211 敬愛なる隣人 (中)
「これはクラステン神官長。今日はどうなさいました?」
雲の神殿から、迷宮調査団本部は近い。
歩いてすぐに辿り着くところで、ゲルカはデルフィと共に本部の入り口に立っていた。
「ダング調査官はいるかな」
「ええ、今日はまだ中にいるはずです。姿を見ていないので」
中に入り、応接間へ通される。
デルフィの顔色はよくないが、緊張しているからなのか、栄養不足のせいなのかはわからない。
「大丈夫だ」
隣で座る神官の手を取り、強く握る。
デルフィは小さく頷き、自分の首にかけられたままになっていた鍛冶の神官のしるしに気付いたようで、手で触れた。
「そのまま身に着けていていい。君には鍛冶の神も寄り添い、見守ってくれていると思えばいいんだ」
「ありがとうございます、ゲルカ様」
並んで座ったまま待っていると、遠くから足音が聞こえてきた。
床を蹴る音はかなり早いリズムで、扉の向こうから現れたのはゲルカの想像通り、ヘイリー・ダングだった。
「クラステン神官長、お待たせしました」
ゲルカは立ち上がり、デルフィも続く。
「早い時間にすまない、ダング調査官」
「いえ、問題ありません」
「彼はデルフィ・カージン。君に話があるということで、付き添って来た」
鍛冶に仕える者か、雲の使徒なのか、まだ身分のふわふわとした神官の名を告げた瞬間、ヘイリーの顔色は明らかに変わった。
「デルフィ・カージン。君が」
「はい、ダング調査官。初めまして、デルフィ・カージンと申します。ギアノ・グリアドに訪ねるよう伝えられて、今日は来ました」
「ギアノ・グリアドに?」
「はい」
訝しげな顔をしたまま、ヘイリーは神官たちの向かいに腰を下ろしている。
ゲルカも椅子に座り、デルフィにもそうするよう告げて、三人で向かい合った。
部屋はしんと静まり返っていて、どうなるかと思ったのだが。
まずはヘイリーが口を開き、まっすぐにデルフィを見据えたまま話し始めた。
「来てくれてありがとう。君にずっと会いたいと思っていた」
「探していましたよね」
「ああ。最初に訪ねたのはギアノ・グリアドだったが、君への手紙が預けられていたと知って、直接話ができればいいのにと考えていた」
扉を叩く音がして、ガランが顔を覗かせている。
助手の男は飲み物を持ってきただけのようで、テーブルに三つのカップを丁寧に置くとすぐに部屋を出ていった。
「ギアノ・グリアドにはずっと協力してもらっている。けれど、君と会ったという話は聞いていない」
ヘイリーの視線は鋭く、単に驚いたと伝えたいだけではないのだろう。
部屋には緊張が満ち、ゲルカは隣に座る神官を見つめた。
「ギアノと再会できたのはごく最近のことです。僕はずっと、身を隠していましたので」
ヘイリーの眉間の皺が深くなっていく。
視線は最早睨みつけていると言っていいほど強く、デルフィに向けられていた。
「デルフィ・カージン。君は、私の妹であるチェニー・ダングを知っているのだろうか」
「はい。そんな名だと、ずっと知らずにいたのですが」
デルフィはひとつずつ語っていった。
ベリオという名の戦士と共に街の西側で暮らしていたこと。
ある日声をかけてきた初心者がいて、彼の挑戦に付き合ったこと。
ダンティンという無鉄砲な初心者に連れられて、二人の探索者がやって来たこと。
「ドーンと名乗ったスカウトの見習いが、あなたの妹のチェニー・ダングでした」
長い説明をし終わり、デルフィはこほんと咳ばらいをして、こう補足を入れている。
「顔を汚していたので、恥ずかしい話ですが、僕は女性だと気付かずにいました」
「いつ気付いたのかな」
「ずっと後になってからです。ダンティンの挑戦が失敗に終わった後、僕はしばらくの間監禁されていました。そこから逃れた日に、偶然調査団員たちが大勢横切って行ったのを見たのです」
制服姿でいたから、女性だとわかった。
ヘイリーはぎゅっと強く、目を閉じている。
デルフィは話を戻し、五人組についてこう語った。
「バルジ、デントー、カヌート、ドーン……。僕たちの中で本当の名を名乗っていたのはダンティンだけでした。彼は滅茶苦茶なところがありましたが、本当にまっすぐで。だからベリオも惹かれたんだと思います。彼の思いに寄り添って、共に迷宮の底を目指せば、なにか見つけられると感じていたのだと」
僕も同じです、と神官は吐息のように囁いている。
「しばらくの間、同じ宿に滞在し、生活を共にしていましたが、『橙』の迷宮の二十一層で挑戦は突然終わってしまいました。特別な物が手に入る通路があるところで、僕はカヌートに足を見て欲しいと頼まれ、そこで意識を失ったのです。気が付いた時には地上に、もともとの仲間と暮らしていた貸家にいて、そこで多分、ひと月程閉じ込められていたと思います」
「では、その場で起きた出来事は見ていない?」
二十一層目にあるという、恐ろしい罠について。
作動したところは見ていないのか?
ヘイリーの問いかけに、デルフィは頷いている。
「ベリオとダンティンが向かったのは見ました。ドーンが操作を引き受けたのも」
調査団員の顔は険しい。あまりにも暗い光を宿した瞳に、ゲルカは思わず祈りの言葉を呟いている。
それに気づいたのか、ヘイリーはまた目を閉じ、顔を伏せた。
再びあげた時にはいくらか落ち着いた表情になっていて、デルフィが息を吐きだす音が聞こえた。
「それから、僕は身を隠して暮らしてきました」
「どこで暮らしていた?」
「薬草業者として働いていたんです。髪を染めて、別人のように振舞って」
たったそれだけで、このひょろ長い体型をよく隠し通せたものだ。
ゲルカは感心しているが、調査団員の目は変わらずに険しい。
「いくつも聞きたいことがある」
「はい」
「なにから問えばいいのか、少し考えさせてほしい」
「わかりました」
ヘイリーは立ち上がると、部屋を出て行ってしまった。
緊張が解けたらしく、デルフィは大きく息を吐いて、天を仰いでいる。
「大丈夫かな」
「はい、はい、ゲルカ様。まだなにも話していません。僕たちに起きた出来事をほんの少し説明しただけで」
「薬草業者として働いていたのだね」
「そう、です。僕はあの時、とても混乱していました。何故あんなことになっていたかわからなくて、ベリオの行方どころか、彼が本当にいたのかすら確信が持てなくなっていて」
「雲の神殿に来た日のことかな」
そうです。
デルフィの力ない返事に、ゲルカは目を閉じている。
鍛冶の神官は髭と髪をぼうぼうに伸ばして、痩せこけた姿で現れた。
あれからどうしているか心配していたし、キーレイからもこう声をかけられている。
デルフィ・カージンが頼ってきた時には、なにも言わずに力を貸してやってくださいと。
ヘイリーが戻って来て、再び向かいに座る。
調査団員は助手を連れて来ており、ガランを隣の席に着かせた。
「彼はガラン。調査団で働いていて、ここに来て以来様々な調査に付き合ってもらっている」
同席させてもらうとヘイリーは言い、返事を待たずに神官へ問いを投げかけた。
「質問はいくつもあるが、まずは君の組んでいた五人組の一人、カヌートについてだ。彼についてはギアノ・グリアドからいくつか聞いているが、君はあの男の本当の名を知っているかな」
「本当の名かどうかはわかりませんが、ヌエルと呼ばれていました」
「どこで、誰にそう呼ばれていた?」
「迷宮の中で気を失った後です。貸家で目覚めた時に、カヌートと……」
「カヌートと?」
僅かな沈黙の後に、デルフィは答えた。
「ジマシュという名の男がいました。彼は僕の幼馴染で、共に迷宮都市へやって来た間柄で」
「ジマシュ・カレートであっているかな」
「はい」
「その二人に監禁されていた?」
「……そうです」
ヘイリーはガランを振り返り、頷きあっている。
「ヌエルという男は今、この調査団の本部にいる」
「え?」
「彼はサークリュード・ルシオという名の探索者を襲ったが、この名前に聞き覚えはあるかな」
「いいえ、ありません」
「白く輝く金髪のとても美しい青年だが」
「知りません」
調査団員たちはまた目で会話を交わし、デルフィへ後で顔を確認してほしいと頼んでいる。
神官は頷き、わかりましたと答えて、次の質問に移った。
「君は何故迷宮の中で意識を失い、地上へ戻されたのか」
わかるか、とヘイリーは問うている。
隣で青い顔をする神官をまっすぐに見据えて。
「推測される状況から考えると、ヌエルとチェニーは同じ目的を持っていたように思うが」
「それは……」
「ヌエルは君の意識を失わせ、チェニーは残る二人の命を奪った。君を連れ去る為にやったように思えるが、何故ヌエルだけがいて、チェニーは調査団へ戻されたのだろう」
ガランがなにか声をかけている。
ひそやかにおさえた声で、ヘイリーになにか囁いている。
けれど調査団員は微動だにせず、瞳に炎を宿して神官を見つめていた。
チェニー・ダングについては、ほんの少ししか知らない。
随分前に初めて女性の団員ができたと聞いて、他の面々と共に会ったことはあるが、個人的な会話などは交わしていない。
その兄であるヘイリーがやって来て、なぜこんなにも鋭い瞳でデルフィを見つめているのか。
相当なことが起きたとしか思えず、ゲルカは息を呑んでいる。
「はっきりとした理由は、わかりません」
「そうか」
デルフィの答えに対し、調査団員の反応は薄い。
予想がついていたかのようなそっけなさで、こう呟いている。
「ヌエルとチェニーがジマシュ・カレートとどのような関係にあったのかも知らないかな」
「関係については、すみません、わかりません」
「わかった」
「二人は僕を監禁している間、ベリオもダンティンも、ドーンも、いないものだと何度も繰り返していました」
「いない?」
「目が覚めた時、三人はどこにいるのか何度も聞いたのです。そのたびに、そんな奴らは知らない、聞いた覚えがないと言われて」
「なるほど」
ヘイリーの指示が出て、ガランが紙に情報を記していく。
さらさらとペンが走る音が止まると、次の質問が始まった。
「何人かの名を言うから、聞き覚えがあるものがあったら教えてくれないか」
「はい」
「シンマという名に聞き覚えは?」
「ありません」
「スウェン・クルーグはわかるかな」
「知りません」
「では、オイデ・スロッドはどうだろう」
三人目の名に、デルフィはぴくりと体を揺らした。
「知っているのか」
「いいえ……。その、オイデ・スローグなら、覚えがあるのですが」
「オイデ・スローグ? その名はどこで?」
「無彩の魔術師に会った時に、同じように聞き覚えがないか確認されたのです」
調査団員も同じように、体を震えさせたように見えた。
ヘイリーはガランへ振り返り、資料を探して一枚の紙を取り出している。
「いつ聞かれた?」
「……その、無彩の魔術師に会ったのもごく最近です。彼はベリオと共に探索をしていた頃があって」
「他に聞かれた名はある?」
「あります。確か……、魔術師のザックレン・カロンと」
デルフィはほんの少しの沈黙の後に、もうひとつ、名前を口にしている。
「ジュスタン・ノープだったと思います」
魔術師の名に反応はなかったが、次の名でヘイリーとガランは目を合わせていた。
助手はまたさらさらとなにかを記し、調査団員は最後の問いを口にしていく。
「無彩の魔術師からその三人の名を確認されたのは何故か、わかるかな」
「それは」
デルフィの声はそこで途切れた。
神官の目はゲルカに向けられたので、やせ細った手を握り、力を籠めた。
「勇気が必要ならば、いくらでも与えよう」
ゲルカはなにも知らない。デルフィが抱えて来たものも、ヘイリーの内で燃えさかる怒りの理由も。
二人がこうして向かい合っているのは、それぞれの人生の道の上に現れた大きな壁を超える為だ。
ならば、できる限りをした方がいい。ゲルカは祈り、デルフィの心が奮い立つよう、雲の神の名を唱えた。
「無彩の魔術師が尋ねたのは、僕がジマシュの唯一の友人だからです」
「ジマシュ・カレートはなにをしている? 君は彼について、なにを知っている」
「良くないことを、しているのだと思います」
「……確証はない?」
はっきりとなにかをしていると示すものはあるのか。
こんな問いかけに、デルフィは力なく答えている。
「同じことを無彩の魔術師にも聞かれました。はっきりとした証拠はあるのか、間違いないと言えることがあるのかと」
「ないんだな?」
返事があったのは、少しの間を置いてから。
そうですという答えは予想できていたようで、ヘイリーが静かに頷くと、話は終わった。
調査団に拘留されている二人の男の顔を確認する為に、デルフィは連れていかれた。
待たされたのは僅かな間で、神官はすぐに応接間に戻され、調査団を出ている。
雲の神殿へ戻り、ゲルカはデルフィを部屋へ招いた。
やせ細った神官は動揺していて、落ち着かないように見えたから。
「大丈夫かな、デルフィ」
ひょろ長い男の顔色は冴えない。
困惑したような顔をしたままでしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと首を振って、ゲルカに胸のうちを話して聞かせた。
「すみません、驚いてしまって」
「なにを驚いたのかな」
「ダング調査官はジマシュを知っていました」
最早自分が語る必要がない程度に、「わかっている」のだと思う。
デルフィは囁くようにゲルカに打ち明け、瞳を震わせていた。
「知る限りを伝えなければと思っていたのですが」
「ジマシュという男は何者なのかな。君の友人というだけではないようだが」
痩せこけた顔が頷き、ゲルカへと向けられる。
デルフィは自分の友人について、ゆっくりと噛み締めるように語っていった。
慎重に狡猾に、自らの手を汚すことなく悪事を働く恐ろしい男なのだと。
「ギアノという名の友人がいます。彼は無彩の魔術師と共に僕の居場所を探し出し、会いに来てくれました。無彩の魔術師もまた、ジマシュを追っているのです」
「あの若い魔術師が、何故?」
「彼の仲間であった女性の行方がわからなくなり、長い間調べていたと聞きました」
「君の友人が関わっているのか」
「恐らくは、そうなのだと思います」
デルフィは小さく体を震わせ、名を出すべきではなかったのではと呟いている。
確かに、ヘイリーが明らかに強く反応した瞬間がいくつかあった。
調査団員の目はあまりにも鋭い。怖れを抱く気持ちは理解ができる。
「ダング調査官はとても熱心に調査を進めている。今日君が行かなかったとしても、いくつかの真実には辿り着けたのではないかな」
既に起きた出来事を後悔していてはいけない。
ゲルカはデルフィの手を取り、この先へ心を向けるように話した。
「そうですね。雲の神に仕えると決めたのに……」
「君はまだ歩み始めたばかりだ。うまく出来ていないと考えるには早すぎる」
ようやく笑みを見せたデルフィと共に、祈りの時を持つ。
薬草業者で働く新米神官は次の休みにまた来ると言って、帰って行った。
雲の神官は皆勤勉なので、神官長の留守の間に劇場の様子を見に行ったと報告をしてくれた。
昨夜は結局営業はされなかったようだし、正面入り口と裏口に用心棒を置いて、招かれざる神官を速やかに追い返したようだ。
探索で傷ついた初心者が今日も大勢現れ、長椅子でぐったりと順番を待っている。
バジム・ウベーザの恋する相手について知りたいが、心の奥の騒めく声が抑えきれずに、結局ゲルカは夕方になってから再び神殿を出て、調査団を訪れていた。
「クラステン神官長」
入口でガランに出くわし、ヘイリーの所在を尋ねる。
助手の男はすぐに走り出し、再び応接室に調査団員を連れて来てくれた。
「どうなさったのです、神官長様」
おひとりでいらしたのですかの問いに、ゲルカは頷き、少し話をしたいと伝えた。
ヘイリーは戸惑った様子を見せたが、結局は神官長の向かいに腰を下ろしている。
「何故またやって来たのか不思議に思っているだろう」
「ええ」
「私にもわからない。だが、君の為に祈りが必要なのではないかと思ったんだ」
調査団員の瞳には炎が揺れている。
正義感と称するにはあまりにも眩く、光と呼ぶには熱すぎる。
怒りのようだが、それだけではない。感情は複雑に絡み合って、若者の心を揺らしているのだろう。
「クラステン神官長は、チェニーと会ったことがありますか」
「顔を見たことはある。同じ場に居合わせただけで、言葉を交わしたりはしていないのだが」
ダングの名を持つ調査団員の兄妹については、いくつか伝え聞いている。
王都へ戻された妹が命を絶ち、その代わりのように兄が現れ、勤め始めたのだと。
「あなたに頼っていれば、運命は違っていたのでしょうね」
「チェニー・ダングの身に、なにがあった?」
「それを知る為にここへ来たのです」
まだなにもわかっていません。
ヘイリーはそう呟いているが、ゲルカは首を振って更に問いかけていった。
「本当にそうだろうか。君はなにか掴んでいるように見えるが」
息を長く、細く吐き出す音がした。
震えるような響きの音は、調査団員の迷いを知らせるもので、ゲルカは指を組んでいる。
「ジマシュ・カレートです。デルフィ・カージンの友人だという男と、チェニーは、深い関係にあったのだろうと思っています」
「二人に接点があったのかな」
「チェニーを訪ねて来たことがあったと聞きました。それに、ガランがついこの間、ジマシュ・カレートに会ったのです」
ガランはチェニーの名前を出されたと話し、「気持ちの行き違い」について聞かされたという。
ジマシュ・カレートはデルフィを閉じ込めていた張本人。
彼と共に神官を監禁していたヌエルとチェニーは、長い間五人組として行動を共にしていた。
「ヌエルという男は以前、路上で暴行を働いています。その被害者と共に暮らしている方が、ジマシュ・カレートに共に商売をしないか持ち掛けられている」
ジマシュ・カレートは、いくつもの不穏の陰に見え隠れする存在なのだとヘイリーは話した。
「けれど、影しか見えない。なにをしたのか、実態がわからないのです」
苦しげな声を漏らして、調査団員はぐったりと項垂れている。
「それに、私は間違っています」
「間違っている?」
「妹が何故死んだのか、理由を知りたくてここへ来ました。いつか騎士になるといって剣に打ち込み、鍛冶の神殿で真摯な祈りを捧げていたあのチェニーが、自ら死を選ぶなどあってはならないことでした。……けれど、あれは人を殺したのです。長く時を共にした仲間の顔をして、罪のない二人の男を罠にかけた。その上、持ち物まで奪って、自分のものにしていたのです」
「ダング調査官」
「ベリオとダンティンなる探索者たちに申し訳ない。彼らが死ぬ理由などなかったのに……。やせ細って、泣き叫んで、たった一人で死んでいったチェニーを哀れに思っていました。不名誉な噂が流された挙句の出来事で、必ず汚名を雪いでやると決意して来たのです。しかし、チェニーの手は血で汚れていた。ここへ来て様々な人に話を聞き、力を貸してもらったのに、わかったのは、妹が穢れた魂のまま果てたことだったのです」
心のうちの苦しみを吐き出し涙を落とす青年の為に、ゲルカは祈った。
すぐそばに行って、震える背中を抱いて、雲の神に呼びかける。
運命の激しい嵐にあっても、それに耐え、いつか差す光を見出せるように。
どれほどの激しい雨に打たれても、その後に芽吹く新たな希望があるように。
「すみません、クラステン神官長」
「いいのだ。君が抱えるものは余りにも重い。そんな時に、一人でいてはいけない」
ヘイリーは荒々しく袖で涙を拭うと、顔をあげてゲルカを見つめた。
「ありがとうございます」
「大丈夫かな。無理して話す必要はないよ」
「いいえ。今こうしてあなたがいらしてくれて、良かったと思っています」
青年はまた、苦しい胸のうちを話し始めた。
自分の私怨で動いてしまいそうで、恐ろしいのだと。
「街の治安を守る為に調査をしているつもりですが、実際には妹の仇を討とうとしているだけなのかもしれません」
ヘイリーがこれほどまで悩み苦しむのは、チェニーがただの被害者ではなかったせいなのだろう。
迷宮の中で起きたことは、その場から生還した者がいなければ知られずに済む。
自ら命を絶ったのは、肉親にまで知られてしまったからなのかもしれない。
ゲルカも苦悩の中に身を置きながら、チェニーの為に祈った。
正義の為に生きようとしていた兄妹にもたらされた運命は、もうどうにもならないが。
魂には癒しが、命には勇気が与えられるべきだ。
それが雲の神官に与えられた使命だから、ゲルカは再び祈りを捧げた。
「君の妹は、ジマシュという男を愛してしまったのだろうな」
「そうなのでしょうか」
平静を取り戻したヘイリーと、再び向かい合っている。
妹が何故、二人の男を殺したのか?
ヘイリーの深い苦しみにひとかけらでも光を投げかけられればと考え、ゲルカは話した。
「愛は美しいだけではない。時に人を狂わせるものでもある」
「確かにチェニーは、狂っていたのかもしれません」
「君は雲の神殿の役割を知っているかな。女性ならではの問題について相談を受け、時には保護もしているんだ。父親の酒代の為に娼館に売り飛ばされる娘もいるし、力づくで暴力を振るわれ傷ついた娘もやってくる。道ならぬ恋に溺れて、人生を見失う女も何人も迎えたよ」
これまでの神官としての人生の中で、様々な女性に出会った。
彼女たちは悩みを打ち明けるが、単純なものばかりではなく、複雑怪奇な話も多かったとゲルカは考えていた。
「愛は決して同等に返されるものではない。それどころか、ある日突然失われることもある」
気持ちの行き違いなど、そこらじゅうに溢れている。
人がそこにいる限り、感情は常に溢れ、交差を繰り返しているから。
時々強く結びついて、愛や友情と呼ばれるようになり、尊いものにされていく。
それは人を幸せにしてくれるものだが、なかなか永遠にはならない。
破れれば中から哀しみや憎しみが現れ、とって変わる。怒りである場合も多い。
「辛い思いも、生きていくうちに薄まっていくものだ。大抵は心の糧に変わり、人を強くする。だが、深く根を張り動かせなくなることもある。君は、魔術師ホーカ・ヒーカムの名を聞いたことはあるかな」
「迷い道の現象を起こしている魔術師だと聞きました」
「彼女は望んだ愛を得られず、心を歪めたそうだよ。恋した男はとうに街を去り、もう二十年も経ったというのに、まだ筋違いの恨みを振りまきながら暮らしている」
ヘイリーは眉間に小さく皺を寄せている。
年頃の妹の恋が破れた話など、耳に入れたくはないのだろうが。
この機会に、徹底的に向かい合った方がいい。
目を背けていては、いつまでたっても苦しみを晴らせないだろうから。
「我々の言葉如きではどうにもできないものがある。心は見えないし、そこに深く刺さった楔にも触れられない。君の妹も、どうにもできない愛に出会ってしまったのだろう」
「愛とは、人の命と引き換えにしてでも、手に入れたいものなのですか」
「そうだよ。すべての愛がそうではないだけ、私と君が運良く出会っていないだけなんだ」
どんなに強い信仰を持っていても、理性を働かせようとしても、抗いきれないものもある。
人の心ほど自在に形を変えるものなどないと、ゲルカは言葉を尽くして伝えていく。
「愛ならば許されるとは言わない。君の妹がしたことは罪深い。だが、理解はできる。本人もさぞ苦しんだことだろう」
後悔の果てに命を絶ったほどなのだから、それだけは間違いないと言い切れる。
「共に祈ろう。罪人であっても、女神は魂を膝元に招かれる」
だから、君が背負う必要はない。
ゲルカは力強く、調査団員へ告げた。
「血をわけた妹であっても、兄が引き継ぐものではないんだ」
「クラステン神官長」
「私は君の正義を信じる。君の強い瞳の中に未来を見て、力を貸そうと決めた」
だから君も、君自身を信じてほしい。
ヘイリーは再び涙をこぼした。
しかし、決して苦いものではない。
若者は決意を感じさせる強い目をしていて、最後の一滴を絞りだしたものなのだろうとゲルカは思った。




