120 新装開店 3
次の日の朝。ティーオはまず、道具屋に台車を用立てに出かけた。
財布の中身は心許なく、小さな安い物で妥協するしかない。
それを店にしまって、次はカッカーの屋敷へ。
ギアノの朝の仕事を手伝って、南側にあるという女子寮へ向かう。
「女の子ばっかりいるんだよな」
「中には入れないぞ、ティーオ」
「入るつもりなんかないよ!」
こんな冗談を交わしながら進み、商店が並ぶ道を歩く。
ギアノは乾燥果実と干し肉を詰め込んだ袋をいくつか用意してくれたらしかった。
甘く味付けされた果実は女の子に配り、干し肉は寮を守る用心棒たちに渡そうと考えているらしい。
「いつかちゃんと従業員を雇うことになった時、女の子の場合は寮を使えた方がいいよな」
「ああ、そうだね」
「大きな店は自分たちで寮を作るらしいけど、小さな店だとそこまでできないだろう? そういう店は、共同でお金を出し合って用意するらしいんだ。ティッティのいるところも共同のらしいからさ。警備の人とも仲良くやって、うまく話を進められるようにしていったらいい」
「なるほど」
「軌道に乗ったら、店の方にも用心棒を置かなきゃいけないとかそんなルールがあるらしいよ」
「ギアノはなんでそんな話を知ってるの」
「西の食堂で働いている時に聞いたんだ。そこまで詳しく聞いたわけじゃないから、細かくはわからないんだけど。キーレイさんに相談して、店でどんな風にやっているのか教えてもらったらいいかもね」
街の小さな店の中に、用心棒の姿はない。
そもそも盗人だの強盗だのはあまり現れない街ではある。小さな店はそう狙われないのではないかとティーオは思う。
けれど、用心棒はどの店も雇っている。見えないだけで、呼ばれればすぐに駆け付けるのだろう。
シュヴァルに部屋を荒らされた時、ニーロは「盗みをしてはならないと教え込む」と言った。
まだ十一歳の少年は、一体どんな目に遭わされたのだろう。
屈強な用心棒に、容赦なく殴られたりしたのだろうか。
そんな用意をしなくてもいいと、誰か言ってくれればいいのに。
店を開いてもいない新米の商売人は、ぼんやりと考える。
女子寮に似合わない大柄の強面が待ち受けていたが、ティーオと違って屋敷の管理人は動じないらしい。
いつも通りの笑顔で軽やかに声をかけて、ティッティに用があると告げ、名乗っている。
「ギアノさん、どうしたんですか」
現れたのは素朴な顔の小柄な少女だった。
「もしかして店を開くとか」
「はは、そんなに期待してくれてるのか。残念ながら俺が店を持つなんて話はないけど、似たようなことを始めるんだ」
ギアノはまず、やってきた少女にティーオを紹介してくれた。
これから店を開く予定であり、まだ不慣れな新米のために短い時間でいいから手伝ってもらえないかと、頼み事があっという間に伝わっていく。
「もしかして、ギアノさんのお菓子を置くの?」
「そうなんだ。今は夜だけ食堂で働いているって言ってただろう。昼間の短い時間でいいから、ティーオの店を手伝ってくれないかな」
ティッティはなるほどと頷き、新米店主の顔をじっと見つめた。
小さな声で「悪い人ではなさそう」と呟き、ギアノがそれに頷いている。
「ギアノさんの紹介なら」
「いいかい」
「ええ。店はもう始めたんですか」
まだだが、早く始めたいと思っている。
ティーオの答えに少女はまた頷いて、場所を案内してくれないかと話した。
ティッティの顔はそう美しくはないが、溌溂としていて表情は明るい。
ギアノに向ける眼差しは信頼に溢れていて、二人の関係についてティーオは考える。
「仲がいいんだね」
「……そう、なのかな。そうかもしれません。一緒に働いていた期間は短いのに、ギアノさんにはたくさん教えてもらったし、助けてもらったから」
「そんなに教えることなんかあったか?」
「ありましたよ」
「ティッティは働き者で熱心だから、そう思うんじゃないか」
ギアノはこんな風に謙遜したが、一緒になって働けば学べることは大いにあるだろうと思えた。
「あそこの前の店ではお客さんに変なことを言われた時、どうしたらいいかわからなかったですもん」
「バルディさんのところではわかった?」
「ギアノさんが間に入ってくれたから、そのおかげで」
きれい好きだし、整頓も上手だし、客あしらいも絶対に上手いに違いない。
一番頼もしいのはきっとギアノなのだろう。
一日くらい手伝いを頼めないだろうか。ティーオは考え、歩きながら問いかけていく。
「俺にも見本をみせてほしいんだけど」
「見本?」
「俺、客商売なんてやったことないから」
「客商売ね」
「ギアノの家って食堂なんだよね?」
「そう。ああ、そうか。毎日いろいろやっていたから、客商売をやっていたなんて意識はなかったけど」
やっていたんだなあ、とギアノは呟いている。空を見上げて、青の中に故郷の海を見ているのかもしれなかった。
「わかったよ。手伝いに行こう」
「いいの」
「いいよ。売り物だって運ばなきゃいけないんだからな。手の空いている奴も連れていくよ。探索に行けないやつに運搬の仕事として頼めば手間賃をあげられるし、俺も楽ができそうだから」
話している間に旧マリート邸にたどり着き、ティーオは助っ人従業員に事業内容を説明していった。
商売がいつうまく回りだすかわからないので、最初のうちは短時間だけ手伝ってもらって、その後については状況をみながら決めさせてほしい。
こんな説明にティッティは納得し、具体的な労働時間と賃金について話し合う。
「わかりました。店はいつから始めるんですか」
「明日準備をして、明後日からやってみようと思ってる」
「お店の名前、決まってます?」
「ああ、うん。考えてあるよ」
慧眼の剣士マリートの革製品と、旨いもの製造所であるギアノの食品を並べる店。
「ティーオの良品、って名前だ」
「良品?」
「そう。いいものだけを置くからさ」
「確かに! あのお菓子が並ぶなら、みんなに教えてあげなくちゃ」
ティッティは微笑み、そんな少女にギアノから乾燥果実が手渡されている。
「寮の女の子にちょっとずつ配ってくれないか」
「わあ、ありがとうギアノさん。みんな喜びますよ、絶対」
話はついたので、顔合わせは終了、解散になった。
ギアノは道順の確認も兼ねて、ティッティを寮まで送ってやるらしい。
「キーレイさんの家に行くのか、ティーオは」
「あ、……うん。そう。行く」
女子寮まで一緒に行きたい気分ではあったが、店の準備の方が先だ。
ティッティと仲良くなる機会はこれからたくさんあるのだから、焦る必要はない。
店から台車を出して、リシュラ家へと向かう。
神官長は留守で、剣士は部屋から出てこない。
だが事情を話すと従業員はすぐにわかってくれて、倉庫へ案内してくれた。
「結構あるんですね」
「そうなんです。一気に全部運ぶ必要はないとキーレイ様は仰っていましたよ」
みんな話が早くて助かる。ティーオはしみじみと周囲の優秀な人々に感心しながら、最初に並べる革製品を選んでいった。
小さなポーチ、背負える袋、ベルトや、実用性はないものの面白い形の飾りなど。
マリートはまともに顔をみせてくれないが、手先の器用さは確かなようで、いくつかは自分で使ってみたいとティーオは考えている。
リシュラ家の従業員が手伝ってくれて、革製品の積み込みも手早く済ませることができた。
礼を言って、屋敷を出て、台車を引き、店へと戻る。
キーレイの家から旧マリート邸へ続く道の途中には、「赤」の入り口があった。
ついこの間まで入り込んでいた迷宮の入り口が、もう懐かしい。
生意気にも感慨にふけるティーオの視界に、きらりと輝くものが目に入った。
「クリュ」
道から外れて入り口の穴のそばへ向かうと、見慣れた顔の青年が座り込んでいた。
裸で放り出されていた時と同じ位置で、膝を抱えてしょんぼりと項垂れている。
「ティ……イーオ」
「ティトーって名前の知り合いがいるの?」
「うん。幼馴染にね」
「俺に似てる?」
「全然似てない。よく遊んでいたからかな、つい名前が出ちゃうんだ」
クリュは立ち上がり、膝や腰のあたりをぱたぱたと払っている。
「なにしてんの、こんなところで」
「記憶が戻らないかなって思って」
「覚えてないとか言ってたな、そういえば」
「うん。アダルツォと別れた後、どうしたんだったか」
「アダルツォを裏切って逃げた後、だろ」
クリュは口をへの字に歪めて、ティーオをじっとりとした目で見つめている。
そんな表情でもまだ美しいし、子供じみた様子は愛らしさも漂わせている。
「ティーオはなにしてるの。それ、なあに」
「店の準備をしてるんだ。これは売り物だよ」
「そっか。店ってどこなの? この近く?」
「今から行くんだ。見てみるか」
「いいの?」
今度はにっこり笑って、クリュはティーオの隣に並んだ。
本当に、どうして女に生まれてこなかったのだろう。
こんなにきれいな女の子が働いてくれたら、店は繁盛間違いなしなのに。
……ひょっとして、女の子でなくても良いのではないか?
いや、だめだ。クリュは自分目当ての男なんてものに、良い対応をするわけがないのだから。
キラキラと輝く髪を見ているうちに店について、鍵を開ける。
中に入ったクリュは、碌に準備がされていない店内にガッカリしたようで、ぶつぶつと文句を言った。
「せっかく来たんだし、手伝って」
「ええ? なんでだよ」
「いいだろ、ちょっとくらい」
面倒くさいと返されたが、結局クリュは荷運びを手伝ってくれた。
のろのろとしているが、革製品を棚に運び、まっすぐに並べてくれている。
ティーオが礼を言うと、クリュはぼそりとこう呟いた。
「レテウス、ここで用心棒させたらどうかな」
「用心棒を?」
「剣も使えるだろうし、怖い顔してるから役に立つかなって。あのね、シュヴァルは絶対に一人で行動させたらいけないんだ。誰か責任持てる大人がついてなきゃ駄目なんだって」
「ああ、そういう決まりがあるんだな」
「レテウスは乗って来た馬を売ったお金であの家を用意したんだ。資金はそれだけしかなくて、減るばっかりなんだよね。だからなにか仕事が出来たらいいんだけど、シュヴァル連れだと難しいだろ」
知り合いの店なら融通が利く。ギアノもキーレイもそう考えていた。
確かに、子連れが条件では仕事もなかなか決まらないだろう。レテウスには不向きな仕事も多そうだと思える。
「でも、用心棒はなあ。あの子も連れてくるんだろ」
「駄目?」
「シュヴァルは盗品を売ろうとして、ぼこぼこにされたはずなんだ。思い出すのは辛いだろうし、それに、用心棒の仕事は誰が相手だろうと容赦なくやらなきゃいけない。レテウスさんに出来るかな?」
「子供にも容赦なく?」
それじゃあレテウスには難しいかも。
こんな会話が終わると、ああ疲れたと呟いてクリュは椅子に腰かけてしまった。
たいして働いてもいないのに。ティーオは思うが、そこまで期待をしていたわけでもないしと、一人仕事を進めていく。
「やあ、ティーオ。いる?」
よく知った声が聞こえて来て、棚の前で振り返る。
店の入り口にはアダルツォの姿があって、優しい顔を微笑ませていた。
「アダルツォ、いらっしゃい」
「看板が出来たから持って来たんだ」
「うわ、わざわざ? ありがとうな。明日取りに行こうと思っていたんだよ」
「いいんだよ。それに、一度店を見てみたかったから」
ところがアダルツォは手ぶらで、看板はどこにも見当たらない。
ティーオが不思議に思っていると、神官の後ろにのっそりと大きな影が現れていた。
「ここかい、先輩の店ってのは」
「フォールード」
「持ってくれたんだ。俺は小さいから無理だろうとか言ってさ」
アダルツォは頬を膨らませ、そんな様子を見てクリュが笑う。
「あれ、クリュ。どうしてここに?」
「たまたまだよ」
「たまたま?」
「クリュの住んでいる貸家に部屋が余ってて、俺も住まわせてもらうことになったんだ」
「クリュ、貸家を借りてるのか」
「そうさ。すごいだろ、アダルツォ」
かつての仲間の小さな嘘に、神官は驚いている。
ティーオがたしなめようとすると、急にばたんと、大きな音が響いた。
「なんだ」
床の上に、せっかく描いてもらった看板が落ちている。
落としたのは新人探索者のフォールードで、アダルツォもティーオも気をつけろと言おうとしたのだが。
「どうした、フォールード」
大きな体の新入りはクリュを凝視したまま動かない。
まるで睨みつけるような鋭い眼が自分に向けられていると気づいて、クリュはびくっと体を震わせている。
「え、なに。誰なの。アダルツォ、ティーオ、誰、こいつは」
「フォールード、どうした。クリュがどうかしたのか」
新入りの口からは、唸るような低い声が漏れてくるだけ。
アダルツォは何度も声をかけ、背中を叩いているが、反応はない。
クリュはあまりにもまっすぐに見つめられて恐ろしくなったらしく、そばにあった棚の陰に隠れてしまった。
「ごめん、連れて帰るよ。フォールード、ほら、出るぞ」
アダルツォが小さな体で必死になって新入りを押し出し、二人の姿は消えた。
ティーオは仕方なく落ちた看板を拾い上げて、割れたところがないか探る。
「あ、欠けてる」
木枠の角が割れている。ただ、欠けは小さなもので、目立ちはしないだろう。
「ねえ、さっきの奴、なんだったの」
「フォールードっていう、屋敷に新しく来た奴だよ。俺のかわりにアダルツォたちの新しい仲間になったんだ」
「ええー? あんな奴でいいの? すっごく変だったけど」
確かに、今日は態度が妙だった。もとは悪ガキだったとしても、素直でまっすぐそうな雰囲気だったのに。
フォールードに睨まれたせいか、クリュはびくびくと身を縮めたまま座り込んでいる。
ティーオは仕事を進めていったが、棚の配置を考え直すのは明日に回そうと決めた。
「終わったよ。クリュ、帰るか」
「さっきの奴、もういない?」
「アダルツォが連れて帰っただろ」
フォールードはアダルツォになついているようだから、大丈夫だろうと思う。
一度店から出て周囲の様子を確認し、もういないと教えるとようやくクリュは安心したようだった。
それでもまだびくびくとしていて、ティーオの背中にぴったりと張り付いて離れない。
夕方の街を二人で歩いて、この日もまた食事を買って貸家へと戻った。
家主はまたかまどの前に仁王立ちしており、なにかを作っている真っ最中で、ティーオは手伝いを申し出ていく。
「サークリュードはどうかしたのか、顔色が悪かったが」
「うーん、別になにがあったというわけではないんだけど。じろじろ見られて嫌な思いをしたってところかな」
「そうか」
レテウスは野菜の皮を剥いていたが、手元がとにかく危なっかしい。
剣を振るのは上手そうなのにな、と思いつつ、ティーオも芋をひとつ手に取っている。
「シュヴァル、皮むきはできる?」
「できるぜ。眉毛よりもよっぽどうまく」
「じゃあ手伝って」
偉そうに座り込む少年を促し、部屋に閉じこもったクリュに関しては今日は許すと決める。
レテウスもシュヴァルもなにも話さないままで、ティーオは思いついたことを口にしていった。
「シュヴァルはレテウスさんと一緒に行動しなきゃいけないの?」
「一人にしてはならないと言われている。責任を持って見られるのなら、私でなくてもいいはずだ」
最近、クリュに任せた日があった、とレテウスは言う。
「一人でどこに行ってたの」
これに返事はなく、シュヴァルもなにも言わない。
「買い物とか? ずっと家に二人じゃ、息が詰まるもんねえ」
「なんだよ、俺が邪魔みたいな言い方しやがって」
「いちいちつっかかるなよ」
十一歳の少年の眼光は鋭い。
参ったなと思いつつ、ティーオは野菜の皮を剥いていった。
シュヴァルは器用にナイフを操り、レテウスは芋を荒く削って小さくしている。
いつからこの貸家で暮らしているのかよくわからないが、二人はあまり外には出ていないということなのだろうか。
ふと気が付いて、ティーオは考える。
二人ともこの独特な街に慣れていないだろうし、互いについても理解しあえているようではないのに。
シュヴァルをクリュに託して自由に過ごした日が一日あっただけ?
きっと息が詰まるだろう。シュヴァルは口が立つし、厳しい言葉ばかり繰り出してくるのだから。
「なあ、一人にしちゃだめってだけなら、俺と一緒ならいいってことかな」
「なんの話だ、ティーオ」
「シュヴァルのことだよ。明日は店の準備をするから手伝ってもらっていい?」
「はあ? 俺が? お前と? なんでだよ」
「いいじゃないか。一緒に働こうぜ。その間、レテウスさんはちょっと休めばいいよ。散歩でもしてさ」
シュヴァルは目を据わらせているが、レテウスは嬉しそうに微笑んでいる。
クリュも同じように考えて、自由な一日を贈ったのかもしれない。
この貸家の面々の関係は不思議なものだ。
レテウスがいつまでシュヴァルと暮らすのかわからないし。
そもそも、貴族の青年の願いは叶わないのではないかと思える。
ウィルフレドの過去については気になるが、どんな事情であっても語りはしないだろう。
いつかは話してくれると信じているのだろうか。
段々レテウスが気の毒になってきたが、ウィルフレドが認めるわけないなどと真正面から言うのも気が引ける。
クリュも嫌がるだろうし、シュヴァルがどうなってしまうのかも心配ではあった。
ギアノが面倒を見てくれるかもしれないが、屋敷でトラブルを起こすような展開は困る。
奇妙ではあっても、この暮らしを維持する意味はあるのだろう。
ティーオの思考はこんな風にまとまり、明日はシュヴァルを自分の助手にしてやろうと決めた。
「人手が欲しいんだけど、うまく回りだすまで正式に従業員を雇うのは難しいからさ。とりあえず明日の準備を一緒に、頼むよ」
「シュヴァル、ちゃんとティーオを手伝うんだぞ」
「なんだよ眉毛、ウキウキしやがって」
文句を言うものの、シュヴァルは拒否の言葉を口にすることはなかった。
自分の立場をよく理解しているのかもしれない。
気持ちが落ち着いたのかクリュも部屋から出て来て、四人でテーブルを囲む。
手伝ったおかげか、今日はたまたまうまくいっていたのか、夕食の味はまともに仕上がっていた。
話を振るのは主にクリュになるらしく、レテウスもシュヴァルも相槌を打つばかりの会話が続く。
それぞれの部屋で眠って、次の日。
クリュは早い時間に起きだして、さっさと出かけていってしまった。
朝食を済ませて、レテウスは着替えている。
ティーオもシュヴァルと一緒になって出かける支度をしていると、扉を叩く音が聞こえた。
「誰かな」
「知らねえ」
少年が動く気配がなかったので、ティーオが扉の前に進んだ。
訪ねて来たのは地味な顔をした女性で、どこかで見た覚えがある。
「おや、誰だいあんたは」
「ええと、なんと言ったらいいのかな。ここで一緒に暮らすことになったんだ。レテウスさんに用?」
「そいつはユレーだ。家のことを手伝ってくれてる。ティーオ、入れてやれ」
シュヴァルが偉そうに指示をしてきて、ティーオは客を中に通した。
ユレーはティーオをじっと見つめていたが、急にはっとした顔で声をあげた。
「ティーオ!」
「え、なに?」
「ドレーンとドニオンと、一緒に探索をしただろう」
「なんで知って……」
苦い思い出が一気に蘇ってきて、ティーオも気が付いていた。
あのとんでもない探索に付き合わせてきた集団の、紅一点がやって来たのだと。
「どうしてここに?」
「あたしはもうあいつらの仲間はやめたんだ。ここに来たのはギアノに頼まれたからでね」
「え? ギアノとどういう関係なの」
ユレーは今、マティルデと共に暮らしており、その縁でギアノと交流があるのだという。
「名前を聞いて気にしてはいたんだ。あの時の子かなってさ。あんたがマティルデを助けてくれたんだろう」
「うん、まあ。俺だけの力じゃ無理だったけどね」
「仲間が床に臥せってるって言ってただろう。マティルデのことだったんじゃないかい」
「そうだね。うん、マティルデのことだ。助けたばかりの頃で、ずっと目が覚めなくてさ」
「マティルデを助けてくれて、ありがとうね」
ユレーはティーオの手を取り、力強く握る。
「あたしはドレーンたちにいいように使われて、男なんてクソばかりだと思ってた」
それで女だけでパーティを組もうとするマティルデたちと暮らすようになった。
ユレーはそう告白したが、ゆっくりと頭を振って続けた。
「だけどさ、あんたみたいなのもいるってわかった。はは、おかしいね。ドレーンたちがしようと考えていたことを、あんたはもうやり遂げていたんだ。危険を顧みずに人助けをして、面倒を見てやるなんて、なかなかできることじゃない。すごい男だよ」
思いがけず褒め称えられて、ティーオは照れる。
「それに、ギアノもいい奴だろう。マティルデをあんなに助けてくれて、わがままにも付き合ってくれてさ」
「うん、ギアノはいい奴だ」
「あたしたちにも気を遣ってくれてね。いい男もたくさんいるんだなって。世の中捨てたもんじゃないなって思い直したよ」
「あはは、そっか。良かった」
「ごめんね、マティルデはあんたにろくにお礼もしてないだろう」
申し訳なさそうに謝るユレーに、ティーオは慌てて答えた。
「頑張って会いに来てくれたよ」
「礼を言ったくらいだろう? あの子の面倒を見るのに、いくらかかかったんじゃないか」
「少しはね。樹木の神官長さんが引き受けてくれたから、俺はたいしたことはしてないんだ」
レテウスが着替えを終えて部屋から出て来て、ユレーに声をかけてくる。
今日は手伝いの必要がないと知らされ、お客はそうかい、と呟いて笑っている。
「ティーオはここで暮らすのかい」
「多分ね。今は試しに同居させてもらってるところだけど」
探索はやめて、商売を始めるところだと話すと、ユレーは驚いた顔をしたものの、大きく何度も頷いてこう話した。
「ギアノの作ったものを売るんだね。そいつはいい。絶対にうまくいく」
「うん、俺もそう思う」
「マティルデをその店で働かせてもらえないか?」
「え? それは、嬉しい話……だけど」
マティルデがまともに話せる男は、今のところギアノとアダルツォだけだ。
ティーオは対象外であり、共に働くのは難しいのではないか。
「そうか、そうだった。あの子は男が駄目なんだよね。あんたなら平気そうなもんだけど」
「平気かどうかはマティルデ次第でしょ」
「そりゃあそうだね。ギアノのうまい物が並んでいても……、駄目かな」
「俺としては大歓迎だから、試しに連れて来てよ。いつでもいいからさ」
「本当に優しいんだね、ティーオ」
マティルデと一緒に店をやれたらどれだけ楽しいだろう。
まだあまり、まともに姿も見られていないのだが。
ギアノのように隣に座って、頼りにされたいものだけど。
さらさらの長い髪に、あの大きな瞳でじっと見つめてもらいたい。
ティーオはこんな幸せな想像に浸っていたが、ユレーの考えは少し違うようだ。
「マティルデは探索者になりたいっていうけど、迷宮になんて行かなくていいと思うんだよね。ギアノが嫁にしてくれたらいいのにってあたしらは思ってるんだよ」
「嫁? えっ、……あたしらって?」
「マージって仲間がいるんだ。あたしとマティルデを住まわせてくれていてね」
「へえ……」
「マティルデは気まぐれだし、あんまり熱心に働かなくって。まだ塾に行く費用すら貯められていないのさ。このまま探索を諦めて、平和に暮らしてくれたらいいなってよく話してる」
ユレーはにっこりと笑うと、また来るよと言い残して去って行った。
ティーオは支度を再開させたが、ギアノとマティルデの関係がどの程度進展しているのか想像がつかず、心がもやもやとして落ち着かなかった。




