148 現状確認
「『橙』の深いところってのもいいのかもねえ」
コルフがこんなことを言い出したのは、あの迷宮調査団の男との探索で思いついたからなのだろうか。
「最下層」への道のりを体験しておくのは、今後の探索にきっと役に立つだろう。
魔術師の隣でカミルはこんな風に同意していたが、納得がいかなくてフォールードは声を上げた。
「いや、儲からねえだろ、『橙』じゃ」
五人揃って朝食をとりながら、次の計画を話し合っていく。
ヘイリー・ダングに付き合って夕方からの探索をしたので、生活リズムを整えるべく今日は会議をすると決まっている。
儲からないで提案を一蹴した新入りに、仲間たちは確かにそうだと笑ってくれた。
「『緑』はまた別な準備が必要だし、やるなら『藍』の方がいいんだろうな」
「うーん、底には一度行ってみたいもんだけどねえ」
「俺はそれよりも『赤』に挑戦したい」
隣のテーブルに座っている初心者たちが、心底うらやましそうにこちらを見ていた。
同じ年頃で、同じ時期にやって来たのに、フォールードはもう「赤」に行く相談をし始めている!
他人の心中を勝手にこう決めつけて、フォールードは四人へ順番に顔を向けて、行ってみないかと強くアピールしていった。
「そうだね。確かにいいかも」
「神官が見つかったら行こうって話してたんだもんな」
カッカーの屋敷に来てすぐに仲間にいれてもらって、随分長い時間行動を共にしてきた。
五人組の責任を請け負ってくれているのはなんとなくフェリクスと決まっているが、探索の計画を考えるのはカミルとコルフだ。
二人は前向きな言葉を好む。うまく火をつければ、乗ってくれる。
無理がある時には、フェリクスとアダルツォが必ず口を出すし、そうなればきっちりと話し合いが持たれる。
フォールードはこの五人組をすっかり気に入っていた。
屋敷では一番出来ると聞いて入り込んだというのがきっかけだが、良い出会いがあったのだと今は思っている。
ティーオが前向きに引退したタイミングで、気持ちよく参加できたのも良かった。
カミルとコルフが揃ってやって来て、しばらく一緒にやっていかないかと聞かれた時は本当に嬉しかった。
「フォールードのお陰で戦力も上がったことだし、脱出も使えるようになったから」
「今こそ挑戦の時ってやつなのかもな」
カミルとコルフは本当に仲が良い。打合せでもしているのかと思うほど、会話の呼吸が出来上がっている。
アダルツォは心配そうな顔をしていたが、フェリクスがすぐに気付いて声を上げた。
「大丈夫だ、アダルツォ。慎重に、無理のない範囲で少しずつ進んでいこう」
「そうだね、『赤』は初っ端から手強いから。調子に乗った時が一番危ないんだよ、フォールード」
「今こそって言ったのはそっちだろ」
フォールードが肩を強く叩くと、魔術師は朗らかにケラケラと笑った。
朝の会議で次の行先が決まり、準備を整えて明日挑むことになった。
「赤」は探索初心者の憧れの地だ。
「橙」の正当な強化版で、探索者の実力が問われるところ。
基本ができていない者には挑めない、初心者卒業の証ともいえる迷宮。
五人にとってはまだ試しの挑戦だが、ちょっと覗いてみる程度ではなく、前向きに挑もうと考えて向かう。
仲間への信頼と少しの自信を持ち寄って、準備を整えて、その日を迎えた。
最近よく向かう「藍」の次に、「赤」の迷宮は近い。カッカーの屋敷から歩いてすぐの中堅探索者御用達の穴に、五人は朝早くから入っていった。
もう一組のパーティと僅差で早くたどり着き、扉を開く。
床は黒を混ぜたような暗い赤。壁は、爆ぜるような炎の赤。
一層目、二層目の途中までは高揚のままに歩けても、戦いが始まると中堅程度の探索者は途端に腰が引けてくるのが「赤」の迷宮だ。
これまでと同じような兎だの犬だのが少し大きくなっただけ。見た目はそんな風なのに、魔法生物はやけに強くてしぶとい。
うまく皮を剥いでやろうという野望に諦めをつけて、何度も何度も切り付けて。
息があがっても、勝てたのならば上等だ。そんな戦いを続けていくうちに、この壁はきっと血で染められたのだと思うようになる。
戦士たちはあっという間に消耗していく。
スカウトも同じで、似て非なる罠と向かい合ううちに疲れ果て、視界を鈍らせている。
そんな時に居てほしいのは、頼りになる後衛たちだろう。
カミルたちが考えた通り、「赤」には神官が必要だった。傷を癒す為だけではなく、背中に浮かぶ疲労や絶望に気付き、声をかける者がいなければこの迷宮は進めない。
「フォールード、ちょっと止まって」
何匹目かの犬との戦いの後、四層目の途中でアダルツォに声をかけられて戦士は振り返った。
カミルとフェリクスも足を止めて、でこぼことした二人の様子を見守っている。
「なんだい、神官さん」
「ゆっくり息をしよう。なんだかちょっと、荒っぽくなってきたから」
アダルツォが手に触れてきて、フォールードは言う通りに呼吸を整えていった。
戦いはできている。負けていない。最初の三匹は傷だらけにしてしまったが、四匹目からはかなりまともに仕留められるようになっていた。
だから、やれると思った。初めての「赤」でも、自分はやれるのだと。
「そう見えるかい?」
「うん」
小さな神官は短い返事をして、雲の神への祈りの言葉を紡いでいく。
癒しでもなく、気力の回復でもない、ただの祈りの言葉のようだ。
「調子が上がってきたところだぜ?」
「そうだよね。さっきの戦いは見事だったよ」
「わかってるじゃねえか」
よくわからない理由で止められたのは不満だが、アダルツォに文句は言えない。
自分を諫めてくれる正しい存在だから。周囲の人間に手を差し伸べ、他人の為に働く立派な神官には、逆らうことはできない。
「フェリクス、カミル。二人はどう?」
「もうちょっといけると思う」
カミルの言葉にフェリクスが頷き、「赤」の道はまだ続いていく。
足音が聞こえればすぐに、犬は目の前まで迫ってくる。
剣は抜いたまま、手に握ったまま。いつでもすぐに振れるように備えて、ありとあらゆる戦利品を手に入れて歩きたい。
フォールードの胸には野心が溢れていて、体を動かす原動力になっていた。
「他にはなにが出てくるんだ? 見たことないようなやつは出てこねえのか」
「なにが出てくるかは、迷宮を作った魔術師の思し召しってやつだよ」
カミルの気取った返答は、なんの役にも立たない。
フォールードが顔をしかめると、フェリクスは小さく笑ったようだった。
迷宮の調査団がやって来た時、悲しい思い出が蘇ったのか辛そうな顔をしていた。
詳しく聞いてはいないがどうやら酷い過去があるようで、フォールードはフェリクスにも文句を言わないと心に決めている。
時々落ち着くよう声をかけられながら進んで、五人は六層目にたどり着いていた。
階段を降りただけで、まだ六層目を歩いてはいない。
けれどカミルとコルフは清々しいほどの笑顔を浮かべており、満足そうにこんな会話を交わしていた。
「六層目に着いたね!」
「いや、三層で逃げ帰ってたっていうのに。すごい進歩だよ」
二人は仲間たちの肩や背中をばしばしと叩き、迷宮の中だというのに三人を称えていった。
フェリクスが戻ってきてくれてよかった。
アダルツォが仲間になってくれてよかった。
「フォールードがこの街に来てくれて本当に良かったよ!」
「そうかい」
「いや、さすが伝説の探索者だよ。チュールとアークの教えが生きてるんだな」
「チュール様を呼び捨てにすんな」
「はは、ごめんごめん」
浮かれた気分は抑えて、慎重に歩いて、念願の泉にたどり着くことができた。
先輩たちの意見は既に決まっている。泉に辿り着けたら、今回は終わり。
コルフの「脱出の魔術」が完全なものだと言い切れるようになるまでは、余裕のあるうちに終わると決められていた。
魔術はとても複雑で、難解なもののようだから。フォールードは魔術について知らないし、自分が使えるようにならないと思っているから、指示に従う。
泉の水で疲労を癒したら、周囲に敵がいないか確認して、五人で集まって。
なにを言っているのかわかるようなわからないような、不思議な声と力に運ばれて、この日は入口へと戻った。
念願の「赤」であり、目指していた六層目に辿り着いたものの、収穫は控えめだ。
そうだろうとは思っていたのに、五等分にした分け前の少なさを目の当たりにすると、驚きがあった。
「うーん、『赤』に慣れていきたいけど、『藍』にも行った方がよさそうだねえ」
「交互に行ったらどうだろう」
フェリクスの提案に、みんな頷いている。借金返済だの、無からの再出発だのといった事情を抱えていなくても、暮らしに余裕がない状態でいるのは精神的に良くないから。
新しい挑戦をするのなら、余計な不安は抱えていない方がいい。
実際にやってみて出された結論に、五人は心を合わせて次の予定を立てていく。
夕方になる前に地上に戻って、収穫を売って、分けて、屋敷へ戻って。
満足感と物足りなさを一緒に抱えて、夕食の準備を進めていく。
他の初心者たちよりも早く戻れたお陰で、混む前に厨房を使うことができた。
フェリクスは調理の腕が前よりも上がったらしく、仲間からのリクエストを聞いて味を調えているようだ。
遠慮なくもりもりと食べて、終わったら体を洗って。時間があるからと洗濯しようと誘われ、アダルツォと一緒に裏庭へ向かう。
「あんまり強くこすると破けるぞ」
毎回受ける注意に適当に答えながら、フォールードは少し前に起きた事件について思いを馳せていた。
食堂がやたらとごった返していたから、あの日は朝から水浴びをしていた。今いる、まさにこの場所で。
「なあ、あの子は大丈夫なのかな」
それで間に合った。遠くからかすかに聞こえてきた悲鳴に気が付いて、塀の向こうを覗いたから。
「あの子って?」
「金色の髪の、みんながクリュって呼んでた」
「ああ、確かにね」
ティーオの店で偶然会った時。フォールードにとって、あんなにも衝撃を受けたのは人生で二度目のことだった。
一度目は、このクソガキをしつけなおして下さいと連れていかれた隣の町の神殿で。
奥から呼ばれて出てきたチュールの、天から遣わされたに違いないであろう美しい姿に、畏れすら抱いたものだった。
その衝撃をまさか、また受けることになるとは。
あんなに美しい人は二人といないと思っていたのに。
「ティーオに聞いてみるか」
「先輩なら知ってるのかい」
「一緒に暮らしているから。店に行った時話していただろ?」
あの時なんらかの会話があったのはわかっている。だが、内容は覚えていない。
驚きすぎて時が止まってしまったかのようだったから。
クリュはあまりにもチュールと似ていた。雰囲気は違う。チュールはもっと神官らしく、穏やかさと優しさに満ち溢れているから。
けれど、あの髪の煌めき、神秘的な色の瞳は同じだ。落ち着きのない様子はかわいらしいくらいで、それがまたフォールードにとって大きな驚きだった。
「朝は忙しそうだから、夕方来た時に捕まえようか」
「捕まえるって、なにを?」
「ティーオをだよ」
アダルツォはこの相談をよく心に留めてくれていたようで、次の日の夕方ティーオに声をかけてくれた。
もじもじとしてなにも言えないフォールードの代わりに、クリュの調子はどうか尋ねてくれている。
「うん、まあ、そうだな。元気にやってるけど……、そういや探索には行ってなさそうだな」
クリュとは生活の時間が少しずれているので、詳しくはわからないとティーオは言う。
「あんな目にあったんだ、仕方がないよ」
アダルツォは深く頷き、様子を見に行くかフォールードへ尋ねた。
「どうしたんだ、フォールード。なんでそんな顔してる?」
ティーオに驚かれ、アダルツォも眉間に皺を寄せている。
二人に指摘され、顔にとんでもなく力が入っていることに若者は気が付いた。
店で遭遇した時もきっとこんな風だったのだろう。あの時、クリュは店の奥に隠れた。怯えさせてしまったのだ。
「いや、その……」
「そういえば、まともに話してもいないよね。やりすぎだって注意されていたから。でも、クリュにとっては命の恩人なんだよ、フォールードは」
だから会いに行けばいいとアダルツォは言う。クリュはちゃんと礼を言うべきだろうと話し、ティーオも同意しているようだ。
だが、頭がわけのわからない思考で溢れてまともに働かなくなり、貸家の訪問には至らなかった。
いつでも来いよとティーオは言うが、どんな顔をして会えばいいのかわからない。
クリュはチュールではないとわかっていても、足が動かないし、口がまともな返事をしないのだから仕方がない。
そのまま夜を迎えて、アダルツォとともに部屋に戻った。
他の初心者二人と一緒に四人部屋を使っている。
毎晩眠る前には雲の神への祈りが聞こえてきて、フォールードも流水の神殿での学びを忘れずに済んでいた。
アダルツォがいなければきっとサボっただろうし、祈りの言葉を忘れてしまっていただろう。
小柄な雲の神官は出会って以来、なにかと世話を焼いて一緒に行動してくれている。
カミルとコルフも声をかけてくれる。探索のない日も気にかけて、必要な時には付き添ってくれる。
文句を言えない相手であるフェリクスとアダルツォとは違い、カミルとコルフとは打ち解けていた。
年齢がほとんど同じだとわかり、互いの実力も知ったから。
カミルもコルフもはっきりと高みを目指しており、将来有望な仲間を探している。
だから、君と行きたい。二人がやって来て、真正面からこう言ってくれたことをフォールードは感謝していた。
二人は努力を惜しまず、できることを着実に増やしている。
多少の荒い物言いも笑って流してくれる、素晴らしい仲間だった。
フェリクスとアダルツォは少し年上で、こちらはとにかく落ち着いている。
なんとなくリーダー扱いされているフェリクスは、とても静かな男だ。余計なことは言わないし、冗談を口にすることもない。
真面目な人間など面白くないと思っていた。ルールを破ったことを咎め、罰を与えるのに夢中な者ばかりだと考えていたから。
けれど、フェリクスはそうではない。真面目であっても、柔軟な心を持っていて、多少のおふざけ程度なら許してくれる。
冗談を言わなくても、言われた軽口には笑ってくれる。考えてみれば、ギアノも同じなのだろう。この屋敷に集まっただけの他人のためによく働き、手を差し伸べてくれる。良くない振る舞いには注意をするが、それで済ませてくれる。
世界を回しているのは、彼らのような良い人間なのだとフォールードは思った。
いい加減な人間が世の中を悪くしようとしても、正しい形に戻るよう力を尽くしているのだと。
満たされたまま眠って、気持ちよく目覚めた次の日。
コルフが魔術師の塾に、アダルツォが雲の神殿に出かける予定になっていて、探索は休み。
朝食が済んだ後、今日はなにをしようか迷っていると、フェリクスがやって来て声をかけてきた。
「フォールード、今日はどこかに出かける?」
「まだ決めてない」
「ウィルフレドが剣を教えてくれるんだ。良かったら一緒にどうだろう」
ウィルフレド・メティスとはまだ会っていない。噂だけはよく耳にするが、姿を見たことはない。
凄まじい剣の腕を持っているらしいが、少し前まではこの屋敷で世話になっていたとか。
「へえ、そうなのか。じゃあ、せっかくだし参加してみようかな」
これまでフォールードの耳に届いたウィルフレドに関する噂は、剣の腕前について以外のものの方が多い。
背が高くてかっこいいとか、結構な女たらしのようだとか。
剣の腕がいいので早くに屋敷から卒業し、最近恋人ができたらしい。
つまり、初心者にしては腕が良く、屋敷を出てからもそこそこうまくやっているのだろう。
フェリクスは笑みを浮かべて、準備をして裏庭で待とうとフォールードを招いた。
先輩の顔を立てておいてやるか、くらいの気持ちでいたのだが。
練習用の木剣を用意して、ド素人だらけの少年たちの前にやって来た戦士を見て、フォールードは息を呑んでいた。
剣は元騎士であるアークに習った。口うるさいだけではない、恐ろしく腕の立つ中年親父であるアークは、フォールードが知る限り最も強い男だ。
とりあえず、見た目は今ここにいる髭の方が間違いなく良い。噂に違わぬ色男だし、体格もかなりのものだ。
ウィルフレドはアークよりも若いだろう。
だから、枯れた元騎士よりも少し強いかもしれない。
フェリクスはウィルフレドに声をかけ、髭の戦士も穏やかな声で応じている。
パーティのリーダーはフォールードを呼んで紹介し、共に探索に向かう心強い仲間ができたと報告していた。
「あんた、かなり使えるみたいだな」
思わずフォールードがこう漏らすと、ウィルフレドからはこんな返答があった。
「君も随分鍛えているようだ」
「ああ、やれるぜ」
フォールードの強気な台詞に、フェリクスは驚いたような顔をしている。だが、言われた戦士は気にしないどころか、不敵な笑みを浮かべて見せた。
まだ剣に不慣れな少年たちに体の使い方を指導して、少しくらいは使えるレベルの者には、より良い動き方を教えて。
みんな真剣に話を聞き、憧れの視線をウィルフレドに向けている。
フェリクスにもアドバイスが送られて、ウィルフレドは最後にフォールードのもとへやって来た。
素人、初心者向けの教えはいらないと判断したのだろう。そんなまどろっこしい話をしなかったところは褒めてやってもいい。
そんな風に考える新入りに、ウィルフレドはこんな言葉をかけてきた。
「どの程度やれるのか、見せてもらってもいいだろうか」
木剣を強く握りしめて、フォールードはもちろんだと答えた。
会話を聞いていた少年たちがそっと下がって、場所を開けていく。
みんなが壁際まで下がり、ウィルフレドと向かいあう。
「いつでもいいぜ、おっさん」
アークの指導を思い出しながら、構える。
神殿に預けられてから散々逆らった自分の根性を叩きなおしたのは、チュールの優しさとアークの厳しさだった。
アークはやんちゃな少年に体を鍛えるよう言い、剣の持ち方、使い方を教えてくれた。
「剣を扱う者は、正しい心の持ち主でなければならない」
大きな力を振るう者の魂が、悪に染まっていてはいけない。
力は弱い者を守るためにあるのだから。
アークは剣を教えるたびにそう繰り返し、正しい勇気を胸に置けとフォールードに教えた。
憎い連中を叩きのめすために力が欲しかったけれど。
それでは駄目だと諭され、理解して、心はすっかり入れ替わった。
誰よりも強いアークが、良い剣になったとほめてくれたのだから。
だから、絶対に負けない。経験では負けても、心は間違いなく勝っているという自信があった。
剣を何度か打ち合わせ、様子を窺う。
相手の強さを見誤れば、それが敗北の時だ。
バランスを保ち、足を動かし、相手の様子をよく見て、癖がないか、隙がないか探っていく。
元騎士に初めて勝った日のことを思い出しながら、剣を握る手に力を込めて、振る。
強い一撃に眉間がぴくりと動いた様を見て、勝利の予感がきらりと輝いた気がした。
それでも、油断はしない。どんなに弱いと思える相手にも、油断をしてはならない。胸のど真ん中に揺るぎない教えを抱き、フォールードは気合の声を上げる。
攻撃は強弱、大小を織り交ぜ、隙を作らないように動くんだ――。
アークの声が遠のいていくかのような感覚だった。
次と、次の次、更にその次の動きまで考えていたのに、ウィルフレドから繰り出された強烈な一撃にすべて吹き飛ばされ、剣は庭の端まで飛んで行ってしまった。
武器とともに弾き飛ばされ、なんとか転ばずには済んだが、フォールードはよろけて三歩下がっている。
「嘘だろ」
完璧な敗北で、これ以上の言葉が出ない。自分の動きには問題がなかったはずなのに、なにもかもまとめて吹っ飛ばすような一撃を食らってしまった。
上から来たような、下から来たような。どんな攻撃で負けたのかすらわからず、フォールードは思わず笑いだしている。
「あんた、すげえんだな」
ウィルフレドは微笑むだけで、なにも言わない。
剣を拾いに庭の端へフォールードが向かうと、屋敷へ続く入口付近にものすごい形相の男が立っていた。
見覚えのない顔の男だが、背が高く、姿勢が良い。
太い眉毛を吊り上がらせてフォールードを睨みつけており、新入りはもちろん黙っていられない。
「なんだ、お前」
喧嘩ならいくらでも買ってやる。そんな思いが伝わったのか、男は両手を上げて首を振った。
「怒っているように見えるだろうか。だが、違う。私はもともとこういう顔なのだ」
争う気はないとアピールして、男はこんなことを言い出している。
「素晴らしい剣の腕だな」
「ありがとよ」
拍子抜けしながら礼を言うと、男は深くため息をついた。
「君がうらやましい。私も、あの方と手合わせをしてみたいのだ」
金色の髪に青い目をした怒り顔の男は、ウィルフレドに視線を向けている。
「今頼めよ」
ぼそりと声が聞こえて、フォールードは声の主を探す。
金髪の男の影に少年が座っていたようだ。鋭い目をした少年は、十一か十二か、屋敷に集う面々よりも若く見える。
怒り顔の男は戸惑ったような顔で返事をせず、子供はやれやれといった様子で立ち上がり、奥に佇む戦士に向かって叫んだ。
「おい、ヒゲオヤジ! こいつも頼む!」
「シュヴァル」
「お、どうやらいいようだぜ」
少年に背中を押されて、怒り顔が庭の真ん中へ進んでいった。
彼らの正体はみんな知らないようで、初心者たちは誰なのかとひそひそ話している。
だが、ウィルフレドとは知り合いなのだろう。
進み出てきた新手に向かって頷いているし、それで男も上着を脱いだ。
「フェリクス、剣を貸してやってくれないか」
リーダーから木剣を受け取り、男は礼を言っている。
フェリクスはフォールードの方へやって来たので、男を知っているのかと尋ねた。
「知らないけれど、多分、ティーオの住んでいる貸家の住人だと思う」
「先輩の?」
質問をした方もされた方も、視線は二人に向けたままだ。
剣を習いにきた少年たちも同じ。みんな隅にとどまって、庭を大きく開けたまま、向かいあう二人の大男の様子を見守っている。
背はウィルフレドの方が少し高いが、謎の男もかなり大きい。
上着が少年に向けて投げられ、礼をして。無言のまま二人が向かい合うと、空気はがらっと変わった。
男の表情は見えない。けれど剣を構えた瞬間、ウィルフレドの目つきが変わった。
フォールードに向けたものよりもずっと厳しく、鋭いものに。
怒り顔によく似合う吼えるような大声があがり、打ち合いが始まる。
フェリクスもフォールードも、二人の試合から目が離せなかった。
剣の速さはここに集った若者たちとは段違いで、音の響きがまず違う。
模造剣であっても、当たればただではすまないだろう。
怒り顔の男は相当な使い手だったようで、フォールードの胸のうちに悔しさが溢れていった。
明らかに自分よりも手練れだ。動きはアークに近く、元騎士の中年親父よりもきっと強いと思える。
だがそんな手練れ相手でも、ウィルフレドからは余裕が漂っている。
力強く荒々しい癖に、ひどく繊細でもある。強い者を相手にしているからこそ繰り出される動きから、フォールードは目を離せない。
と、思っていたのに。
「えー、すごい! レテウス、頑張れ!」
すぐ近くから聞こえた声に振り返ると、謎の少年の隣にはいつの間にかクリュが立っていた。
白く輝く長い髪をきらきらと輝かせ、どうやら怒り顔の応援をしているようだ。
頬をうっすらと赤く染め、無邪気に腕を振り上げている。なにか少年から言われたようで、フォールードに背を向けてしまったが、後ろ姿はもはやチュールと同じで頭が混乱に陥っていく。
「あ!」
次に聞こえたのはフェリクスの声で、慌てて視線を向けたが遅かった。
二人の大男の打ち合いは、ウィルフレドの勝利で終わったようだ。
怒り顔は片膝をついている。けれどすぐに立ち上がると、ウィルフレドに深く頭を下げ、礼を言ったようだった。
少年たちは興奮のままに今の試合の感想を言い合って、髭の戦士を取り囲んでいる。
もっと教えてほしい、あなたのようになりたい。無邪気にそう言える者もいるし、圧倒されて立ち尽くすだけの者もいた。
フェリクスはフォールードが飛ばされた剣を拾い、持ってきてくれたようだ。
そんなリーダーに気付きつつも、フォールードは屋敷の入り口のドアの前の三人を見つめ続けている。
「レテウスって本当に強かったんだな」
「いや、まだまだだ」
「良かったね、夢が叶って」
「ああ……、そうだな」
無言の少年も連れて、三人は屋敷の中へ入っていく。
「フォールード」
「あん?」
態度の悪い後輩に、フェリクスは苦笑いを浮かべながら剣を渡してくれた。
ウィルフレドの指導はまだ続くらしい。
一緒になって教わったものの、集中が続かない。
ぼんやりしたまま訓練の時間を終えると、フォールードは後片付けをリーダーに押し付けて、急いで屋敷の中へ戻った。




