168 密談
深呼吸を一度。ゆっくりと吸って、吐いて。
それでようやく心が整い、デルフィは右手を強く握ると扉を叩いた。
二度叩いて少し待つと黒い石を積んでできた小さな魔術師の家の扉は開き、中から見覚えのない男が顔を覗かせる。
「もしかして、鍛冶の神官?」
無彩の魔術師の仲間として名高いのは、樹木の神官長キーレイ・リシュラと、美しい髭の戦士ウィルフレド、額に巻いたバンダナがトレードマークの剣士マリートの三人。出迎えてくれた男はその誰でもないように見えるが、訪れるかもしれない客については承知していたようだ。
「デルフィ・カージンと申します」
「どうぞ」
飄々とした様子の男に招き入れられて中へ入ると、奥のテーブルへ通され、椅子を勧められた。
それほど大きくもないテーブルも、椅子も、簡素なもので余計な飾りなどはついていない。
テーブルの上に置かれているものもなく、部屋の中に見えるのは扉と窓だけ。視線を動かしてみると奥に机があって、そこだけは物がごちゃごちゃと置かれているようだった。
「俺はノーアン・パルトっていいます」
「探索者なのですか」
男は頷き、スカウトとしてニーロに手を貸していると話した。
「今は出かけてるみたいだけど、そろそろ帰ってくるんじゃないかな」
「わかりました」
ノーアンはきょろきょろと辺りを見回して、肩をすくめている。
「この家、なんにも置いてないんだよね。水でも飲みます?」
結局スカウトは水の湧き出す壺の辺りでカップを探し出して、二つ用意して戻ってきた。
揃って席に着いてみたが、ノーアンがどこまで事情を承知しているかわからず、なにを話したらいいのかよくわからない。
無彩の魔術師が突然迷宮の中に現れ、ギアノと再会して様々な事情を知らされた。
変装も偽名を使うのも止めようと決意してから、ミッシュ商会に身を置いたまま、考えてきた。
自分の記憶が途切れて、あの貸家で閉じ込められた日々について。
チェニー・ダングと、ヌエルがなにを思っていたのか。
ジマシュがなにをさせていたのか。
デルフィをどうしようと考えているのか。
答えの出ないことだらけで、胸が痛んだ。
ジマシュが自分を連れ戻そうと考え、計画が立ち、そのために行動をした人間がいて。
その結果、ベリオとダンティンが命を落とし、チェニーも自分の罪に耐えられずにこの世を去ってしまった。
ヌエルは怪我をしているというが、話はできないのだろうか。
彼からなにか聞き出せればいいが、貸家での様子を思い出すと難しいような気もしている。
ジマシュと一緒になって「橙の最下層を目指す五人組」などいないと言い、デルフィが見た悪い夢だと繰り替えしていたから。
ヌエルが何故そこまでジマシュに従うのか、理解はできないけれど。
「戻りました」
黙りこくっている間に時が流れて、小さな魔術師の家の扉が開いた。
戻って来たのは家主のニーロで、ノーアンとデルフィへ順に目を向け、眉をひそめている。
「デルフィ・カージン、よく来てくれました」
まずは鍛冶の神官に一声かけ、次に留守番をしていたスカウトへ目を向けて。
目があった瞬間、問われる前にノーアンはこう切り出している。
「ウィルフレドさんと食事に行きたいから代わりに留守番してくれないかって頼まれたんだけど……。まずかったかな?」
「いいえ。引き受けてくれてありがとうございます」
ニーロは静かに頷き、スカウトはほっとした顔で微笑んでいる。
「これから彼と話をしたいので、あなたも付き合ってくれませんか」
「付き合う? 別に用事もないし、構わないけど」
「では、行きましょう」
ニーロに手招きされて、デルフィは立ち上がった。
ノーアンも隣にやってきて、「行くってどこへ?」と問いかけている。
無彩の魔術師はなにも答えずに、目を閉じて小さく指を動かす。
たったそれだけでもう、次の瞬間には移動が終わっていた。
「迷宮の中?」
「見覚えがありませんか」
小さな小部屋のような空間で、端には水場があるのが見える。
部屋の二か所に通路があって、一つはごく普通の幅のもの、もう一つはやたらと細くて狭いものになっていた。
床や壁の色からわかる。
「橙」の迷宮だ。それに、この地形。
「二十一層目ですか」
「そうです。あなたがたどり着き、意識を失ったのはここで間違いありませんね」
デルフィはしばらく迷宮の景色を眺めて、ゆっくりと頷いていった。
ダンティンの大怪我を癒し、神官の身分を明かした後。あの五人組にしてはすいすいと迷宮の道を進んで行きついた、目指していた「二十一層目」。
「あの狭い通路の先に、良い物が手に入る場所があると言われました」
「通路の罠が作動したところを見ましたか」
「……わかりません。もしかしたら見たのかもしれませんが、記憶にはなくて」
ニーロは頷き、いきなり巻き込まれて戸惑うスカウトに声をかけている。
「ノーアンはここを知っていますか?」
「ここって『橙』の二十一層目だよね。何回か来たことはあるよ」
「何回も?」
「ポンパがここに来たいって言うから付き合ったんだけど」
「なんでしょう」
「この間、できるかもって話していたのは聞いたけどさ。もう、できちゃうんだね?」
スカウトがなにについて話しているのか、デルフィは考えを巡らせていく。
もうできるようになったこと。一つしかない。信じられないが、たった今起きた「移動」についてだ。
「迷宮の中への移動はとても難しいもので、まだ自在にできるわけではありません」
「そんな怖いこと言わないでほしいな」
「『橙』ならばまだやりやすいようです。特にこの階層は魔法生物が少ないようなので」
「へえ。それならまあ、いいんだけど」
地上から迷宮の中に移動する魔術など、デルフィは知らない。
けれどきっと、「緑」の夜明かし中に突然現れた方法もこの魔術によるものなのだろう。
「ノーアン、その通路の罠を動かしてみてください」
「わかった」
どこか人の好さそうな気配を漂わせながら、ノーアンは通路の手前まで進んで膝をついている。
「いくよ」
デルフィが目を向けると、次の瞬間、大きな刃が壁から飛び出してきて鋭い音をたてた。
絶句する神官の隣に、ニーロが歩み寄って来て並ぶ。
「これが通路に仕掛けられた罠です。二か所から刃が飛び出してくるものですが、この奥にある扉を開けるスイッチにもなっています」
チェニー・ダングはこの刃を見たのだろうか。
それとも、目を逸らしたままスイッチを押したのだろうか。
二つの厚い刃は嫌な位置から飛び出してくるもので、切り裂かれた者はもう命を取り戻すことはできない。
デルフィは小さく震えながら、隣に佇む魔術師へ問いかけていった。
「その扉の先に、『絆の証』があるのですか」
「なんらかの道具が入っている箱が置かれています。『絆の証』と呼ばれる腕輪はここでしか手に入らない物ですが、箱に入っているのはあの腕輪だけではありません」
ニーロはノーアンに、箱を開けたことはあるか問いかけている。
「あるよ。五回か、いや、六回かな? だけど例の腕輪が出て来たことはまだないな」
もしかして、俺たちに絆がなかったってことなのかな。
ノーアンは独り言のように呟き、どこか遠くを見つめている。
「デルフィ・カージン、通路の先に行ってみませんか」
ニーロにこう声をかけられ、デルフィは思わず頷いていた。
ノーアンはスイッチを操作するよう頼まれ、念の為にと敵を寄せ付けない魔術の線が描かれていく。
「通路の奥に行きついたら声をかけます」
「わかった」
「では、行ってみましょう」
デルフィはノーアンのことをなにも知らない。ニーロに手を貸しているスカウトだというが、名前を含めてすべて真実かどうかはわからない。
恐ろしい刃が飛び出してくるかもしれない狭い通路を、ニーロの背中を追って進んでいく。
例えば奥の通路で途轍もなく良い物が見つかったとしたら。
誰かが独り占めしようと考えてしまったら。
歩いていくうちに、記憶がはっきりと蘇っていった。
独り占めはできない。二人で行かなければならないし、もう一人とも協力しなければいけないのだから。
浮かれた言葉を口にしたダンティンを、ベリオは苦笑いしながら注意していた。
足の痛みを訴え、疲れた様子を見せていた「カヌート」。
いつもより緊張した面持ちで、口数を少なくしていた「ドーン」。
二人はなんとか二十一層に辿り着こうと考えていた。邪魔者を排除する為に、あの罠にかけると決めていたから。
ダンティンが酷い怪我をした時に、悔しそうな顔を見せていた。
通路の先で武器が見つかったら、ダンティンのものにすればいいと話していた。
探索三日目の終わり。疲労が溜まって、元気がなくても当たり前だし、深い層に進めば緊張は増していくものだから。
長い日々を共にした「仲間」だと思っていたから、彼らへ疑いを向けることなどなかった。
二人の抱えていた「恐ろしい企み」は、自分を幼馴染のもとに連れ戻すという単純なもののはずなのに。
冷たい刃に切り裂かれて、ベリオとダンティンはいなくなってしまった。
血や汚れを嫌う迷宮に跡形もなく消し去られ、髪の毛の先すら残されていない。
どうして気付かなかったのだろう。
ダンティンが二人を連れてきた時。
あんな素人の勢いに押されただけで、逃げ出すそぶりすら見せなかったカヌートも、ふてぶてしい態度を崩さなかったドーンも。
何故去っていかないのか、不思議に思ったはずなのに。
「大丈夫ですか、デルフィ・カージン」
通路の先の小部屋の前に辿り着いていた。
ニーロに声をかけられ、デルフィははっとしながら言葉を探す。
「なにか聞こえましたか」
「いえ、……なにも」
迷宮の中は静かで、なんの音も聞こえない。
目の前には扉があるが取っ手などはなく、これが罠と連動して開くものなのだろう。
「ノーアン、着きました」
「じゃあ、動かすよ」
遠くから返事がして、音もなく扉が開く。
中に入れば今度は格子戸が待ち受けており、左右にスイッチが備え付けられていた。
「左側のスイッチを押して下さい。いいですか」
「はい」
魔術師の声に合わせて指を伸ばすと、戸はあっさりと開いた。
「この箱には罠は仕掛けられていません」
どうぞ、開けてみてください。
ニーロに促されて、デルフィは一歩前へと進む。
今、自分がどうして「橙」の二十一層目にいるのか。
無彩の魔術師は何故ここへデルフィを連れて来て、通路の先に隠された箱を開けさせるのか。
まだわからないし、戸惑ってはいる。けれど鍛冶の神官は意を決して木でできた箱を開けた。
「剣が入っています」
橙色の鞘の短剣を手に取り、ニーロに見せる。
魔術師はじっと短剣を見つめて、鞘の上に手をかざしている。
「ただの短剣のようですね」
魔術を使った様子などなかったのに、たったあれだけでわかってしまうのだろうか。
デルフィは疑問に思ったが、ニーロはこう続けた。
「腕輪と似たような物なのでしょうか。『橙』の迷宮で見つかる物の証はついていますが、なんの効果もない」
「証がついているのですか?」
「これです。腕輪にも同じような珠がついていますが、迷宮と全く同じ色をしています」
では、戻りましょう。
ニーロはくるりと振り返って、デルフィは短剣を持ったまま慌てて後を追った。
罠の仕掛けで動かす扉はまだ開いているので、ノーアンはスイッチを押したまま待っているのだろう。
部屋から出たところでニーロが声を掛けると、飛び出していた刃は壁の中へ消えてしまった。
無彩の魔術師はすいすいと狭い通路を進んでいって、デルフィはまた急いで背中を追って進んでいった。
ダンティンとベリオがこの道を戻ってきたところは見ていない。記憶には残っていない。
こんな裏切りにあうなど、想像もしていなかっただろう。
貴重な宝を手に入れたと喜んでいたかもしれない。ダンティンならきっと浮かれただろうし、ベリオはその姿に呆れていたに違いない。
狭い通路はそう長くはなくて、もう元の部屋に辿り着いている。
けれど短い旅はデルフィの心を激しく揺らしたようで、鍛冶の神官は涙をこぼしていた。
「少し話をしましょうか」
ノーアンは黙ったまま視線を逸らしてくれているが、ニーロはそうではない。
悲しみに震えるデルフィの目の前にやって来て、まっすぐに灰色の瞳を向けている。
「迷宮の中ならば邪魔は入りません」
「……だから、ここへ来たのですか?」
無彩の魔術師はゆっくりと頷き、「橙」の下層へ挑む探索者はほとんどいなくなった、と呟く。
「それに、あなたは一度ここへ来た方が良いのではないかと思ったのです」
確かに、その通りだった。
最下層を目指す旅に出かけて、互いの成長を感じながら、大きな危機を乗り越えて、ひょっとしたらもっと先まで進めるかもしれないと思っていた旅路は、突然途切れてしまったから。
おそらくはこうであっただろうと聞かされた悲劇について、実感を持てないままでいた。
今日、ここに来て、本当だったのだと思わされている。
通路に飛び出してきた刃の鋭さを目の当たりにして、宝へ続く細い道を歩いてみて、ようやくデルフィは理解していた。
「ありがとうございます、無彩の魔術師」
震えながらなんとかこれだけ絞り出した神官に、ニーロは小さく頷いてこう答えた。
「ニーロと呼んでくれて構いません。あなたの方が年上でしょうし、ベリオもそう呼んでいました」
そうだっただろうか、とデルフィは思った。
ベリオの口から、ニーロの名を聞いたことがあっただろうかと。
無彩の魔術師の通り名に笑っていたし、「前の相棒」としか言わなかったように思う。
若くして既に高名な探索者であり、名の知れた英雄が育てた特別な魔術師であるニーロ。
迷宮の中で偶然に出会い、後を追って、探索者として共に暮らしていた、ベリオ。
「あなたはベリオがいなくなった時、どう思いましたか?」
「どう思ったか?」
「ベリオはあなたの地図を勝手に持ち出したきり戻らなかった。揉め事が起きたと言っていましたよね」
涙を止められないままのデルフィの問いに、ニーロは小さく首を振っている。
「確かに揉め事は起きました。ですがすぐに解決されましたし、ベリオを探す必要はありませんでした」
「レンドとチョークという探索者に地図を奪われてしまって」
「その二人は死にました。チョークは迷宮の中で、レンドは一人でなんとか地上へ戻って来たものの力尽きて命を落としています」
「死んだ?」
「彼らが失敗したのは地図が出鱈目に描かれたものだったからです。ベリオはあれが本物の地図ではないと知りませんでした」
揉め事の原因はレンドたちにあり、持ち出しただけのベリオには落ち度はない。
ニーロの声は穏やかなもので、デルフィは少し落ち着くべきだと考えたものの、心は簡単に操れるものではないようだ。
「ベリオは、自分にはあなたと共に歩く資格がないと考えていました」
魔術師の表情は変わらない。なにも思うことなどなさそうな様子に、また涙が零れてしまう。
「彼は一から出直すつもりだと言って、手を差し伸べてくれました。僕も一人で歩きださなければならなかったから」
「ジマシュ・カレートから離れる為ですね」
この問いに答えるには、時間がかかった。
ベリオの思いについて、ニーロにもわかってほしいと願っているけれど。
それが単なる感傷でしかないとわかっているし、そもそもはジマシュから逃れようとしたことからすべてが始まっている。
ベリオも、ダンティンもいなくなってしまった。
デルフィに関わらなければ、運命は違っていただろうに。
「長い間、僕を探す者はいないと思っていたのです。ジマシュを見かけることもなかったし、誰かに追われている気配もなかったから……。だから僕はもう」
探されていないのだろうと、考えてしまった。
言うことを聞かず、いちいち落ち込み、神殿にこもるような役立たずに見切りをつけて、新たな仲間を得ているのではないかと、都合よく考えてしまっていた。
やるせなさと悲しみに耐えられず、デルフィはしばらく冷たい床の上に涙をこぼし続けた。
古く汚い宿を選び、名前を偽り、鍛冶の神殿を訪れないようにして、ベリオの陰に隠れて。
ジマシュの手から逃れられた、きっともう興味を失ったのだろうと思っていた。
もう二度と会わなくて済むのなら、その方がずっと楽だから。
自分の迂闊さ、安易さが呪わしい。
這いつくばるようにして後悔に溺れ、床を殴りつけていると、背中になにかが触れた。
「落ち着いて、ゆっくり息をした方がいい」
見ていられなくなったのか、ノーアンがすぐ傍にやって来て背中を撫でてくれた。
ニーロは表情を変えず、ただ黙ってデルフィを見つめている。
急に気恥ずかしくなってきて、デルフィはようやくまっすぐに立ち上がり、びしょびしょになった顔を拭った。
「取り乱してしまって、すみませんでした」
「あなたは記憶を乱されているのでしょう。感情の整理も必要だと思います」
質問があるのならいくらでも答えるとニーロは言う。
そう言ってから小さく首を傾げると、静かに語りだした。
「ベリオの姿を見なくなってしばらくしてから、去って行ったのだとわかりました。現れた時も、突然でしたが」
迷宮の中ですれ違った後、着いてきているのがわかった。
仲間と共にいたはずなのに置き去りにして、いくら先行する者がいるとはいえ、「藍」の道を怪我を負ったままよく着いてきたものだと思う。
まだなにも言えずに震えるデルフィへ、魔術師は語り続ける。
「家に住まわせてほしいと頼んで来た人は何人かいますが、勝手に住み着いたのはベリオだけです」
「勝手に住み着いたの?」
「ええ、ノーアン。一緒に行かせてくれというので迷宮から共に出ましたが、まさか家に居つかれるとは思いませんでした」
「よく許したね」
スカウトの男は驚いたようで目を丸くし、ニーロは静かに頷いている。
「ベリオは不思議な男でした。付き合うよう頼めば文句を言いながらもどこへでもついて来ましたし、置いていけば自分なりに訓練をしたり、有意義な時間の使い方をしているようでした」
「そんな仲間がいたんだね」
「難しい探索に挑むには力は足りませんでしたが」
ニーロはそこで言葉を止めると、ノーアンに向けていた視線を鍛冶の神官へ移した。
「ベリオは自分に相応しい道を見つけたのだろうと思っていました」
勝手気ままな魔術師といるよりも自分に合う道を見つけたのなら、その方が良いだろうと考えていた。
魔術師はふと迷宮の片隅に目をやり、囁くようにこう呟く。
「初心者と組んで指導するなんて、彼らしくないことをしていたようですね」
そうだろうか、とデルフィは思う。
ダンティンだけではなく、ベリオはフィーディも救った。
どうしてだろうと考えながらも、わがままで弱虫だった昔の仲間の為に、落とし穴を下りて探し回った。
「いつから初心者のお守りをするようになったんだ」
「え?」
「ベリオに最後に言われた言葉です。あの日、僕は街にやって来たばかりの初心者に頼まれて『緑』に行くと決め、ベリオは自分は付き合わないからと去ってしまいました」
この別れの後、フィーディと再会して「白」に挑んだのだろうか。
初心者のお守りをするなんて。
確かに、ベリオが言いそうな言葉だとデルフィは考えを改めていく。
フィーディを助けた理由だって、レンドたちと揉めた後、「感傷的な気分になってしまった」から。それだけだったのだろう。
けれどそれからベリオは変わった。新たな道を見出す為に、それまでとは違うものに目を向けようと考えて、ダンティンに手を差し伸べようと決めた。
「ベリオはとても真摯に、より高みを目指して経験を重ねていたんです」
「あなたがそう思うのなら、ベリオは正しい道を歩いていたのでしょうね」
デルフィははっとして、ニーロの顔を見つめた。
結果は今更、どうにもならないけれど。
「そうですね。あなたの言う通りです、……ニーロ」
デルフィは振り返ると、細い通路をまっすぐに見つめたまま、ベリオとダンティンの二人を思って祈りを捧げた。
鍛冶と雲、自分を支えてくれた神々のひざ元へ招かれ、祝福が授けられるように。
無彩の魔術師は表情を変えないが、ベリオに対してなんの感情もない訳ではないようだ。
もしかしたら、いつか力をつけて戻ってくる日を待っていたのかもしれない。
感情的な問いに答えてくれたし、後ろ向きな言葉も口にしなかった。
積極的に行方を探さなかったのは、どうでもよかったからなどではなく、正しく歩んで行けると信じていたからだ。
心の中で相棒へ呼びかける。ベリオ、無彩の魔術師の言葉が聞こえましたか、と。
「他になにか、聞いておきたいことはありますか」
ニーロに再び問いかけられ、デルフィは心の内を探っていく。
感情の整理が確かに必要だった。記憶が乱れて、現実は過酷。向き合う為に、心を強く持たなければならない。
一番重たいものと向き合うためには、些細なことから片付けるべきか。
デルフィはふとそう考えて、気になっていた事柄について問いかける。
「ギアノがどこにいるのか、教えてもらうことはできないでしょうか」
いつか共に探索をしようと約束をして、ほんの少し時間を共にしただけなのに。ギアノは自分とベリオの身を案じ、行方を探してくれた。
なのでもう少し話をしたい。だが、ニーロの表情は険しい。
「その気になればすぐにわかるでしょうから、居場所は教えます。ギアノはカッカー・パンラの屋敷にいて、管理の仕事を引き受けてもらっています」
「樹木の神殿の隣にある、聖なる岸壁の屋敷ですか?」
「そうです。けれど、まだ訪ねないで下さい。どうしても会う必要があるのならば、誰にも知られない安全な場所を用意します」
「何故ですか」
「ギアノには見張りがつけられているからです」
見張り?
そう漏らしたデルフィに、ニーロは頷いている。
「あなたが会いに行くかもしれない者にはもれなく見張りが付けられています。鍛冶の神殿にも、雲の神殿にも」
「ジマシュが?」
「それなのです、デルフィ・カージン。ジマシュ・カレートが直接そうさせているのではなく、彼に付き従う者たちが見張るよう決め、実際に動向を窺っています」
「付き従う者だなんて」
「あなたはどこまで知っていますか。ジマシュ・カレートについて、彼のしていること、させていることについて、どの程度把握していますか」
「時々誰かに会ったり、共に探索に行ける者を探していたのは知っていますが」
けれど他人の見張りをさせたりするような真似をしているなんて、聞いた覚えがない。
デルフィは戸惑い、また心を震わせている。
「彼の悪事については? いくつかは知っているのでしょう」
「はい。いくつかはわかっています。初心者に『橙』の場所を教える時に『黄』の場所を言ったり、助けると言いながら迷宮の中で簡単に見捨てたり……」
「それがわざと行われたことだと、あなたは確信を持っていますか」
わざとやったのか。
きっと、そうだと思っている。そう思わされている。
ジマシュはいつでも、偶然だとか、間違えたとか、運が悪かったと言うけれど。
「僕としては、わざとやったのだろうと思っています」
「証拠になるものはありますか」
「証拠……は」
そんなものがあるだろうか。
彼の悪意を示す、はっきりとした「物」など。
「わかりません」
ニーロの表情は変わらない。
灰色の瞳に宿った光を見て、自分がどう答えるかわかっていたのではないかとデルフィは思った。




