125 宵闇に染まりゆく
次の日、ウィルフレドは約束の店へ出かけ、ラフィと落ちあい樹木の神殿へ向かった。
今日も夜の神官の香りに包まれ、戦士は熱に浮かされているような気分で歩いている。
神殿では神官長の正装をしたキーレイが待っていて、異国からの訪問者を歓迎していた。
「あれが西の国から来た神官ですか」
キーレイと来客が神官長の部屋に入ると、どこからともなくニーロが現れてウィルフレドの隣に並んだ。
「そうです。国の名前などはまだ聞いていませんが」
「神官には見えませんね」
「共に迷宮に行った時、傷を癒してもらいました」
「あの人と『黒』に行ったのですか?」
ニーロが長く留守にしていて、帰って来た時。
どんな会話をしただろうか。そこまで詳しく語っただろうか。
考えても記憶がはっきりしない。
ラフィに関わる記憶だからなのか、あの香りに包まれているせいなのか、戦士にはわからなかった。
「少しだけです。迷宮がどういうものか見てみたいと言われたので」
答えてから、同じ説明をしたのを思い出していた。
ニーロはラフィになにを感じているのだろう。
あの美しい容姿に惑わされることはないのだろうか。
滑らかな肌と、大きな美しい瞳を見たはずなのに。
キーレイもなんとも思わないのか、ウィルフレドは考える。
頼もしい樹木の神官長は今、ラフィと二人きりで真正面から向かい合っているはずだ。
常に祈りと共にあり、神の加護を受けているから耐えられるのか。
そんな考えで心を紛らわせながら、交流が終わるのをじっと待つ。
やがて話は終わったらしく、二人は揃ってウィルフレドたちのもとへ歩いてきた。
神官同士学ぶことがあったのか、穏やかな表情で言葉を交わしている。
「お待たせしました、ウィルフレド」
ラフィは戻ってくるなり戦士の前に進んできて、とても有意義な時間を持てたと礼を言った。
そのまま手を取り、微笑み、隣に並ぶ。
キーレイとニーロの視線を感じた。
神官長は困ったような顔をしていて、魔術師はいつもよりも強くウィルフレドを見つめている。
「ラフィ、こちらは魔術師のニーロ殿です」
「はじめまして魔術師様。私は遥か西の国より参りました、夜の神のしもべ、ラフィ・ルーザ・サロと申します」
無彩の魔術師は自分よりも背の低い夜の神官をしげしげと眺めると、こう言い放った。
「あなたは本当に神官なのですか」
「ニーロ、なにを言うんだ」
「魔術の心得があるように感じるのです」
ラフィは唇の端に笑みを湛えたままで、動じる様子はない。
「そんな風に気付けるものなのですか」
「魔術師ならばわかります」
刺すような鋭さのニーロの視線は、微笑みに跳ね返されてしまった。
「それならば、私は魔術師ではありませんね。他人に魔術の素養があるかなど、わかりませんから」
まあまあとキーレイが間に入って、にらみ合いのようなものは終わった。
ラフィの用事はこれで終わりだし、魔術師街の問題がまだ片付いていない。
これからどうするか決めなければと神官長が言って、ニーロがこれに答えた。
「夜の神官ラフィ、僕たちはとある魔術師の屋敷を訪ねなければなりません」
「ウィルフレドから聞きました。あの迷い道をどうにかしなければならないのだと」
「一緒に来てもらえませんか」
大きな瞳が瞬き、麗しい視線がウィルフレドへ向けられる。
「何故ですか、ニーロ殿」
「あなたは迷宮都市へやってきたばかりなのでしょう。街の中央部分を通り抜けられなくて困ったのではありませんか」
「確かに驚かされましたし、不便だろうと思いました」
「ではそう訴えて下さい、旅人の代表として」
「私がですか」
「神官の言葉は、人の心によく響きますから」
ニーロの言葉はどこか白々しく、キーレイも同じように感じたのだろう、目が合ってしまった。
けれど夜の神官は「わかりました」と答えている。
「今から向かってもいいでしょうか。なにか予定はありますか」
「いいえ。街中の人々が早い解決を願っているでしょうし、私で良ければ手伝いましょう」
二人の仲間には確認が不要だと思っているのか、早速ニーロは歩き出し、出口に向かってしまった。
キーレイは休憩の部屋にいる神官に声をかけて、出かける旨を伝えている。
ラフィはウィルフレドに向かって微笑み、ニーロの背中を追って歩き出していた。
遠くからやってきた信仰の篤い客人を気遣ってか、キーレイはラフィに話しかけている。
「神官ラフィはなんという国からいらしたのですか」
「ハーマールです。ここからずっと西の、遠い遠いところにあります」
知らない名だった。これまでに様々なところに出向いたし、異国から来た人間ともかなりの数会ったが、ハーマールの響きに覚えはない。
キーレイも聞き覚えがないようで、感心した顔で頷いているだけだ。
美しい夜の神官はその遠い遠い西の果てから、船に乗り、野を行き、山を越えやってきたという。
「商業が盛んで、港町がいくつもあるところです」
「そうなのですね。その国では皆あなたのような色の肌をしているのですか」
この質問に、ラフィは大きな目を閉じ、小さく笑ってから答えた。
「いいえ、確かに皆よく日に焼けていますが、大抵はあなた方と同じような色の肌をしていますよ」
自分の肌が暗い色をしているのは、更に遠くから嫁いできた母親から受け継いだからだとラフィは話した。
「そうでしたか。更に遠くから」
「他国との交易が盛んに行われているので、そんなことも時々あったのです」
明るい黄色がかった緑色の神秘的な瞳は、浅黒い肌の中にあってますます映えるものだろうとウィルフレドは思う。
昼の眩い陽の光を受けて、今も宝石のような輝きを放ち、戦士の心を惹きつけてやまない。
すぐそばを歩いているのに、平気な顔をしている二人が信じられなかった。
それとも、ウィルフレドがおかしいのか。
戦士だけに特別に香る匂いと輝きが、あの黒い肌からあふれ出て絡みついているのか。
二人に問う訳にもいかず、会話は続かないままホーカ・ヒーカムの屋敷にたどり着いていた。
派手に輝く紫色が目立つ、悪趣味な屋敷だった。
ニーロが進むと扉が音もなく開いて、一人の男が現れる。
黒尽くめの細長い影の主はヴィ・ジョンで、深々と頭を下げて客を歓迎した。
「大魔術師ラーデンが弟子、才気あふれる若き魔術師ニーロ様。ホーカ・ヒーカムの屋敷へよくぞいらっしゃってくださいました」
丁寧な挨拶は神官長であるキーレイと、「御武人様」であるウィルフレドへも向けられる。
最後の一人に心当たりがないのは当然のことで、戦士はヴィ・ジョンにラフィの名と身分を紹介した。
屋敷の中に進んでみると大きなホールに出たが、以前コルフに案内されて来た時と違って誰の姿もなかった。
あちこちでぼんやりと過ごしていた半裸の美青年たちはどこへ行ってしまったのか、一人も見当たらない。
長い廊下にいくつもあるドアはすべて閉じられており、そちらにも誰の姿も見えなかった。
ヴィ・ジョンに案内されて屋敷の奥へと進み、立派な応接間に通される。
屋敷を任されているらしい男は客を一人一人もてなし、飲み物などを用意している。
すべての支度が終わると、客人たちの向かいに腰かけたのはヴィ・ジョンだった。
ホーカ・ヒーカムなる魔術師は姿を現さないまま、話が始まっていく。
「ニーロ様、ホーカ・ヒーカムの招待を受けてくださって大変嬉しく思います」
「招待に応じてやって来たのではありません。どのような用件かはもうわかっているでしょう」
「そう急がれなくてもよろしいのではありませんか。術師ホーカはあなたに会える日をもう何年も待ち続けてきたのです」
「いいえ、これは急ぎの用件です。話は樹木の神官長から聞いて下さい」
ニーロは立ち上がり、なぜかウィルフレドの腕をとって戦士も立たせた。
キーレイとラフィを残したまま、腕を引かれて部屋の隅へと連れていかれる。
「キーレイさん、お願いします」
「ああ」
話が脱線しないようにこうしたのだろうか。
それならば、ウィルフレドだけを付き合わせる理由がよくわからない。
「今日は街の代表として参りました。私は樹木の神に仕える神官、キーレイ・リシュラ。若輩者ですが、神殿のまとめ役を任されています」
「もちろん、存じております。大変高名な探索者であり、高潔なる魂で以て樹木の神に仕えるキーレイ様について、知らぬものなどこの街にはいないでしょう」
「では、単刀直入にお伝えしましょう。この周辺で暮らしている魔術師たちが、通りに仕掛けている『迷い道』についてです」
キーレイは毅然とした態度で妙な力を使うのはやめるように言い、ニャンクとローズィンとは既に話はついていると伝えた。
ヴィ・ジョンは表情に乏しく、つかみどころのない男だ。何度か会って、ウィルフレドはそう思っている。
考えてみれば正体もよくわからないヴィ・ジョンは、神官長からの要望にすっとぼけてみせた。
「迷い道とは一体どのような現象を指すのでしょう」
「街の中央、魔術師たちが好んで暮らしているこの辺りを中心に、道通りに進むことができなくなっているでしょう」
「そのようなことがございましたか」
キーレイと言葉を交わし続けた果てに、なんらかの力が働いているとして、それがホーカ・ヒーカムの仕業だという証拠があるのかとヴィ・ジョンは訴える。
「証拠は……」
キーレイは振り返り、ニーロに助けを求めているのだろう。
ヴィ・ジョンは不敵な微笑みを浮かべてその様子を眺め、神官長の隣に座るラフィにも視線を向けた。
その瞬間、ヴィ・ジョンがラフィを見つめた理由はわからない。
単純に、もう一人の客に視線を向けただけなのかもしれない。
あなたのお隣に座る名うての探索者も、たいしたことはありませんねとでも言うつもりだったのかもしれない。
だが、ヴィ・ジョンの顔色は、ラフィに目を向けた直後に変わった。
夜の神官はウィルフレドたちの前に座っていて、顔は見えない。艶やかな長い黒髪と、華奢な肩くらいしか見えない。
一体どんな力が働いているのか、ホーカ・ヒーカムの忠実なしもべは顔を真っ青に染めて、急におどおどと震え始めていた。
キーレイはニーロに目でなにか伝えようとしていて、すぐ隣で起きている異変には気付いていない。
ヴィ・ジョンの瞳は揺れ、額から大粒の汗を噴き出している。
神官長が諦めて再び前を向いた時には、がっくりと身を折って震えていた。
「どうしたのです」
事態に気付いて、キーレイが慌てた様子で立ち上がる。
神官長はヴィ・ジョンに駆け寄って崩れ落ちそうになる男を支え、名前を呼んだ。
「ああ、申し訳ございません」
「謝る必要などありません。どこが苦しいのですか」
「いいえ、いいえ。ヴィ・ジョンは嘘をついていたのです。この辺りの道には術師ホーカの力が使われています。皆さまに迷惑をかけ続けたことをお詫び申し上げます」
キーレイの手を振り払い、ヴィ・ジョンは床に額を擦りつけて謝罪の言葉を繰り返している。
「今すぐにこの無駄な悪意を消し去りましょう」
「顔をあげてください。わかって頂けたのならいいのです」
黒尽くめの男はふらふらと立ち上がると、どこからか取り出したハンカチで汗を拭き、神官長の寛大さに丁寧な言葉で礼を言った。
これでなにもかも終わったのだろうか。ニーロが立ち上がり、扉に向かって歩き出している。
ウィルフレドたちも魔術師の後に続いて進んでいくと、玄関にたどり着く直前にヴィ・ジョンが追いついて深々と頭を下げた。
「失礼な態度をとってしまって、申し訳ございませんでした」
キーレイが頷くと、ヴィ・ジョンはほっと息を吐き、ニーロの前に進んだ。
「ラーデンが弟子、若き才能あふれる魔術師ニーロ様。お招きに応じて頂いたわけではなくとも、この屋敷に来ていただいたこと、本当に嬉しく思います。本日の失礼のお詫びと、歓迎を受けてください。また日を改めて、招待をいたしますので」
「嫌です」
短く強烈な一言を残して、ニーロは外に出ていってしまった。
三人でその後に続くと、外の景色は明らかに違っていた。
すべてのものがはっきりと見える。そこに実在しているとわかる風景が広がっていた。
固い土で出来た道も、石を積んで出来た壁も、ホーカの屋敷の隣に建つ誰かの屋敷もくっきりとして、現実のものとして存在している。
「こんな風だったか」
やって来た時とはあまりにも違う様子に、キーレイは苦笑いを浮かべている。
「ありがとうございました、神官ラフィ」
「私はなにもしておりません」
「急な話なのに付き合って下さいましたから」
神官長に礼を言われて、ラフィは微笑みを浮かべている。
「こんなに早く解決するとは思っていませんでした。報告しなければならないので、私はこれで失礼します」
キーレイはニーロの肩を叩き、ポンパへ礼を伝え、周辺の魔術師たちに事の次第を周知してくれないかと頼んだ。
ニーロはいかにも面倒そうな顔をしていたが、わかりましたと答えて去って行く。
ごく普通の作りになった道の上に、ウィルフレドとラフィだけが残されていた。
「ラフィ、ありがとうございました」
「礼はいりません。引き受けたのは私の意思ですし、なにもしてはいないのですから」
していたのではないかと思うが、なにかをした様子もなかった。
まっすぐに前を向いて座っていただけなのだから、できるのは「見つめる」くらいだろう。
では本当に? 「なにもしていない」のか。
「彼らはとても強い人たちですね」
囁き声が耳をくすぐる。
ラフィがウィルフレドの眼前に進んできて、二人の距離はなくなってしまった。
「共に迷宮に行くのですか」
黒い手が戦士の胸を撫でていく。
「ええ、そうです」
「力のある者と共に進めば、迷宮の中でも安心なのでしょうね」
夜の香りが強くなっていく。
長い髪からか、首筋からか。漂う芳香で、世界の色が塗り替えられていく。
「迷宮を進むためにはさまざまな技が必要です。探索をする仲間にはそれぞれに役割があり、我々には罠に通じた者が欠けています」
自分自身も昏く染められながら、ウィルフレドはかろうじてこれだけ答えた。
「今はいませんが、それでも、行ける範囲で挑み続けているのです」
胸を撫でていた柔らかな指が、ウィルフレドの手を包む。
指と指が絡んで繋がり、引かれるままに歩き出す。
夜の神官は瞳から誘惑の粒を撒き散らしながら、囁くようにこう話した。
「あれから何度か迷宮に入ってみました」
一歩進んで、背の高いウィルフレドを見上げ、唇を動かして。
「とても不思議なものですね。何故こんなものが存在しているのでしょう」
鼓動が体を揺らしている。
激しく打ち鳴らされて、危険を知らされているのだとわかった。
「迷宮へ行かれたのですか」
「ええ」
けれど、抗いがたい幸福にも満ちていた。
誰も通りかからない寂しい道の上で、ウィルフレドはラフィと二人きり。
瞳も指先も、漂う芳香も、すべて今は戦士だけのものだから。
「誰と行かれたのです」
何にも邪魔をされたくない。そんな思いが口をついて溢れ出す。
甘い香りに酔うウィルフレドに、ラフィは目を細めて笑った。
「私が誰と行ったのか、気になるのですか」
まだ深く知りもしない相手なのに。たった四度会っただけ。一度は袖が触れ合っただけで、「会った」と表現するのも憚られるほどなのに。
他に考えなければならないことが、山のようにあった。
シュヴァルについて、知らせなければならない。
攫われた愛娘を探し続けていた愛情深い父親に、あなたの娘はもうこの世にはいないのだと知らせてやらなければいけないのに。
けれど美しく利発な息子が残されていたと書くべきなのかわからず、悩んでいたから。
手紙を書いて送らなければならないのに。昨日までは確かに、どうすべきか考えていたのに。
目の前で葉を揺らす美しい木と、その枝になる甘美な果実の誘惑に逆らえない。
「ええ」
「心配はいりません。私は迷宮に一人で行って、帰ってきました」
心配いらないとは、なにを指すのか。
「私は『黒』がとても気に入りました。夜の神の導きを強く感じられるところだと思うのです」
「危険ではありませんか」
「戦う術はあります」
「それは、魔術なのですか?」
ぎりぎりのところで理性を呼び覚ましたのは、同居人である若い魔術師の瞳だった。
彼はラフィについて疑念を抱いている。魔術師なのではないかと考え、本人に真正面から問うていた。
ウィルフレドの質問に、ラフィは答えない。
ただ微笑みを浮かべ、戦士の目をまっすぐに見つめて、こう囁いただけだ。
「一緒に行きましょう」
頭の奥底ではわかっているのだ。馬鹿げていると。
肉体的には最も危険なところである「黒」に、なんの支度もせずに、たった二人だけで向かうなんて。
誰にも告げずにいくのも良くない。なのに、抗うなどという選択肢も存在しない。
迷宮都市のど真ん中を抜けていく。
魔術師たちの質の悪い悪戯がなくなれば、「黒」の迷宮にはすぐに辿り着くことができた。
誰もいない「黒」の迷宮の入り口。
――この下、二番目の渦
立て札は色褪せ、使われている木も随分古びているようだ。
はしごを降りて、暗い色のタイルの張られた扉の前へ。
ラフィは当たり前のようにウィルフレドの先を歩き、躊躇なく迷宮へ足を踏み入れていく。
剣は提げているが、防具は身に着けてこなかった。
ラフィも着ているのは透けた素材の薄いローブだけだ。
足元は素足ののぞくサンダルで、小さな爪の形すら美しく見える。
心の奥底のどこかで、止めなければと思っている自分がいる。
けれどウィルフレドは、神官の後をついて歩くことしかできなかった。
確かにラフィは魔術を使うのかもしれない。
それが本当にあるのならば、おぞましいことこの上ない、人の心を自在にするような力だ。
それとも、これは恋慕なのだろうか。
人生のうちにこんなにも抗いがたい思いを抱いたことはなかった。
ウィルフレドはよりによって迷宮の道を歩きながら、愛について思いを馳せている。
人生を通り過ぎていったすべての者のうちの誰とも、愛を交わしたことなどなかったと思い知らされていた。
「なにかが来ます」
声にも匂いがあるのだろうか。
囁きに乗って漂ってきたラフィの香りに、ウィルフレドは深く酔っている。
「黒」の名物である特別に足の速い犬が現れ、タイルを蹴りながら駆け寄ってきていた。
心は宙を漂っていても、体は敵に反応している。
剣を抜くべく、腕が勝手に動いていた。
だがそれよりも早く、ラフィの体が宙を舞っていた。
ローブをはためかせて素早く回転し、鋭い蹴りで地這犬を壁に叩きつけている。
ただの蹴りではなかった。身一つで戦う術は、ウィルフレドも知っている。
まだ若い頃に性悪の上官にしごかれ、雪山で凍えながら鍛えた日々の間に身に着けたものだ。
けれど、ウィルフレドの知る体術と、目の前で見せられたラフィの戦い方はまるで違った。
体にうっすらと光をまとい、目にもとまらぬ速さで打撃を繰り出している。
あまりにも華麗で、恐ろしく鋭い技だった。
叩きつけられた犬の魔物は、床に落ちて体を痙攣させている。
驚きに包まれている戦士の耳に、更なる音が聞こえてきていた。
「黒」では新手が次々に現れる。一層目に足を踏み入れた愚か者がいれば、すぐにでも排除してやろうと駆けつける敵がいる。
しかし。当然、ラフィは次の敵に気が付いており、三匹まとめてやって来た犬を一瞬で片付けてしまった。
体を回転させて、攻撃をより強くしているのはわかる。
だが、わかるのはそこまでだ。まとう光の正体は見当もつかないし、尋常ではない速さ、軽さはとても人間業とは思えなかった。
床の上には犬が四頭も転がっていて、もうどれも立ち上がることはないだろう。
ラフィは音もなく着地して、自分が蹴り飛ばした犬のもとへ近づいていく。
哀れに震える犬の腹に神官が鋭く拳を入れると、泡を吹いた口から石がころりと転がり出て来て、黒い床の上できらりと光った。
石を吐き出したのは二頭だけ。ラフィは輝く石を拾い上げて、細長い指でつまんでウィルフレドへ見せつけている。
「これで今夜の宿代が支払えます」
「そんな風に稼いでおられたのですか」
聞きたいのはそんなことではない。金の出所など些細な話だ。
「あなたの戦い方は一体どんな力によるものなのです」
「魔術ではありません。夜の神の加護を受けているだけです」
「神官の戦い方をされていると?」
「……疑問に思われるのも無理はありません。私は真摯に神に仕えてはいますが、異端の存在でもあるのです」
「異端?」
ウィルフレドの問いに、ラフィは答えなかった。
二人の立つ通路の先から更に犬が駆けてきたからで、夜の神官はふわりと舞いあがると、いとも簡単に魔法生物を仕留めてしまった。
次々と現れる敵をすべて打ち砕き、ラフィの手の中には白と黒の輝く石がいくつも重ねられている。
これでいいだろうと言わんばかりに微笑みを浮かべると、もう戻りましょうと神官は囁いてきて、ウィルフレドと共に迷宮の出口へと向かった。
扉を閉めれば、もう襲い掛かってくるものはない。
誰もいない「黒」の迷宮の扉の前で立ち止まり、ラフィは語り始めた。
「戦いの力を身に着けたのは、神官戦士を目指していたからです。私の生まれたところでは、戦の神に仕える戦士になることが最高の栄誉と考えられていました」
それはあくまで、ラフィの生まれた地域だけでの話だったという。
他の町へ出てしまえば戦の神の扱いは他の神々と同等で、特別視されてはいなかったらしい。
「強くなれば夢がかなうと思っていました。誰よりも励み、強くなろうと努力したのです。けれど、私は戦の神に仕えることは許されませんでした。理由は様々にあります。語り切れないほどに複雑な事情がありました。あの頃の私はまだ子供で、わからなかったのですけれど」
夜の神官は初めて、哀しげな色を瞳に浮かべてみせた。
目を伏せると長い長い睫毛がかかって、美しい緑色が見えなくなってしまう。
「私を受け入れてくれるのは、誰からも見向きもされなくなった、崩れかけた夜の神の家だけでした」
「ラフィ」
「もう本当に、遠い遠い過去に起きたことです。ですから私は大丈夫。でも、ありがとう、ウィルフレド」
ラフィの手が伸びてきて、指が戦士の頬に触れていく。
ひんやりとした指先は夜の冷たさを思わせるもので、ウィルフレドの身を震わせていった。
「私は戦の神に仕えるための力を手に入れましたが、仕方なく夜の神に仕え始めました」
「それを異端だと仰るのですか」
「……いいえ。最後には私は真に夜の神に仕える人間になりましたから。神殿は崩れ、誰も寄り付かぬほどに寂れておりましたが、少しずつ立て直していって、人々も再び集まるようになりました」
神殿を任され、長にもなったとラフィは言う。
けれど瞳に宿った影は、まだ消えてはいないようだ。
「異端の理由はそれだけではありません。信仰の入り口がどこにあったかは、私の心に小さな傷として残ってはいますが」
「あなたになにがあったというのです」
「いつか、聞いて下さいますか」
ラフィの唇に、再び微笑みが浮かぶ。
瞳には光が舞い戻って来て、この世で最も美しい煌きが宿っている。
「私がこの街にたどり着いた理由がわかりました」
「たどり着いた理由?」
「あなたと出会う為だったのですね」
思いがけない言葉が、心の奥深くまで刺さっていくようだった。
夜の神官の唇は蠱惑的に輝きながら、更なる杭を戦士の胸に打ち込んでいく。
「ウィルフレド、あなたも死ぬ為にここへ来たのでしょう」
放たれた台詞は短いものだったが、その中に計り知れないほど多くの思いが秘められている。
ウィルフレドはそのうちのいくつかを感じ取り、いくつかについて考え、ラフィを見つめたまま深く頷いて答えた。
「そうです」
確かにそう。ラフィと同じ。この街へ、終わるために来た。
誰かに強いられた暮らしを続けていくのが馬鹿らしくて、残りの時間を自分勝手に使いたかったから。
共に高みを目指せる者たちとどこまでも進んで、戦いの中で果てると決めていた。
だが。そんな日々はまだ少し遠いところに追いやらなければならない。
「けれど今は、あなたが欲しくてたまりません」
今、この瞬間は、そんな未来などどうでも良かった。
ウィルフレドの視線を真正面から受け止めて、夜の神官は笑い、腕を伸ばして戦士の胸の中に飛び込んでくる。
「あなたはとても強い人ですね」
頬を撫で、首の後ろに手をまわし、精いっぱい背伸びをして近づいてきた唇を、ウィルフレドは受け止める。
幾度も唇を重ね合い、麗しい顔が離れていく。
あまりにも美しい夜の神官は、ウィルフレドをまっすぐに見据えてこう囁いた。
「私を求める男は大勢いますが、そう口に出せる者など滅多にいないのです」
また小さな体を強く抱きしめ、誰も来ないのをいいことに、長い口づけを交わし続けていく。
夢中で求めあっている間に、ウィルフレドは強く感じていた。
二人の思いはぴたりと重なっていて、もはや同一なのだと。
同じ温度に溶け合った二人はようやく唇を重ね合うのに飽きて、手を取り合ってはしごを登った。
「行きましょう」
寄り添いあった影はひとつになり、迷宮都市の夜の闇の向こうに消えていった。




