、ヘイリーの話を書き記してくれている。
助手の心遣いに感謝して、温かい飲み物を口に運ぶと、心にかかっていた暗雲も薄くなったように思えた。
「無彩の魔術師を訪ねたのは、玄関先で会った後ですか?」
「ああ、そうだ」
「お帰りの時間からして、すぐに戻らなかったのでしょう。他に誰かに会ったのではありませんか」
「君は鋭いんだな」
ニーロの家で留守番を任されていたのはノーアン・パルトで、話を聞かせてもらった。
シュヴァルとも改めて話してみたいと思いつき、貸家へ向かったが、こちらも旅に出ていて不在だとわかった。
「代わりにサークリュード・ルシオと話をしたんだ。その中にひとつ、気になることがあった」
「なんでしょうか」
「シュヴァル少年がシンマに襲われた時のことだ。シンマは先に、サークリュード・ルシオに視線を向けていたと話していただろう」
「本人もそう言っていましたね」
「ああ。シンマにとって、仲間の可能性があるのは自分だけだったのだと、シュヴァル少年は言っていたらしいんだ」
「可能性、ですか……。確かに、仲間だと勘違いされたようだと言っていましたね」
クリュはシュヴァルの鋭さについて語っていた。彼は普通の少年ではないのだと。
ヘイリーもそう思っている。だから、話を聞きたいと考えた。
あのシュヴァルがわざわざ口に出したのなら、意味があるのではないか?
直感にも似た、根拠のない考えだが、なにかがひっかかっている。
いくつかの事件に巻き込まれた、貸家の住人たち。
レテウス、シュヴァル、クリュと、ティーオ。
美しい青年は何故だか、ヌエルの容態を気にかけていた。
ヌエルは、ジマシュと共にデルフィを閉じ込めていた張本人。
神官に逃げられた後、クリュを探索に誘い、何度も接触を図っている。
「……ジマシュ・カレートは、レテウス様を狙っていると考えていいと思うか」
「その可能性は充分にあると思います。二度も声をかけられているのでしょう。私に声をかけた時とまったく同じことを言っているようですし」
ガランは答えている間になにか気付いたようで、口元に手をあてている。
「あのジュスタン・ノープという男も似たようなことをしていますよね。ダング調査官にも、ポンパ・オーエンにも仕事の話で近付こうとして」
「探索の仲間になろうとするのも同じか?」
「探索者相手ならば、あり得ますね」
「そうか……。ヌエルの狙いはレテウス様に近付くことだったんだな」
「サークリュード・ルシオではなく?」
「そう考えた方がしっくりこないか。あんな結果になったせいで何事かよくわからなくなっていただけで」
同じ貸家で暮らすシュヴァルも、後に襲われた。
少年を襲ったシンマの言葉は、理解できないと思っていたが――。
「シンマは計画自体は知っていたのに、ヌエルが失敗したことは知らなかったのではないのかな」
「なんの話です、ダング調査官」
「ジマシュ・カレートは自分自身で動かない。手下を利用して、計画を実行させるんだ。ヌエルはレテウス様を取り込む為に、まずサークリュード・ルシオに近付いた。固定の仲間がいない探索者は、出会いを求めているだろう。レテウス様よりもずっと声をかけやすい」
ヘイリーの説明に、ガランの表情も深刻になっていく。
「シンマは『もう仲間ということでいいんだな』とシュヴァルに確認している」
「なるほど。サークリュード・ルシオから近づくという話だけは知っていて、シュヴァル少年がうまくやったと勘違いしたというわけですね」
充分にあり得るのではないか。
二人はいくつかの資料を手に取り、意見を通わせていく。
「ヌエルは失敗をしたから、医者のもとで襲われた。シンマはもっと大きなミスをしたんだろう。『今日の店』とやらで旦那に会いに行ったこと自体も、次の日にシュヴァルに襲い掛かったことも」
「では、シンマも? 前にもそんな風に考えておられましたよね」
「ああ。あのスウェンと名乗っていた男も、無関係ではないのだろう。オイデ・スロッドと名乗っていたんだから。シンマはノープとオイデの名を口にしている。スウェン・クルーグの本当の名はわからないが、シンマと共に居たところを見た者がいるし、大穴の底で死んでいることを知っていたとしか思えない」
「藍」の迷宮へ誘われた、ダイン・カンテークたち。
探索初心者たちの無謀な振る舞いに気を取られていたが、目的はあくまでポンパ・オーエンだったのだろう。
自分たちに従う魔術師が欲しかったから、弱みを握る為に死体を目撃させ、初心者を置き去りにするよう唆した。
すべてが繋がっていく。
これまでにあった様々な不穏のかけらが集まり、大きな闇になり、二人を包み込んでいく。
「なあ、ガラン」
「……なんでしょう、ダング調査官」
不安げな助手に、打ち明ける。
集まった闇から生まれた、更なる暗がりについて、口に出していく。
「マージが死んだのは、偶然だと思うか」
ガランはなにも答えない。眉を顰めてヘイリーを見つめるだけで、なんの言葉も発しなかった。
「皆、とても慎重だと話していただろう。マージはオッチェの店で依頼を探していたにも関わらず、外で声をかけてきた誰かの誘いに乗っている。シンマのような男が混じっていたのに同行を決めたのは、余程心を動かされるような言葉を使われたからなんじゃないか?」
「なんだと考えておられるのです、ダング調査官」
マージが最後の探索に向かった「藍」。
鹿の角を採取して帰る、日帰りの探索。
ともに倒れていたのは、シンマと魔術師のローブを着た男だけ。
彼らがあそこで死んでいると知っていたであろう、スウェン・クルーグ。
あと一人。空いている。五人組になる為の席がひとつ。四人で行ったとは思えない。
慎重だったと誰もが語っていたマージ。
それなのに、誰と共に行ったのかわからず、大穴の底で息絶えていた。
「ヌエルの話を持ち出されたんじゃないだろうか」
「誰にです」
「ジマシュ・カレートに」
「そんな……。さすがに、どうでしょう。マージのことを知っていたかどうかもわかりませんし」
ヌエルがぺらぺらと自分の交友関係について話しているかどうかなど、知る由もない。
それでも可能性について記憶を探っていくと、ひとつの疑問に行き当たった。
「医者に担ぎ込まれて襲われた後、ヌエルはマージとユレーに助けられている」
「どこかの店の裏手に倒れていたという話でしたね」
「知り合いの店だった可能性はないかな。ヌエルがよく行っていたところで、マージも知っていたとか」
「有り得るかもしれませんが、わざわざそんなことをする意味があるでしょうか?」
確かに、ガランの言う通り。知り合いに見つからない方がいいに決まっている。
けれどその意味のなさにこそ、理由が隠されているのではないかとヘイリーは考えていた。
「昨日言われたんだ。無彩の魔術師がやって来た時に、ジマシュ・カレートについて」
「あの男の話をしたのですか」
「ああ。魔術師ニーロが来た理由は、警告の為だ。迂闊に近付かないよう釘を刺しにわざわざやって来た」
「事件について話す為ではなく?」
深く頷き、ヘイリーは助手を見つめた。
唾を飲む音が殊更大きく聞こえたし、汗がたらりと落ちる瞬間も見えた。
「悪事を働く者には理由があるだろう。金が欲しいとか、邪魔な人間がいるだとか」
「そうですね。騙されて巻き込まれる者もいるんでしょうが」
「普通ならそう考える。だが、そのせいでわからなかったんだ。どうしてこんなにも不可解なことが起きるのか」
灰色の瞳の魔術師がわざわざやって来て告げたこと。
ジュスタン・ノープの名を知っていた理由など今更どうでもよいのだと、ヘイリーはそう気付きながら、ガランに男の「目的」について話した。
「他人の不幸が、娯楽?」
ガランの唇が震えている。
「ヌエルは弱って虫の息だったのだから、人通りの少ないところに放り出しておけばよかったんだ。そうすれば誰にも気づかれずに、神官の手で荒れ地に葬られて終わる。探索をする者の行方がわからなくなるなどよくある話で、わざわざ探したりはしない」
「では、あえて、マージに見せつけようとしたと?」
「彼女は悲しみ、ヌエルを救う為に共に暮らしていた仲間と別れる羽目になった。必死で条件の良い依頼を探していたのも、金に困るようになったからだ」
挙句、惨たらしい姿で、迷宮の底で死んでいた。
大勢に愛されたスカウトに似合わぬ、暗い、哀しい終わりは、不幸そのものでしかない。
誰かが望んだことかどうかは、わからないけれど――。
「ああ、そうか。これを言いたかったんだな」
「まだなにか?」
「ジマシュ・カレートは危険な男だと知らせてくれたが、無彩の魔術師は、彼について言えることなどなにもないんだとも言っていた」
すべては推測、想像、妄想に過ぎない。
こんなにも暗い闇の色をしているのに、黒だと言い切れる根拠がないから。
ヌエルを襲った人物も、どこかの店の裏に転がしたのが誰かもわからない。
マージと共に迷宮へ向かった探索者の正体も、ヘイリーたちは知らない。
チェニーがどうして調査団に戻ったのか。
痩せこけ、哀しみに暮れ、あれほど後悔していたのに、誰にもなにも告げなかった理由も。
永遠にわからない。死者は語らないから。
二度と口を開かないし、ヘイリーに教えるつもりなど、かけらもないのだから。
目の前が暗くなっていく。
「ダング調査官」
自分を呼ぶ助手の声も遠のいて、聞こえなくなっていく。
急に意識が戻って、ヘイリーは瞬きを繰り返していた。
横になっている。自室にいる。辺りは暗く、夜中のようだ。
順番に理解して、ゆっくりと起き上がった。
ガランと話をしている間に気を失ったのだとわかったのは、少し経った後だ。
調査団員の為の狭い部屋には、ロッカーと小さなテーブル、椅子が一脚置かれているだけ。
そのテーブルの上にカップが置かれ、その隣に薬らしき包みが並んでいる。
なんの薬かはわからないが、ガランが用意してくれたのだろう。
昨日はろくに眠れず、話している間も何度も注意をされた。
寝不足が極まって限界が来ただけなのだろうが、心配をかけただろう。迷惑も。きっと大勢を巻き込んだはずだから。
情けなくて仕方がないが、謝る以外にやれることはない。
顔を合わせたら詫びると決めて、水を手に取り、乾いた喉に流し込んでいく。
休息をとったからか、昨日よりも頭が働いているように思う。
自身の状態を冷静に確認して、ガランと交わした会話を思い出し、がっくりと頭を垂れて。
一気に暗澹たる気分になってしまったが、いつまでも項垂れていられない。
ものごとを少し、いいように考える。
昨日はガランに聞いてもらって良かった。様々な話が資料として記されたし、新たな気付きもあった。
感情のままに動かず、冷静に振舞うべきだと学ぶこともできた。
窓を覗き、外の様子を窺う。
辺りは暗く人通りもないが、真夜中はとうに過ぎ、朝は近いのではないかとヘイリーは思う。
街に巣食う闇がある。
魔術師ニーロが聞かせてくれた、金色の波打つ髪の男について考える。
他人を操り、唆し、不幸の谷に突き落として、嘆きの声を楽しむ、ジマシュ・カレート。
チェニーの顔を思い出す。王都で流れた酷い噂について、本当かと詰め寄ってしまったあの日の様子を。
幼い頃、共に野山を走り回っていた日々とは違っていて当たり前なのだが。
それでも、あんな姿になってしまうとは。
こけた頬に、やせ細った腕、光のない瞳、震えながら、知らないと繰り返していた弱々しい声。
鍛冶の神の前で騎士になると誓った妹は、どんな思いで死を選んだのだろう。
「チェニー」
窓辺で呼びかけても、返事はない。迷宮都市の夜明けは静かで、なんの音も聞こえない。
なにも知らずにいたかったというが、ジマシュ・カレートと共にいて、幸せな時間があったのだろうか。
妹は姿を見せない。死んでしまったから。だから、なにも答えない。
「必要なのは、……生きている者の声」
誰かに囁かれたような気がして、ヘイリーは制服を纏った。
支給された装備品を身に着け、薄暗い中で髪を整え、部屋を出て、水場で顔も洗う。
夜が明ける前の無人の廊下を抜けていく。
向かったのは臨時で用意した留置場で、今は二人の怪我人が拘留されている。
そのうちの一方の鍵を開けて、揺り起こした。
何度か名前を呼び、反応を待って、瞼を開けた男に話しかけていく。
「歩けるか」
ヌエルは驚いたような顔をしたが、なにも答えなかった。
ヘイリーはお構いなしに腕を引いて立たせて、様子を確認していく。
ほどほどに癒してもらった甲斐があり、自力で立つことはできるようだ。
そのまま外へ連れ出して、扉を閉めた。
肩を貸して、廊下を抜け、調査団を出て。
どこへ行くとも、なにをするとも教えぬままに、西の荒れ地へ進んでいく。
ヌエルは戸惑った顔をしていたが、逃げられる状態ではないのだろう。逆らいもせずに足を動かしている。
夜は過ぎ、きっともうすぐ朝日が現れる。
ほのかな明かりを背にして進んで、二人で小さな墓の前に辿り着く。
一昨日見た萎れた花はなくなり、鮮やかな黄色がスカーフの下に供えられていた。
「君もここに来たかっただろう」
ヌエルの体を下ろし、これはマージの墓だと告げる。
「ギアノ・グリアドが埋葬してくれた。この花は、ユレーが持ってきたものだ」
座り込むヌエルの隣に膝をつき、ヘイリーは祈りを捧げていった。
探索者として力を認められ、周囲から愛されていたスカウトの為に、その魂が癒されるようにと。
こんな時間に、誰にも言わず、たった一人で。
どんなに問うても答えなかった男を連れてきた理由は、ヘイリーにもわからない。
けれど。
「君は何故、ジマシュ・カレートに従っているのかな」
ゆっくりと立ち上がりながら、問いかけていった。
友人の墓の前で力なく座りこむ、ヌエルに向けて。
「……きっと、君にも理由があるのだろう。私には想像もつかないような事情を抱えているのだろうが」
花を指さし、語っていく。
ユレーはしょっちゅうここに来て、マージの為に花を絶やさないようにしているのだと。
「マージについて、様々な人から話を聞いた。男の身でありながら、女の格好をしていたことも。彼女はとても慎重に物事を進めていたようだが、誰も女装のことを気にしてなどいなかったよ。私は本人に会うことはなかったが、とても良い人間だったのだろうと思っている。皆がそう語っていたから。口を揃えて、面倒見が良く、優しい人間だったと教えてくれた」
きっと最後の瞬間まで、君のことを思っていただろう。
ヘイリーは確信をもってそう語り、もう一人の協力者について触れていく。
「だから、ユレーも君の為に尽くしてくれたのではないかな。姉妹とまで呼ぶような仲になったマージが、どうしても救いたいと願っていたから。無関係な立場だというのに、死を知らされた後も、君の面倒を見続けた」
簡単なことではないのに、ユレーは最後まで投げださず、貸家の後始末まで済ませている。
「そこまでの深い友情を築ける相手との出会いは、滅多にないことだ」
一度会ってみたかったと呟き、ヘイリーは息を吐いている。
ヌエルからの返答は、まだ、一言もない。
「今、拘留しているもう一人の男。きっと、スウェンでもオイデでもないであろうあの男は、マージの死に関わっている。あの男は迷宮の落とし穴の底でマージが死んでいることを知っていた。なんらかの方法で命を奪い、深い穴に落とした上で、その死を他人を陥れる為に利用している」
もう一度、大きく吸って、吐き出していく。
ポンパ・オーエンが明かした大穴での一部始終について、語るには気力が必要だったから。
「あの男は、魔術師を仲間に引き入れる為に、マージたちの死を利用した挙句、心ない者に尊厳を踏みにじらせた」
踏みにじった本人も、既に命を落としているのだが。
それは別な話で、今は語る必要はないだろう。
「大穴の底で起きた出来事について突き止めたのはギアノ・グリアドだが、衝撃が強すぎて詳細を話せなかったほどだ。彼にとっても、マージは良い友人だったから。どんな些細なことでも喜び褒めてくれる、素晴らしい人物だったと語っていたよ」
ギアノの憔悴した顔も、よく覚えている。
遅い時間に調査団にやって来て、この場所へ来る間に話してくれたが、普段とはあまりにも様子が違っていて、事態の深刻さを思い知らされたものだった。
「ヌエル」
ヘイリーは男の隣にしゃがみこみ、静かに語り掛けていった。
「君は許すのか。マージを、ジャファトを死なせて利用した者を」
スウェン・クルーグはあの時、ヌエルの名を口走った。
なにがあるかはわからないが、絶対に、無関係ではない。
「彼女が築いた親愛や君との友情を色褪せて見せるような尊いものが、他にあるのか」
違うと言ってほしくて、ヘイリーは静かに、まっすぐに心に向けて、問いかける。
「それは、あんな惨たらしい最期を迎えても仕方ないと君に言わせるほど、美しいものなのか」
かすかに風が吹いてきて、マージのスカーフをひらりとなびかせていく。
スカーフと揃いの鮮やかな黄色の花びらが、ヘイリーの視界の端で揺れている。
「……オルヴェだ」
かすかな声と共に、ヌエルの目から涙があふれていった。
とめどなく溢れて、大きな粒になり、乾いた土地を濡らしていく。
「オルヴェ?」
返事はなかなか聞こえてこなくて、やはり無理なのかと諦めかけた瞬間だった。
「あいつの名前。オルヴェ・スローグ」
記憶がはじけて、火花を散らす。
デルフィの口から聞いた名前は、オイデ・スローグ。
はっきりと繋がり、燃え上がる。心は熱く、激しく炎をあげて、ヘイリー・ダングを目覚めさせていく。
「ジュスタン・ノープの名も知っているか」
ヌエルは頷いたが、手を突き出し、呻くように調査官にこう頼んだ。
「少し待ってくれ」
男の涙はまだ止まらない。
「後で、必ず話すから」
力なく頽れるヌエルの姿は哀しく、ヘイリーは目を閉じて答えた。
「わかった」
西の荒れ地に、慟哭が響く。
朝日に照らされ橙色に輝きながら、涙の雨が降り注いでいく。
墓にすがりつき友人の名を呼び続ける男の姿を、ヘイリー・ダングは静かに見守り続けた。




