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12 Gates City  作者: 澤群キョウ
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142 人生の岐路に立ち 3

 リーチェたちが来るなら、いろいろと追加で買ってこないといけないから。

 そんな理由で屋敷を出てきたが、少しだけ逃げ出したい気持ちがあることにギアノは気付いていた。


 アデルミラに打ち明けた、家族との関係について。

 

 まっすぐに向き合うのは辛い。

 自分の歩みの賜物である「今」に疑問が差し込まれ、ぐらぐらと揺れるのが不安なのだと思う。 

 

 頭を振って気持ちを切り替え、南の市場に向かって歩いていく。

 少しずつ変わっていく景色を見ながら、ギアノはヘイリーのことを思い出し、マージに話を聞くべきではないかと考えていた。


 そういえば最近、マティルデが遊びに来ていない。

 三日か四日に一度は屋敷に来ていたのに、七日か八日か、それ以上かもしれないがとにかく、姿を見ていない。

 ティーオの店の分の仕事が増えて、ばたばたしていたから。

 あまり気にしていなかった。マージもユレーも仕事をしているから、忙しいのかもしれないし。

 マティルデも仕事に励んで、魔術師の塾に通い始めたのかもしれない。


 「赤」の迷宮入口を過ぎたあたりでギアノは思わず立ち止まっていた。

 そんなことがあるだろうか、と。

 魔術師たちの家の辺りは通り抜けられるようになったらしいが、それでマティルデが一人で私塾に通い出すだろうか?

 通い出したのならそう自慢しに来そうなものだとも思う。


 少しだけ方角を変えて、マージの家へと向かう。

 従業員の寮が多い一角なので、昼間は人気がなく、しんと静まり返っている。

 

 マージの家の扉の前に辿り着いて、三回叩く。

 反応はなく、ギアノはもう一度扉を叩きながら呼びかけていった。

「マージ。いないのか? マティルデ」

 ユレーの名前も呼びかけると、中からかすかな音が聞こえて、扉がゆっくりと開いた。


「ギアノ」

「マティルデ。最近来ないから……」

「ギアノー!」


 中からマティルデが飛び出して来て、泣きながらギアノにしがみついてくる。

「どうしたんだよ」

 めそめそと泣く少女の背中を叩いて、家の中へ入らせてもらう。

 マージとユレーはいないようで、部屋の中はいつもよりがらんとして見えた。


「なにかあったのか、マティルデ」

「マージと、ユレーが……、出かけたっきり帰ってこなくって……」

「いつから?」

「昨日から。なにかあったみたいで、少し前から二人ともどこかに行ったり、帰ってきたりしてたんだけど」


 あの二人がマティルデを置き去りにするとは考えにくい。

 必ずどちらかが付き添って、面倒を見ていたから。

 万が一見放すようなことがあったとしても、こんな風に自分の家に残していくのはおかしいだろう。


「ユレーは仕事もほったらかしにしてるみたいなの。仕事先の人が来て、そんなことを言ってたから」

「事情は聞いたの?」

「男の人だったから、私、話せなくて」

「そうか。二人はなんて言って出かけていったんだ? さすがに黙って出ていったわけじゃないよな」

「ごめんねマティルデ、待っててって」

「それだけ?」

「うん……」

 大きな瞳から涙がぽろぽろとこぼれて、ギアノはマティルデの頭を優しく撫でていった。

「不安だったよな。様子を見に来れば良かったよ」

「どうしたらいいの、ギアノ。どうして二人は戻って来ないの?」


 何故なのだろう。どうしても二人が揃ってやらなければならないことが出来たのだろうか?

 マージは頼まれた探索に付き合っていると聞いたことがあるが、それ以外の仕事についてはわからない。

 ユレーは決まった職場があるのだろう。仕事先で事情を聞けば、なにかわかるかもしれないが。


「ユレーさんはどこで働いてるんだ?」

 ギアノが問いかけると、大きな腹の虫がかわりに答えてくれた。

「なにも食べてないのか」

「なにもじゃないけど」


 ギアノは腕を組んで、なにからとりかかるべきか考えていった。

 マティルデの今の状況は少し前から続いているようで、このままここに残していって良いのかどうか。

 ユレーの職場に話を聞きに行ってもいいが、買い物もしなければならない。

 二人は出掛けたきり帰って来ないようだが、永遠に戻らないと決まったわけでもない。

 そして今、マティルデは腹を空かせている。


「マティルデ、手紙を書けるか?」

「うん」


 ユレーとマージ宛てにメモを残して、ギアノはマティルデを連れて家を出た。

 まずはグラッディアの盃に向かい、一人分の食事を頼む。

 マティルデが食べている間に市場で買い物を済ませて、仲良くなった商人に配達を頼んで、店へと戻る。

 二人でカッカーの屋敷へ戻り、アデルミラを見つけて声をかけた。


「突然ごめん、アデルミラ。マティルデを部屋に泊めてやってほしいんだ。アダルツォは俺のところに寝床を作るから」

「なにかあったんですか?」

「一緒に暮らしてた二人が戻らないらしくて」

「まあ」


 優しい雲の神官はすぐにお願いを受け入れてくれて、兄の持ち物をまとめに行ってしまった。

 食堂の隅でしょんぼりとしている少女を、大丈夫だと励ましていく。


「あの二人がマティルデを放っておくはずがない。なにか事情があるんだよ」

「うん」

「アデルミラが助けてくれるから。少し待とう。戻りたいならいつでも送るよ」

「うん……。ありがとう、ギアノ」


 夕方になれば、屋敷に滞在している初心者たちがみんな帰ってきてしまう。

 そうなれば男だらけになって、マティルデは部屋に引っ込むしかなくなる。


 もしも、マージたちが戻らなかったら?

 その時はどうするか決めておく必要があるだろう。

 真面目に働く気があるのなら、どこかの店で仕事を見つけて、女子寮に入ればいい――、のだが。

 ため息が出てきそうになって、ギアノはぐっと堪えている。

 それができていればそもそも苦労はないのだ。

 マティルデがそんな状況をすぐに受け入れるか、まともに働いていけるのか、不安しかない。


 誰か相談できる相手がいないか考えながら、管理人の部屋の一角を片付けていく。

 まだ滞在者用のベッドは空いているから、アダルツォにはそちらに移動してもらってもいいかもしれないが。

 

「ギアノー、どこにいるー?」


 声が聞こえてきて、廊下へと向かう。

 今日の営業が終わったらしく、ティーオが売り上げ金を持ってやってきたようだ。


「ちょっといいか、ティーオ」

「なに?」

「今日アデルミラに言われたんだけど」

 廊下の隅で立ったまま、店の休みについて話し合う。

 ティーオはなるほどと頷き、納得してくれたようだ。

「この二日間いろいろあって、余裕がなくて。急なんだけど明後日、休みにしてもらえると助かる」

「そうなの。なんだか珍しいね、ギアノが余裕がないなんて」

「正直、どれもこれも俺じゃ解決できないんだけど。だけどとにかく、明後日カッカー様たちが来るんだ。子供たちを連れて」

「ヴァージさんも来るってこと?」

「来るよ。メーレスも連れてくると言っていたから」

 麗しの人妻の来訪となれば、黙っていられないのだろう。ティーオはぱっと笑顔を浮かべて、もううきうきし始めている。

「じゃあ休みにしよう。ティッティに伝えなきゃいけないな」

「看板に知らせを出したらいいと思う。明日は休みだって」

「ああ、それはいいね。何日ごとに休むかはティッティにも聞いて、改めて決めよう。それでいい?」

「いいよ。ありがとう、ティーオ」

「いやいや、ごめんなギアノ。働き者だからって、扱き使っちゃってたんだな、俺が」


 無事に休みが決まってほっとして、厨房の様子を確認していく。

 初心者たちがぞろぞろと集まっているが、アデルミラが仕切ってくれていて混乱はないようだ。

 そこにフェリクスたちが帰って来て、ギアノは急いで声をかけた。


「フェリクス、アダルツォ」

「やあ、ギアノ」

「明後日カッカー様がメーレスを連れてくるんだ」

「え、本当に? じゃあ探索に行かないようにしないと」

 フェリクスは微笑み、アダルツォは早速カミルたちに話を持ち掛けているようだ。

 フォールードは首を傾げて、メーレスとは誰かフェリクスに尋ねている。


 ギアノを見つけた初心者たちが、今日どれくらい肉を持ち帰ったか報告しようと集まって来て、廊下はごった返していく。


「アダルツォ、あとでちょっと話がある!」

「わかった」

 肉の買い取りのための列が勝手にできていき、食堂の隅に移動しようか考えていると、列の後方からどよめきが聞こえて来て、一人の男が進み出て来た。


「ギアノ・グリアド。少しいいだろうか」

 みんなが道を譲ってしまったのも仕方がないだろう。

 ヘイリー・ダングの着ている服は立派だし、態度も堂々としているから。

「なんだ、あんた。みんなギアノに用があって並んでるんだぞ」

 フォールードが食ってかかり、管理人は慌てて間に入っていく。

「フォールード、この人にはちょっと事情があるんだ。ヘイリーさん、昨日の部屋で待ってて下さい。ティーオはもう帰ったかな?」

「先輩ならフェリクスさんと話してるぜ」

「呼んできて」


 ヘイリーを管理人の部屋に通し、アデルミラに飲み物の支度を頼む。元倉庫を覗いてマティルデにあとで食事を持っていくと告げ、やって来たティーオに肉の買い取りをしてもらえないかお願いしていく。


「他に頼める人がいないんだ。店用の保存食に使うものだし、ティーオ、いいかな」

「わかった。今日は随分忙しそうだね」

「そうなんだよ」

 肉の買い取りの値段を説明し、金を預けて、慌てて管理人の部屋へと戻っていく。

 今日も青い顔をしたヘイリーは俯いたまま微動だにせず、ギアノを待っていた。


「お待たせしました」

「探索者たちのための施設だと聞いたが、こういうことだったんだな」

「ええ。みんなこの時間になると帰って来るんです」

「すまない」

 謝ってはいても、出直す気はないらしい。

 眉間に寄った皺は昨日よりも深く刻まれ、妹を失った兄の悲愴は増したように見えた。

「調査団に行って、話を聞いてきた」

「なにか聞けましたか?」

「ああ。聞いたよ」


 ヘイリーの息遣いが荒くなっていき、しばらく部屋は沈黙に充たされていた。

 空気は張りつめていく一方で、ギアノはなにも言い出せない。


「……チェニーは長い間姿を見せなかったらしい」

「調査団にですか?」

「ああ。しばらくはちゃんと勤務していたらしいのだが、少しずつ姿を見せなくなって、とうとう来なくなったそうだ」


 吐き出されたため息は深く長く、そして重苦しい。

 扉が叩かれてアデルミラが姿を見せ、ギアノは慌てて受け取り、戻るように頼む。


 お茶の用意をして差し出すと、ようやくヘイリーの口は動いた。

「どうかしているな、王都の調査団は。役に立たない騎士や兵士たちの左遷先というのは本当だったというわけだ」

 またため息が吐き出され、カップから立ち上る湯気を揺らしていく。

「長い間姿を見せなかった団員を処分するわけでもなく、しれっと戻って来ても受け入れるのだから。いい加減な組織なのだろう」

「妹さんは長い間来なかったのに、調査団に戻ったってことですか」

「ああ」


 騎士の体は震えている。

 怒っているのか、やるせないのか、悲しいのか。いや、きっとすべてなのだろう。


「なにか思い出したことはあったか?」

「いえ。ただ、妹さんを知っている人を何人か見つけたので、話を聞きました」

「調べてくれていたのか。感謝する。その人らはなんと?」

「どちらもあまり深く関わったわけではないみたいですけど」


 キーレイが出会ったのは随分前で、一緒に調査に出かけている。

 この街で働くのは気が進まないようだったが、変わった様子はなかった。

 レテウスが会ったのは最近で、やつれていてひどく暗い印象だったと話していた。

 

「レテウス? バロット家の?」

「名前はあってます」

「勘当されたと聞いていたが、この街にいるのか」

 チェニーについての発言を伝えるわけにはいかないが、レテウスはひとつ重要な話を聞かせてくれた。剣についてだ。

「妹さんは立派な剣を持っていたと言ってました」

「剣を?」

「美しくて個性的な剣で、印象的だったとレテウスさんが」

「この街に赴任する時にも特別なものなど持っていかなかったし、帰ってきた時には持ち物自体がほとんどなかった。着換えが少しと、あの妙な腕輪しかなかったが」

 

 では、その剣はどこにいったのだろう?

 売り払ってしまったのだろうか。


「妹は金もロクに持っていなかった。そんなに立派なものなら、売ればそれなりの額になるのではないか?」


 剣はない。けれど噂の中には剣が登場する。

 高価な剣。奪われた男は破滅に追い込まれた。

 その男は誰なのか、剣はどこから出て来てどこへ消えたのか?

 ヒントは今のところ見つかっていない。もう少しどんな物だったか、詳しく聞いても良いのかもしれない。


 ヘイリーも噂について思い出したのだろう。眉間に深く皺を刻みながら、胸を押さえ、呼吸を整えている。 


「話を聞いたのは二人?」

「一緒に調査に出かけた人はわかっていて、あと三人います。俺も知ってる人なので、話を聞きに行くことはできます。ただ、みんなそう深く関わったわけではないと思いますよ」

「……調査団に一度、男が訪ねてきたことがあったそうだ」

「男が?」

「金色の波打った髪の、気障な男だと聞いた」


 心当たりはないだろうか。

 この問いに、ギアノは首を捻るしかない。


「申し訳ないですけど」

「そうか」


 ヘイリーは立ち上がり、隣の神殿を訪ねてみると言って去って行った。

 その後はどうするのか、一体どこに滞在しているのか。

 なにもわからないままだが、とにかく、また来るだろうとギアノは思う。

 

「ギアノ、もう大丈夫?」

 次に現れたのは雲の神官の兄の方で、明るい笑顔にほっとさせられている。

「さっきの人、誰?」

「王都から来てるんだ。調べたいことがあって、少し協力してる」

「そうなんだね。で、俺に話っていうのは?」

「ああ、そうだった。実はマティルデを泊めることになったんだ。それで、悪いんだけどアダルツォの寝床を移動させてもらわなきゃいけなくて」

「あの子が? どうかしたのか」

 簡単に事情を説明すると、アダルツォは移動を快諾してくれた。

「ここに寝床を作ろうと思ってたんだけど、フォールードがいる部屋にも空きがあるんだよな。どっちがいい?」

「え? ……そうだな、ちょっと話したいことがあるんだ。だから今日はここでギアノと一緒でもいい?」

「話したいことって、俺に?」

「うん」


 人の好さそうな笑顔を見ているうちに、ギアノも思いだしたことがあった。

 アデルミラの話していた雲の神官について、アダルツォにも詳しく聞いておくべきではないか。


「じゃあ、今夜はここで」

「わかったよ。荷物はまだ元の部屋にある?」

「アデルミラがまとめてくれてる」


 アダルツォは夕飯の準備のために、仲間たちの待つ食堂へと去って行く。

 入れ替わるようにティーオがやって来て、肉の買い取りは終わったよと報告してくれた。


「ありがとう、ティーオ。助かったよ」

「手伝える時は手伝うから。いつでも言って」

「ああ。レテウスさんたちによろしく伝えておいて」

「ん? うん。わかった。また明日な」


 保存食の仕込みをしなければならないが、それは後で。

 みんな夕食の支度をそれぞれしているだろうから、自分の分はもう少し経ってから。

 マティルデのことを思い出し、声をかけにいこうと考えるが、廊下に出ると厨房がやたらと騒がしくて、慌てて駆け付ける。


 誰かが皿を落としたらしく、床が汚れていた。

 わらわらと集まって来る初心者たちを止めて、先に掃除を済ませるように指示をして。

 ほったらかしになった鍋を見つけて、誰が調理中なのか確認していく。

 今日はやけに厨房を使う人数が多い。調理に挑戦するのはいいが、順番にやっていくよう声をかけ、後の者には洗濯を済ませておいたらどうか提案していく。


 ようやくスムーズに流れるようになって、屋敷の初心者たちの食事の時間が進んでいった。


「今日は皆さん、お料理に意欲的でしたね」

「集中しすぎるとこうなっちゃうんだな」

 やれやれと息を吐くギアノを、廊下から呼ぶ声が聞こえてくる。

「お客さんだよ」

「こんな時間に?」

「ギアノさん、マティルデさんの分を用意して持っていきます。私もお部屋で一緒に頂きますね」

「助かるよ。ありがとうな、アデルミラ」


 気の利く雲の神官に任せて、玄関へと向かう。

 すると大柄な男が立っていて、ギアノを見るなり声をかけて来た。

「突然すまない。あんたがギアノか?」

 見覚えはない顔だった。大柄だが穏やかな瞳をしており、申し訳無さそうに話し始めている。 

「伝言を頼まれたんだ。俺はゾース。南の市場の近くで酒場をやってる」

「誰から、なんの伝言かな」

 ゾースと名乗った男は声を潜めて、マージに頼まれたとギアノに告げた。

「女の子を預かってくれているんだろう?」

「ああ、マティルデならここにいるよ」

「少しの間面倒を頼みたいと、マージが」


 ゾースがここに来たのは、どんな形にせよ家に残してきた伝言は見てもらえたということだ。

 ならばとりあえずは無事でいるのだろう。そうわかったのは良いが、自分で来ないことは気にかかる。

 

「理由は言えない?」

「ちょっとばかり込み入ってて。マージと、あのユレーという女の事情はそれぞれ違うんだ。発端自体は同じなんだが」

「どういう意味かよくわからないんだけど」

「すまない。とにかく二人ともいっぱいいっぱいで。女の子をどうしたらいいか困っていたらしいんだ」

「本当は俺も少し困ってる」

「ああ、そうだよな。いきなり、申し訳ない。悪いと思ってると二人も言っていたから」


 ゾースは頭を何度も下げたが、結局去っていってしまった。

 追いかけても仕方ないだろう。あれ以上話してくれそうにないし、酒場をやっていることは聞いた。

 必要な時は店を探して、聞きに行けばいい。


「あ、ギアノ。皿を一枚割っちゃったんだ」

 厨房ではまた騒ぎが起きており、どうやって片付ければいいか指導をしていく。

 指を切って血を流している者がいて、手当の準備のために駆け回る。

 

 続々と食事を終えた者がやって来て、洗い物をして。

 見守りをしていると、アデルミラがやって来た。


「ギアノさん、お食事はまだですか?」

「うん」

「じゃあ、用意しますね」


 自分でやるよという言葉は、「座って待っていてください」に打ち消されてしまった。

 アデルミラは今日、ギアノになにか伝えようとしてくれている。

 なので大人しく食堂へ向かって、隅の席に座り、食後の話し合いをしている初心者たちの姿をぼんやりと眺めていた。


「お待たせしました」

 アデルミラがトレイを持ってきて、水も注いでくれた。

「マティルデさんのことは任せて下さい。着替えも用意しましたから」

「ありがとう、本当に」

「ゆっくり食べて下さいね」


 雲の神官はいつもそう言ってくれる。

 みんなあっという間に食べてしまうし、ギアノも大抵食事は急いで済ませている。


「ゆっくりか」


 一人の食事を、意識して時間をかけて進めていった。

 誰かの作ったシチューは少し塩が多い。パンは冷たくて固い。

 妙な形の大きな芋が出て来て、思わず笑ってしまう。

 そんな食事の隙間に、初心者たちの明日の計画がちらほらと聞こえてくる。


 これが自分の時間なのかな、とギアノは考えていた。

 今はなんにもしていない。誰かのために働いていない。

 

 やることは残っている。保存食やらお菓子やら、仕込みが終わっていないから。

 考えなければならないこともたくさんある。


 酒場の店主のゾースと、マージ、ユレーがいない理由。

 王都からやって来たヘイリー・ダングはこれからどうするのか。

 マティルデの今後についても備えておきたい。

 デルフィはどこにいるのか。バルジとダンティンの行方は?

 カヌートとヌー、ドーンとチェニー。考えている通り、同じ人物なのか?

 美しい剣について、レテウスにも詳しく聞きたい。

 少し元気のなかったクリュに、なにか持っていってやればいい。

 そうすれば親分もきっと喜ぶだろうから。

 カッカーと家族を迎えるための準備もしなければ。

 

 そして、アデルミラ。

 自分を思いやってくれている。

 この街に残って欲しいと思ってくれているのに、実家に戻りたいのではないかと慮ってくれている。

 

 家のことになると途端に思考が濁ってしまい、ギアノは立ち上がった。

 食器を運んで手早く洗い、廊下に出て、マティルデの様子を見るべきか考える。

 女の子の部屋だから、勝手には入れない。もう夜だから、寝てしまっているかもしれない。

 なにかあればアデルミラが対応してくれるだろう。

 任せようと決めて、アダルツォの寝床について思い出し、部屋へと戻る。


「ギアノ、お帰り」

 管理人の部屋の隅にはもうアダルツォがいて、急拵えの小さなベッドの上で寛いでいた。

「どう、寝られそう?」

「大丈夫だよ。御覧の通り、荷物も移動済み」

 故郷を追われた雲の神官の荷物は小さく、ベッドの隣にちょこんと置かれている。

「もう仕事は終わったの?」

「まだだけど、話があるって言ってたよな」

「うん、ちょっと」

「俺もひとつ聞きたいことがあるんだ。先にいいか?」

「いいよ。なに?」

  

 アデルミラから聞いた背の高い雲の神官について、覚えているかどうか尋ねていく。

 よく覚えているよと頷き、助けてもらえて良かった、また会いたかったんだけどとアダルツォは首を傾げている。


「すごく背が高くて、痩せていたっていうのはアデルミラから聞いたんだ。他に特徴はなかったかな」

「特徴ね……。髪と髭が伸びていて、雲の神官らしくないとは思ったかな」

「あんまり伸ばさないものなの?」

「髪型や髭に決まりはないから、長いこと自体は別に変じゃないよ。あの時の神官は、長い間切らずにいて伸びっぱなしになったような感じだったんだ」

「それは、雲の神官らしくない?」

「そういう人もいるかもしれないか……。俺がその時思ったのは、長い間神殿に篭るような修行をしたのかなっていうことなんだ。雲の神殿ではやらないのに、なんでこうなったのかなって」

「雲の神殿ではやらないの?」

「やらないね。俺たちに必要なのは空だから。石とか鍛冶とか、硬そうな神に仕える人たちはやるらしいけど」


 鍛冶の神が硬いかどうかはわからないが、興味深い話が聞けたとギアノは思った。


「単に切ったり剃ったりできなかっただけかもしれないけど」

「髪の色は覚えてる?」


 アダルツォの答えは、デルフィの特徴と一致している。

 ギアノは礼を言って、雲の神官の「話したいこと」がなにか聞いていく。


「ギアノの家ってカルレナンってところにあるんだろう? 遠いんだよな?」

「そうだね。少し遠い。ここから直接向かう馬車もないし」

「実家に戻る予定ってあるの?」

 アデルミラから同じような問いをされたと話すと、アダルツォは照れながら頭をぽりぽりと掻いて笑った。

「もう自分で聞いたんだな。いやね、アデルが気にしていたんだよ。みんなに頼られて、帰れなくなっちゃってるんじゃないかって」

「そんなことはないよ」

「ティーオの店は、ギアノがいなくなったら困っちゃうだろ」

「確かにそうだな」

 笑いながら、仲の良い兄妹だなとギアノは思う。

「じゃあ、まだここの管理人でいてくれるのか」


 真正面から問われて、ギアノは不思議な気分になっていた。

 故郷に帰るべきか迷いはあるのに、今の質問には「ああ」と答えてしまっていたから。


「良かった。ギアノには本当に助けられているよ。メーレスのこともすごく感謝してる。迷宮都市にたどり着くまで随分かかって、あの子が少しずつ弱っていくのがわかったから。とても怖かったんだよ」

 アダルツォは雲の神に感謝を捧げてから、アデルミラと同じようなことを話した。

 ギアノが慣れた様子で世話をしてくれて、心底安心できたのだと。

「俺はギアノのことがすごく好きだ」

「はは、ありがとうな、アダルツォ」

「それで、ひとつお願いがあるんだけど」

「お願い?」


 雲の神官の兄妹はよく似ている。

 小柄で、顔立ちが幼いところも、神官らしく瞳に誠実な光を宿していることも。


「アデルを嫁にもらってくれないかな」


 唐突に、あまりにも意外な言葉が飛び出して来て、ギアノの頭はまっしろになっていった。


「なに?」

「アデルはちんちくりんで子供みたいだが、ああ見えてもう十八なんだ。兄貴の俺から見ても、真面目だし、勇気もあるし、芯も強いと思う。働き者だし、ないのは色気だけじゃないかな」

「いや、そんな……。色気だなんて」

「駄目か」

「駄目じゃあないよ。アデルミラはすごく、いい子だし。だけど本人がどう思うか」

「そうだな。俺は先走ってるんだ。それはわかってる。だけどさ、ギアノ。俺たちにはもう帰るところがない。それぞれに新しく家を作っていかなきゃならないんだ。苦労してきた分、アデルには幸せになってほしいし、アデルが幸せにならなきゃ俺も自分のことを始められない。突然こんな話をしてごめん。だけど、俺はギアノなら大丈夫だって思ってるんだ。絶対にアデルを悲しませない、信じられる男なんだって。はは、ごめんな。いきなりこんなことを言って。びっくりするよな。アデルが知ったら多分怒るよ、勝手なことをしてって。でも背中を押してやらなきゃ、あいつもなかなか踏み出さないだろうと思うんだ。お節介とは思うけど、俺なりに妹の幸せってもんを考えてのことだから」

「アダルツォ……」

「ここに来てなにに一番驚いたかって、こんなにも信頼できる男がいるのかってことなんだ。ギアノがいてくれて、本当に良かったよ。アデルとどうなるかは置いておいたとしても、俺たちの気持ちは変わらないからな」


 出会いに感謝しているとまた雲の神に報告をして、アダルツォはギアノを抱きしめ、背中をぽんぽんと叩いた。

 雲の神官はお休みと言ってベッドに潜り、ギアノは呆然としながら部屋を出て、厨房へ向かって歩いていく。


 椅子を用意して腰かけ、無心で果物の皮を剥いていく。

 普段ならそれで心が落ち着くのに、なぜかこの日はなかなか「いつも通り」には戻れなくて、作業は深夜まで続いた。

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