178 迷宮入り
訓練終わりに樹木の神殿に向かい、パントたちはロカに声を掛け、探索に付き合ってほしいと頼んだ。
まだ新米の神官は戸惑った顔をしていたが、意を決したようにきりりと表情を引き締め、二人にこう尋ねた。
「二人もダインに頼まれて来た?」
「ダイン? ううん、関係ないよ」
どうしてそんなことを聞くのか、クレイは悲しげな顔をして問う。
神官はほっと息を吐き、小さく首を振ってから答えた。
「君らは関係ないのかもしれないけど、今は協力できない」
「どうして?」
ロカは目を閉じ、眉間に皺を寄せている。
「悪いけど」
「言えないの?」
「ごめん。はっきり言っちゃうと、問題が大きくなるから」
「ダインがなにかした?」
「……僕たちとしては、そう感じているよ」
ロカのいう「僕たち」がなにを指すのかわからなくて、パントはぼんやりと来た道を戻っていった。
神殿と繋がる小さな中庭の通路を抜ければ、屋敷へはすぐにたどり着いてしまう。
探索に行っても仕事に励んだとしても、夕暮れ時は屋敷へ戻ってきた初心者でごった返すのが常だ。
一日を終える為にすることと言えば、食事の支度か体を洗うか。なんにせよ皆廊下を行き来するので、一階はごちゃごちゃと混みあってしまう。
「おかえり! みんな、一度食堂に集まってくれ!」
屋敷に入るなりギアノの声が聞こえてきて、パントとクレイは顔を見合わせていた。
「やることはいろいろあるだろうけど、頼むよ」
廊下にいた面々はみんな食堂に吸い込まれていって、二人も急ぎ足で向かう。
中に入るとかなりの人数が既に集まっていた。フェリクスとコルフ、アダルツォの姿もある。
どこからか美味しそうな匂いが漂ってくるけれど、アデルミラが厨房にいるのだろうか。
そわそわとした気持ちでパントが端の席に座ると、クレイも隣に腰を下ろした。
ど真ん中にはダインの姿がある。
フレスはその隣にいて、周辺の席も埋まっている。
「みんな揃っているかな」
「あのでかい奴がいないみたいだが?」
「フォールードはいいんだ。カミルについてもらってる。話も先に済ませているよ」
ダインは嫌みったらしい声で、話とはなにかギアノに尋ねている。
「喧嘩にならないようにしたのかな?」
クレイが囁いてきて、パントは首を傾げている。
「フォールードだよ」
確かに、カミルに付き添うならコルフかアダルツォの方が適任だ。
パントが納得していると、ギアノが話し始めて、最近屋敷のルールが守られていないと注意されていった。
「探索に挑みたい気持ちがあるのも焦るのもわかるよ。だけど、この屋敷に滞在する時に約束したはずだ。出来る限りのことは自分でするようにと。どうしても守れない、守りたくないというのなら申し出てくれ。一人ずつ話して、今後について一緒に考えるから」
心当たりのある者はしゅんと俯いて、管理人から目を逸らしている。
「それから、神官に無理なお願いをしないでほしい。隣に樹木の神殿があるのはカッカー様がまとめ役をされていたからだ。だけどただお隣なだけで、この屋敷の利用者を特別扱いするわけじゃない。彼らには大切な務めがあるんだ。手を貸してくれる神官もいるけど、それは個人が判断していることだから。みんなが探索の仲間を探す時と同じで、付き合ってくれるのは、この人となら一緒に行ってもいいと思えた時だけだよ」
ギアノは重ねて、もう一度生活の基本を守るように頼んだ。
隣でクレイが立ち上がり、わかったよ、と大きな声で答えている。
管理人は穏やかな微笑みで「ありがとう」と応じ、また全員に向けて話していく。
「なにかある時は遠慮なく相談に来てほしい。カッカー様に直接訴えたいことがある時には、来てもらうようにするから。いいかな」
ダインがなにか言い出すのではないかと考え、パントは部屋の真ん中に目を向ける。
なにかと話題の男は鋭い目をしてギアノを見据えていたが、結局なにも言いはしない。
特別に文句がある者もいなかったのだろう。食堂は静まり返っていて、話は終わりになった。
ギアノは付き合ってくれてありがとうと全員に向けて礼を言って、廊下に去っていき、初心者たちはみんなほうっと息を吐いている。
フェリクスとコルフがまず立ち上がって、食事の支度をしようと呼びかけている。
先に厨房を使わせてもらっていいかと声をかけ、廊下に向かって歩いていった。
ダインは座ったまま動かず、周りにいる取り巻きたちになにかひそひそと話しているようだ。
「僕たちも行こう、パント」
クレイに囁かれて、一緒になって厨房へ向かう。
フェリクスはアダルツォと二人で、仲間たちの食事を用意し始めている。
中には想像通りアデルミラがいて、大きな鍋でシチューを作っていた。
ギアノは部屋にいるのか、姿が見えない。
いつだって厨房にいる訳ではないけれど、今日はあえて部屋にこもっているのかもしれないとパントは考える。
文句を言いたい者の為に、備えて待っているのではないかと。
やがて厨房に人がちらほらと現れ、大人しく調理に励み始めた。
その光景にほっとして、パントはクレイと共に食堂へと食事を運ぶ。
すると、広い食堂には誰の姿もなかった。
厨房に来た人数は少なくて、皆、洗濯だの片付けだのを先に済ませているのかと思ったが、時が過ぎても人はあまり増えていかない。
屋敷に滞在する探索初心者たちのうちの幾人かがどこに行っていたのか。
事情は夜遅くなってからわかった。クレイの部屋に、フレスが戻ってきてから明らかになった。
ずっと行動を共にしてきたルームメイトが戻ってくると、クレイはすぐにフレスに尋ねた。
どこに行っていたのか、と。
フェリクスは下にいるのか戻ってきていない。
ルプルと三人で、他愛のない話をしている最中だった。
「なんだい、いきなり」
フレスはおどおどとしつつも、苛立った声で答えている。
クレイはそんな「友人」を睨みつけるように見つめて、もう一度同じ問いを投げた。
「……ちょっと、北にある食堂に行ってたんだ」
「ダインと?」
「うん。まあね。みんな話を聞きたがったから。明日の確認もあるし」
話とはなにかとルプルが尋ねると、フレスはこの日あった出来事を話し始めた。
協力してくれるスカウトが見つかって、魔術師も連れて「藍」に行ってきたのだと。
「ええ、見つかったの? すごい、……すごいなあ」
ルプルは感心しきりで、何層まで行ったのか、どんな人物なのか矢継ぎ早に質問を繰り出している。
パントからはクレイの表情は見えない。そして、フレスの顔色は何故か冴えない。
「今日は実力を確かめてみるってくらいで、たいして深くは行っていないんだ。だけど、スカウトのお陰で灯りの仕掛けで困ることはなかったし、脱出の魔術は本当に便利だったよ」
「脱出まで? すごいじゃないか、フレス」
ルプルはうらやましいを連呼して、無邪気に話をせがんでいる。
クレイは無言のまま部屋を出ていってしまい、パントは自分がどうすべきか悩んだ。
ルプルはきょとんとしているが、フレスは視線を逸らしてこちらを見ようとしない。
気にかかるのは当然ながらクレイの方で、結局急いで後を追う。
二階には掃除道具をしまう物置と滞在者用の部屋しかないので、向かうとしたら一階、おそらく裏庭だろう。
パントはそう考えて階段を降り、カッカーの屋敷の裏手へと向かう。
前樹木の神官長の屋敷には、迷宮都市では珍しく木や花が植えられている。
神殿と繋がる中庭もそうだが、わざわざどこかから運んできたものだと聞かされていた。
乾いた土地で枯れないよう、いくつかの工夫が為されているらしい。
パントが考えた通り、裏庭にはクレイの姿があった。
夜でも使えるように、屋敷に繋がる入り口と、洗い場には灯りがともされている。
周囲の住宅から漏れる灯りで真っ暗闇ではないが、それ以外はかなり暗くて足元がよく見えない。
だからなのか、クレイは扉を出てすぐの丸太に座り込んで、俯いていた。
「クレイ」
声をかけると、友人の顔はすぐに上がった。
「ごめんよ、パント」
「どうして謝るの」
「僕に付き合わせちゃっているよね」
「そんなことはないよ」
パントの返答に、クレイはほんの少しだけ笑みを浮かべている。
「昨日、フレスと喧嘩しちゃったんだ」
「喧嘩?」
「パントが部屋に戻った後、言ったんだ。ダインのやり方は正しくないって」
クレイは口をぎゅっと閉じると、首を振ってこう言い直した。
「あんな奴とよく一緒にいられるねってさ」
フレスに考え直すように言ったが、説得はしきれなかったのだという。
悔しそうな友人に手を伸ばし、パントは優しく背中を叩いた。
「仕方がないよ。フレスがそう判断したんなら」
「わかっているけど、せっかく一緒に励んできたのにさ」
それに、とクレイは心のうちを漏らしていく。
ダインが最初に自分たちに声をかけてきた理由について。
それはきっと、思い通りに動かせる、気の弱い「手下」が欲しかっただけなのだと。
「パントもそう思うだろう?」
確かに、ダインがどうして声をかけてきたのかよくわからなかった。
スカウトと魔術師が案内してくれる迷宮行で、ただの初心者たちはお荷物にしかならないだろうとも思う。
「僕はレテウスさんの言葉を信じる。地道に努力を重ねていくべきなんだって」
大地の女神に見放されることがないよう、正しく生きていかなければならない。
「僕たちが見習うべきなのは、フェリクスたちだよ」
「そうだね」
クレイの強い視線に、パントは少し気圧されている。
けれど友人のそんな内心には気付かないらしく、クレイは続けた。
「ガデンのことを親切だと思ってたけど、実力はさっぱりだったもんね。ガデンがカミルたちを悪く言っていたから、信じちゃっていたけど……」
「ああ、ガデンさんね。ギアノの文句も言っていたっけ」
「いきなり来ただけの奴を信じられるか? だなんてさ。あれでわかったよね、あの人の言うことは適当だったんだって」
気持ちが落ち着いてきたのか、クレイの表情から強張りは消えている。
パントはほっとしていたが、フレスへの嫌悪感は随分膨れ上がっているようで、最後にこう呟いていた。
「部屋を移動させてもらおうかな」
「部屋を?」
「ルプルに悪気はないんだろうけど、フレスの話を聞きたくないんだ」
パントの利用している部屋に空きはなく、一緒になるなら二人とも移動しなければならない。
けれど二人以上空きがある部屋は、今はダインのところしかない。
「フレスがダインの部屋に行ってくれたらいいのに」
フェリクスは僕のお手本だから、離れたくないんだよねとクレイは言う。
部屋の移動について、希望は聞いてもらえるだろうとは思うが、気に入らない誰かを追い出すというのはどうだろう。
ギアノが許してくれるかどうかわからず、パントの心は騒めいている。
この日はもう遅いので、移動を申し出ることなくクレイは部屋に戻っていった。
なにもかもわからない初心者同士、同じ部屋で暮らしていたから。
だからフレスに対して落胆しているのだろう。
ダインと行きたいとは思わないが、フレスの焦りも理解はできる。
いつになったら自分たちだけの力で迷宮に挑めるようになるのか、わからないから。
パントがもやもやを抱えて部屋に戻ると、同室の三人、アグランとダム、オルミが集まってひそひそと話をしていた。
「パント、フレスからなにか聞いた?」
三人の中で一番おしゃべりなアグランが声をかけてきて、若者はなんと答えようか悩む。
「スカウトが見つかって『藍』に行って、脱出の魔術で帰ってきたとか言っていたかな」
「それはもうダムから聞いてる。魔術師の屋敷で暮らすって計画の方だよ。本当なのか?」
「え、魔術師の屋敷で?」
驚いた様子で答えはわかったのだろう。三人は揃って首を傾げ、やっぱり無理ではないかとアグランが声を上げた。
「ダインは口が立つみたいだけど、昨日今日出会ったばかりの奴を家に住まわせたりするわけないよな」
「そんな話があるの?」
「そう言っていたらしいんだ。今日は外で夕食だって、何人も引き連れていってさ。ここの決まりなんて守ってられるかって偉そうに話していたらしくて」
思い切った行動をする新入りが気になって、大勢がダインを囲んで話を聞いていた。
同行できるのは選ばれた二人だけだが、後をついていったり話を聞いたりして、みんな動向を窺っているのだろう。
「今日、ギアノから注意があっただろ。エイデンが言ってたんだけど、神官長様にかなり失礼なことをしたんだってさ」
「まさか、キーレイさんに?」
三人が一斉に頷いて、パントはロカの様子を思い出していた。
樹木の神官長はただの神殿のまとめ役ではない。今、迷宮都市で最も腕の良い一流の探索者であり、商人たちからも一目置かれる存在なのだと聞かされている。
「だからロカも怒っていたんだね」
「なにか言われた?」
「今は僕たちには協力できないって」
「それって、屋敷の利用者にはってこと?」
「そうだと思う」
パントの答えにアグランは口をひん曲げ、後の二人も表情を曇らせている。
「ギアノ、怒ってるよな」
そう呟いたのは、ダムだったのか、オルミだったのか。声があまりにも小さくて、パントにはわからなかった。
「片付けとか全然やらずにいたから」
三人は俯き、呼び出されるのではないかと口々に囁いている。
「そこまで怒ってはいないと思うよ」
「どうしてわかるんだよ、パント」
「そんな感じじゃなかったから。昼に会った時、みんな落ち着かないみたいだなとは言っていたけど、怒っているようには見えなかったよ」
パントの台詞に、アグランたちはほっと息を吐いている。
「クレイも一緒だった?」
「うん、一緒だった」
「大きな声で返事をしていただろ、あの時。ちょっと気になったんだよ」
夕方に集められた時のことだろう。確かにクレイは立ち上がり、大きな声をあげていた。
「自分には関係ないみたいな顔をしてさ」
「……クレイはみんなが放っていった皿を片付けていたから。ギアノたちの手伝いも一生懸命していた」
「え、本当に?」
「うん」
「もしかしてパントも?」
三人に見つめられ、仕方なく頷いていく。
自分たちの振る舞いについて主張する気はなかったが、ここ数日の出来事に心を痛めているであろうクレイが悪く思われるのは、間違っていると思えたからだ。
「そうか。そりゃあ、悪かったね」
「俺はクレイに付き合っただけだよ。クレイはダインみたいなタイプは苦手みたいで」
三人はわかるよと口々に答えて、ダインの行動力はすごいが、人格についてはいかがなものかと話し始めた。
パントがじっと黙っていると、この数日間の自分たちについて思いが至ったのか、三人はまたしょんぼりと項垂れている。
「もしかして、二人はずっと片付けに追われてた?」
「そんなわけないよ。一日かかるような仕事じゃないし。ギアノのところに来ているレテウスさんって人に剣の使い方を教えてもらったりしていたから」
「ああ、あの怖い顔の人?」
「剣の指導ってどうなの。怒鳴られたりしない?」
「そんな馬鹿な。レテウスさんはちょっと迫力があるだけだよ。人に教えるのは初めてらしくて慣れてはいないけど、親切だし丁寧なんだ」
「へえ、そうなの」
こんな反省会は、他の部屋でもあったのかもしれない。
次の日の朝の食堂は随分穏やかな雰囲気で、ダインの周囲に座る者の数は明らかに少なくなっていたから。
相変わらずど真ん中に陣取り、「仲間」のフレスたちにああだこうだ言っているようではあるが、声は小さくなっている。
パントはクレイと共に、今日も訓練をしようと話し合い、レテウスの来訪を待った。
先に道具の準備をしておくかと裏庭に向かうと、アグランたちもやって来て、自分たちも参加したいと言い出している。
剣の訓練を受ける者は五人になって、裏庭には賑わいが増した。
次の日の朝になると、とうとう食堂にダインたちは姿を現さなかった。
どうしてなのか訝しむ者はいたが、答えはない。
本当に魔術師の家に住み着いたのかもしれないし、どこかの宿に移ったのかもしれないし。
街の食堂に繰り出しているだけかもしれないがとにかく、気にはなっても行方を探す者はいなかった。
剣の訓練の参加者も一人増え、共に汗を流して、昼食の時間も和やかに過ごす。
クレイは明るい顔をして、皆で迷宮に行ってみないかと声をかけている。
「案内役がいないなら、無理のない範囲で行ってみたらいいと思うんだ」
何人でも、深く潜らなくてもいいなら、自分たちだけでも行けるはずだから。
希望を感じる言葉にみな頬を紅潮させて、そうだそうだと意気込んでいる。
こんな風に、屋敷の日常はもとに戻った。
清く正しく、地道に努力を重ねる初心者らしい暮らしに。
パントはそう感じていて、きっとクレイも同じように思っているだろうと考えていた。
夕方。
屋敷の一階に利用者たちが集まり、わいわいと騒いでいた。
この大きな輪にパントが加わっていなかったのは、単にタイミングが悪かっただけ。
気にはなっても尿意にはかなわず、用を足しに行っていたからだ。
廊下の奥にいくつも背中が並んでいるのが見えて、パントも向かおうとしていた。
だが、階段を駆け下りてくる音が聞こえて、思わず見上げてしまったのだから仕方がない。
ちょうど死角から急に現れたように見えたのだろう。
フレスの足は階段の途中で止まった。
目が合って、パントも思わず立ち止まっている。
「フレス」
ただ出会ったから声をかけただけ。
だったのだが、フレスの顔色のあまりの悪さに、パントは驚いて様子を窺っている。
「どうしたの」
朝、姿を見なかった。ダインがいなかったから、フレスも一緒にいるのだろうと思って気にしていなかった。
フレスは俯き、足早に階段を下りていく。パントにぶつかるように廊下を走り抜け、玄関へ向かって早足で進んで行く。
「フレス?」
震えているように見えて、パントは後を追った。
走って、追いつき、横に並んでようやく気付く。
胸に抱えた大きな荷物袋には、慌てて詰め込んだであろう衣類がはみ出ていて、どう見ても様子がおかしい。
「ねえ、フレス」
パントの呼びかけに答えないまま、フレスは走り出した。
北に続く通りをまっすぐに駆け出し、パントも胸騒ぎがして後を追っていく。
結局、フレスが立ち止まることはなかった。
息を切らせ、汗を滴らせながら、真っ蒼な顔のままで進んでいって、たどり着いたのは王都へと続く大門だった。
門のそばにある馬車乗り場で、フレスはようやく立ち止まって辺りを見渡していた。
いくつか止まっている馬車へ駆け寄り、御者に声をかけて行先を確認しているようだ。
「ねえ、フレス!」
パントがとうとう腕を掴むと、フレスは強い力でそれを振り払い、御者に金を渡して馬車に乗りこんでしまった。
「どうしたんだよ」
他に客の姿はなく、パントは馬車を覗き込んでもう一度声を掛けた。
奥の席に縮こまるように座って、フレスはがたがたと体を震わせている。
怯える友人の姿がだんだん可哀想になってきて、パントは腕を目いっぱい伸ばし、ようやく届いた足を優しく撫でていく。
「故郷でなにかあったの?」
自分で言っておきながら、パントは疑問に思っていた。
家族になにかあったと報せが来たとして、こんな風にがたがた震えて、ろくに返事もできないものだろうかと。
「……クレイの言うことを聞けば良かった」
ようやく、か細い声が聞こえてきて、パントは友人の顔を見上げている。
「『藍』に行ったんだ。あそこは、稼げるっていうから。脱出もあるから大丈夫だって、……どんどん降りていって」
スカウトの仲間を見つけた時も、「藍」に試しに行ってみたとダインは話していた。
パントが不思議に思っている間にも、フレスの告白は続いている。
「最近、わかったっていう……。大きな落とし穴があってさ……。脱出の魔術があれば、出られるから平気だって……、ダインも面白がって、それで、入ったんだ。大きな落とし穴に……。そうしたら、いたんだ。あの、女のスカウトが。他にもいた。落とし穴を下りたところ、すぐの場所に、倒れてて」
フレスはとうとう大粒の涙をこぼし始め、嗚咽混じりに語っていく。
「ダインは、笑ってた。笑いながら、女なら、助けてやってもいいかもなって……」
震える声はみるみる小さくなっていき、もう聞こえない。
だがとにかく、嫌なことがあったのだろう。
パントは馬車に乗り込んでフレスの肩を抱き、落ち着くよう声をかけていく。
「置き去りにしちゃったんだ……」
「仕方がないよ、何人も倒れていたんだろう?」
脱出の魔術には人数の制限があると聞いている。
そもそも、迷宮の中での人助けなど、安易にできるものでもないはずだ。
「違う。……本当に、本当に、ひどいことを、した。僕たちは、最低なんだ。……絶対に、もう、許されないんだ」
フレスは身を縮めて、大地の女神への祈りの言葉を囁いている。
「おい、兄ちゃん。金を払ってもらってないぞ」
ふいに背後から声をかけられ、パントは慌てて振り返る。
「ごめんなさい。ええと、俺は乗らないんだけど」
「じゃあさっさと降りてくれ。もう出るからな」
不機嫌な御者に急き立てられ、パントは馬車から飛び下りるしかない。
フレスはがたがた震えながらまだ祈っていて、何度呼びかけても答えてはくれなかった。
馬車は本当にすぐに出て行き、パントは一人取り残されている。
なにかとんでもない出来事があっただろうに、フレスが街から去っていってしまったこと以外なにもわからなくて、しばらくぼんやりと立ち尽くしていた。
日が暮れてからようやくカッカーの屋敷に帰り着くと、いつも通りの光景が繰り広げられていた。
みんな食事をかき込みながら、和気藹々と話し合っている。
もやもやとした気持ちを抱えたままパントが中に進んで行くと、ギアノが気付いて声をかけてきた。
「パント、お帰り。どこに行ってたんだ」
「あ、うん。あの……、フレスが故郷に」
帰れたのだろうか。あの馬車がどこに向かうものなのか、はっきりと確認できたのか、パントは今更ながら疑問に思っている。
「故郷に? 帰ったってこと?」
「わからないけど、多分。あの、夕方たまたま会ったんだ。フレスが慌てて階段を下りてきて」
様子がおかしかったから、後を追って、そうしたら、馬車に乗り込んで。
順を追って話していけば、これだけのことだ。
パントが自分の見たことを正直に話すと、ギアノは困った顔で首を傾げた。
「そうか。参ったな」
「なにが参ったの?」
「いや……、ダインも出ていったみたいでさ。フレスたちなら知っているかと思っていたんだ。出て行くのは理由があってのことだろうし仕方ないけど、ひとこと言ってほしいし、別のところに住むなら行先くらいは知っておきたかったから」
ダインはカッカーの知り合いから紹介されてやって来たとギアノは話していた。
知らない間にいなくなっていました、で片付く問題ではないのかもしれない。
「フレスはなにか言っていた?」
「え、いや……」
言ってはいたが、なにが起きたのかはわからない。
「藍」に行って、落とし穴に入ってみたらしいが。
「ダインたちと探索に行って、怖い思いをしたみたいなことを言ってた、かな」
「そうか。いきなり難しい迷宮に行ったのかな」
「『藍』に行ったって」
「……そうか。わかった。ありがとう、パント」
管理人に肩を叩かれ、食事をするよう促される。
厨房に向かい、シチューをもらって食堂へ向かうと、クレイが手を挙げてパントを呼んだ。
「どこにいたんだい、パント」
答える前に、仲間たちと並んで腰かけているカミルの姿が目に入り、パントはようやくほっと息を吐いている。
「カミル」
屋敷で一番の五人組は並んで座って、初心者たちにかけられた声に応えている。
「良かった」
そう呟いてシチューを掬ってみたものの、心は虚ろで、口に運ぶことがいつまで経ってもできない。
なにからクレイに伝えるべきかもわからず、パントはため息を吐きだしている。
そんな様子に気付いていないのか、クレイは遠くを見つめたまま、小さくこう呟いた。
「ねえパント、ダインは出て行ったらしいよ」
「え、ああ。さっきギアノもそう言ってた」
「フレスたちもついていったみたいだ。僕らはね、カミルがあの部屋から出てきて、喜んでいたんだよ。食事を作る前に、廊下の奥に大勢集まって」
夕方の、フレスを追って出て行く前のことだろう。
パントが頷くと、クレイは目を据わらせ、忌々しげにこう続けていく。
「あいつ、僕の金を盗んでいったんだ。部屋が散らかってて、おかしいなって思って確認したら、財布が空になっててさ」
「え、本当に?」
たいした額を持っていたわけではないけど。
クレイは怒りをにじませ、あいつは最低の人間だと呟いている。
「どこかで会ったら、ひとこと言ってやらないと気が済まないよ」
街を出て行ったと言い出せる空気ではなくなり、それでようやく、パントはシチューを口に運ぶことができた。
食事に集中しながら言葉を探し、水を流し込んで、思いついたセリフを投げかけていく。
「起きてしまったことは仕方がない。クレイ、協力するから、一緒に頑張って稼いでいこう」
「……そうだね」
クレイは目に宿していた怒りの炎をそっと消して、まっすぐにパントを見つめている。
「パント。ありがとう。君がいてくれて良かった」
ダインの誘惑に乗らなかった君なら、本当の仲間になれるだろう。
クレイの台詞は重たく、パントの心にひやりと冷たく落ちていく。
「フレスはもう戻ってこないだろうし、パント、あの部屋に戻っておいでよ」
「え?」
「フェリクスもいるし、いいだろう? ギアノに頼んでみよう。前に移動したのも、ベッドの入れ替えがあったからだったよね」
「ああ、うん……」
善は急げとばかりに、クレイが走り出す。
管理人の答えは、そんな話をするのはまだ早い、だった。
ひょっとしたら戻ってくるかもしれないから、と。
「戻るかな、あんな真似をしたのに」
ねえと微笑みかけられて、パントは思わず目を逸らしてしまう。
心がずんと重たく、冷たくなったような気がして、シチューをすべて平らげることはできなかった。
誰にもなにも打ち明けられない若者がすがれるのは、世界を見守っているという大地の女神だけだ。
パントはその日の夜なかなか寝付けず、夜遅くにベッドの上に身を起こし、手を組んでいる。
フレスにこれ以上悪いことが起きないように。
これから先、自分が正しい道を選んでいけるようにお護り下さい。
困った時にしか祈りを捧げない者でも、女神は平等に微笑んでくれるだろうか。
心はちっとも晴れていかないが、他に出来ることもなくて、パントは無言のままに記憶を辿っていく。
母に教えられた祈りの言葉を呟いているうちに、はっと気付いて、もう一つ。
部屋の移動は断られますように。
こんなささやかな頼みごとを女神に投げかけ、パント・ラッカムは不安な気持ちのまま眠りに落ちていった。




