145 失意を抱えて
迷宮都市の調査団団長、イデルド・ショーゲンは唸っていた。
お気に入りの店で昼食をとって、戻って来た時には問題は解決しているはずだったのに、まったくされていなかったから。
「まだいたのかね」
調査団の下働きを引き受けているガランから報告を受けて向かった宿舎の一番奥の部屋。
他の団員の部屋とは離れたところを使わせていたのは、チェニー・ダングが唯一の女性団員だったからだ。
自死するとまでは思っていなかった。様子はおかしかったが、これ以上事態が悪化しないよう、家族へ宛てた手紙の内容には随分配慮したのに。
けれど王都に戻ってから悲劇が起きて、憔悴した様子のヘイリー・ダングが現れた。
妹の使っていた部屋を見せてほしいと願われたが、もうきれいさっぱり片付いていて、名残もない状態になっている。
だから悲嘆に暮れた騎士は、すぐに納得して戻っていくはずだったのに。
「今日から調査団の一員として働かせてもらいます」
「なにを勝手なことを。君には君の務めがあるだろう」
「もうありません。この世で一番ふしだらな女を妹に持った男が、今更騎士を名乗ることなどできませんから」
「正式な辞令が」
「そんな大層なものが必要ですか? 妹の代わりはまだ来ていないのでしょう。大体、ろくな仕事もないと聞いています。王都から兵士を派遣する必要などなさそうだ」
勝手にやるので、どうぞお構いなく。
ヘイリー・ダングの口調は挑戦的で、強くて、話はこれでおしまいになった。
ショーゲンはため息を吐き出し、連れていた下働きのガランを振り返る。
「制服を用意してやれ」
「よろしいのですか?」
「言っても聞くまい。どうせ一人補充しなければならないのだ。誰だってかまわないだろう」
「お部屋はどうしましょうか」
「どこでもいい」
ショーゲンはやれやれと呟きながら、団長室へと戻っていく。
迷宮都市勤めだの、調査団への異動を喜ぶ者などいない。早く新たな人員をと急かす必要がなくなったと思えばいいだろう。
団員たちの宿舎の長い廊下を、ショーゲンは哀れな元団員の魂が癒されるよう、鍛冶の神にそっと祈りを捧げながら去っていった。
「ダング調査官」
部屋の入り口から声をかけられ、ヘイリーは振り返る。
調査団で下働きをしているというガランがのぞき込んでいて、おどおどとした様子で話しかけてきた。
「制服をお持ちしました。替えはまた明日用意します」
「そうか」
「このお部屋を使われますか? 入口から遠くて少し不便ですが……」
「ここでいい」
チェニーが使っていた部屋にはなにも残されていない。
妹に起きた出来事につながるものはなに一つ残されていないが、他の部屋を使う気にはなれそうになかった。
「これを着て、それで、調査団としてなにをすればいい?」
「時々街の住人が来て、なにかしら頼みごとをしてきます。必要あれば対応をするよう決められています」
「頼みごと?」
「はい。迷宮で異変が起きたとか、時々報告されるんです。あと、新たに発見された物があれば届けるようになっています」
「報告だの発見だのというのは、迷宮についてのものなのか」
「そうですね。管理は学者たちがしていますから、届けに立ち会ってください。当番制になっていますから、あとで確認をお願いします」
「当番ではない時は?」
「鍛錬や学びの時間に充てるよう言われていますが……。皆さん自由に過ごされていますよ」
ヘイリーは小さく息を吐き出し、ガランをじろりと睨んだ。
「ひゃあ。そんな顔で見ないでください。私が決めたんじゃありませんから」
「君が悪いとは思っていない」
調査団は閑職。駄目な兵士の派遣先。
噂に違わぬ有様に、頭が痛くなってしまう。
こんなところに追いやられ、妹はさぞ気落ちしていただろう。
「もっと早く気付いてやれば良かった」
「なにをですか」
「なんでもない。ガラン、少しいいか。この街についていろいろと教えてほしい」
ひどく沈んだ声に、ヘイリーは自分のことながら驚いていた。
そんな騎士をどう思ったのか、ガランは急に気の毒そうな表情をして、自分で良ければと快諾してくれた。
手早く着替えを済ませたら、まずは宿舎の説明を受け、次に仕事場へと向かう。
学者たちの集う資料室や、研究のための部屋があり、応接室があり、街の住人の相談部屋にも案内される。
当番の順は一覧にされており、ガランは他の団員にも通知してからヘイリーの名を加えると話した。
「調査団員は全部で何人いる?」
「ダング調査官を入れて、ええと、二十一名ですね」
迷宮都市へやって来た時、ひとりひとりに話を聞かせてもらった。
団長であるショーゲンをはじめ、団員たち、学者、下働きの人間まで、全員に話を聞きたいと頼んで叶えてもらったはずだった。
「あの」チェニー・ダングの兄が新しく入ったことを、ああだこうだと言われるかもしれないとヘイリーは思った。
同時に、どうとでも言えばいいとも考えている。なんと言われようが、妹の無念を晴らすと決めているのだから。
「相談の当番は二人か三人ずつで組みます。あと、休みについてですが」
相談部屋は入口に近いところにあり、二人は調査団の大きな扉の前で話していた。
なので、扉が開いて飛び込んできた「客」とぶつかってしまうことになった。
「うわわわ」
扉を開くなり勢いよく駆け込んできた誰かに突撃されて、ガランがひっくり返っている。
「ああ、ごめん、なんてこった。今、立つから……」
勝手に入り込んできたのは女のようで、ヘイリーは落ち着くように声をかけ、客をまっすぐに立たせた。
地味な顔をした女は汗だくで、走って来たのか肩で息をしている。
「誰かに追われているのか? 扉に鍵はかけていいのか」
「入り口は困ります」
ガランに止められて、ヘイリーはすぐそばの相談部屋の扉を開けると、客を中に通した。
水を持ってくるよう頼み、女を椅子に座らせ、声を聞いて駆けつけてきた下働きに外の様子を見に行かせる。
「本当にごめん。追いかけられていたらと思ったら怖くて、走ってきたんだ」
「追われていたわけではない?」
「あの、いや、はっきりとはわからない」
女は申し訳なさそうに頭を下げ、ゆっくりと息を整えていった。
年はヘイリーよりも少し上だろうか。
美しいとは言い難い容姿だが、困っているのは間違いないのだろう。
「調査団に相談があって来たのかな」
「ああ、そうなん……です。困っていることがあって」
「ダング調査官」
「なんだ、ガラン」
「今日の当番は」
「どう見ても急ぎの用だろう。私が話を聞く」
汗だくの女は服までしっとりと濡れているし、なにも持っていないように見える。
当番の人間はこの場におらず、すぐに来るとはヘイリーには思えない。
ガランは驚いた顔をして、悩んでいるのだろう。部屋の入り口で出ていくか留まるか、決めかねているようだ。
「困っていることとは?」
客の向かいに座り、ヘイリーは問いかける。
女の息はようやく整ったようで、ここへ飛び込んできた事情が語られていった。
「その……。本当はいけないとわかっているんだけど、友達の知り合いが大怪我をしていて、治してもらうよう神官に頼んじまったんだよ」
「神官に?」
「迷宮で負った傷じゃあなさそうだったんだけど、ひどい状態で。とてもじゃないけど医者の薬じゃ間に合わなさそうだったから」
「なにがいけない?」
ガランが隣にやってきて、迷宮都市での癒しのルールを囁いてくる。
初めて聞いた事情に驚きつつも納得して、ヘイリーは女に対して深く頷いて見せた。
「なるほど。その知り合いを助けたくて、仕方なく決まりを破ったのだな」
「そうなんだよ。ああ、そうなんだ……。本当に、どうしてあんなに酷い傷を負わされたのかわからないけど。とにかくもう虫の息でさ。あたしの知り合いの神官に頼んでみようって考えたんだ。その神官は、前から決まりを破って怪我人の癒しをしていてね」
ガランがなにか言いかけたのを手で制し、ヘイリーは続きを話すよう促していく。
「そのお陰で、なんとか助かったんだ。まだ動けはしないけど、なんとかね。だけどそれから、その……脅されててさ。頼んだ神官とは、あたしも昔は一緒に暮らしていたんだ。他の仲間とも一緒に暮らして探索をしていたんだけど、考え方が合わないと思って、抜けたんだ」
「脅されている?」
「そう。助けてやったんだから、仲間に戻れってさ」
「戻りたくないのに、無理に戻されそうになっているということか」
「そうなんだけど。あのさ……。ここって、女の調査官はいないのかな」
「残念ながらいない。話しにくいことなのか」
女は表情を曇らせたものの、やがて意を決したようで事情を話してくれた。
「仲間に戻れっていうのは、あたしに家のことを全部やれってことなんだ。貸家で男ばかりで十人くらいで暮らしているのに、掃除だの炊事だのができる人間がいないから」
貸家について、ガランから説明がされていく。
「だけど、それだけじゃなくて」
女はうんざりとした顔で、男たちに「夜の相手をさせられる」であろう可能性について話していく。
「前に一緒に暮らしていた時にも、そういう扱いをされてて」
「ともに暮らしている男たちが、みんな?」
「リーダーとその弟と、あともう一人」
腹の底から怒りが湧き出してきて、ヘイリーは歯をぎりぎりと鳴らしている。
男が三人がかりで一人の女を。それも、怪我人を救いたい気持ちを利用して脅しをかけるとは。
女の話は今のヘイリー・ダングにとって許せる内容でなく、新入りの調査団員は勢いよく立ち上がった。
「ダング調査官、待ってください」
「なんだ」
怒りのままに飛び出そうとしていたヘイリーの腕を掴んで、ガランは首を振っている。
「これは調査団の仕事ではありません」
「困っている女性がいるんだぞ」
「神官のことは神殿に報告すべきですが、それ以外については」
「調査団の仕事ではない?」
「はい」
「馬鹿を言うな! 王都では街の治安を守る存在が、ここへ来た途端、自分たちの役目ではないからと危険に怯える女性を放り出すのか?」
止められても行く。処罰を受けたとしても自分は行く。
ヘイリーはガランを振り払うと、狼藉者たちのところへ案内するよう女に告げた。
「ああ、ありがとう、本当に。調査団には頼れないって聞いてたんだけど……、でも、王都から来た人たちだっていうから。もしかしたら助けてもらえるかもしれないって考えて」
「ダング調査官、行っても注意するくらいしかできませんよ」
「ならば注意してやろうじゃないか。男が一人の女相手に寄ってたかって、卑怯な真似をするなと言ってやる」
「でも、ものすごい手練れかもしれません」
「それは大丈夫、小物ばっかりだから」
勢いよく調査団を飛び出し、ヘイリーは迷宮都市の道を進んでいった。
女は案内をしながら、ユレーと名乗り、来た時とは違って安堵したような表情を浮かべている。
見かねたのか、ガランも困った顔のままついてきていた。
西側の調査団からまっすぐ東に進んで、貸家街にたどり着き。
件の家には男ばかりが八人もいて、突然の調査団員の来訪に驚いている。
リーダーだというドレーンという男に、ヘイリーは恐ろしいほどの勢いで説教をしていった。
集団で調子に乗って、女を脅すとはなにごとか。
男の風上にも置けない卑怯者どもめと吠え、神官だというドニオンを捕まえて腕をひねり上げる。
二度とユレーに近づかないよう約束をさせ、今度は皿の神殿へ。
不良神官のしていた悪行をすべて話し、性根を叩きなおしてもらうよう神官長へ頼む。
ヘイリーの剣幕のすさまじさに、皿の神官長は青い顔をして謝り、ドニオンの再教育を誓ってくれた。
「もしもまたなにか問題が起きた時には、呼んでくれて構わない」
最後にユレーを指定されたところまで送り届けて、ヘイリーはようやく落ち着きを取り戻していた。
眉間に深く皺を寄せる調査団員に、女は深く感謝してくれたようだ。
「ありがとう。こんなに親身になってくれるなんて思わなかった」
「君の知り合いが無事に回復するよう、祈っているよ」
昼に勝手に仕事を引き受け、西から東へ、北から南へと街を歩き回ったせいで、もうすっかり夜も更けている。
「おなかがすきました、ダング調査官」
「そうだな」
ガランはふらふらとした足取りで、ヘイリーのすぐ後ろを歩いている。
胸の底に沈んでいるやるせない気持ちに突き動かされて、相談を受けてしまった。
ここでようやく、随分勝手な真似をしてしまったのだと気づき、ヘイリーは振り返る。
「ガラン、一日中付き合わせてしまってすまなかったな」
「……いえ、はい。そうですけど。でも、いいんです」
唐突な謝罪に戸惑った顔をしたものの、ガランは首を二回ほど捻ると、こう続けた。
「あのユレーって女は、きっと助かったでしょうから」
そうだといい、とヘイリーは思った。
ユレーがこれ以上不幸な目に遭わず、人生に絶望するようなことにならないといい。
妹が苦しんでいる間にこんな風に駆けつけて、問題を解決してやれたらよかったのに。
赤の他人のために出来たことが妹にはしてやれなかった。
そんな悲しみが湧き出してきて、暗い迷宮都市の道をとぼとぼと歩いて戻る。
初日の勝手な振る舞いについて、ショーゲンから注意はされたが、処分されることはなかった。
他の調査団員たちの顔を少しずつ覚え、言葉を交わしていく。
王都の兵士だった面々はみんな気の抜けた顔をしており、のんびりと迷宮都市で暮らしているようだ。
名ばかりの「鍛錬」の時間を過ごしながら、それぞれにささやかな楽しみを見つけ、有意義な時間を積み重ねているらしい。
「調査団ならば迷宮も調べるべきではないか?」
全員揃っての朝食が終わり、当番として相談部屋に向かい、ヘイリーはそう呟いている。
放っておいてはなにをするかわからないと思われているのか、常にガランがそばに控えており、この独り言についても咎めてきた。
「探索は大変ですよ。簡単にできるものではありません」
「調査をすることもあると言っていたではないか」
「いやいや、無理ですって、ダング調査官」
どこの迷宮であっても、軽い気持ちで足を踏み入れるのは駄目だとガランは話した。
地図の見方や、その迷宮にふさわしい振る舞い方について学ばなければ、歩くことすら難しいのだと。
「まずは協力してくれる探索者を探さなければいけません。とはいえ、力を貸してくれる者など滅多におりませんからね」
「なぜだ?」
「面倒だからですよ。貧しい出の者が多いですから、王都から来た騎士だの兵士だのなんて人種とはまず相容れないんです」
聞き分けの悪い新入りのために、ガランは長々と迷宮探索の難しさについて語ってくれた。
調査団が探索に向かっていたのは昔の話であり、今はまともに挑戦していないこと。
前科のある者も多く入り込んでいるので、調査団とは関わり合いになりたくないこと。
協力を仰ぐなら神殿の力を借りる必要があること。
以前はカッカー・パンラに頼めばなんとかなっていたが、街を去ってしまって頼りにできなくなってしまったこと。
調査団の任務のゆるさのお陰で次の日は仕事が休みになり、ヘイリーはカッカーの屋敷を訪れていた。
入口にいた少年に声をかけると、ギアノが出てきて管理人の部屋へ通される。
「それ、制服ですか?」
「調査団に入った。チェニーの代わりにな」
「そうでしたか」
屋敷の管理人がお茶を用意して、爽やかな香りで心が落ち着いていく。
素直に礼を言って、ヘイリーはギアノを見つめ、こう切り出していった。
「この屋敷の主のカッカー・パンラ殿が、調査団に協力をしていたと聞いている」
「そうですね。俺も、調査団から依頼が来たら協力するよう言われています」
「迷宮に行ってみたいと思っているのだが、同行してくれる者を紹介してもらえないだろうか」
「ヘイリーさんが?」
「ああ。噂だけはあれこれと聞くが、迷宮についてなにも知らないからな。実際に入ってみたほうがいいと思ったのだ」
調査団に入ったのだからと理由を話すと、ギアノはなるほどと頷き、まずは簡単なところからでいいかと尋ねた。
「入ってみるのが目的だというなら、この屋敷にいる探索者に協力してもらえばいいと思います」
難しい探索ではないのなら、充分な実力を持っている者がいるからと管理人は言う。
ヘイリーは頷き、危険なところに挑む必要はないと答えた。
ギアノは部屋を出ていったが、すぐに戻ってきてヘイリーを呼んだ。
広い食堂の隅に座っていた五人の若者に紹介され、迷宮探索に付き合ってもらえないか説明がされていく。
「探索は普通五人で行くものなんですけど、そこまで深く行く必要はないから。どうかな、みんな」
「『橙』でいいってことだよね。あそこの浅いところを歩くだけじゃ、なんだか迷宮のことを勘違いしちゃいそうだけど」
「夕方から入ったらどうだろう。そこまで混んでないんじゃないか、時間をずらしたら」
「それだと夜に戻ることになっちゃうね」
ヘイリーの前で話し合いが為され、依頼を受ける条件が詰められていく。
試しの迷宮探索は「橙」で、夕方から始める。
その時間帯からの挑戦なら、今日行っても構わない。
五人組のリーダーらしき青年はフェリクスという名で、それでもいいかヘイリーに問いかけてきた。
フェリクスは剣士。大柄な戦士のフォールードは個人的に苦手そうなタイプだと思う。
何度か顔を合わせた神官と同じ顔をした若者は、雲の神に仕えているというアダルツォ。
隙の無い鋭い瞳のカミルは罠を解除するスカウトであり、知的な印象のコルフは魔術師だという。
「彼らは経験をそれなりに積んでいますし、迷宮探索に必要な人員が揃ってますから」
ギアノから人柄についても問題ないと言われて、ヘイリーは頷いてみせた。
ガランは協力してくれる者は少ないと話していたが、フェリクスたちは嫌々といった様子でもなく、前向きに調査団員を歓迎してくれているように思える。
「突然来たのに、受け入れてくれてありがとう」
「俺たちもいろんな人の手を借りて経験を積んできたんです」
だから、新入りの調査官にも力を貸そうと考えてくれたのだろう。
探索者の中にも、当然、良い人間はいる。
当たり前のことに納得しながらヘイリーは宿舎へ戻り、自分の剣を用意して準備を進めていった。
昼食をとり、時間に間に合うように「橙」の迷宮入口へと向かい、五人の到着を待つ。
たくさんの若者が穴の底から這い出してくる様を、ヘイリーはしばらくの間眺めることになった。
大怪我をしている者もいるし、意気消沈してひとことも交わさずに去っていく者もいる。
意気揚々と飛び出してくる集団もいれば、さっそく反省会を始めてああだこうだ言い合いながら食堂へなだれ込んでいく五人組もいる。
「あ、もう来てる」
そう声をあげたのは誰だったのか、フェリクスたちが早足で近付いてきた。
勝手に早く来たのはこちらだからとヘイリーが言うと、準備はいいかとカミルに問われた。
夕暮れの迫る街を、大勢の若者が歩いていく。
朝から込み合う「橙」の周辺には、並ぶ者はいないようだ。
いつもなら控えている金貸しや、不慣れな初心者を狙う者たちも今日はいない。
調査団の制服を着た男が現れたせいで、退散してしまったから。
そうとは知らないヘイリーは、教えられるままに迷宮の穴の中へ降りて、入口の扉と向かい合っていた。
ぽっかりと空いていた貧相な穴の底に、美しく装飾された入口がある。
唐突な景色の変化に戸惑いながら、注意すべきことを説明され、ひとつひとつに頷いていく。
「六層目まで行くと、回復の泉というものがあるんです。そこを目指していって、飲んだら帰りましょう」
五人組は明確な目的地を設定してきたようで、泉についたらすぐに戻るという計画を調査官に伝えた。
そのくらいならば夜が更ける前には戻ってこられるし、様子見としては程よい道のりになるだろうからと。
「わかった。では、そのように」
「戦いはできるんですよね」
「ああ、できるよ」
「じゃあ、隣を歩いてください。敵に遭遇するかはわからないけど、最初は様子を見て、やれそうなら次から参加してもらえればいいと思います」
「様子見をした方がいいか?」
「迷宮の中は狭いから、あまり大勢で剣を振らないほうがいいんです」
カミルの説明は明瞭で、フェリクスに後列に下がるよう指示をしている。
リーダーらしき剣士は頷き、魔術師と神官によろしくと声をかけている。
こうして、ヘイリー・ダングは生まれて初めての迷宮入りを果たした。
扉を開けるとすぐに前方から五人組がやってきて、嬉しそうな顔で出口に向かって走っていく。
よかった、無事に戻れた。感謝の祈りと共に迎えた冒険の終わりを、ヘイリーは少しの間眺めて、再び前を向く。
地下道のくせに明るい道を進んでいく。
壁も床もきれいにタイルが貼られており、破損しているところは見当たらない。
通路の端に時々ごみが落ちているくらいで、迷宮の中は静かだし美しかった。
「敵が出てくる場所だと聞いたのだが」
「ここでは、二層の終わりくらいまで行かないと魔法生物は出てこないんです」
「そうなのか?」
「『橙』は練習用と言われるくらいで、罠なんかもしばらく進むまで仕掛けられていません」
説明をしてくれるのは左を歩いているカミルで、右隣には大きな体のフォールードが並んでいる。
目つきは鋭く、よく鍛えられた体をしているようではある。
けれどどこか粗野な印象で、あまり触れあったことのないタイプだとヘイリーは感じていた。
そう思わされるのは、五人組のうちの一人だけ。他の四人に関して、穏やかそうだし、話も合いそうではないかと思える。
一人だけ毛色が違う戦士を入れている理由はわからず、ヘイリーは様々な想像を巡らせながら歩いていった。
何度か帰路のグループとすれ違い、階段へとたどり着く。
道のりはまだ短く、疲労など感じていない。けれど神官のしるしを胸に下げたアダルツォが近づいてきて、気分はどうか問いかけてきた。
「問題はない」
「そうですか」
穏やかな顔は静かに頷き、ヘイリーから離れた。
仲間たちにも同じように声をかけ、全員から大丈夫だと返事をもらっている。
「この程度でって思ってんだろ、調査官さんよ」
隣から声をかけてきたのはフォールードで、不敵な笑みを浮かべていた。
「すぐに出られる場所じゃねえから、念には念を入れるんだ」
「そうか」
「神官ってのはありがたい存在だよなあ」
フォールードは小さく指を動かし、いずれかの神に加護を願ったようだ。
荒々しい言葉遣いに似合わず、まともな信仰心を持ち合わせているらしい。
「では、行きましょうか」
フェリクスが呼びかけ、六人で進み出す。
橙色の迷宮の道を歩きながら、ヘイリーは鍛冶の神殿に行った日のことを思い出していた。
まだ子供だった頃。
兄が出かけると気づくとすぐにチェニーが追ってきて、一緒になって野山を駆け回り、拾った木の棒を振り回していた。
剣を志す者は鍛冶の神殿へ行くものだと誰かに教えられて、ヘイリーは訳知り顔で妹にも伝えた。
幼馴染たちとの木の棒で打ち合いに、自分もやるんだとチェニーが入って来た日。
まだ十歳にもなっていなかったのに、大柄なマイロスに容赦なく打ちのめされてしまった。
痛みと悔しさで泣くチェニーを連れて、夕暮れが迫る中、鍛冶の神殿に向かった。
早く帰らなければ叱られるとわかっていたが、自分の弱さに涙を流す妹にくじけてほしくなくて、神殿を訪れ、神像の前に進んで祈ったことがあった。
たどたどしい祈りの言葉をなんとか紡いで、二人揃って剣の修業をすると誓った。
チェニーはそれで泣き止んだ。家に帰ってから母にひどく叱られたし、妹にそんな真似をさせるなと怒られたけれど。
あの頃のヘイリーにとって、チェニーは自慢の妹だった。すばしっこく立ち回って、思いもよらない攻撃を繰り出すこともあったから。
いつか兄妹揃って騎士になろうと話し、なんといわれても負けるなと励ました。
女の騎士などいないから。物語の中には美しい乙女の騎士もいたけれど、王都の騎士団には一人もいないと聞いていたから。
だから、チェニー・ダングは騎士を目指した。ヘイリーも、いつまでもその活躍を語り継がれていけばいいと思っていた。
「大丈夫ですか。気分が悪いとか?」
ふいに隣から声をかけられ、ヘイリーははっとしていた。
「すまない。少し考え事をしていた」
「まだ敵も出ないし、確かにここの上層は緊張感がないんですけど。でも、迷宮は危険なところなんで」
無理があるならすぐに引き返す。カミルは真剣な眼差しをヘイリーに向けており、新入りの調査団員は申し訳ないと素直に口にして、集中するからと答えた。
二層目の最後でようやく罠があると告げられ、床に飛び出した仕掛けを避けて進んだ。
敵の姿はないが、階段の手前には死骸らしきものがいくつか転がっている。
血の跡はあるのに、それほど臭いはしない。
不思議に思いながらも三層目へ続く階段へたどり着き、途中でまた立ち止まる。
「どうですか、二層分歩きましたけど。気分は悪くなっていませんか」
「ありがとう、大丈夫だ」
アダルツォの問いに答え、他の四人の様子を眺め、確認が終わって促され。
大荷物の五人組とすれ違い、更に進んでいく。
途中でようやく敵が現れ、言われたことを思い出して少し下がった位置で戦いを見守った。
カミルもフォールードも素早く動き、地上のものよりも大きな鼠をあっという間に屠っている。
フェリクスが前に出て皮を剥ぎ、フォールードが肉を切り取り包んでいく。
鼠の肉など、食べるのだろうか。ヘイリーはそんなことを考えながら、二人の手早い仕事を見守っていった。
その間にもカミルは前方を見張っているし、後方はコルフが警戒しているようだった。
鼠はそう強く見えなくて、戦いを任されても平気だろうと思える。
あんなに小さなものと戦ったことはないから、最初は戸惑うかもしれない。
けれど決して、自分には無理だとは思わなかった。
なので、その後迷宮兎とやらが現れた時には、自分に任せてほしいと願い出て戦った。
カミルが少しだけ下がって、フォールードと並ぶ。大柄な男は大きな剣を上手く扱い、鋭く振り下ろして敵を仕留めている。
ヘイリーは負けじと剣を突き出し、兎の体を貫いて敵を倒した。
「あんた、戦いには慣れてるみたいだな」
フォールードの問いに、ヘイリーはただ頷いて答えている。
「迷宮じゃ、より良い敵の倒し方ってのがあるんだ。あんたがこれからも迷宮に入るとか、稼ぐつもりがあるなら教えておくけど」
どうだ? と、フォールードに問われた。
カミルは二人を黙って見つめており、ヘイリーがどう答えるつもりか待っているのだろう。
「……なるほど、皮や肉を取る為にはそれなりの倒し方をしなければならないんだな」
「そうさ。協力するよう言われたし、別に嫌ってわけじゃねえんだけどよ。金を落としてくれる敵なんざいねえから、俺たちはできる限りをしなきゃならねえのさ」
探索者に給料を払う者などいない。彼らは迷宮で様々なものを手に入れて戻り、店で金に換えている。
カッカー・パンラの意思を汲んで付き合ってくれた彼らにとって、ヘイリーの適当な倒し方は迷惑なのだろう。
「教えてもらえるか。次からは気を付けるから」
「へえ、調査団ってのは王都からきた澄ました野郎ばっかりだと思っていたぜ」
「こら、フォールード。すみません、こいつは大きいけど、まだ来たばかりの子供なんです」
小さなアダルツォに怒られ、大きな戦士は身を縮めて謝っている。
その様子を見てカミルとコルフは微笑み、フェリクスが出てきて剥ぎ取りについて説明をしてくれた。
この五人組について、みんな自分よりも少しだけ年下なのだろうと思っていたのだが。
アダルツォに関してはみんなのマスコット的な存在だと考えていたが、神官の年齢は想像とは違うのかもしれなかった。




