130 焦燥の果て
「よお、クリュ。今日も探索の仲間探しか?」
まともに眠れずに朝を迎えて、例の貸家の近くで。
自身の判断力がどれほど鈍っているのか、ヌエルはまだ気が付いていない。
金髪の美青年は戸惑った顔をしたものの歩みを止めず、辺りの様子を窺うように目を左右に泳がせている。
「どうしてこんなところにいるの?」
「ん? ああ、……知り合いがこの近くに住んでるんだ。貸家で暮らしていてさ。もう二本先の道の奥の方なんだ。昨日は泊めてもらった。確かに、こんなところで会うなんて不思議だな」
実際、ジマシュの貸家は二つ隣の通りの奥にある。
デルフィをひと月ほど閉じ込めていたから、ヌエルを見たことがある者もいるだろう。
咄嗟に思いついたにしては良い言い訳だと思ったが、すぐに失敗したと気づいてヌエルは慌てた。
もっと酒場に近付いてから声をかけるべきだった。いや、出会いの店が並ぶところにたどり着いてからの方が絶対に良かった。
後悔が湧き出してくるが、遅い。もう出会ってしまったし、声をかけてしまったのだから。
頭がぐらぐらとしていて、気分が悪くて仕方がない。
友情は破れたし、失敗を責められた。ヌエルの評価は地に落ちた。
デルフィを連れて戻って稼いだ分も、すべてちゃらになってしまっている。
いや、逃げられた時点で評価などなくなっていて、探し出せずにいる間にマイナスになっていただろう。
ここから挽回するのは至難の業だ。
だから絶対に、目の前の男をうまく取り込まなければならないのに。
「クリュはどこで寝泊りを?」
「別に。たいしたところじゃないよ」
答えにならない返事をして、クリュは向かう方向を変えた。
酒場の並ぶ北側に向かっていたのに、ヌエルを避けるように体を逸らして、西側に進んでいく。
「どこに行くんだ、クリュ」
「おなかが空いてるんだ。ご飯を食べてから行こうと思って」
「そうか」
ヌエルが隣に並ぶと、クリュはちらりとスカウトに目を向けて、明らかに足を速め出した。
「知り合いに会いに行くから」
「知り合いって? 店でもやっているのか」
「どうしてそんなことを聞くの」
「うまい店なら知りたいじゃないか」
まだ駆け出しの探索者で、スカウトの心得が少しだけあって。
朗らか、にこやか、人当たりの良い親切な若者。
エルディオの設定の通りに演じて、ヌエルは微笑みを浮かべている。
つもりだったのに。
「もう声をかけないで。ついて来ないで」
「……なんでだ、クリュ。いい仲間になれそうだと思ったのに」
クリュは更に足を速め、睡眠不足のヌエルは足がもつれて転びそうになってしまう。
二人の距離が離れると、ようやく答えが示されていった。
「俺をどうしようっていうの。お前なのか?」
「お前なのかって、なんなんだ」
「一年半前だよ」
「はあ?」
「違うか。でも、なにか企んでるんだろ。そんな目で見てくる奴は信用できない」
いつも通りのヌエルならば。たとえば「カヌート」だった頃なら、正常な判断が下せていたはずだ。
誤解があるようで悲しいくらいの言葉を残して、あっさりと去る。
焦って深追いしても信用を損ねるだけで、目的が果たせなくなってしまうから。
ここのところ重なった嫌な出来事のせいだ。
ジャファトが嘘をついていたし、ラリードが嫌なことばかり言うし、ジュスタンの髭が汚らしいから。
ジマシュからの評価がみるみる落ちて、もう見放されるのではないか不安でたまらなかったから。
「探索の初心者じゃないだろ。素人のふりなんかして、なにがしたいの」
クリュはまた一歩離れ、厳しい目で「エルディオ」を見つめている。
「俺が、どんな目で見てるって?」
ヌエルの呟くような問いかけに、クリュは答えなかった。
怯えたように一歩後ずさると、大きな通りに向かって駆け出していった。
後を追う。
弾かれたように走り出して、ヌエルはひらひらと靡くクリュの長い髪を掴み、思い切り引いた。
「痛い、痛い! なにするんだよっ!」
クリュは振り返ると、頭を抑えながら拳を突き出してきた。
頬を掠めたパンチは結構な鋭さで、髪を掴んでいた手を離してしまう。
女のような見た目だが、クリュの方が背は高い。剣士として探索に励んでいる男なのだから、弱いはずがない。
だが、体が小さい分、動きはヌエルの方が素早い。
振り上げた手を思い切り打ちおろし、生意気なクリュの頬を叩く。
剣士はなんとか踏ん張って、襲撃者の足元を蹴りつける。
貸家街と大通りの間くらいの中途半端な位置のせいで、周囲に人通りはない。
けれど辺りにはたくさん家が建っているし、探索初心者が多く歩き始める時間帯だ。
「誰か、助けて!」
クリュが大声で叫び、ヌエルは口を塞ごうと襲い掛かる。
「なにすんだ、やめろよ!」
お互いに手や足を出し合い、掴もうとし、掴まれまいと逃げる。
ささやかな音が集まり、ざわめきに変わっていく。
クリュが騒ぎ続けているから、聞きつけた者が現れたのだろう。
窓からのぞく目や、扉を開けて出てくる者。
誰か助けて。誰か来て。
クリュの口をようやく抑えられた。
だが、視界の端に見えた。この現場からそっと離れていく、ジュスタンの後ろ姿が。
ヌエルが見せた一瞬の隙をクリュは逃さず、腹を思い切り蹴られ、飛ばされてしまう。
風を受けて揺れる白金色の髪を慌てて追いかけ、ヌエルは全力で走る。
「誰か、誰か!」
「黙れ!」
しばらく走った先でまた追いついて、ヌエルはクリュの髪を思い切り引っ張り、地面の上に引き倒した。
「なにを」
苦情を最後まで言い終わる前に、頬を思い切り引っぱたかれてクリュは悲鳴を上げた。
白い頬は真っ赤に染まり、薄青色の瞳に涙があふれ出て溜まっていく。
虐げられる姿まで美しいのか。
胸に灯った炎が、ありとあらゆる感情を燃やしていくようだった。
思いはすべて火にくべられ、怒りがなにもかもを焼き尽くしていく。
ヌエルは無意識のうちにクリュの首に手をかけ、全力で締め上げていた。
心のどこかから、弱々しく、今すぐに離れろと囁く声もあったけれど。
その声さえも黒煙に巻き込まれ、炎の中に落ちて崩れていってしまった。
クリュは暴れて、襲撃者を引きはがそうと必死にもがいている。
ヌエルはそれを全力で押さえつけた。
手のひらと指先にすべての力を集めて。
もう、憎たらしい美しい若者の首を折ることしか考えられなかった。
クリュの顔はみるみる青くなっていく。さっきまでは真っ赤に染まっていたのに。
涙をこぼす瞳が見開かれて、憎しみに染まる自分の顔が映し出されていく。
余りにも醜い自らの姿に絶望は深まったが、それすらも飲み込んで、憎しみの炎はますます勢いを増している。
クリュの体が震えだし、ヌエルの手首を掴んでいた指の力が抜けていく。
絶対に逃がさない。心に浮かび上がるのは怒りばかりで、ヌエルは更に手に力をこめようとした。
「こら、この野郎!」
突然地の底から響くような怒声が上がり、ヌエルは背中に恐ろしいほどの衝撃を受けて吹っ飛んでいた。
一瞬で頭が真っ白に染まる。激しい痛みをこらえて振り返ると、そこにはびしょ濡れな上、素っ裸の大男がいてヌエルに迫っていた。
「ふざけんなよ、なんてことしやがるんだ!」
にゅうっと長い手が伸びて来て、ヌエルの腕を掴む。
とんだ馬鹿力で捻り上げられて、思わず悲鳴を漏らしてしまう。
「汚ねえ手で触りやがって」
「なん」
「この罰当たりが!」
大男は声も大きい。目の前で怒鳴りつけられ、耳の中がびりびりと震えてしまう。
自分を動かしていた昏い炎が一瞬でかき消えて、ヌエルはようやく理解していた。
クリュは誰かに助けられている。抱き起され、頬を叩かれ、激しく咳きこんでいる。
裸の大男の後ろから、布を広げて追いかけてきている若者もいる。
いつの間にやら、大通りに近いところまで来ていたようだ。
周りに大勢、野次馬が集まっていた。人々はなにか言い合い、美しい若者を殺そうとしていた狼藉者を指さし騒いでいる。
そんな確認が出来たのは一瞬だけで、呆然とするヌエルを再び強い衝撃が襲った。
頭を殴られ、蹴り飛ばされ、腹を踏みつけられる。
地面の上にあお向けで倒れ、体のどこも自由に動かせなかった。
大男の容赦ない攻撃の合間に止める声も聞こえていたが、どうやら効果はなかったようだ。
目覚めた瞬間、体中が痛くてたまらなかった。
辺りはひどく暗くて、なにも見えない。
様子を窺おうと顔を動かそうとしたが、激しい痛みに阻まれ、口からは唸り声が漏れてしまう。
すると近づいてくる者がいて、ヌエルはようやく自分がどこにいるのかがわかった。
「動いてはいかん。いや、動けはしないだろうがね。幸いにも折れたところはないようだが、あちこちが腫れているよ」
中年の男の声が降ってくる。穏やかな声だが、呆れたような話し方で、小さくため息をついてこう続けた。
「喧嘩はいかん。知らなかったのかな、君。ここでは迷宮の中で受けた傷しか神官に癒してもらえんのだよ。お前さんはこれからしばらく寝たきりで、じっくりと傷を癒していかにゃあならん」
鼻をつくのは薬の匂い。目の前でのぞき込んでいる男は、医者だ。
「相手を止めるのは随分大変だったとか。あと少し遅かったら死んでいただろう。まったく下らんよ、喧嘩で死ぬなんて。もう二度としてはいかん」
口の中になにかが流れ込んでくる。
苦みが広がって苦しいのに、身をよじるだけで痛くてたまらない。
「痛み止めだ。しっかり飲まないと苦しいままだぞ」
呆れたような口調の医者に、消えたはずの怒りがまた蘇っていく。
ヌエルは精いっぱいの力で男を睨みつけたが、苦笑いされてしまった。
「しゃべれるかな。誰か伝えるべき人は?」
どうせ、すべて知られている。
ヌエルが目を閉じると、医者はふむと呟き、おとなしく寝ているように言い残して去っていった。
遠くからざわめきが聞こえてくる。
どこにあるなんという名の医者に担ぎ込まれたのだろう。
迷宮で負った怪我しか神殿で癒してもらえないせいで、迷宮都市にはそれなりの数の医者がいる。
建設現場では怪我人が多く出て、医者の世話になることが多いらしい。
他の町よりも薬の種類が豊富で、よく効くものが多いのがラディケンヴィルスのいいところだ。
神官の癒しに比べれば回復は遅くなるが、他の町の医者よりは治りは早い。
辺りが暗いのは、部屋の中が暗いからなのか、それとも自分がダメージを負っているからなのか。
体中が熱くて、痛む箇所があまりにも多くて、ヌエルにはわからなかった。
頭がまともに働かない。
クリュはどうなっただろう。襲い掛かって来た大男は? あいつはどうして裸で飛び出して来た?
なにもわからない。ただ、自分がとんだ間抜けだということ以外は。
最初から疑われていたのだろう。あの、のんきでふわふわとしてるように見える金髪に。
ほんの少しだけいい顔をして見せて、もう近寄らないように、近づかせないようにしていた。
自分に寄ってくる有象無象から身を守るために、相手をよく見ているから。
心のどこかでみくびっていた。女にしか見えない、ただ可愛いだけの奴なんだと。
手柄を立てたいばかりに焦ってもいた。
ギアノ・グリアドを発見したから、意識が与えられた仕事よりもデルフィに向かってしまった。
余計なことばかりしたせいで、これまで積み上げて来たものをぶち壊してしまった。
自分の手で。
誰よりも有用だと思われたくて、勝手な行動を続けた結果が今だ。
「ジャファト……」
それ以上は考えるのが辛くて、こう唸ったきりヌエルは意識を暗がりの中に沈めていった。
望みも失態も、今はすべて遠ざけてしまいたかったから。
今、自分がどこにいるのか。
これからどうなってしまうのか。
光の消え失せた世界にたどり着いてしまったという結果を、ほんの少しでいいから忘れたかった。
痛みが少しずつ薄まって、眠りの波が押し寄せてくる。
大波と小波に揺られ、深い休息の海の中に浮かんで、流されていく。
夢も見ずに眠っていたヌエルは、不吉な予感に叩き起こされて目を開けた。
はっと目覚めて、暗がりの中に見えたもの。
僅かな灯りを受けた一瞬の煌き、宙に浮かぶ刃物に気付いて、体を捻って避ける。
痛みで呻きながらも、振り下ろされたナイフからは逃れた。
真っ黒い影が再び襲い掛かってきて、また、すんでのところで交わす。
鋭い音がして、左腕を浅く切られてしまう。
少しずつ目が慣れて来て、体にかけられていた布を掴み、腕に素早く撒いて次の攻撃を受ける。
ナイフの刃先が刺さったが、敵の腕を掴むことができた。
「死にかけだって聞いたんだがな」
「ラリードか」
「誰だっていいだろう。どうせお前はここで死ぬんだから」
小男がもう一方の手を伸ばして来て、ヌエルの髪を掴む。
痛みに耐えながら、ヌエルもラリードの腕を捻りあげていった。
「くそっ、離せよこの馬鹿野郎が!」
ヌエルは答えず、歯を食いしばって手に力をこめていった。
全身がバラバラになってしまいそうな程の苦痛に満ちていたけれど。
ラリード如きに馬鹿にされるのはどうしても許せなくて、ヌエルは耐える。
こんな反撃は予想外だったのだろう。ラリードはとうとう大きな声をあげて、ナイフから手を離した。
「生意気だ! ほんっとうにお前は生意気な奴だ、ヌエル!」
「なんとでも言え」
「……ジマシュから最後の命令だよ。悪目立ちばかりしたがる役立たずは、おとなしくあの世に行けってな!」
ラリードの落としたナイフを手に取り、ヌエルはゆっくりと立ち上がった。
部屋の中は暗く、どこにも灯りがついていない。
あの医者はどこに行ったのだろう。
夜中は怪我人を放置して、自分の家に帰ってしまうものなのだろうか。
それとも――?
飛び掛かってくる小男を避け、ヌエルは無言のままにナイフを振り回した。
わかっていた、いつかこんな日がやって来るのだと。
役に立たない者はいらない、足を引っ張る者など、もっといらない。
これまでに何度も見てきたから知っている。
ジマシュのもとで働くのにふさわしくない者の末路を。
あれからずっと恐れて来た、「その日」が来たのだ。
彼がそう望むのならば、受け入れるべきなのだろうけれど。
「ヌエル、諦めろ。大人しくしろ」
ラリードの持っていたナイフは一本ではなかったようで、鋭い刃に左手が切り裂かれてしまった。
血が吹き出し、体から逃げ出していく。
傷口はとてつもなく熱いのに、体はひどく冷たくて、動く度に重くなっていく。
「朝から痛い思いをしたって聞いてるぜ。今も痛いよなあ、これ以上はもう嫌だよなあ。さあ、大人しくしな。ナイフを返して、座るんだ。そうしたら、俺が楽にしてやるから。それで終わりさ。俺はお前が大嫌いだが、最後くらいは優しくしてやるよ。安心しな、一瞬で済ませてやるから」
暗がりの中に小さな影が動くのがわかった。
いやらしい声には舌の鳴る音が混じっていて、不快でたまらない。
ラリードは嫌いだ。顔は醜いし、なにもかもが見苦しいから。
些細な仕草は気に障るものばかりだし、食べてもしゃべっても唾を巻き散らしているし。
それに、他人の悪いところばかりを話題にする。自分のことを棚にあげて、汚いだの役立たずだの、悪しざまに罵っては笑いものにしようとするから。
そう考えた途端、涙が一気にこみあげて来た。
確かに大きな失敗をした。このまま生かしておけないと判断されても仕方がない。
けれど、終わりを告げる者に選ばれたのが、ラリードだなんて。
ヌエルのこぼした涙が見えたのか、小男は笑った。
いやらしい低い笑い声を漏らしながらナイフを振り上げ、大きく跳んだ。
全身を走り抜けていく痛みに耐えて、ヌエルは腕に巻き付けていた布を投げつけた。
驚いた小男の一瞬の隙を逃さず、そのままナイフを胸に突き立て、床に叩きつけてやる。
ナイフは小型で、一度刺したくらいでは致命傷にはならない。
だから抜いて、再び突き立てる。反撃にあうとは思っていなかった間抜けの上に馬乗りになって、何度も刃を振り下ろし、何度も体に突き立ててやった。
悲鳴と、命乞いの言葉が繰り返されていく。
けれどヌエルは、やめろと言われてもやめなかったし、呪いの言葉をぶつけられても気にしなかった。
最後にナイフを深く深く胸に突き立て、両手で強く握り、力をこめて肉を抉った。
自分を待ち受ける死の運命の導き手として、ラリードは相応しくないから。
「お前になど、やらせるかよ……」
ヌエルは涙を絞り出すように目を強く閉じ、全体重をかけて命を削り取っていく。
振り回されていた手足が力なく落ち、汚らしい命乞いの言葉も途絶えた。
大きな布の下で、小さな体がびくびくと震えている。
それもそのうちに収まって、とうとう、息遣いすらもなくなったようだ。
しばらく、ラリードの上に跨ったまま放心していた。
痛みと不安と満足が絡み合っていたが、そのうちみんなひとつに混じり合って、心から抜け落ちていった。
からっぽになって、ヌエルは身を震わせている。
ほんの少しの後悔があったが、それも消えて、最後の最後に心のど真ん中に小さなかけらが残っているのに気が付いていた。
死ぬのなら、ジマシュに殺されたい。
最後の一瞬まで、見届けてくれなければ嫌だ。
こんなにも尽くしたのだから。
彼はなんとも思ってなどいないのだろうけれど、ひと時だけでも「愛した」のだから。
ヌエルはすべてを捧げた。
出会ってからの人生のすべて。肉体も、意思も、なにもかもを。
ヌエルは命を捧げるのだから、ジマシュは自らの手を汚すべきだ。
涙で頬を濡らしたまま、ヌエルは立ち上がった。
夢中になっている間にラリードの反撃を受けて、体中傷だらけになっている。
薬はとうに切れていて、痛くてたまらない。
扉の位置を探り当てて、なんとか外へ彷徨い出たけれど。
真夜中の迷宮都市は静かで、通りに出ても誰も歩いていない。
見覚えのない道の上で、とても立っていられず、ヌエルは壁にもたれかかりながら考えていた。
チェニー・ダングもこんな気分だったのだろうか。
迷宮の中で酷い裏切りにあった挙句、卑怯者だと罵られ、追い出されて。
考える力を失ったのか、それとも命令を受けたからなのか。
調査団に戻って生き恥を晒し続けていた。
胸に強い痛みが走って、ヌエルは冷たい道の上に倒れた。
けれど、必死になって手足を動かし、再び立ち上がっていく。
自分はあの女とは違う。
ただ諦めて去っていったりはしない。
月と星々の吐息は冷たく、傷ついた青年の体を震わせている。
夜のせいだけではない闇が、ヌエルを攫おうと忍び寄っていた。
あちこちから血が流れ落ちている感覚だけが、生を感じる唯一の名残だ。
こんなところで死ぬのは嫌だ。
黄金の光に照らされたところで、あの緑色が見守る中で。
どんな風でも構わない。ジマシュの手にかかって終わりたい。
そう願いながら、ヌエルはとうとう倒れて意識を失った。
傷に巻かれていた包帯は外れて風にひらりと揺らされ、弱った体はみるみる熱を失っていく。
「くそっ、なんでこんなことになった」
ジュスタンは長い上着を脱ぐと、ヌエルを包んで担ぎ上げた。
死ぬのは別に構わないが、こんな形では困る。
ヌエルを運ぶ予定ではあったが、手筈とはまるで違う。
簡単な仕事だなんて舐めてかかるから、馬鹿なラリードは失敗した。
「まさか勝つとはな」
まだまだ未熟で、詰めが甘い若者だと思っていたのに。
あんなに傷を負った状態で戦うとは思っていなかった。
見直したと言ってやりたいが、なにもかもがもう遅い。
あの医者の家に忍び込んで、ラリードを回収しなければならない。
夜はそう長くはない。いくら小柄でも大人の男二人を片付けるには時間が足りない。
仕方がないと小さく呟くと、ジュスタンはヌエルを担いで街の南側に向かった。
目立つのを嫌がる連中なのだから、死体はきっと密やかに片づけられるだろう。
仲間の死を悲しみ、なにが起きたのか考えたとしても、結局は静かに悼んで終わらせるだろうから。
本当はこんな賭けには出たくない。けれど、他に方法がない。仕方がない。
灯りの消えた「ゾースの小瓶」の裏口にヌエルを転がし、なにも持っていないことを確認して、上着を回収していく。
「じゃあな、ヌエル」
ジュスタンは再び迷宮都市の闇の中を駆けていく。
医者のところに忍び込み、ラリードを回収しなければならない。
他になにかしでかしていないか調べ、証拠を残さないように片付け、小男を適切に処理しなければならない。
街の北側で起きたことなら、「青」の水の中に放り込んでおけば済んだのに。
「役立たずばっかりだ」
ジュスタンは呟きながら、道の途中で立ち止まり、目を閉じていた。
そのうち同じ言葉を投げつけられるようになる。
一つの失敗が命取りだ。それがどんなに些細なものだったとしても、責められ、咎として背負わされ、追い詰められる。
いつか自分も。ヌエルと同じ道を辿るのだろう。
うまみのある仕事を紹介してくれる賢いリーダーだと思っていたのに。
入り込んだが最後、二度と抜け出せない蜘蛛の巣の中に閉じ込められてしまった。
いつの間にか、じわじわと。知らない間に体中に泥を塗られ、彼の下でなければ生きていけないように足枷を嵌められている。
嫌でたまらない。誰かの死体を担いで墓地まで行くのも、穴の中に放り投げて土をかけるのも。
誰かが生きた痕跡をすべて消し去って、そしらぬ顔で生きていくのも。
けれど今、ここで立ち止まっていることすらも見られているかもしれない。
自分の知らない新しい「誰か」が、あいつはサボリ癖のある不届き者だと言い出せば、すべての扉が閉ざされてしまう。
抜け出す術が見つからない。
探しているのに見つけられないし、見つかったとしてもきっと実行できない。
すぐに嗅ぎつけられる。逃げられず、噛みつかれ、食い殺されてしまうのだろう。
仕方なく、ジュスタンは歩き出した。
できる限りの後始末をして、顛末はすべて報告しなければいけないから。
「二人とも死にました」
ジュスタンの報告に、ジマシュは顔色ひとつ変えない。
それどころか微笑みを浮かべて、部下にこんな問いを投げかけてくる。
「ラリードはどうして死んだのかな?」
「ヌエルが抵抗したようです」
「はは、あの醜男を嫌っていたもんな。やるじゃないか、ヌエルも。大怪我をしていたんだろう?」
ジマシュは笑い、ジュスタンは体を強張らせている。
ヌエルの負った怪我は相当なものだった。
獰猛な獣のような男が飛び出してきて、めちゃくちゃに殴られ、蹴り飛ばされていたから。
一応は誉めてもらえたとわかれば、ヌエルの魂も少しは癒されるだろうか。
柄にもないことを考えながら、ジュスタンはジマシュに問いかける。
「ヌエルの仕事は誰に引き継がせましょうか」
「今はいい」
「いいんですか?」
「ああ。ザックレンの方をもう少し詳しく頼む」
命令はさらりと下されたが、ジュスタンは見た。
自分を支配する男の目の奥に、怒りと苛立ちが隠されているのを。
あの貸家で暮らす男は絶対に取り入れると言っていたのに。
なにか問題があったのだろうか? 気になるが、聞けば間違いなく怒らせてしまうだろう。
「王都に行かせた連中は? まだ戻らないのかな」
「今のところ連絡はありません」
「随分長くかかっているじゃないか。たいした仕事でもないのに」
もしかして、さぼっているのかな。
ジマシュは瞳に冷たい光を浮かべると、ジュスタンに背を向けてしまった。
話はこれで終わり。余計なことは聞かない。
命じられたのだから、ザックレン・カロンの家の後始末について調査をしなければならない。
ポンパ・オーエンを真正面から訪ねるのは悪手だろう。
警戒心が強そうだし、魔術師はわけのわからないことをしてくるものだから。
けれど、無彩の魔術師はもっと相手が悪い。どうすべきかよく考えなければならないだろう。
自由に使えるはずの手下たちは、王都に行ったきりだ。
迷宮都市から出れば監視が緩くなるから、ジマシュの言う通り羽根を伸ばしているのかもしれない。
勘のいい者なら、もう二度と戻ってこないだろう。
自分も王都に派遣されれば良かったのに。
ジュスタンは聞こえないように小さくため息をつきながら隠れ家を出ると、まずは新しい上着を買うために街へ繰り出していった。




