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12 Gates City  作者: 澤群キョウ
31_Rapid Growth 〈世界を塗り替えていく〉

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138 子供の処世術

 休暇をもらった少年は寮を出ると、東に向かって歩いて行った。

 疲れが溜まってしまったと判断されたが、それはみんな同じだ。

 ミッシュ商会で働く同僚たちは、みな一緒。

 お金を貯めたら故郷に戻るとか、親になにか買ってあげるとか。

 可愛いあの子に花を贈るだとか、自分の店を持ちたいんだとか。


 それぞれの大きさの夢を持っているから、怠けずに一生懸命働いている。

 もちろん、全員がそうとは言わない。サボる者はいる。大人も、子供も関係なく。


 けれどほとんどが労働に励む仲間だから。

 みんな目くらましのせいで気付いていないけれど、オーリーは誰よりもよく働いているから。

 労ってあげたくて、メハルは歩いた。

 仮面の下に隠した星の数ほどの悲しみを、少しでも忘れられたらいいと思ったから。


 二回も場所を確認したおかげか、ティーオの良品の位置はすぐにわかった。

 今日は昼になる前に辿りついて、カウンター前の箱にはずらりと商品が並べられている。


「こんにちは」

「やあ、いらっしゃい。この前来てくれた子だね」

 「子」か、と思いつつ、メハルは店の中に入った。

 店主であるティーオはにこにこと笑っており、隣には素朴な顔の少女が並んで、客に明るく声をかけてくる。

「どうだった、保存食は」

「喜んでくれたよ。だから、自分のも欲しくなっちゃって」

「あはは、そうか。ありがとう。そろそろ女の子たちがどかんとやって来るから、買い物するなら今のうちだよ」

「うん。この箱の中のものはなに?」


 パンにしては、香りが甘い。

 美味しそうな匂いに思わず笑みをこぼした客に、店員の少女が商品の説明をしてくれる。


「これは焼き菓子なんです。中に、果実をあまく煮込んだものが入ってて」

「へえ。そんなお菓子があるんだね」

「南の地方で作られてるものなんですよ。迷宮都市では、他に扱ってる店はないんです」

「そっか。ねえ、乾燥果実もある?」

「あれは、ええと。……ティーオさん!」

 女の子に呼ばれて、奥でなにやらごそごそと作業をしていたティーオが飛んでくる。

「乾燥果実は今はないんだ。……内緒だけど、今日はあとから運ばれてくる」

「教えていいの?」

「特別だよ。うちはお菓子ばっかり評判になっちゃっててね。保存食も売れるようにしたいんだ」


 今日の乾燥果実の入荷は女の子たちが去った後になる。

 ティーオはそう囁き、保存食を店の人たちに紹介してくれないか、と笑った。


「なるほどね。わかった、いいよ。俺も今日買った分を食べてみて、すごく旨いんだってみんなに伝えるよ」

「はは、ありがとうな。常連になってもらえるよう、料理担当に張り切ってもらわないと」

「ここに置いてあるものは、他の人が作ってるの?」

「そうだよ。器用でなんでも美味しく作れる料理人がいてね。ところで、保存食とお菓子は買うかい? お菓子の方は必要なら、女の子が来る前に選んで買った方が良い」

「そっか。せっかくだし買おうかな」


 店主の名はティーオで、少女の名はティッティらしい。

 近しい名前は兄妹だからなのか聞いてみると、まったくの他人だという答えが返って来た。

 ティッティから簡単に説明してもらって、シュロットの実を詰めたものを買う。

 保存食をいくつか選んで一緒に会計をすると、外から騒音が響いてきた。


「来たぞ。一気に混みあうから、店から出た方がいいかも」

 ティーオに促され、商品を抱えて外に出る。

 通りの向こうから女の子が塊になって迫り来ていて、走らないで、一列になってと店主が必死になって呼びかけていた。


「本当にすごいな……」

 メハルが思わず呟いてしまうほどに、少女たちの来店は激しかった。

 ルンゲとミンゲは大袈裟に話しているだけだと思っていたが、まったく嘘はなかったらしい。

 自分には特にそんな説明はなかったが、一人ひとつだけというルールだったらしく、少女たちは焼き菓子を選んでは金を払い、店から出てああだこうだと騒いでいる。


 薬草店では見られない光景を、メハルはしばらく眺めていた。

 無事に買い物が済んだ女の子は、乱れた髪でも幸せそうに笑っていて、菓子をかじりながら去って行く。

 売り切れになってしまった後は、一口でいいからちょうだいと騒ぐ子が現れて、わけてあげたり、慌てて口に詰め込んだりと、様々なドラマが繰り広げられていった。


 ティーオが出て来て、看板の上に札をかけている。

 本日、焼き菓子は売り切れ。

 これより後にやって来た誰かは、このお知らせを見てがっかりしながら道を戻っていくのだろう。


「やあ、すごかっただろう?」

「うん。こんなわかりにくい道の奥にあるのに、随分評判になっているんだね」

「俺も意外だったよ。客なんか一人も来ないんじゃないかって思ってたんだけどさ」

 お菓子の販売は事前に試験的に行っており、その時にうまく噂になったのだという。

 ティーオはなにを思ったのかメハルを中に招き入れ、カウンターの奥の椅子を勧めてくれた。

「そこでゆっくり味わって」

「いいの?」

「乾燥果実、買ってくだろ。もう少ししたら来ると思うから、そこで待ったらいいさ」

「ありがとう」


 カウンターの奥で座り込んで、メハルは買った焼き菓子を齧った。

 ふんわりと柔らかく、優しい甘さが口に広がっていく。

 生地だけでもかなり美味しかったが、中に詰まっていたシュロットの煮込みが混じってくると、更に豊かな味わいがメハルの中に広がっていった。


「わあ……。こんなに美味いもの初めて食べた……」

「そうだろう、そうだろう。俺も初めて食べた時は驚いたね」

「これを女の子が独占してるのか。ズルいな。男だってみんな喜ぶよ、これは」

「そう思うだろ。俺たちが食べさせてもらった時、男ばっかりだったけど、みんなすごく喜んでいたからね」

「男ばっかり?」

「俺は元探索者で、仲間たちと一緒に暮らしていてさ。滞在していたところの管理人がものすごく料理上手で、いろいろ作ってくれたんだ。どんな味がウケるか試食させてただけだったみたいだけど、どれもこれも旨くてね」

「へえ、いいなあ。こんな旨いものなら俺も喜んで試食するよ」

「だよな。食事が旨いって幸せなことだよ。大勢でわいわいやれたらもっといい」

 心の底から同意して、メハルは力強く頷いていく。

「そんなことしてたんですか、ティーオさん。うらやましい!」

「ティッティも一緒に食堂で働いてたんだろ。なにか作ってもらったことはないの?」

「ありますけど」

「はは、じゃあ、似たようなもんじゃないか」


 店員の二人は仲が良いようで、にこにこと笑顔を絶やさない。

 流行りの店舗らしからぬ地味な内装だが、感じの良い店員のお陰で店が明るく感じられるのが良いとメハルは思った。


 齧るたびに小さくなっていくのが惜しくて、薬草業者の少年はちびちびと焼き菓子を食べていった。

 ひとつのものをこんなにゆっくりと食べたのは初めてだと思いながら、甘酸っぱい果実の味を噛み締めている。


 焼き菓子が小さなかけらになった頃、鈴を鳴らすような声がして店に誰かが入って来た。

「ティーオさん、お届け物です」

「アデルミラ。運んできてくれたの? 重たくなかったかな」

「大丈夫ですよ。焼き菓子と違ってかさばりませんし」

 赤い髪の可憐な少女が入って来て、客に気付くとにっこりと微笑んでくれた。

「まあ、お客さんですか」

「うん」

「お買い上げありがとうございます。ここはお店の名前の通り、良い物ばかりおいてあるんですよ」


 そうだねとメハルが答えると、少女はまた優しい顔で笑った。

 どこかで見た顔だと少年は考えて、すぐに答えに辿り着いている。

 あの五人組のうちの一人、アダルツォという名であろう神官とそっくりだ。


 オーリーは「幼い妹」が一緒だったと話していた。名前も似通っているし、この少女なのかもしれない。

 そんなことを考えていたメハルの視線に気づいて、アデルミラは首を傾げている。


「なにか?」

「あ、ええとね。最近『緑』の迷宮の入り口で、五人組の探索者を見かけたんだ。その中に、君にそっくりな神官がいたなって思って」

「あなたも迷宮に入られるんですか?」

「俺、薬草業者なんだ。採集の担当で」

「まあ、そうなのですね。迷宮を歩くのは大変でしょう」

 雲の神の手があなたを守りますように。

 アデルミラも神官なのか、穏やかな祈りの言葉が紡がれていく。

「あなたが見かけたのは、きっと兄さまだと思います。兄さまは嫌がりますけれど、よく似ていると言われるんです」

「神官なんだろうなって思ったんだけど」

「兄さまは雲の神に仕えています。私も同じで、雲の神官ですよ」


 少女はアデルミラ・ルーレイと名乗り、メハルも自分の名前を告げた。

 

「メハルっていうんだな。乾燥果実、買っていくだろう?」

「うん。やった、嬉しいな。今日来て本当に良かった」

「前来た時は閉店寸前だったんだ。あの時間じゃお菓子どころじゃないからね」

 ティーオの話に、少女たちは深く頷いている。

「お昼だけああなっちゃうの、なんとかできませんかねえ」

「お店で働いている人たちはあの時間しか来られないみたいですから」

「そうなんだよなあ。いくつか考えていることはあるから、順番に試していこうとは思ってるんだけどね」


 元は探索者だったという店主。

 素朴な顔の少女の店員。

 商品を運んできたのは雲の神に仕える神官。

 ティーオの話では、探索者として滞在していた施設の管理人が菓子類を作っているようだ。


「すごいね、みんな歳は俺と変わらないくらいなのに、店を持っているなんてさ」

「メハルは何歳なんだ?」

「十五だよ」

「そうか。確かにあんまり変わらないね」


 ティーオは十六歳、ティッティは十四歳。一番年上なのはアデルミラで、十八歳なのだという。

 アダルツォこそが自分と同じくらいの年齢だろうと思っていたメハルは内心で驚きつつ、若い経営者の顔を見つめた。


「けど、店を自力で持ったとは言い難いかな。すごく運が良くてこうなったってだけで」

「運が良くて?」

「この店は知り合いが住んでいたんだけど、空き家になったんだ。あと、売る物自体はあった。店にできる場所と商品は揃ってたのに、売る人間だけいなかったのさ」

「空き家を譲ってもらったってこと?」

「そう。気前がいい話だろ。少し古くて、譲ってもらった時はドアの鍵が壊れていたりしたんだけど。でも、こんなチャンスは二度とないと思って始めたんだよ」

「それでこんな半端なところに店があるんだね」

「ははは、そうなんだよ。場所を知ってもらえさえすれば、少しくらい奥まっていても大丈夫だろうって思ってさ」

「もう常連客がいるみたいだもんね」

「メハルにも常連になってもらわなきゃな」


 ティーオの顔は明るく、ティッティとアデルミラはにこにこと笑っている。

 商品が魅力的なだけではなく、感じの良い店員が揃っているのだから、この店はきっともっと繁盛していくだろう。


「絶対に来るよ。保存食も食べて、店のみんなに美味しかったって教えるから」

「あはは、ぜひ頼むよ」


 乾燥果実の代金を払い、小さな袋をポーチにしまう。

 お目当ての物を無事に手に入れて、メハルは上機嫌で店を後にしていた。

 アデルミラも配達の仕事を終えたらしく、空の箱を抱えてメハルの隣に並ぶ。


「良いタイミングで来店されましたね、メハルさん」

「本当に。でも、本当はもっと早く来たんだ。ティーオがこっそり後から入荷するって教えてくれてさ」

「まあ、そうでしたか。他の方には内緒にしておいてくださいね」

「もちろん。お礼にまた来て、いろいろ買おうと思っているから」

「ありがとうございます。頑張って美味しい物を作りますね」

「アデルミラが作っているの?」

「いいえ、私はお手伝いだけなんです」


 大通りに出て、少し歩いて。

 大きな屋敷が見えて、アデルミラはぺこりと頭を下げた。


「では、私はここで。メハルさん、またお会いできると嬉しいです」


 うん、それじゃあと答えながら、またカッカー・パンラの屋敷だとメハルは考えていた。

 雲の神官アデルミラは箱と共に大きな屋敷に入ってしまって、もう姿は見えない。


 兄であるアダルツォもこの屋敷に入っていった。

 二人は雲の神官なのに、樹木の神殿の隣、元神官長の屋敷でなにをしているのだろう。

 

 

 

 休みだというのを忘れていたのか、つい、いつもの癖でだったのか。

 メハルはまっすぐに店に戻って、サザリに声をかけられている。


「どうした、メハル。今日は仕事はいいんだよ」

「ああ、そっか。そうだったね」

「俺たちが恋しくなったか? うん?」

「そうかも。みんな家族みたいなもんだし」

「お前は本当に可愛いことを言うなあ」


 サザリは左足を引きずりながらやってきて、メハルの頭を撫でる。

 急遽休みが決まったのは男子寮でのことなので、知らなかったであろうゾナがやってきて、メハルに手伝いを要請してきた。


「ゾナ、メハルは今日は休みなんだよ」

「え、そうなのかい。知らなくって。ごめんね、メハル」

「手伝いって籠の整理でしょ? いいよ、やるよ」

「でも」

「今日は本当は休みじゃなかったんだ。ちょっと買い物してきてさ、気分転換できたから。だから大丈夫。終わりの時間までもうそんなに長いわけじゃないし」

「本当にいいのかい」

「いいって。ゾナさん、行こう」


 悪かったねと言いつつ、ゾナは嬉しそうに笑っている。

 メハルが手伝ってくれるとはかどるとか、いつでも他人に親切にして偉いねとか。

 移動中にさまざまな褒め言葉がメハルに贈られていた。


 褒め言葉は他人とのコミュニケーションを円滑に進めるためのものだと思っていたのだが。

 ゾナは本当に自分を褒めてくれているのかもしれないとメハルは考えていた。

 手伝ってもらえるのが本当にありがたくて、すぐに引き受けてもらえるのは本当に助かるのかもしれない。

 

 他人に真意を聞くのは難しい。

 ねえ、本当に? 本当にそう思ってる?

 うんと幼い頃に何度か口にして、その度に後悔する羽目になった。

 他人は怒らせないに限る。気分よく暮らしてもらえるよう努力すれば、嫌な思いをしなくて済むのだから。

 

 それとも、あの頃はたまたま不機嫌な大人ばかり揃っていただけだったのか。

 迷宮都市に来てから時々与えられる「気付き」に、メハルはいつもよりも少しだけぼんやりとしていた。


「あーっ、なによこれ!」


 背後から急に大声がして、少年は慌てて振り返る。

 いつの間にやらメハルの後ろにはシュナがいて、腰のポーチから勝手に取り出したのだろう、買ってきた乾燥果実を手にして大きな声をあげていた。


「これ、これ! 食べたかったやつ!」

「シュナ、勝手に取ったの?」

「メハルが買い物してきたって言うから、今日はどんな無駄使いしたのかと思ったのに」

「無駄使いってなんだよ」

「美味しいって評判のお菓子よね! 隣の寮のザディエーヌが散々見せびらかしてきて、分けてくれなかった!」

「知らないよ、ねえ、返して」


 メハルの訴えなどないかの如く、シュナは袋を開けて中身を取り出し、一粒口に放り込んでしまった。


「ちょっと」

「おいしい!」

「なにを騒いでるの、シュナ」

 ゾナが立ち上がり、騒ぐ少女を咎めていく。

「俺の買ってきたものを勝手に取って食べたんだ」

「まあ、シュナ! 早くメハルに返しなさい」


 女性店員の中でも長く勤め続けているゾナは、普段はとても優しいが、ズルをしようとする者にはかなり厳しい。

 しょっちゅう大声で騒いだり誰かと揉めるシュナにとって、ゾナは天敵と言っていい存在だ。

 

「シュナ、あんた! 人の物を勝手に取るのは泥棒だよ!」


 すぐに解決すると思っていた。ゾナの説教は長くなりがちなので、注意された時はすぐに謝るのが一番良い。

 そんなことはしょっちゅう怒られているシュナが一番理解しているだろうと、メハルは思っていた。


 なのにシュナは袋を抱え込んだまま離そうとせず、中身を取り出しては口に詰め込んでいる。


「シュナ、やめなさい」

「ぼば!」

「そんなに詰め込んだら危ないでしょ!」

「ぼがー!」


 ゾナとシュナが揉めて、みんな立ち上がっていた。成り行きを見守ったり、二人の間に入ったり。

 女性店員たちはなんとか争いを鎮めようと頑張ってくれたのだが。


 シュナは素直に指示に従うことはなく、ゾナに逆らい続けた。

 揉めている間に袋の中身はいくつか飛び散り、薬草加工場の床に落ちていく。

 ほとんどは無事にシュナの胃の中に収まり、叱られながらも消化されている真っ最中だ。


「こら、いい加減にしなさい、シュナ。メハルに謝りなさい!」

 シュナはふんと鼻を鳴らして、メハルを見ようともしない。

「あなたねえ!」

 目を逸らしながらも勝ち誇ったような顔をした少女に、気持ちがぎゅんと落ちていくのがわかった。

「もういいよ、ゾナさん」

「ええ? だけどメハル」

「いいんだ、また買いに行けばいいし。すごく欲しかったんだろ、シュナ」

 メハルの低い声に、ようやく少女の視線が向けられる。

「だけど、勝手に取っていかずに、わけてくれないかって言ってほしかったよ」


 昼間にも似たような光景を見た。

 焼き菓子を買えなくて悔しがっている女の子たち。

 親切な心を持った子は自分の分を分け与えて、感謝の言葉を捧げられていた。

 一方で、絶対にやるものかとシュナのように口に押し込む女の子もいた。

 もらえなかった子は目を伏せたり、怒ったり。わけてくれなかった子の目はみんなギラギラとしていて冷たく、勝ち誇ったような表情を浮かべる者すらいた。


 自分なら、頼まれたら少しくらはわけただろうと思う。

 シュナのことをあまり良くは思っていないけれど、どうしても食べたかったものだと言われたら、じゃあ少しでいいかなと差し出したはずだ。

 オーリーに渡す分が残っていれば、それで良いから。

 だってオーリーは絶対に、もっと寄越せなんて言わない男だから。

 ほんの少しでも微笑んで、メハルに感謝を告げて、美味しいですねと言ってくれるに違いない。


 落ちたお菓子は捨てられてしまう。

 薬草や毒草を扱うところだから、床に落ちたものは口にしてはならない。それがなんであろうと、職場の規則として決められている。

 

 悲しい気持ちが湧き出してきて、幸せの壺に蓋がされていく。

 今日は美しい水がたくさん注がれた壺だが、他人から見れば妬ましく憎らしいものでしかないのだろう。


「……みんな、騒いでごめん。掃除しておくね」

「ごめんね、メハル」

「いいって。大丈夫だから、ゾナさん」


 メハルは掃除用具を取りに走り、宝石のかけらのような果実を集めてゴミ箱に放り込んでいった。

 従業員たちはおしゃべりをせずに静かに仕事に取り組んでいたが、シュナとゾナの姿は見当たらない。


 最後に集めた籠を決められた場所に積んで、メハルは男子寮に戻っていった。

 同じように仕事を終えた従業員たちが戻って来て、少年に声をかけてくる。


「おう、メハル。しっかり休めたか?」

「うん」

「今日の飯はなにかな。しっかり食って休まないと」


 にこやかに返事をしながら、メハルは少しだけ落ち込んでいた。

 大勢に褒められて、美味しいお菓子と出会って、いいものを買えて嬉しかったのに。

 いや、ずっといい事ばかりが続くはずがない。

 そんなことはもう知っていたではないか。


 時には嬉しいことがあったとしても、同じかそれ以上に悪いことだって起きるのが人生なのだから。

 幸せを感じて浮かれていれば、足を掬われた時に受けるダメージは大きくなる。

 だから、期待しすぎてはいけない。常に不幸に備えて、嫌なことこそが当たり前だと考えておくべきだ。


 人に良い顔をしようとして手伝いなんか申し出るから。

 余計な真似をしたから、罰があたったのだろう。

 休めと言われたのだから、おとなしく休んでおけばよかった。

 メハルは胸に手を当てて、もう同じミスはしないと誓い、心に小さな石を置いていく。


 波風が立たなければ、それで充分。

 だからなるべく、相手が機嫌よく過ごせるように言葉を選んでいく。

 大人の悪趣味な冗談には恥ずかしがって、説教をし始めたら興味深い顔をして聞く。

 

 冷めた心で食べた夕食はそこそこの味で、いつも通りの夜のはずだった。

 みんなが言った冗談に笑顔を見せて、肩を抱かれれば少しだけ嫌がって。


 

「メハル、大丈夫ですか?」


 いつも通りの夜が更けて、ベッドに入った後。

 向かいから小さな声が呼びかけてきて、メハルは視線を向けた。


「元気がないように見えます」

「別にそんなことないよ。今日は休みをもらえたし、買い物もしたんだ。美味しいものを食べたりしたよ」

「ゾナさんが心配していましたよ」

「ああ、ちょっとね。買ってきたものをシュナが勝手に取って食べちゃったんだ」

「そんなことが?」


 オーリーは驚き、メハルは苦笑いで答えた。

 なんだか強く当たられるんだよねと呟くと、ひげもじゃの顔がゆっくりと頷いているのが見えた。


 どうしてなのだろうとメハルは思った。

 朝が来て「オーリー」になると隠れてしまう鍛冶の神官の瞳が、夜になるとよく見えるのは。


 髭に隠れた唇が動いているのがわかった。

 鍛冶の神が、メハルを守りますように。

 そんな祈りがひっそりと捧げられているのだと、今日は気付いてしまった。


「ねえ、オーリー」

「なんですか、メハル」

「今日、お菓子を買いに行ったんだ。美味しいって聞いて、休みになったからね。夕方にはもう売り切れてなくなっちゃうようなものだから、今日なら買えると思ったんだ」

「シュナに取られたもの?」

「うん。後ろからそーっと近づいてきてて、気が付かなくって。シュナもどうしても食べたかったんだって。他の子に見せびらかされて、悔しかったのかな。だから返してくれなかったし、無理やり口に詰め込んじゃって」


 オーリーは少しだけ笑ったが、次の瞬間、すぐに気が付いた。


「そのお菓子、オーリーにあげたかったんだ」

 涙が込み上げてきて、ぽろぽろと落ちていく。

 シュナが食べてしまったのは仕方がない。お菓子が床に落ちて駄目になってしまったことも。

 人生においては本当に些細な諍いだし、よくある程度の不運だ。

 いつか笑い話になるであろう出来事なのに、わかっていてもメハルは涙を止められなかった。


「メハル、いいんですよ。僕のことは」

「よくないよ。俺、オーリーを喜ばせたかったのに」

「ありがとう、メハル」

「ありがたくないよ、あげられなかったのに」

「メハルはなにも悪くありません」


 オーリーは起き上がると、メハルのベッドに腰を下ろし、少年の頭を優しく撫でた。

「僕が今こうして生きていられるのはメハルのお陰です。たくさん頼み事をして、たくさん協力してもらっています。僕こそなにか、メハルにしてあげなきゃいけないのに」

「俺だってオーリーのお陰でちゃんと暮らせてるんだ。オーリーと出会わなかったら、俺、今頃どうなっていたかわからない」


 やせ細った手が何度も何度も髪の上を滑り、戻っていった。

 頭を優しく撫でる手は温かく、メハルの波立った心を鎮めていく。


 樹木の神官長に触れられた時と同じような感覚だと思った。

 鍛冶の神官なのであろうオーリーにも、神に仕える者が起こす奇跡が使えるのだろう。


「ごめん、オーリー。ありがとう、もう平気」

「メハル、無理をしなくていいんです。君はまだ子供なんだから、少しくらいわがままを言ってもいいんですよ」

「そうはいかないよ」


 そんなことをしたら、居場所がなくなってしまう。

 大体、十五にもなったら子供だなどと言っていられない。

 ティーオは店を持っているし、ティッティも一生懸命働いている。

 

 黙るメハルの額に、オーリーの指が触れた。

「苦労してきたんですね、メハル」

 薬草に触れ続けているせいか、細い指先はガサガサしている。

「君の行く道が、父なる鍛冶の神に護られますように」


 祈りの言葉を終えると、オーリーは再び「ありがとう」と囁いて自分のベッドに戻っていった。

 

 明日、朝が来たら、陽気で間抜けなオーリーとして働き始めるのだろう。

 どうしてそんなに強い心を持っていられるのか。

 とても辛い目にあって、徹底的に身を隠して、別人になりすまし、周りから笑われながら暮らして。

 なのに他人を思いやり、ささやかな協力に心から感謝してくれる。


 これまでどんなに嫌な目にあっても、いじめられても、泣くことはなかった。

 いちいち悲しんだり嘆いたりする時間がなかったし、そんな態度でいればますます攻撃されるとわかっていたから。

 なのに今、隣で眠るオーリーの強さを目の当たりにして涙をこぼしている。

 自分の心がよくわからない。


 迷宮都市に流れ着いてから生活は一変した。人生そのものが大きく変化していると感じている。

 だったら、心も変わるものなのかもしれない。

 出会った恩人の苦しみを思って、涙するようになるのは当然なのかもしれない。


 変化を理解しているのに、自分自身は変えられていなかったことにメハルは気付いた。

 場所も、人も、環境も、身分も、なにもかも変わったのだから。


 メハル自身も変わっていい。

 美味しいものを食べて、上機嫌で笑ってもいいし。

 良い人と出会って、親しくなりたいと願ってもいいのかもしれない。

 オーリーの力になるために協力は続けるとして。


 偶然入り込んだだけの職場だったが、評価してもらえるというのなら。

 期待に応えようと考えても、いいのかもしれなかった。


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