135 跳梁
「ウィルフレドさん、今日リシュラ神官長は夕方にいらっしゃる予定ですよ」
若い神官のロカに教えられて、ウィルフレドはキーレイの家に向かう。
まだ休息を取っているであろう神官長の部屋に辿り着くと、マリートがベッドを占領して横たわっていた。
「なにをしに来た」
「マリート、そんな言い方をするな」
厳しい言葉を放った剣士を諫め、キーレイはお茶の用意を頼んでいる。
友人のかわりに謝ると椅子を用意し、ウィルフレドの隣に座った。
「体の調子はどうですか」
「大丈夫です。問題はありません」
「なら良かった。長い探索でしたから、いつもと違うところがあったら言って下さい」
「ありがとうございます」
「昨日は驚きましたね」
深く頷くウィルフレドに、マリートが鋭い視線を向けている。
剣士はしばらく黙っていたが、やがてぼそりとこう呟いた。
「あの妙な魔術師はどうした」
「朝起きた時にはいなかったのです。ニーロ殿と調査団へ行くと話していましたから、同行したのでしょう」
「あいつはなんなんだ。お前に神官の恋人ができたと聞いていたのに、なにがどうなっている?」
「マリート」
「いえ、いいのです。お二人とノーアンにはわけのわからない出来事だったでしょう。……私にもわからないことがあるので、説明は難しいのですが」
あの浅黒い肌の六人目について。
もともとは異国からやって来た神官であったと、まずは話していく。
街角で偶然出会い、再会して、魔術師街の問題を片付けるのに付き合ってもらい、深い仲になったことも隠さずに伝えた。
「ところが、『白』に向かう前に急に魔術師に変わったのです」
「変わっただと?」
「あの体には二人分の魂が宿っていると、本人たちは言います」
「その二人ですが、ウィルフレド」
ラフィとロウラン、どちらにも出会ったことがあるのは、ウィルフレドとニーロ、キーレイの三人。
ニーロはラフィとはほとんど話していないので、どちらともじっくり向かい合ったのはウィルフレドとキーレイの二人だけだ。
「ロウランにとって神官ラフィはどのような存在なのでしょう?」
キーレイがこんな風に言うのは、蔑むような言葉が多く含まれているのを聞いたからなのだろう。
「私にもわかりません。二人の話がどこまで本当なのかすら、判別がつきません」
共通している話もあるが、それだって真実かどうかはわからない。
二人の言葉を信じるなら、あの体のもともとの主はラフィであり、ロウランが無理に入り込んできたことになる。
紆余曲折はあったもののラフィの身分は神官であり、長まで務めた人物で、ロウランについては魔術師であること以外はわからなかった。
「怪我を癒してくれましたし、ラフィは神官で間違いないと思います」
「ロウランが魔術師なのも間違いないでしょうね。実際に使っていましたし、ニーロがラーデン様と話しているようだとまで言っていましたから」
マリートは鼻に皺を寄せて唸っている。
確かにニーロとロウランの距離は近かったし、話を弾ませていたから。
可愛い弟分が怪しげな魔術師と仲良くなったのが気に入らないのだろう。
「そういえば、マリート殿を違う呼び方をしていましたね」
ウィルフレドがこう言うと、剣士の機嫌は更に悪くなってしまった。
見かねた神官長がこっそりと、事情を耳打ちしてくれる。
「あれはマリートの本当の名なのです」
これまではキーレイしか知らなかった真の名について明かされていく。
二人の間には古い縁があったことも教えられ、ウィルフレドは深く頷き、床を見つめながら考えていた。
では、自分の名前もわかっているのだろうか。
それでもあえて「ウィルフレド」と呼んでいたのだろうか。
魔術師の思惑はわからない。
迷宮の中で強い味方になるであろうことだけが確かだった。
「キーレイ殿は匂いを感じましたか?」
「匂いですか」
個人的な恥を晒したついでに、神官長へラフィの香りについても説明していった。
二人きりで向かい合って話した時に感じるものはなかったか問いかけてみたが、キーレイは首を振っている。
「私たちは神の考え方の差異について語りあっただけで、個人的な話などはほとんどしていません」
「あいつ、神官の時はそんな匂いがするのか?」
「私は常に感じていたのですが……」
つまり、「いつでも」「誰にでも」香るわけではない。
魔術師は自分を「狙い撃ち」しているのだと語っていた。
ウィルフレドだけに香りがわかるのなら、ロウランの言う通りだったのだろう。
「ロウランは相当な使い手のようでしたね」
キーレイの呟きに、マリートが視線だけを向けている。
ウィルフレドも同じで、頷くくらいしかできなかった。
「あんなことが起きても、平然としていました」
「本当に『青』に行ったのか?」
「疑うのか、マリート」
「いや、お前がそんなつまらん嘘をつくとは思っていない。そうじゃなくて、あの妙な魔術師がわざとやったって可能性はないのか?」
「無理だろう、地上から迷宮に移動することすら出来ないのに」
「出来そうだと話していたじゃないか」
神官長が「確かに」と呟き、ウィルフレドも思い出していた。
五日間の間、ロウランはニーロとしょっちゅう話しこんでいた。その中に、「地上から迷宮内への移動」についての話もあったはずだ。
「できるかもしれないが、だからといって『青』にあんな風に行けるとは思えない。それに、マリートもなにかが来たのに気付いたんだろう?」
「あの跳ねる奴だな。来たとは思った。だが、あの敵に迷宮を移動させる力があるかどうかもわからないじゃないか」
なにもかもが仮定のままで、結論は出ない。
ありとあらゆる可能性が、可能性のまま残り続けている。
はっきりしているのは、「白」の最下層に辿り着けなかったことだけ。
三十層へ初めて足を踏み入れるのに成功し、いくつかの初めて遭遇した敵がいて、違う迷宮へ飛ばされるような現象が起きた。
お茶が運ばれてきて、三つのカップが並べられていく。
マリートは見向きもしないが、ウィルフレドは香りの良い茶を口に運んで、暖かさにほっと息を吐いた。
「ノーアンは良いスカウトでしたね。慎重でしたが、余計な緊張はしていなくて」
キーレイもカップを手に取り、助っ人スカウトをこう評していく。
「そうですね。若いのに肝が据わっていて、頼りになりそうです」
「あいつ、組んでいる仲間はいないのか?」
「いるようだよ、マリート。四人組で、時々魔術師を入れて五人で動いているそうだ」
売家に住んでいるのだから、実力は確かなのだろう。
これからも協力してもらえればいいとキーレイは笑っている。
「あんな敵がぞろぞろ出て来るとなると、六層進むのは難しそうですが」
「あの鎧、倒すと必ず破裂するのかな。ああならなきゃもう少し楽なのに」
「そうだな、マリート。あまり深く切ってしまったら、腕も足も動かせなくなるかもしれない」
「ニーロなら魔術で防げるんじゃないか。飛び散らなくなるような力が働けば、もう少し安全に倒せるようになる」
ロウランが消してしまった獣も含め、「白」で起きた出来事について会話を重ねていった。
しばらく話した後にキーレイと共に食事に出かけることになり、ふくれっ面のマリートを置いて街に繰り出していく。
神官長は余計な詮索はせず、味を楽しむだけの穏やかな時間を過ごしてくれた。
神殿へ務めに出かけたキーレイを見送り、ウィルフレドは家へ戻る道を辿っていく。
探索の成果で金は手に入ったが、散財する相手が今はいない。
もし麗しい神官が目の前に現れても、ひたすらに溺れて消費するだけの状態にはなりたくなかった。
「どこへ行っていた、ウィルフレド・メティス」
ニーロの家には当然のようにロウランが居て、家主の机の隣に座り込んでいる。
「キーレイ殿のところに」
「俺の悪口でも言い合ったか?」
眉をひそめた戦士に、ニーロが立ち上がって問いかける。
「昨日起きた現象について話しましたか?」
「少し。結局はなにが起きたのか、我々にはわかりそうにありませんでしたが」
「マリートさんはなんと?」
あの剣士がいたとよくわかるものだとウィルフレドは思う。
やはり、内心を読む力が魔術師にはあるのだろうか?
だが、聞かせられる話の中に目新しいものはなかった。
「……地上から迷宮の中への移動ができるのではないかと気にしていましたよ」
「マリートさんが?」
「ええ。二人がそんな話をしていたからと」
ロウランは座ったままにやりと笑い、ニーロは静かに頷いている。
「迷宮内への狙った地点への移動ができれば、探索は一気に進められるようになります。良いやり方がないか、ラーデン様も考えていました」
狙った地点。
たとえば、ようやく辿りついた「白」の三十層や、「青」の深い水を抜けた先。
望み通りの場所から始められれば、確かに踏破はぐっと楽になるだろう。
「中でも言ったが、できなくはないぞ、ニーロ。だが、慎重にやらねばならん」
「あなたなら出来るのですね」
「やり方はある。ただ、誰にでも使える術にはならんだろうな」
力の弱い者には無理だ。
ロウランはそう言い放ち、ウィルフレドに向かって笑顔を浮かべてみせた。
「ニーロならば使えるようになる」
見込みがある、才能に満ちた若者だから。
まるで師匠のような口ぶりに、ウィルフレドは問いかける。
「……お前は一体何歳なんだ」
「前にも答えたと思うがな。俺にはわからん。あれから何年経ったのか、ラフィだって知らんだろうよ」
「今、ラフィは?」
「さあ。お前の隣で眠っていれば、そのうち目覚めてああだこうだ言い始めるだろう。きっと頑張るぞ。これまでにないほどに力を振り絞って、ウィルフレド・メティスを誘惑するだろう。だが、溺れるな。負ければお前は死んでしまうだろうから。そんなつまらん死に方をするな。お前の剣は素晴らしい。もっと強い敵と存分にやりあってからにしておけ」
なにも言えない戦士を放ったらかしにして、魔術師たちは二人だけにわかる話に興じ始めた。
昨日起きた初めての現象について考察をし、初めて出会った敵にどう対応すべきか、ロウランの使った力の正体や、ニーロができるかどうかなど。
なにもかもがロウランのペースだった。
ニーロはすっかりこの魔術師が気に入ったようで、他に用がなければいくらでも話し続けられそうだと思える。
ロウランもニーロを気に入り、問われたことすべてに答えていた。
戦士はいてもいなくても変わらないが、夜が訪れると食事をしにいこうと誘ってきたし、更に時間が過ぎれば二階に上がって同じベッドで横たわっている。
「ウィルフレド・メティス。お前は自分の家を持たんのか?」
これまでは単純に金がなくて、居候生活をさせてもらっていた。
あと少し稼げれば、貸家は用意できるだろう。
売家を手に入れるには、もう少しかかる。
「お前の家があれば、ラフィも安心して出てくるかもしれんな」
他人の家ではお前を誘惑しきれんだろうから。
ロウランは下品な笑い方をして、わざわざ戦士の胸に入り込み、目を閉じている。
頭の中がまとまらない。
考えることはまだ残っているのに、意識が向けられなくなっていた。
一番気にかかっているのは、シュヴァルのことだ。
まだ十一歳だがしっかりしていて、レテウスとの暮らしをうまく軌道に乗せられるだろうとは思う。
ティーオもきっと協力してくれるだろう。ギアノも気にかけてくれているし、どうやら他にも協力者はいるようでもある。
だが、血縁の者がいることは自分以外に知らない。
知らせてやらなければならない。
だから、本当に「死」が訪れるのだとしたら、今は溺れるわけにはいかない。
「ウィルフレド……」
まどろみの中で声が聞こえてきて、戦士はゆっくりと目を開けていく。
「ウィルフレド」
この時は気が付かなかった。
ラフィの声がしているということ以外には。
「ラフィ?」
眠る前と同じ景色が広がっている。
自分の胸の上にラフィがいて、大きな瞳がまっすぐに向けられていて。
細長い指が伸びて来て、頬に触れる。
その瞬間、たまらなく甘い香りが周囲に広がったのがわかった。
薄暗い部屋の中に細い月明かりが忍び込み、緑色の瞳に浮かんだ涙を輝かせていた。
夜の神官は自分の仕える神の加護を受け、これまでで一番美しい表情で戦士を見つめている。
唇が動いているが、声は聞こえなかった。
なにも言わなかったのか、音が届いていないのか、なにかに遮られてしまったか。
わからないが、思いは直接胸に伝わり、ウィルフレドの心を熱く染めている。
頬に触れていた手が動いて、髪を撫でていく。
ラフィの細い体はウィルフレドの上に重なり、肌と肌が触れ合う感覚が強くなっていった。
柔らかな唇が近づいてくる。
目と目を合わせたまま、重なっていく。
しっとりと濡れた唇が触れる音が闇夜の中に殊更に響いて、体の内に火を放たれていくようだった。
私を離さないでください。
強く抱いて、愛の証を与えてください。
中に入り込んで、あなただけのものにしてください。
頭の中に直接響く声も、ひたすらに甘い。
内から焼かれて、すべてが灰になっていく。
理性や、思い出、決意、家族、剣。そして、未来まで。
たまらなく甘美な時の内に堕とされていくような感覚があった。
黄金を孕んだ緑色の炎に包まれて、世界は輝いて見えるのに、向かっているのは深い闇の穴の中。
底の見えない虚ろな闇が自身を呑み込もうとしていると気が付き、ウィルフレドは腹の底から声を上げた。
「ラフィ!」
ほとんど反射的に身を離していた。
大きな手で肩を押して、夜の神官を拒否してしまった。
この瞬間に夜の神官が浮かべた表情を、きっと一生忘れないだろうとウィルフレドは思った。
哀しみと怒りをたっぷりと含んだ、望みを失った者の顔をしていたから。
戦士に拒まれて、夜の神官は消え去ってしまった。
霧のように消えて、残っているのは自分だけ。
名を呼んでも、もう遅い。
ラフィ・ルーザ・サロはいなくなり、小さな黒い家の二階に残っているのは剣に生きる戦士だけだ。
はっと気づいて身を起こした。
その勢いで、胸の上で寝ていた人物をベッドから弾き落としてしまったようだ。
黒い肌の細い体は床の上に落ち、目を擦りながら悪態をついている。
「なにをする、ウィルフレド・メティス……」
「ロウラン?」
「ラフィの夢でも見ていたか? ふふ、お前というやつは澄ました顔をして、とんだ好き者よな」
ベッドの上に戻ってくると、ロウランはそのまま眠ってしまった。
窓の外はまだ暗く、朝はまだ訪れる気配がない。
夢だったのだろうか。
そうは思えない。
甘い香りを確かに嗅いだ。
柔らかな指の感覚が頬に残っているし、胸のうちにはまだ炎が燻っている。
けれどあれは、自分を滅ぼす終焉の火だ。
消さなければならない。少なくとも、今は。
夜の神官の眼差しの悲しさに、胸が痛んだ。
さきほど見た景色がなにを意味しているのかはわからない。
ロウランは自分の隣で眠っている。夜の神官の肉体はまだ、ここにある。
けれど――。
「ニーロ、遊びに行かんか」
朝が来て二階から居候二人が降りてきたが、一方は深刻な顔をして黙っている。
魔術師ロウランは晴れやかな顔をしていて、朝食の誘いをかけた上、ニーロの手を取りこう言って笑った。
「遊びに?」
「ああ」
ウィルフレドを残して家を出る。
ロウランの軽やかな足取りを追って進んでいくと、魔術師たちが大勢住んでいる「ど真ん中」に向かっているようだった。
朝の迷宮都市は通行人が多いものだが、魔術師たちの屋敷の辺りはそうではなく、閑散としている。
「藍」の入り口付近を過ぎればもう誰の姿もなく、ニーロはロウランの背中に問いをぶつけた。
「ウィルフレドになにをしたのです」
先を歩く魔術師はくるりと振り返り、青紫色に変わった瞳をきらりと輝かせた。
「たいしたことではない。念の為さ。俺の立場は弱いのでな」
「そうでしょうか」
「ああ、この体はあくまで神官のもの。お前のお陰で今は俺が優勢だ。だがいつ、ウィルフレドが気付くかわからんからな」
魔術師の言葉の意味するところについて、ニーロは考えを巡らせている。
一つの体に存在する二つの魂の在り方と、現れ方について。
初めて目にした存在は理解が難しい。だがとにかく、「その存在を求められる」ことが重要なのではないかという思いが胸の中に生まれていた。
「ニーロ、お前は本当に良い子だな。ラーデンとやらが育てた弟子は他におらんのか?」
「聞いた覚えがありません」
「ふふ、残念だな。いや、当然か。良い素質に良い体がなければ、良い魔術師は育たんのだから」
年齢など忘れたと言うが、古い時代を生きて来た魂なのではないか。
ニーロはロウランを見つめながら考える。
「随分と趣味の悪い建物があるな」
会話と思考の中でも歩みを進めて行きついた場所には、紫色に輝く石をちりばめた豪邸が建っていた。
できれば決して関わり合いになりたくない人物の屋敷で、ニーロは内心でため息をついている。
「どけるわけにはいかんかな?」
「僕としては構いませんが、家主は怒るでしょうね」
「こんなに巨大な家は不要だろう、住んでいるのはたったひとりなのに」
ロウランは不満げに鼻を鳴らし、屋敷に近付いていった。
門を勝手に開け放ち、中に入り、扉の前で立ち止まる。
「ニーロ、俺は杭を打ち込んできた。あの地点に行くにはここから発つのが最も良いだろう」
「杭?」
「あの嫌な出来事が起きたところだ」
「『白』の三十層目ですか」
「階段を下りてすぐのところだ。なにか待ち受けているかな?」
青紫色のローブがひらりと揺れる様を目にしている間に、ニーロは理解していた。
目の前の魔術師はどこから来たのかわからないが、凄まじい知識と力を持つ者なのだと。
「階段を登れば危険を避けられるかもしれません」
「層を移れば追ってこないのか」
「そう考えられています」
ロウランがまっすぐに見つめてきて、ニーロはゆっくりと頷いて答えた。
細い黒い手が伸びて来て、てのひらが重なる。
美しい形の唇が動いて、二人を魔力が包んでいくのがわかる。
「おそろしくないのか、無彩の魔術師よ」
「これほどの学びの機会が他にあるとは思えません」
「お前は良い魔術師だな、ニーロ。その灰色は選び抜かれて与えられたものに違いない」
目を閉じて、力の働き方を追っていく。
ホーカ・ヒーカムの屋敷の前から、遠いところに隠された迷宮へ向かい、複雑に絡み合った道のうち、「杭を打った場所」目掛けて飛んでいく。
「成功したぞ」
本当かどうかはわからない。
けれどそこは「白」の迷宮の中で、二人はゆっくりと目の前にあった階段を登って、途中で立ち止まった。
「ここが杭を打ったところですか」
「確かに、証明が難しいな。だがこれだけは確実だ。”実際に足を運んだ場所にしか移動することはできない”」
「あなたが歩いた迷宮はまだ『白』だけなのですか」
「そうだ」
「夜の神官は『黒』を歩いたとか」
「あれが歩いても、俺の経験にはならん」
「わかりました」
せっかくたどり着いた三十層だが、すぐに脱出を使って地上へと戻った。
「白」の帰還者の門で向かい合い、ロウランはニーロを見つめて笑っている。
「出来たな」
「そのようですね」
ラーデンが求め続けていたもののひとつ。
地上から迷宮の中の狙ったところへ移動する魔術の完成が、こんなにも簡単に成し遂げられるとは。
いや、自分にはまだできない。もっと深く理解し、学ぶ必要があるだろう。
無彩の魔術師が考えていると、ロウランがまた語りかけてきた。
「お前の家は良い場所にある」
俺も一緒に住まわせてくれ。
ロウランはにやりと笑い、神官対策にもなるからと続けた。
「ウィルフレドがいれば問題はこれ以上複雑にならない」
「どういう意味でしょう」
「俺はお前を気に入っているが、あの戦士もとても良いと思っているよ。多くを与えられ、そのすべての才を活かして生きてきた男だ。良い家に生まれついていたらああはならなかったろう。身分がなかった故に、あれほどまでに魂を磨いて歩むことになった」
ウィルフレドについては、確かにただものではないと感じている。
見目も良く、剣の腕は凄まじい。精神的な強さも相当のものだ。
それなのに、なにも持たずに迷宮都市へやって来た。
よほどの運命を歩き通して来たと感じたから、出会った瞬間、仲間に加えたいと願った。
「あれをただ殺すなど愚の骨頂だ。夜の神官に渡すわけにはいかん」
「だから僕に声をかけたのですか」
「そうだよ、ニーロ。お前ならば理解できるという確信があった」
あの家で共に暮らせば、面倒な事態にはならない。
ロウランはそう言い、ニーロは静かに頷いている。
「共に暮らすのは構いません」
「そうか、良かった」
「かわりに教えてほしいことがあります」
「白」の迷宮に挑む者は少ない。
周到な準備をして、経験豊富で心の強い仲間を揃える必要があるところだから。
稼ぐのには向いていないし、最下層への道のりはあまりにも遠い。
なのでこの日も穴を下りてくる者はいなくて、魔術師は二人で向かい合ったまま言葉を重ねている。
「人の命を支配する魔術は存在するのでしょうか」
ニーロの問いに、ロウランはきょとんとした表情を浮かべた。
驚いた顔をすると、少し幼く見えるようになるらしい。
ますます年齢がわからなくなった魔術師だったが、次の瞬間愉快そうに笑いだし、体を揺らした。
「面白いことを聞くのだな、若き魔術師ニーロ」
短く切った灰色の髪が伸びてきて、毛先は肩に届き始めている。
肩よりも下にまっすぐに伸ばした形が、ニーロにとって「普通」の髪型と決まっている。
幼い頃からラーデンがそうしてきたから。
赤ん坊であっても容赦なく魔術の修行をさせた男だったが、弟子の髪の手入れは怠らず、いつも丁寧に梳かし、長くなりすぎないように切り揃えてくれていた。
迷宮の入り口の底にかすかに風が吹いて来て、髪が頬をくすぐったので、そんなことを思いだしたのだろう。
師の顔を思い出す若い魔術師をしばらく待たせてから、ロウランはようやく答えた。
「見たらわかるだろう、存在しているよ」
「研究をしていたのですか」
「ああ。だからこうなったのさ」
夜の神官ラフィと、魔術師ロウラン。
ひとりの人物の別の顔が、順番に浮かび上がっているわけではなさそうではないか。
ひとつの体に、ふたつの魂。
そんなことがあり得るのか、疑っていたのだが。
「迷宮の中には、地上にはない薬草や毒草が生えています」
「そうらしいな」
「採取された草に魔術を混ぜて、強い効果を持つ薬を作っている者がいます」
「そのくらい、お前にもできるだろう?」
「単純なものならば可能ですが」
「なるほど、邪悪で害のあるものについて知りたいのだな」
「そうです。迷宮都市はありとあらゆる物が揃う可能性のあるところ。他の町では罪になることも、ここでは取り締まられません」
ロウランはふむと呟き、ニーロの顔をしげしげと見つめている。
「お前が作りたいのではなさそうだが」
「僕が知りたいのは誰がどのような物を作り出し、使っているかです。一体どこまでやれるのか、あらゆる可能性についても知りたいのです」
「誰か殺されたのか」
「そうです」
おそらくは、と言うべきなのだろう。
だが、疑惑の時間はとうに過ぎた。
既に起きてしまったし、取り返しはつかない。残念だがそう考えるしかない。
「好いた女を奪われた?」
魔術師ロウランはおそらく、これ以上なく頼りになる存在に成り得るだろう。
だが、下世話な物言いをする癖があるようだ。
酒場の酔っぱらいのような話は無視するとしても、何度も繰り返されたら気が滅入りそうだとニーロは考える。
「ふふ、若いのだな」
「僕は今、十七歳のはずです」
「十七? 考えていたよりも随分下だ」
青紫のローブの裾をひらりと揺らして、ロウランは満足そうに笑った。
若い魔術師の背中を抱いて顔を寄せ、仲良くやっていこうと囁き、協力を惜しまないと約束してくれた。
「俺は迷宮探索が気に入ったよ。お前も、お前の仲間たちもだ」
「そうですか」
「誰もたどり着いていない場所はあといくつある?」
「まだ五つ残っています」
「五つもあるのか。すべての底に辿り着きたいものだな、ニーロ」
「そうですね」
ロウランに促されて、はしごを登っていく。
今日は挑戦する者がいないようで、結局「白」の周囲には誰もいない。
「この街に流れ着いたのは運命だったのかもしれんな」
それだけは、ラフィに感謝しなければならん。
口の端をあげて笑うロウランの瞳に、黄金の光が宿っているのがニーロには見えた。
「さて、なにから始める?」
「試したいこと、知りたいことがいくつかあります」
「俺の知る限りを教えてやろう」
夜の神官が現れた時に感じた、濃密な魔術の香り。
神官はウィルフレドを捕まえて離さなかったのに、ロウランの気配は消えていなかった。
西の果てから現れた人物は謎に塗れて、正体は掴めない。
けれどきっと、この出会いは自分にとって決定的なものになるという予感があった。
迷宮入口の穴から這い出て、青い空を見上げながらニーロは決意を新たにしていく。
大魔術師ラーデンを思い出しながら。
必ずすべての迷宮の底に辿り着くと誓って、無彩の名で呼ばれる若い魔術師は、新たな師と共に迷宮都市の道の上を進んでいった。




