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12 Gates City  作者: 澤群キョウ
  X13-B_Scheme of Magicians

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168/247

161 闇夜、濁流 1

 迷宮都市の西門近くでは建築ラッシュが起きており、日雇いの労働者が大勢行き交っている。

 人手が足りないのか外の空き地に住み着く脱落者たちも働いており、薄汚れた格好の男が幾人も建材を運ぶ姿が見えた。


 おんぼろの建物はすべて壊されてしまって、見通しが良い。

 隠れる場所がなくなってしまって、見張りの仕事には支障が出ている。

 何度も何度も溜息をこぼしながら、ヘリスは狭い隙間に身を潜め、我慢の時間を過ごしていた。


「おい、ヘリス」

 ふいにかけられた声にびくりと体を震わせ、建物と建物の隙間でなんとか振り返る。

「マグニか、驚かせるなよ」

「あの男、随分前に出て行ったぞ」

 マグニの顔は呆れ果てており、ヘリスは驚き、慌て、蒼褪めていた。

「いつの間に?」

「お前の仕事だろう、なにを言ってんだ」

「いや、隠れる場所が少なくなったから」

「そんな言い訳したらぶち殺されるぞ」

 今日は黙っておいてやるから、とマグニは言う。

「確かにあいつ、やたらと足が速えからな」

 ヘリスが見逃した迷宮調査団員ヘイリー・ダングは北に向かって歩いていったらしく、今はマグニの次の係が後をつけているらしい。

「すまない、恩に着るよ」

「絶対にバレるなよ。知られたら俺までタダじゃ済まねえんだからな」

 これだけ言うとマグニはあっという間に去っていき、ヘリスは噴き出した汗を拭った。


 

 迷宮都市で賢く稼ぐ集団の一員であるヘリスの最近の仕事は、新しく迷宮調査団に入ったヘイリー・ダングを見張ることだ。

 王都からやって来た騎士であり、元「仲間」チェニー・ダングの実の兄でもある。

 

 あの女が去り、ヘイリーがやって来た。

 チェニーがなにを伝えたのかはわからないが、ヘイリーは「ジマシュの貸家」を訪れ、様子を見ていたのだという。


 なぜ貸家に辿り着けたのかがわからない。あの貸家について、「チェニー・ダングは知らなかった」はずなのに。

 ヘイリーは油断の出来ない男のようだから、動向には注意しなければならない。

 だから、ヘリスたちが見張っている。


 他の調査団員たちはそんな真似をしないのに、ヘイリー・ダングは迷宮都市のあちこちを歩いて回っている。

 制服姿で歩き回り、もめ事があれば割って入って仲裁をして。そんな振る舞いをする男は初めてで、動向を把握しておくべきだと伝えられている。

 潜む場所がないだとか、見張りにくいだとか。ヘリスが不便を感じていようが関係ない。


 そもそも、言い訳自体が許されないものなのだから。


 下っ端同士であっても、ああだこうだと文句を言わない方がいい。

 マグニはたまたま近いところの出身で、個人的に仲が良いからこうやって愚痴をこぼせるだけだ。

 他の者に聞かれたら、あいつはさぼっていた、真面目に取り組んでいない、信頼を裏切る怠け者だと「報告」されてしまうだろう。



 迷宮都市へやってきて、探索へ行くのを諦めて、商店で働き始めて、張り合いのない日々に腐っていたころ。

 酒場でちびちびと酒を飲むヘリスに、声をかける男がいた。


 もっとやりがいのある仕事をしたいと思わないか。あの店での仕事は誰にでもできるものだが、君はそれ以上を望んでいるんじゃないか?

 君の目は鋭い、よく周りを見ているのだろうとか、なんとか。誉め言葉に気を良くして、ジマシュの後をついて歩いた。

 物を届ける仕事から始めて、細かな用事を頼まれて。仲間の集う「仕事場」に案内されて、掃除や片付け、暮らしの支度を任された。


 しっかりやっていけば、認められる。認められればもっと重要な仕事を任される。役に立つと判断されれば、ジマシュの隣に並べるようになる。

 波打った金髪の男はいつでも涼しげで、唇を微笑ませた形にしていて、なんでも明瞭に話した。


 彼に特に可愛がられるようになれば、良い住まいも提供される。

 実入りの良い仕事を任せられるようになれば、故郷で待つ家族にも金を送れるようになる。


 みんなそう言う。うまくやった連中は、良い暮らしをしているんだと。

 だからヘリスも、そんな日が来ると信じていた。信じて与えられた仕事をこなし、狭いところに身を潜め、ヘイリー・ダングの様子を窺っている。

 

 いいか、へまをするなよ。絶対にサボるなよ。バレないなどと、思うなよ。


 ほんの一瞬の気のゆるみが、お前をまた一番底へ落とすのだから。

 そう言われて、必死になって働いてきた。

 ヘリスとマグニにも指導しなければいけない下っ端がいて、同じ言葉を繰り返している。

 言われたことは絶対に守れ。指示された通りに働き、決してさぼるな。

 

 うまくやれなくて消えていった者も多い。彼らは落伍者であり、西に住み着く宿無したちと変わらない。

 やりぬく力を持っておらず、甘えたことばかり言って、上を目指す気がない。

 そんな奴らになってはいけない。ヘリスはマグニと互いを励まし合って、これまで働き続けてきた。


 夕方になるとヘイリー・ダングが戻って来て、今度はすぐに見つけることができた。

 それから姿は見ないまま、夜が訪れる。今日の仕事はもう終わったのだろう。

 ヘリスの担当している地域では目立った動きはなかった。

 「今日の店」で落ち合ったジュスタンに報告をして、ようやく一息ついている。


「わかった。ヘリス、今日は急ぎの話があるんだ」

「新しい仕事か?」

 店の一番奥の席でひそひそと、二人は会話を交わしていく。

「ああ。店のレシピをなるべく多く知っている業者を探したい。できればもう店を辞めた人間がいいんだが、そう簡単に見つかるもんじゃなくってな」


 ジュスタンの口の周りには髭がもさもさと生えていて、見ただけではなんと話しているかわからないだろう。

 他人に聞かれたくない話をするにはうってつけで、その為に伸ばしているのだろうかとヘリスは考える。


「だから、どう探すか考えたいんだ。他の奴らにも声をかけている」

 西側の廃墟はほとんどなくなってしまったから、北東にある廃宿に集まると既に伝えたとジュスタンは言う。

 難しいことを成し遂げる為には、より良い計画が必要だ。

 そういった時は大勢で知恵を持ち寄るのが一番良い。

 知恵を出し合って良い方法を思いついたから、「神官の連れ戻し」はうまくいったんだ。

 毎度そう聞かされてきたので、ヘリスは黙って頷き、指定された隠れ家へ移動する。


 件の廃宿には阿呆のバルバがいて、入口でヘリスを迎え入れてくれた。

 中には既に何人か集まっており、奥の部屋で控えめに灯りをつけてテーブルを囲んでいる。


「よお、ヘリス」

 やたらと腕の細いマッタイが手を挙げ、その隣にはバーティがいてへらへらと笑っている。

「お前、西側にいるんだよな。新しい大きな店が出来たのをもう見たか?」

「外から少し見ただけだ。調査団を見張っているから、そんなに時間はないんだよ」

 

 バルメザ・ターズに続く大型店がようやくオープンすることについて仲間たちは話している。

 愛らしい娘たちが歌って踊るという大きな舞台があるらしく、裕福な商人たちのもとには招待状が届けられているらしい。

「間抜けそうな奴を探せば、財布を掏り取るくらいできるかもしれねえぞ」

 ギードがへらへらと笑いながらこう言うと、カワガとラキは呆れたようにため息をついてみせた。

「バルメザん時にやって、警備が厚くなっちまったのを忘れたのか?」

「頭を使えない奴はこれだから困るぜ」

 手癖の悪いギードはぺこぺこ頭を下げて、もうやらないと弁解している。

 手先が器用で「使える」から、今もまだ仲間の一員でいられるらしいが、ヘリスには詳しくわからない。


 キウが最後に部屋に入って来ると、ジュスタンも姿を現し、椅子に座った。

「揃ったな」

 知った顔がすべて揃ったわけではないが、ジュスタンがそう言うなら、今夜はこれでいいのだろう。


 人数が少なくなったとヘリスは思った。

 ヌエルもラリードもいない。チェニーも。

 パイロ、グリン、モッテもいない。王都に共に派遣された時、パイロたちはいつの間にか姿を消していた。

 王都の風に浮かれていなくなる奴らもいるだろう。

 ジュスタンはヘリスにそう言っていた。だから、実際に何人かいなくなった時には感心させられた。

 けれどとにかく頭数が減ってしまったのだから、話合いだけではなく、配置換えも必要になるだろう。


「ジュスタン、神官探しはもういいのか」

 話が始まる前にマッタイが声を上げ、ギアノという名の男はいつまで見張ればいいのか問いかけている。

「あいつ、南の市場に行くくらいしかしねえんだ。近くの店に配達かなんかをすることもあるけどよ」

「その話は後にしてくれ」

「でも、人数が減ってやりにくいんだ。新しい仕事なんだろ、今日の話ってのは」

「わかってる。誰になにを頼むか、この後ちゃんと話すから」


 逸るマッタイを制して、ジュスタンはヘリスにも聞かせた薬草業者の話を説明していった。

 迷宮都市にはいくつも薬草店があるが、詳しい者はいないか問いかけ、バーティが手を挙げている。


「業者の奴らも最近、警戒が強くなってるんだ。大手の店の奴らは難しいかもしれない」

「新しい小さい店もいくつかできてるよな」

「小さい店は良いレシピを持ってないだろう?」

「大手から独立したってとこがあったはずだ。俺が調べてみるよ」


 バーティは自信があるのか、鼻息を荒くして自分にまかせるようアピールしている。

 ジュスタンは頷き、仲間にできそうな奴を見つけたらすぐに報告するよう頼んだ。


「ザックレンが勝手な真似をしたせいでよう」

 バーティがぐちぐちと話し、無駄な話は終わりだとジュスタンが遮る。

「あんな奴の話はもういい」

「不気味な野郎だったぜ、まったく」

 こんな独り言は無視されて、ラキに手伝うよう指示が出され。

 残りの面々にはヘイリー・ダングの見張りと、荷運びの仕事が割り振られて集まりは終わった。


 担当は変わらずヘイリーの見張りのままで、嫌だ、とヘリスは思った。

 彼はすぐに振り返るから。


 ヘイリー・ダングはヘリスのことなど知らない。

 けれど、彼をひどく恐れている。


 わざわざ王都へ行ってした仕事が、最低だったからだ。


 下手を打って追いやられた、あの、女の調査官。

 チェニー・ダング。

 噂は思いがけないほどの勢いで広まっていった。

 酒の入った兵士はげらげらと笑いながら、女の「しでかし」を仲間たちに吹聴してくれた。


 ジマシュの下に、駄目な奴はいらない。

 足を引っ張る奴はこうなるのだと、意識の甘い者にきっちりと末路を見せつけるべきだと言われていた。

 ヘリスたちは指示通りに、やるべきことをやっただけ。

 

 なのに、胸の中が激しく渦巻いている。


 王都でまいた噂は、本当の話だ。

 あの女はバルジという男と関係を持ち、剣も奪った。

 その男はもう一人の間抜けと一緒に罠にかけられ、殺された。

 嘘はついていない。

 本当にあった出来事を、ほんの少し大きくして伝えただけ。

 チェニー・ダングが死んだのは、あの女が弱かったからだ。


 でも。

 ヘイリー・ダングの、あの、瞳。


 彼は街を歩きながら、時々悪鬼のような表情を見せる。

 鋭い目に怒りの炎を灯し、暗がりに潜む敵を炙り出そうと視線を彷徨わせている。


 見つからないように気をつけているけれど。

 見つかったところでヘリスを罪に問うことなどできやしないとわかっているけれど。それなのに、恐ろしくてたまらない。

 最近、ずっと後悔している。

 どうしてあの時、あいつらと一緒に逃げてしまわなかったのか――。


「おい、ヘリス」


 突然声をかけられて、ヘリスは驚きのあまり甲高い声をあげてしまう。

「馬鹿、なんて声をあげるんだよ」

 周囲から視線が集まり、ジュスタンはいつもより大きく声をあげて仲間の背中を強く叩いた。

「すまない、驚いちまって」

「話があるんだ、少しいいか」


 街中で不要に目立つな。

 そんな決まりを守るために、黙ってジュスタンについていく。


 いくつか設定されている「いつもの店」のひとつに入り、二人で奥の席に座る。

 こんな風に、集まりの後に個別に呼ばれたのは初めてのことだ。

 勝手に注文された酒が運ばれてきたが、飲んでいいのかどうか、ヘリスにはまだわからない。


「どうしたんだ?」

 ジュスタンの顔色は悪く、ヘリスはおそるおそる問いかける。

 すると髭の大男は仲間の顔へ視線を向けて、聞き取れるぎりぎりの小さな声でこう呟いた。

「オイデはもう駄目だ」

 言葉の意味することがわからなくて、ヘリスは戸惑いながら盃を手に取る。

 ジュスタンはゆっくりと頷いて、更にこう囁いた。

「ヌエルとチェニーの潜入計画を立てたのはあいつだ。あれは結局失敗だった。ラリードもあいつの指示に従って、死んだ」


 最も優先されるべき計画だった「神官の奪還」はうまくいったのに。

 結局なぜだか逃げ出され、今はまた行方知れずになっている。

 当然、みんな不満に思っているし、堂々と口に出す者もいた。


 チェニーは追いやられ、ヌエルは大きな失敗をして死んだと聞いている。

 ラリードの死は、喜ぶ者の方が多かった。とはいえ、「仲間の死」であることにかわりない。


「わかるだろう、ヘリス」

「なにが?」

「あいつの下についた奴らが次々と駄目になってるんだ」

「ヌエルはジュスタンが見ていたんじゃないのか」

 小声の問いに、髭の男はゆっくりと首を振っている。

「尻拭いをさせられているだけさ」


 ジュスタンは声を潜めたまま、オイデについて語り続けた。

 彼の管理が悪いから、下についた者が失敗し続けていると。

 ヘマした者をジュスタンに押し付け、失敗ごと抱えさせ、評価を下げさせているのだと。

 

 この話が本当なのかどうか、ヘリスには判断がつかなかった。

 誰が誰の下で働いているのか、詳しく知らされないから。

 仲間と話す機会はあまりないし、皆いちいち語ったりもしない。

 オイデのことは知っているが、会った回数自体が少ない。

 ジュスタンは酷く暗い表情をしており、抱えた怒り自体は本物ではないかと思えるが。


 テーブルの上に置いた手に、ジュスタンの大きな手が伸びて来て重なる。

 燃えるような熱さに加え、重たい。

 髭の男はそのままヘリスの手を掴むと、立ち上がった。


「行くぞ」


 体中からだらだらと汗が流れていた。

 気付かれたのではないかと思ったからだ。

 逃げ出そうと考えていたこと、なにもかも捨ててすぐに街を出ようかと悩んでいたことに。


「どこへ?」

「バルバたちのところだ」

 では、ヘリスを責める為の移動ではないのだろう。

 しかし、さっきまで集まっていた面子にまた会いに行く理由は見当もつかない。

「なにか伝え忘れたことでもあるのか」

 ジュスタンに手を引かれて向かう先は、話し合いをしていた廃宿だ。

 もうみんな残っていないだろうに、何故戻るのだろう。

 問いかけに対し答えはなく、ヘリスは仕方なくうつむいたままついていく。


 北東の大門近くには安い宿が多く建てられていて、探索初心者や行商人が歩いている。

 夜も随分更けたが、人通りは途切れていない。

 迷宮から帰ってきたのかもしれないし、どこかで酒でも飲んでいたのかもしれない。

 なんにせよ、この辺りでとぼとぼと歩く連中は駆け出しの貧乏人ばかりだ。

 

 いくつかのグループとすれ違って戻った先の廃宿は、静まり返っている。

 狭い路地の先は打ち捨てられた建物しかないから、通行人ももういない。

 集まりが終わればすぐに解散する決まりだから、中には誰も残っていないはずだった。

 けれどジュスタンは懐から鍵の束を取り出して、扉を開けた。


「やはりな」


 静まり返っているのに、中には灯りがともされたままだった。

 ジュスタンが呟いた理由はまだわからない。

 中に足を踏み入れ、バルバが床の上に倒れているのに気付いてもなお、わからなかった。


 ジュスタンは青い顔で床に転がるバルバにはまったく構わず、奥に向かって歩いていく。

 嫌な予感に身を震わせながらヘリスも後についていく。そうするしかないから。

 なにを言ってもいけない気がして、黙ったまま進むと、奥の部屋では三人の男が倒れていた。


 一人は椅子に座ったままテーブルに突っ伏しており、二人は椅子から落ちてしまったようだった。

 誰も彼も青白く、ぐったりとしていて生気がない。


 カワガとラキはうつ伏せになっていてわからないが、ギードは仰向けでひっくり返っていて、口から泡を吹いている。

 目を大きく開けたまま、ぴくりとも動かない。

 ヘリスは全身を駆け巡る震えを抑えられなくて、声も出せずにいる。


「な?」


 ジュスタンの冷ややかな表情も、今かけられた短い言葉の意味も、わからないし、受け止められない。

 死んだようにしか見えない男たちの様子を一人一人確かめて、ナイフを取り出した理由もわからなかった。


「ジュスタン?」


 なんとか絞りだした声に、髭の大男はゆっくりと頷くと、なぜか倒れた男たちの喉元にナイフを突き立て始めた。

 ギードにも、カワガにも、ラキにも、禍は平等に降り注いでいく。

 三人は一切抵抗せず、血を噴出し、ナイフで切り付けられた反動で揺れただけ。


 部屋中が不吉な匂いに満たされ、ヘリスは震えていた。いや、震えるくらいしかできなかった。

 ジュスタンだけが動き回り、血の匂いを残して部屋を出て行ってしまう。

 逃げてしまいたい。しかし、ジュスタンが向かったのはこの宿の入り口で、窓は板が打ち付けられて塞がれている。

 ヘリスが迷っている間に大男が戻ってきて、床の上にバルバが放り投げられる。


 既に部屋に転がっていた三人の体が蹴り飛ばされ、四人はひとところに集められていった。

 カワガの腕はバルバの顔の上に、ラキの足はギードの腹の上に重なっている。

 けれど、誰もなにも言わない。心の底で否定したいが、ヘリスはもうとっくに理解していた。

 今、ジュスタンになんらかの液体を振りまかれている四人の命は、失われてしまったのだと。


 ヘリスが呆然としている間に、ジュスタンは更にどこかから二人を引きずってきて山に重ねて、もう一度ざばざばとなにかをかけた。

 そして火のついた棒を持って来ると、仲間でできた山へ放った。


 カワガの着ていた服が燃え上がり、瞬く間に広がっていく。

 小さな火は炎になり、床を焼き、椅子も包み込んで、猛烈な熱を放ち始めていた。


 背中のあたりを強く引っ張られ、ヘリスはいつの間にか外にいる。

 扉を閉めてしまったからなのか、炎は見えない。

 ひょっとしたら夢か幻だったのかもしれないと思わせるほどに、外はまだ静寂に守られている。


「よし。行くぞ、ヘリス」

 また腕を掴まれ、ジュスタンに引かれるままに足が回りだす。

「待ってくれ」

「なぜ?」

「どうしてあんなことを……」


 さっきまでの出来事はあっという間に目の前から消えてしまったから、あんなこととはなんだ? と返ってくるかもしれない。

 それで「人の話を聞いていない」と怒られたとしても、今は構わなかった。


 すべて、幻であった方がいいのだから。


 ヘリスは竦む心を必死で動かし、髭の男の反応を窺っている。

 

「酒を置いてきたんだ」

「酒?」

「すぐに移動せずにだらだら残る奴がいるからな」


 確かに、少し休んでからとか、今日はもう終わりでいいとか、集まりが終わっても残る連中はいる。

 彼らは言い訳をするが、居残ったとしてもそう長い時間ではなく、短い雑談をしたらすぐに出ていって、それぞれに散っていたはずだ。


「案の定だ。俺の考えた通りだったよ」


 ジュスタンが置いてきた酒とは、なにを指すのだろう。

 バルバたちはそれを見つけて飲んだのだろうか?

 飲んだとして、あんな風に泡を吹いて倒れるものなのか。


 話はこれで終わった。

 髭の男が歩き出し、腕を掴まれたままのヘリスは引きずられるように安宿街の奥路地を進んでいる。


「どこに向かってるんだ?」

「オイデたちのところだ」


 彼らは今夜他の隠れ家に集っているとジュスタンは言う。

 髭の男のいつもとまったく変わらぬ様子に、ヘリスは強い恐怖を感じていた。

 指示通りにうまくやれない者がいた時は叱責されたり、小突かれたりしていたが。

 そんな簡単な罰を与えた時と変わらないくらいの態度に、体のあちこちに震えが走ってうまく歩けない。


「ちょっと待ってくれないか」

「どうした、ヘリス」

「いや……」


 額を流れ落ちてきた汗を拭いながら、ゆっくりと振り返る。

 ジュスタンが放った火が育ったのか、闇の中に赤い光がちらりと見えたような気がしていた。

 今は他の建物の陰になっていてはっきりとはわからないが、あの廃宿が燃えているに違いない。


 どうしてあんな真似をしたのか問いたいけれど、声に出せない。


 仲間の死はこれまでにいくつもあったが、あんな風に惨たらしい様を見せつけられたのは初めてだったから。


 西の墓地に運ぶ死体には必ず布がかけられ、表情は隠されている。

 でもついさっき、見せつけられた。

 ナイフで切り裂かれた傷から血が噴き出し、溢れて、床を汚す様を。

 命が尽きた体があんな風に力をなくし、青白くなるなんて知らなかった。


 ジュスタンがなぜあんな真似をしたのか、理由がわからない。

 想像もつかないし、思いつきもしない。

 彼らを「始末」するよう言われていたのか?

 建設的な話し合いをしたと思っていたのに。

 もう使えない人材だと判断されて、邪魔になってしまったのか?

 新しい仕事を割り振られていたのに。


 オイデについてはさっき聞かされたけれど。

 では、これから向かう先でも同じことが起きるのだろうか。


 強く腕を引かれて、ヘリスはよろめきながらジュスタンについて歩いた。

 静かだった安宿街が、少しずつ騒がしくなっていく。

 遠いざわめきはいつしか大声になり、火事だと叫ぶ声が聞こえてくる。


 薄暗い路地に引っ張り込まれて進むと、誰かに打ち捨てられた廃店舗が並んでいた。

 そのうちの一つはジマシュの下で働く連中が集まるために用意されている場所で、オイデたちがいるに違いない。

 ヘリスは混乱しながらも歩き、何故自分は災難を逃れ、こうして引き回されているのか考え始めた。

 しかし、答えは出ない。

 ジュスタンと特別に仲を深めていたわけではないのに。

 心を更にかき乱されながら、ぼろぼろの「隠れ家」に辿り着いていた。

 古びて汚れているのは外観だけで、中はそれなりに片付けられている。

 ヘリスの記憶ではそう。だったのに、今日は違う。中にはまた何人もの男が倒れていたし、入ってすぐの場所でひっくり返っていたのはマグニだった。


「見ろ、ヘリス。やっぱりだ」

「なにが」

「決まりを破るような奴らしかいなかったのさ」


 マグニの隣にはオイデがいて、床にはカップでも落としたのかいくつもの欠片がまき散らされている。

 名前を知らない奴も、見覚えのない男も床に転がっていた。

 仰向けに倒れた誰かの目がまっすぐに向けられ、お前は何故生きているのだと怨嗟の声をあげている。

 

 ヘリスは慌てて口を抑えたが、堪えきれずにその場で嘔吐していた。


 唸り声が漏れてしまったからか、ジュスタンは厳しい顔をしてヘリスを睨んでいる。

 情けない姿を晒した「罪」を責めるのだろうか。いや、責めるどころか、命を奪われるのかもしれない。

 逃げるか、戦うか、謝るか。足がよろけて吐瀉物を踏んでしまったが、それどころではない。

 

 髭の大男が一歩前に踏み出してきて、恐怖のあまり涙が一気にこみ上げてきて、床に落ちていった。

 両手を突き出し、来ないでくれと必死で訴える。

 けれどジュスタンはあっさりと通り過ぎて、ヘリスの背後へ向かって進んだ。


「うう」


 自分のものではない苦悶の声が耳を掠めていく。

 薄暗い部屋の中で、かすかに、まだ動く者がいたようだ。

 床の上でもがいていたのは、背が高くて汚い顔をしたガドだった。

 逃げようとしているのか、必死で腕を動かし、唸り声をあげている。


「ガド」

 ジュスタンの呼びかけに返事はなく、ガドにも見上げる力は残っていない。

 体をぶるぶると震わせながら、床の上でもがくだけ。

「お前が悪いんだぞ」

 いいな、と諭すように呼び掛けて、髭の大男は静かに刃を抜き、ガドの体に突き立てる。


 その後は、廃宿で起きた出来事の繰り返しだった。

 ジュスタンは全員に平等に「とどめ」をさして、死体を一か所に集めて山を作っている。


 血の匂いが充満していた。

 また火が放たれ、ここも燃やされてしまうのだろう。

 扉は閉められているが、外は騒々しくなってきたらしく、誰かが叫ぶ声がひっきりなしに聞こえてきていた。


「寝ている奴は起きろ! 火事だぞ!」


 ふいに聞こえてきたよく通る声に、ヘリスはようやく意識を取り戻して、血にまみれた隠れ家から飛び出していった。

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