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12 Gates City  作者: 澤群キョウ
30_Imprinting 〈強者には、強者の流儀で〉

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131 出迎

「灰色の魔術師」


 家を出たところで声が聞こえて、ニーロは立ち止まっていた。

 ザックレン・カロンに関わる調査を始めて、少しずつ可能性を潰してきて、確認したいことはあと少し。

 不動産業者と、家の後始末を引き受ける道具屋が使った日雇いの人間を探して、話を聞いてまわっている。

 ほとんどは役に立たない話だが、気になることもいくつかあった。

 真相に近付くためにはどんな些細な情報であっても聞いておきたい。

 なので今日も朝から出かける準備を整え、家を出たところだった。


 ゆらりと姿を現したのは黒いローブに身を包んだ黒い肌の神官、と同じ姿をした誰か。


「どなたですか」

「樹木の神殿で会ったでしょう」


 夜の神に仕えていると話した、異国の神官、ラフィ・ルーザ・サロ。

 ウィルフレドが連れて来た神官と同じ姿をしていて、同じ声をしている。

 だが、ニーロは静かに首を振って答えた。


「あなたには初めて会いました」

「ふふ。……いいぞ、話が早い奴は好きだ」


 少しいいかと問われてニーロは了承し、家の扉を開いた。

 椅子も飲み物も出さないが、どうやら今日の客は気にしないようだ。

 勝手に入って机の端に腰かけ、周囲に置かれた物を見て、頷いている。


 黄色がかった緑色の目は相変わらず零れ落ちそうなほど大きく美しい。

 だが、中に宿す光の色は違った。

 森の奥に潜む猛禽のような気配に、ニーロはラーデンを思い出している。


「それで、なんの用ですか」

 家主が問いかけると、正体不明の客はまっすぐに目を合わせ、こう答えた。

「頼みがあってきた」

「あなたの名は?」

「名前? そうだな、確かに名前はあった方がいい」

 

 夜の神官の形をした誰かは、しばらく悩んだのちに「ロウラン」と名乗った。


「それで頼むよ」

「本当の名ではないのですか」

「もう忘れてしまったのさ。けれど多分、そんな風だったはずだ」

「あなたは何者なのです」

「わかっているだろう。魔術師だよ」


 奥底に潜んでいた濃密な魔術の気配だけが満ちていて、神官の眼差しを知的な輝きで照らしている。

 ニーロはそんな風に感じて、小さく頷き、次の問いを投げた。


「頼みというのは」

「あの髭を連れ帰ってくれないか」

 ロウランは呆れたような顔をして、こんなことを言いだしている。

「あの男、よほど相性がいいようでな。これが並みの女の体だったら、何人孕まされていたかわからんよ」

 ニーロが眉をひそめると、魔術師は顔を歪めて笑った。

「こんな冗談には馴染みがないか? 若いとはいえ、子供ではなかろう」

 無彩の魔術師は答えない。ただまっすぐに客を見つめるだけで、ロウランは肩をすくめてみせた。

「仕方がないのさ。あの男が欲深いわけでも、意思が弱いわけでもない」

「ウィルフレドをあなたと引き離せばいいのですか?」

「ああ。そうしなければ、こいつらは揃って迷宮に飛び込んで消えちまうだろう」

「死んでしまうと?」

「おそらくな。あの真っ黒い道をどこまでも無謀に進んでいって、深い層で力尽きる」

 二人で、手でも取り合って。

 ロウランは顔をしかめており、不機嫌をニーロにアピールしている。

「あなたはそう望んでいないのですね」

「当たり前だ」

「あなたも死んでしまうから?」


 ロウランはにやりと笑って、ニーロをまっすぐに見つめた。


「話が早くて助かる」


 ウィルフレドは南側の宿に逗留しているのだという。

 夜の神官とのただならぬ様子には気付いていた。

 キーレイも気にして、二人の間になにか起きるのではないかと話していた。

 なので、どこかの宿で共に過ごしていると聞いても驚きはない。

 

「あなたはあの夜の神官ではないのですか?」

「ああ。残念ながらこの体を自由にできるわけではなくてな。だが今日、動けるようになった。それで慌てて頼みにやって来たのさ」


 ロウランと名乗る「魔術師」の言葉の意味について、ニーロは考える。

 目の前に現れたのは夜の神官ラフィだが、話した相手は魔術師のロウラン。

 ひとつの体の中に、ふたり存在しているとして。

 どういう類の同居なのか、ニーロはじっと客人を見つめていた。だが。


「すまないが、これで失礼する」

 ふいに遠くを見つめて、ロウランはこう呟いた。

「ウィルフレドのところへ戻るのですか」

「馬鹿を言うな、灰色」

「ニーロです」

「覚えたぞ、若き魔術師ニーロ。お前の瞳は良い。その色は好きだ」


 長い黒髪をふわりと揺らして、夜の神官は去っていってしまった。

 結論は出ない。推測するにも材料が足りない。

 何日か帰らないままで姿を見せない相棒を迎えに、ニーロは再び家を出て戸締りをすると、南に向かって歩き出した。



「……ニーロ殿」

 ロウランに聞いた宿を訪ね、部屋へ向かうと疲れた様子のウィルフレドが出迎えてくれた。

「少し待っていただけますか」

「ええ」


 手練れの戦士の姿は乱れており、いつもはきれいに後ろに撫でつけている髪もぼさぼさになっていた。

 服の着方もだらしないが、その向こうに見える高級な宿の内装は美しく、部屋は随分広い。

 ニーロが豪華な客室を眺めていると、ウィルフレドは手早く身支度を整えて魔術師の前に戻って来た。


「すみません、勝手に何日も留守にしてしまって」

「僕も同じことをしていますから、お互い様です」

 大人なのだから、自由に振舞えばいい。

 ニーロの呟きになにを思っているのか、ウィルフレドは目を閉じている。

「人に頼まれて様子を見に来ました」

「頼まれて?」

「ええ。連れ帰るよう言われましたが、どうするかはウィルフレド、あなたが決めて下さい」

 僕は今日は調査のために出かけます。

 ニーロは予定を告げて、更にこう付け加えた。

「手助けをしてくれるスカウトを見つけたので、次は『白』に行きます」

「探索ですか」

「ええ。最下層を目指す探索です」


 無彩の魔術師が瞳を向けると、ウィルフレドはしばしの沈黙ののちにこう答えた。


「わかりました。共に行きます」

「そうですか」

「夜には戻りますから」


 では、そのようにしましょう。

 魔術師は戦士を残して南の宿から出ると、そのまま目当ての道具屋へ向かい、用事を済ませた。


 ようやく引っ越しを済ませたマリートの新居へ寄り、キーレイの都合を確認し、最後に寄ったのはスカウトの住んでいる家だった。

 ニーロがやって来たことを喜んだものの、唐突な「最下層」という言葉には驚きを隠せないらしい。

 けれど、挑戦すると決めたようだ。

 予定はキーレイに合わせて、三日後から始める。

 なので明日、一度全員で集まる。





 逢瀬の日々を終えて、居候をしている小さな売家へ戻った。

 ウィルフレドはひどく気恥ずかしい思いでいたが、無彩の魔術師の様子に変化はない。

 どこでどう過ごしていたのかなど、問わないとわかっていたのだが。

 こんなにも気にしないのかと、拍子抜けしてしまうほどだった。


 次の日の朝にマリートとキーレイがやって来て、近所の小さな売家で暮らしているというスカウトのノーアンという男も姿を現した。

 ニーロと交流のある魔術師の協力者のようなもの、とノーアンは称している。

 探索者になって五年だというが、売家で暮らしているのだから腕は良いのだろう。

 まだ二十三歳の若者は溌溂としていて明るく、マリートにもキーレイにも笑顔で話しかけている。


「試しに五人で行ってみなくていいのか、ニーロ」

 マリートの問いに、ニーロは静かに頷いて答えた。

「最下層に到達するつもりで行きましょう」

「なんだかお前らしくない言い方だな」

「行ける可能性があるということです。二十九層までの道はわかりましたから」


 ソー兄弟の家で見つけた地図の中に、新たな発見があったのかもしれない。

 ニーロはどこか含みのある言い方をしていると、ウィルフレドも思う。


「『白』は階段が多く、上下を繰り返して進むところです。運の善し悪しも関わってくるでしょう」

「なあ、本当に俺が行ってもいいのかい」

「なにか問題がありますか、ノーアン」

「いや……、うまくいったら、俺が『白』の最初の踏破者になれるってことだよね」

「それがどうかしましたか」


 ニーロの返事に、ノーアンはにんまりと笑って引っ込んでいった。

 最初の踏破者の称号は誰もが夢見る探索者の栄光だが、未踏の迷宮はあと三つ。

 本当は五つなのだが、「青」と「黄」に関しては無理だろうと考えられており、探索者たちにとって未踏の迷宮は「現実的に」三つしか残っていない。

 その三つのうちの一つでも踏破できたのならば。

 ノーアンが浮かれた顔を見せるのも無理はない。


「ノーアン、最下層まで歩いた経験はあるのかな」

 キーレイに問われ、助っ人スカウトはにやりと笑う。

「『橙』は一番底まで行ったよ」

 三十六層への道を歩いたことがあるかないか。その差は相当に大きいものだから。

 神官長は穏やかに頷き、ノーアンももう言うことはないようで黙っている。

 

 各々準備を済ませて、明後日の朝に「白」で落ち合う。

 約束を済ませたら解散になって、ノーアンはすぐに去って行った。

 ニーロはマリートに声をかけており、それでというわけではないのだろうが、キーレイがウィルフレドを誘った。


「ティーオの店に保存食を買いに行きませんか」

 この間頼んでおいた大き目の袋が入荷されているかもしれないから、と神官長は笑っている。

「『白』は難しいところですし、想定よりも時間がかかるかもしれません。美味しいものがあった方が良いと思うんです」

 ウィルフレドは納得して一緒に家を出たが、どうやら神官長は他にも話したいことがあったようだ。


「神官ラフィと一緒におられたのですか」

 道の途中で突如切り出され、ウィルフレドはどう答えようか悩んだ。

「いえ、あの、いいのです。ただ……、少し噂になっていたので」

「噂に?」

「あなたに恋人が出来たようだと、商人たちが」


 甘い時間を過ごすために二人きりになれる場所。

 考えた末に行きついたのは、街の南側にある宿屋だった。

 北にある安い部屋とは違い、相部屋に若者を詰め込まれることはないから。

 行ってみれば部屋は随分広かったし、清潔だった。ベッドも大きく、体を清める為の水場も室内についていた。

 その分、値段も想像以上に高かったのだが。

 それでも構わず、何日か二人きりで過ごした。

 ラフィの肌の滑らかさは、ウィルフレドの指先にずっと残り続けている。

 甘い香りに包まれている間、ずっと幸せだった。

 何度抱いても飽き足らず、疲れ果てるまで触れ、眠りから目覚めてはまた抱き寄せた。


 けれど急にラフィは姿を消してしまった。

 かわりに現れたのはニーロで、なにが起きたのかはまだわからない。


「どこかに待たせているのですか?」

「いえ……」


 なんと答えたらいいのかわからず、ウィルフレドは言葉に詰まる。

 そんな友人をどう思ったのか、キーレイは話題を変えた。


「ティーオの店は昼に行くととても混みあうそうなんです。初日も菓子は売り切れていましたが、どうやら毎日すぐになくなってしまうらしくて」

「あれはとても美味いですからね」

 昼になる前に行こう、とキーレイは笑っている。

 二人で揃って足を速めて、新たな人生を歩み始めた若者の店を訪れ、買い物を済ませた。

 終わって出ようとすると娘たちが集団で現れて、慌てて路上へ飛び出し、巻き込まれないように避ける。


「これはすごい」

「本当ですな」

「ギアノにはもっと本格的な厨房があった方がいいかもしれません」


 新しく出来た食堂に寄って、久しぶりに二人で食事の時間を持ち、他愛のない会話を交わしていく。

 ラフィとの関係について、キーレイは追及する気はないようだ。

 ティーオの店はうまくいきそうで良かったと微笑み、ギアノは本格的に商品作りをした方がいいのではないかと話している。


「けれど、ギアノにはカッカー様の屋敷の管理も頼みたいんですよね」

「そうですね。彼は本当に、適役だと思います」

 戦士の答えに頷いたものの、神官長の表情は少し曇った。

「アデルミラが話していたのですが、彼の家族が迎えに来たそうなんです」

「家族が」

「ギアノはここに留まることを選んだのですが、なにかあったような話しぶりだったので。少し気になっています」


 ごく身近な人々の話なのに、ひどく遠い昔の思い出を聞かされているような気分だった。

 ラフィと過ごしたのはほんの数日。

 濃密な時間を過ごしたものの、夜の神官本人について詳しく知ったわけでもない。

 

 よく知りもしない行きずりの相手に溺れて、なにもかも放り出してしまうなんて。

 ウィルフレドは自分に呆れていた。

 ニーロがなにも言わないのをいいことに。

 キーレイは噂を吹き込まれて、どう思ったのだろうか。


 神官長はよくできた男で、下世話な話の気配を一切させずに微笑んでいる。

 だが次に飛び出してきた話題は、少し不穏なものだった。


「あのクリュという青年が襲われたり、この数日はなんだか落ち着きません」

「ホーカ・ヒーカムの屋敷にいた彼ですか」

「ええ。探索に一度行った男に付きまとわれて、いきなり襲われたんだとか。可哀そうに、とても怯えていましたよ」

「そんなことが」

「たまたま騒ぎを聞きつけた子がいて、クリュは助かりました」


 カッカーの屋敷のすぐそばで事件が起きたので、クリュは樹木の神殿に担ぎ込まれて手当を受けた。

 犯人はフォールードという名の新入りにのされて、ひどい怪我を負ったらしい。


「そういった争いが起きてしまった場合、どうなるのですか」

「フォールードは明らかにやりすぎていたので悩んだのですが、アダルツォが見守りを約束してくれたので任せています」

「なるほど」

「二人はフェリクスたちと五人組を作っているというし、アダルツォは物事をとても公平に見るようですから。信頼して預けると決めました。フォールードは流水の神官チュールの世話になっていた子で、チュール様とよく似たクリュが襲われているのを見て頭に血が上ってしまったらしいのです」


 迷宮都市には犯罪を取り締まる組織がない。

 過去を問わないという理由で大勢がやって来て、再起をはかる場所だからというのが理由のひとつ。

 まだ迷宮についてわかることが少なかった頃は、罪人を連れてきて調査に参加させていた過去があるという。

 もはや探索は前科者の仕事ではなくなったが、結局過去を問わないというやり方は残り続けている。


 とにかくほとんどがこの街に根を下ろさず、長く居つかないというのがふたつ目の理由だった。

 商人と探索者と、少しの魔術師と、多くの出稼ぎ労働者。

 神官も修行のために一定期間来るだけの者が多く、店の入れ替わりも激しい。

 街を構成する人々の偏りが、ラディケンヴィルスを歪な街に仕立てあげている。

 なので首長をたてることも難しいし、決めるとなれば相当に揉めるだろう。

 

 ありとあらゆる他の都市とは違う迷宮都市では近頃、犯罪に手を染める者が増えてきていた。

 小競り合いや窃盗、詐欺や、法外な利子を取り立てる悪徳金貸しなど。

 再起のために罪を問わないようにしていたのであって、やりたい放題をしていいわけではないのに。

 神官長は街の治安の悪化が不安なようで、いい方法がないかとぼやいている。


「クリュを襲った相手はどうなったのです」

「本来ならばなぜそんなことをしたのか問うのですが、怪我が酷くて。医者のもとに運ばれました」

 ですが。

 キーレイは表情を曇らせて、こう続ける。

「その医者のところに何者かが侵入したらしくて。家は荒らされ、担ぎ込まれた男は消えてしまいました」

 だから、クリュが襲われた理由はわからないまま。

「単純に暴力を振るわれただけではないようなのですが……」

 神官長の顔に落ちる陰は、命の危険があったことを物語っている。


 ヴィ・ジョンの捜索と関係あるのだろうか?

 いやしかし、あの男が暴力に訴えるとは思えない。

 美しい若者を並べておきたいのなら、傷つけたりはしないのではないか。

 それともこの前提が間違っていて、とんでもない秘密が隠されているのだろうか。



 こんな世間話を終えて、キーレイと別れた。

 ウィルフレドは街を歩きながら、視界の中に夜の神官を探している自分に気が付いて、思わず立ち止まる。

 

 目覚めた時には姿がなく、すぐにニーロが現れ、宿を引き払った。

 支払いの額も増えていたし、夢でも見ていたのではないかと思ってしまったから。

 あれが幻なはずはない。何度も触れ、髪を撫で、唇を重ねたのに。

 ラフィについてはキーレイも問うてきたのだから、存在しているのは間違いない。

 けれど、消えてしまった。消えたという感覚が、あまりにも大きくて、胸に穴を空けている。


 いや、違う。

 他にもっと良い相手を見つけてしまったのではないか、不安なのだ。

 そんな可能性について考えることすら嫌でたまらない。

 あの麗しい夜の神官ならば、王の胸に抱かれることすら容易いだろうから。

 物憂げな眼差しと、体の芯を揺らすほどの芳香、滑らかな肌に、濡れたような黒髪。

 なにひとつ他の男に触れさせたくない。


 自分が深い嫉妬の沼にはまりこんでいることに気付いて、ウィルフレドは思わず唸った。

 喪失感と、いるかどうかすらわからない他の男への敵対心。

 初めて感じるものばかりに潰され、焦燥に焼かれる自分に気が付いたからだ。


 ラフィが簡単に誰かの腕の中に滑り込むとは思えない。

 神官としての清らかさも存分に感じている。

 真摯な祈りを抱いて生きているのは間違いないのに。


 二人の関係の浅さと、深まるばかりの思いの狭間に落とされている。

 ウィルフレドはまたとぼとぼと歩き出し、探索の支度を進めなければと思った。

 出さなければならない手紙もある。あれをどうにかして、違う町から届ける方法はないか考えなければならない。


 迷宮都市に来れば自由になれると思っていた。

 確かに自由にはなれた。だが結局、過去に追われている。

 本当に起きた出来事が消えてなくなるはずはないのだから。


 追われるよりも早く逃げて、このまま振り切ればいい。

 噂好きの住人たちが囁くのは「ウィルフレド・メティス」についてだけになればいい。

 

 歩きながら、また考える。

 本当に逃げられるのか。逃げるのが本当に最善の手なのか。


 シュヴァル自身が選ぶべきだろうが、将来まともに生きていけるよう、手を貸すくらいはしてやりたい。

 彼の家族について、誰にどう伝えるべきなのだろう。

 母親は死んだとして、父親は? 祖父が受け入れたとして、他の親族は?

 自分が身を隠したままでも、話はうまく進むだろうか。


 やるべきことはまだいくつか残っているのだと、ウィルフレドはため息をついていた。

 自分にはもうなにもないと考えていたが。

 抱えているものも足枷も、すべてなくしたと思っていたのに、違っていたようだ。


「あの、戦士様」


 悩めるウィルフレドに声をかけてきた者がいて、立ち止まる。

 まだ若く、おそらくはどこかの下働きなのだろう。純朴そうな少年は緊張した様子で、戦士に用を伝えた。


「あなたを探して欲しいという神官様がいて」

「神官が?」

「えと、あの、肌が黒くてとても美しい人です」


 場所を案内してもらって、急いで向かう。

 狭い路地の先、初心者たちの出会いの場である酒場街の手前の廃屋の中に、探し求めている人の姿があった。


「ラフィ」

 夜の神官は崩れかけた廃屋の中にぐったりと倒れこんでいて、ウィルフレドは若者に礼を言うのも忘れて駆け寄り、抱き起した。

「どうしたのです」

「ウィルフレド」

 返事があったことに安堵して、小さな体を強く抱きしめる。

 ずっと魅了されていた甘い香りは今はなく、崩れ落ちそうな廃屋の埃の臭いだけが漂っていた。

「どうしてこんなところに。すぐに出ましょう」

「待ってください」

 

 先ほどの若者はもう立ち去ったらしく、誰の姿もない。

 古い建物に扉はなく、壁にはあちこちにひびが入っていて寒々しかった。


「誰かになにかされましたか」

「いいえ、いいえ。ウィルフレド……」

 神官の唇から零れ落ちたのは謝罪の言葉で、なぜ謝るのかと戦士は問いかける。

「長い間現れなかったので、もう消えたと思っていたのです」

「なんの話をされているのです」

「あの魔術師に会いました。あなたと共に暮らしている」

「ニーロ殿に?」

「隠しておけるはずなどなかったのに」


 だから話すと言って、ラフィはよろよろと立ち上がった。

 廃屋の中に残されていた朽ちた板の上に座って、ウィルフレドをまっすぐに見つめて。


「私の中にはもう一人、私とは違う人物が潜んでいるのです」

 神官の台詞の意味がわからず、ウィルフレドはなにも言えずにいる。

「あなたといた部屋を出て、無彩の魔術師に会いに行っています」

「ニーロ殿は『人に頼まれた』と言って私のところに来ました」

 では、ニーロにウィルフレドの居場所を伝えたのはラフィなのか。

 戸惑う戦士に、神官はまた囁く。

「なんとお伝えすればわかって頂けるでしょう」

「ラフィ、もし辛いのなら」

「いいえ、ウィルフレド。私はあなたと居たいのです。先にお伝えするべきでした」


 大きな瞳に陰を落として、ラフィは語り始めた。

 それは「遠い過去」に起きた出来事なのだと。


「あの日、私は死にました」

「死んだ?」

「命を落とすよう仕向けられたのです。私にとっては、覚悟をしていた運命ではありました。私は町中から疎まれる存在でしたから」

「なぜです」

「そのように生まれついたからです」


 仕方がないことだった、とラフィは言う。

 悲しい言葉だが、確かに目の前にいる夜の神官は明らかに「普通」ではないとも思う。だからウィルフレドは口を噤んだまま、神官の言葉を待った。


「私は体を盗まれました。恐ろしい力を振るう者が闇の中に潜んでいて、私を絶望の淵に落とし、勝手に体に入り込んできて動きだしたのです」

「それが、もう一人の人物?」

「ええ」

「魔術師なのですか」


 ニーロが感じていた、濃密な魔術の気配。


「そうです」

 

 二度も問われた理由がはっきりとわかって、ウィルフレドは小さく息を吐いた。 


「彼は自分の体を失っていて、入れ物が欲しかったのでしょう」

「あなたはどうやって死を乗り越えたのです」

「わかりません。体は魔術師に蘇生され、生きていたから、……魂も戻ったのではないかと思います」

「それから二人で?」

「そうです。追い出そうとしましたし、追い出されそうにもなりました。けれど私達の戦いはすべて虚しく決着がつかないままで、うまくいきませんでした」


 二人でひとつの体を共有し生きてきたとは――。

 ウィルフレドは目の前にいる神官が何歳なのかわからないことに気付いて、眉をひそめている。


 ラフィの語りは滔々と続いて、近年魔術師の力は弱まり、表に出てこなくなっていたことまでが語られていた。


「自分の体をようやく取り戻せたと思っていたのに……」

「ラフィ」

「突然あれが出てきたら、あなたを驚かせてしまうでしょうから」


 だから、すべて話した。

 夜の神官はこれで語りを終えたが、ウィルフレドはどこまでが真実なのかよくわからずにいる。

 嘘をついているとは思っていない。ラフィにとっては、今語ったことが真実なのだろう。

 だが、そんなことがあり得るのだろうか。

 命を失い、体を奪われ、魔術師に入りこまれたまま生き続けるなんて。


 ラフィにまっすぐに見つめられているうちに、辺りにはたまらない芳香が満ちていった。

 神官の放つ香りはウィルフレドを酔わせて、二人は寄り添い、何度も唇を重ねていく。


「あなたが去ってしまったのではないかと思っていました」

 ウィルフレドの告白に、ラフィは目を閉じ、ぎゅっと抱き着いてくる。

 胸に渦巻いていた疑問が零れ落ち、なにも考えられなくなっている自分にようやく気付くが、美しい神官を手放すこともできなかった。


「ウィルフレド、私を離さないでください。あなたと居たいと心の底から願っているのです」

 何度も肌を重ねた時間を思い出し、体が沸騰していく。

「こんな気持ちになったのは初めてです」


 この言葉を信じたい。なにも知らないし、わからないけれど。

 それでもラフィの甘い声の中で、溺れてしまいたいとウィルフレドは願った。


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