109 夜との出逢い
迷宮都市の東側に並ぶ貸家街と売家街、その間には他より少しだけ大きな通りが設けられている。
貸家止まりの中堅と、売家で悠々と暮らす上級者たちを分かつ河のような道の上を、一台の馬車が走っていた。
街の中で馬車が走るのは、南と西の道と決まっているのに。
住人たちはそう考えつつ、どこの誰に用があって来たものなのか、行き着く先を見つめている。
美しい黒毛の馬と、立派な仕立ての馬車はかたこと進んで、通りの端にある黒い石を積んで作られた家で止まった。
周辺の住人たちはなるほどと納得して、それぞれの家へと戻った。
御者が降りて扉を叩き、中からは大柄な戦士が出て来て客を迎えた。
「こちらは魔術師ニーロ様の家ですか?」
「ええ、そうです」
以前にも見かけた馬車だ、とウィルフレドは考える。
前回はニーロが留守で、馬車はすぐに帰っていった。
「御在宅でしょうか?」
「いいえ、今は留守にしています」
残念ながら家主はいない。朝起きた時にはもういなかった。
予定の詳細は伝えられていないので、どこへなにをしに出掛けたのかはわからない。
不在を伝えられると御者は馬車へ戻っていき、中の誰かとひそひそと言葉を交わした。
これも前回と同じだったが、今日は馬車の扉が開き、「中のお方」が姿を現していた。
「ああ、これはこれは。御武人様ではございませんか」
急な来客の正体は、魔術師ホーカ・ヒーカムの屋敷を取り仕切っている男ヴィ・ジョンで、相変わらず黒尽くめの服に身を包んでいる。
ヴィ・ジョンは長い黒髪をさらりと揺らしながら挨拶の言葉を並べ立てると、ウィルフレドへこう問いかけた。
「最近この街で随分と名を挙げていらっしゃる御武人様、噂にお聞きになったことはありませんでしょうか」
白く輝く金の髪と氷のような透き通った青い瞳を持った青年を知らないか。
肌も滑らかで傷一つない、輝くような美しさの持ち主で、一度見れば忘れられないはずなのだとヴィ・ジョンは言う。
レテウスの家にいた、あの若者なのではないか。
「なぜその青年を探しておられるのですか」
「ああ、御武人様。ヴィ・ジョンともあろうものが失敗致しました。まだ務めを終えていないのに、あの大切な美の結晶を外へ放り出してしまったのです」
務めとは、あの屋敷で裸同然の姿で過ごすことを指すのだろうか。
彼らとホーカ・ヒーカムの間にどんな事情があるのかは、まだよくわからない。
シュヴァルにリュードと呼ばれていた彼はどこかふわふわとしていたが、気のいい人間なのだろうと思えた。
またあんな目に遭わせるのはどうにも忍びなくて、戦士は些細な嘘を口にしてしまう。
「心当たりはありませんな」
「そうでございますか。……それで御武人様、あの子供は息災でございますか?」
「元気にしています」
「それは結構」
今度は仰々しい別れの挨拶をして、ヴィ・ジョンは馬車に乗って去っていく。
ニーロは留守で、急ぎの用事はない。
ヴィ・ジョンの言う「美の結晶」が気になってきて、なにか事情がわかるのではないかと考え、ウィルフレドは樹木の神殿へと向かった。
神官長は午前の当番らしく、対応に追われている。
隣のカッカーの屋敷へ移動すると、若者たちも大勢が出ていったあとのようで、ひどく静かだった。
アデルミラとギアノは客に気が付いてもてなしてくれたが、あまりゆっくりしている暇はないようだ。
掃除、洗濯を済ませ、二人は厨房に篭ってしまった。味付きの保存食や干した果実などを作っていて、覗きにいったウィルフレドに試食をさせてくれた。
「これはどこかで販売しているのかな」
「前に少し。いくつか店に頼んで、隅で売らせてもらったんです」
「評判はとても良かったんですよ、ウィルフレドさん」
「続けて売る予定は? これならいくらでも買う人間がいるだろう」
「そうなんだよね。だけど毎日それなりの量を作る為にはもう少し人手が欲しいし、ここでそこまで本格的にやるのは難しくって」
あくまで初心者たちを助けるための場所だから、とギアノは苦笑いしている。
アデルミラはその隣で、探索に行かない初心者たちの仕事にもなるかもしれないと笑っている。
「確かにそうなんだけどね。でもこっちの仕事を気に入ったら、屋敷からは出なきゃならないだろう」
「ああ、そうですね。確かに……」
売り物があれば屋敷の収入が上がり、運営は安定するとギアノは考えているようだ。
管理人として来てもらって良かったし、隣で笑うアデルミラとお似合いではないかとウィルフレドは思う。
そこでもう一人の青年について思い出し、髭の戦士はふとこう漏らした。
「フェリクスはまだ、戻らないのかな」
悲しい知らせを受けた上、赤子を抱えて今は休養中なのだと聞いている。
アデルミラは目を閉じ、祈りの言葉を口にしてから答えた。
「カッカー様やヴァージさんが時々来て、様子を伝えてくれるんです。少しずつ元気を取り戻しているようなので」
「フェリクスなら大丈夫だ。彼は強い」
「私もそう思います」
ギアノと一緒にウィルフレドも祈りの言葉を唱えて、話は終わった。
有名な探索者へのサービスだとお茶を用意してもらい、食堂の隅で優雅な香りを楽しんでいると、神官長が仕事を終えたらしく姿をみせた。
「ああ、いい香りだ」
「はは、キーレイさんもすっかり気に入りましたよね」
神官長にもお茶が用意され、熟練探索者である二人は初心者用の屋敷の片隅で向かい合っている。
なんの話をしたかったのか問われ、ウィルフレドは髭を撫でるとこう切り出していった。
「実は、ホーカ・ヒーカムの屋敷から人が来たのです」
ヴィ・ジョンがやって来たことを説明すると、キーレイもすぐに探し人が誰なのかわかったようだ。
「シュヴァルを心配していた青年ですね」
「彼を御存知だったのですか」
「ええ。彼はほとんど裸の状態で外に出されていたとかで、アダルツォたちが連れて来たんです」
「みな親切な若者たちですね」
「もともとアダルツォとは知り合いで、随分前に一緒に探索をしていた仲だったそうですよ」
アダルツォは仲間を生き返らせようとして借金を負い、娼館街で働かされていた。
クリュは逃げ出したものの、なにかが起きて、ホーカ・ヒーカムの屋敷に閉じ込められていたらしい。
「どうしてそうなったのか、記憶がないらしいのです。自分になにが起きたのかわからなくて困っているようでした」
「そんなことがあったのですね」
「サークリュードという名前だそうですよ」
シュヴァルはリュードと、ニーロはクリュと呼んでいたはずだ。
なるほどとウィルフレドは頷き、素直な胸のうちを神官長へ話した。
「あんな格好で閉じ込められるのは可哀想で、知らないと答えてしまいました」
「あなたはホーカ・ヒーカムの屋敷へ行ったんでしたね」
「ええ。コルフはよく平気でいられるものだと思いましたよ」
「魔術師は変わり者が多いからと、みんな考えてしまうのでしょう」
コルフ自身はおそらく、変わり者ではないだろう。いつか腕をあげて、良識派の魔術師として知られるようになればいいとウィルフレドは考える。
「あそこに閉じ込められている若者たちは、みんななんらかの方法で記憶を曖昧にされているのではないかと思います。私としてはそんな真似はやめてほしいのですが、術師ホーカは借金を肩代わりしているらしくて。貸金業をしている者たちとも話はついているのでしょうし、私一人でやめるように働きかけるのはどうにも憚られるのです」
「似たような容姿の若者ばかりでしたが、なにか理由があるのでしょうか?」
裸に薄布を巻いただけの青年は、色白で、細身で、ほとんどが金色の長い髪の持ち主だった。
長いのは伸びてしまっただけかもしれないが、どう見ても肩代わりの条件には一定の容姿が必要なように思える。
「若くて美しい子だけという話は知っていたのですが、私は実際には見たことがないのです。もしかして、みんなあのクリュという子のようでしたか」
「ええ、多少の色合いの違いなどはありましたが、似たような容姿の青年ばかりでした」
「『黄』の迷宮に行った日に、思い出したのです」
神官長は目を伏せ、ふう、と息を吐いている。
「なんでしょう」
「もうあまり知っている人はいないと思います。数えてみて驚きましたが、もう二十年以上も前の話ですから。単純に懐かしいことを思いだしただけなんですが」
あくまで自分の記憶では、という前置きをして、キーレイは語る。
「カッカー様がかつて組んでいた五人組の中に、クリュにとてもよく似た神官がいました」
「神官ですか」
「ええ。カッカー様が名を挙げるきっかけになった、腕の良い探索者が集まったパーティです。ニーロを育てた魔術師のラーデン様も、一緒に探索をしていた頃に組んでいた方々で」
神官戦士のカッカーと、大魔術師のラーデン。
この二人と一緒に深く迷宮へ潜っていたパーティのメンバーはあと三人。
もとは騎士であったという、剣の使い手アーク。
罠に精通し、手投げ爆弾を扱う、スカウトのゴリューズ。
そして、一部からは女神の再来とまで言われ崇められていた、流水の神の使徒チュール。
「クリュはチュール様によく似ています。あの白く輝く髪と、瞳の色も同じなんです」
「女神の再来とは、そんなにも美しい人だったのですか」
「チュール様は男性なのですが……。少数ですが、崇拝の対象にしている人たちがいたのです」
「男性なのに?」
「そうなんです。チュール様はとても穏やかで寡黙な方でした。『静謐のチュール』と呼ばれるほどでしたから。クリュと初めて会った時、彼はめそめそと泣いたり怒ったりしていて、子供のようだなと思ったのですが」
でも、黙っている時にはチュールとかなり近しく見えた、とキーレイは言う。
確かにクリュは美しい青年だった。女性的な美しさが男らしさを抑え込んでいるようで、黙っていれば、誰もが美少女、美女だと勘違いしてしまうだろう。
流水の神官チュールについて、ウィルフレドは知らない。
カッカーたちと探索をしていた過去があったとして、そのパーティはいつ解散してしまったのだろう。
そんな考えを巡らせているうちに、今日の来客の目的について思いが至る。
「……ヴィ・ジョン殿がやって来たのは、ニーロ殿に用があってのことでした」
「クリュを探していたのでは?」
「探してはいるのでしょうが、そもそもはニーロ殿を訪ねに来ているのです。以前にも来たことがありました」
そういえば、コルフも言っていたではないか。
術師ホーカはニーロに会いたがっていて、連れて来た人間にはかなりの額の謝礼を払ってくれるのだと。
「なにか関係があるのでしょうか?」
「ニーロとですか?」
「ニーロ殿は大魔術師ラーデンの弟子。流水の神官チュールとは仲間だったのでしょう」
「関係……、あるでしょうか?」
なんといっても昔のことだから、とキーレイは首を捻っている。
「ホーカ・ヒーカムという魔術師は、いつから迷宮都市にいるのでしょう」
ウィルフレドが素朴な疑問について呟くと、神官長はしばしの沈黙の後、驚いたような顔で仲間の名前を叫んだ。
「ウィルフレド!」
「なんでしょう」
「確かに、術師ホーカも迷宮都市で長く暮らしているのです。あの辺りに屋敷を建て始めたのは、やはり二十年近く前になります」
「では、カッカー様と同年代なのですか」
「正確にはわかりませんが、けれど、そうです。ラーデンかホーカか、と言われていたことがありましたから」
一時的にですが、とキーレイは続けている。
「ライバル関係だったと?」
「どうでしょうね。無責任な噂だったかもしれません。あの頃私はまだ子供でしたから、あまり詳しいことはわからないのです」
「カッカー様ならすべて御存知でしょうか」
「ああ、いや、うーん。カッカー様はあまり街の噂だとか、細かい話を気にする方ではありませんからね」
ラーデン自体も、人と競うことに興味のない人間だったとキーレイは話した。
大魔術師が知りたいのは、魔術と迷宮についてだけ。まともに食事もしない男として知られているという。
「ニーロを見ればわかるでしょう」
この言葉には、思わず笑ってしまう。
「とにかくウィルフレド、クリュにはなにか事情があるかもしれませんが、気のいい子のようですし、そこまでの悪事を働いたわけではないでしょうから。裸で閉じ込められる暮らしに戻すことはありません」
「そうですな」
どうやら神官長は嘘を咎める気はないらしい。
昼になったし食事でもどうかと誘われて、二人で評判の店に繰り出し、楽しい時間を過ごしていく。
神官長に礼を言って別れ、ウィルフレドはぶらぶらと歩き始めた。
あれこれと話して気持ちの整理はついたが、心の底は燻っている。
気になる事柄はたくさんあって、すべてすっきりと理解したいとは思っている。
けれど今は、しばらく前のめりな探索に行けていなくて、胸の奥が焦げ付いていた。
強い敵とぶつかり合って、命を削り合うような戦いの中で魂を燃やしてしまいたかった。
「赤」の迷宮で味わったような、ひりひりとしたあの時間。
地上では味わえない、背後に死が控えた戦いに身を投じてしまいたい。
迷宮歩きは愉快な時間だ。共に行く仲間がいるのも良い。
神官の祈りの誠実さ、スカウトたちの研ぎ澄まされた感覚も、見えぬものを掴み操る魔術師たちの業も良い。
だが今は足りていない。物足りなくて落ち着かない。
「黒」あたりの入り口付近なら、ぶらりと一人で入り込んでも無事に戻れるだろうか?
行けはするだろうが、それで満足できるのか?
考え事をしていたせいか、家へと続く道の途中で人とぶつかりそうになってしまった。
ほんの少し服が掠れる程度だったが、紳士である髭の戦士は立ち止まった相手に非礼を詫びる。
「失礼いたしました」
ウィルフレドよりもずっと背が低い。
「こちらこそ」
長い黒髪に隠れていて顔は見えなかった。うつむいたまま小さく頭を下げ、甘い香りをふわりと振りまく。それは戦士の胸の奥を優しくくすぐって、一瞬で溶けて消えていった。
暗い色の服を着ていたその誰かは、肌の色も浅黒かった。見ない肌の色で、異国からやって来たのだろうかとウィルフレドは思う。
家に戻り、夜になり、次の日の朝が訪れる。
その間に帰って来たのかどうかわからなかったが、結局この日もニーロの姿はない。
さすがにどこで何をしているのか気になって来たが、まだ心配するほどではないだろう。
今日はなにをしようか、戦士は考える。
カッカーの屋敷で剣を教えてもいいが、シュヴァルの様子も気になる。
短い迷宮の旅の中で、鋭敏な感覚と類まれなる集中力を見せつけていた。
ニーロはシュヴァルについて、スカウトとしての活躍が見込めると考えているのだろう。
クリュが言っていた通り、まだ幼い子供なのに。
けれどそんな意見は、キーレイやニーロの存在のせいで意味を失ってしまっている。
家を出て、少し進んだところでウィルフレドは立ち止まった。
シュヴァルを訪ねるのなら、みやげでも持って行こうと考えたからだ。
そのまま住宅街を進んでも店はない。あの子が甘いものが好きなら、ギアノのところに寄ってなにか分けてもらってもいいだろう。
ホーカ・ヒーカムの屋敷にいる間に様々なものを持っていったが、すべてのものにケチをつけられた。
素直に受け取りはするのだが、気に入ったか聞いてもまともに答えてはくれなかった。
あのひねくれた様子がまた可愛いのだが。ウィルフレドはそう考え、ふっと笑う。
一度くらいは笑顔を見てみたいものだと思いながら店が多く並ぶ通りを目指して歩いて行くと、ひと気のない曲がり角に佇んでいる影があるのに気付いて、足を止めた。
昨日ぶつかってしまった人物に違いない。
あの甘い香りが思い出されて、ウィルフレドは立ち止まったまま黒い影を見つめた。
視線に気が付いたのか、香りの主は振り返ると、ゆっくりと戦士に向かって歩み寄って来た。
ゆったりとした優雅な歩みが進んで、影のような人物の姿があらわになっていく。
今までに見たことのない暗い色の肌に、漆黒の艶やかな長い髪。
黒いローブは裾も袖も長いが、軽やかな素材で作られているのか風を受けてひらひらと揺れている。
目の前までやって来ると、その人物はウィルフレドをまっすぐに見上げて、あでやかに笑った。
緑がかった黄色い瞳はこぼれ落ちそうなほどに大きい。鼻筋はすうっと通っていて、唇は艶めき、形の良い耳は小さな黄緑色の宝石で彩られている。
大きな目には長い長い睫毛がかかって、美しい顔に憂いの陰を落としていた。
肌は滑らかで艶めかしく、全身から色香が放たれているようで、ウィルフレドは体の奥底に熱いものを感じている。
「昨日、ぶつかってしまったお方ですね」
「ぼんやりとしてしまって、失礼いたしました」
「わたしもです。この街にたどり着いたばかりで、迷っていたのです」
美しい黒影の人物は、目を細めてふふと笑った。
「わたしはラフィ・ルーザ・サロ。ここよりも遥か遠い、西の国より参りました」
ラフィは戦士をまっすぐに見つめたまま、神殿を探していたと話した。
「神殿ならば、案内できると思います」
ウィルフレドが名乗ると、旅の神官はまた艶やかに笑ったが、思いがけない事情を話し始めた。
「この街にも『夜の神殿』はないのでしょう?」
「『夜』、ですか」
「西のスアリア王国でも見つけられませんでした。世界を生み出したという大地の女神の存在は変わりませんが、その子らである神々については、わたしの故郷とこの辺りでは違いがあるようです」
ラフィは夜の神に仕える神官なのだと話した。
流暢に話しているのだが、発音はところどころ違和感を覚えさせるものがあり、故郷とでは言語の違いもあるのだろうとウィルフレドに思わせている。
「あなたの言葉はとてもわかりやすいです、ウィルフレド」
「そうですか」
「丁寧な言葉を使ってくれているからでしょうか。わたしの問いかけに答えてくれた人は大勢いますが、よくわからない時もあったのです」
ラフィの姿は魅力にあふれており、男たちが黙って放っておくわけがない。
あんな黒い服など脱いで、全身を宝石で飾ればいいと思えるほどだ。
「ここはとても不思議な街ですね。西からずっと旅をしてきましたが、こんなところは初めてです」
「確かに、こんな街は他にはありません」
ウィルフレドが答えると、ラフィはゆっくりと頷き、戦士にこう問いかけた。
「この街の地下には迷宮があると聞きました」
「ええ、確かに。遥か昔に魔術師が作ったという、深い迷宮が九つもあるのです」
「ウィルフレド、あなたも迷宮に入るのですか」
髭の戦士が頷くと、ラフィはまた美しい唇を微笑んだ形に変えて、まっすぐにウィルフレドを見つめた。
「とても興味深いです。わたしを案内してもらえませんか?」
そっと手を重ねられて、戦士の心は大きく傾いだ。
ほんの数分会話を交わした程度の相手に、こんなにも心をかき乱されるとは。
世界は広い。迷宮都市に来てから何度かそんな思いを抱いてきたが、これまででもっとも大きな揺れの中に落とされている。
「迷宮の中には罠があり、襲い掛かってくる敵もいます」
なんとかこれだけ絞り出したが、ラフィはまた「ふふ」と笑って、ウィルフレドの手をゆったりと撫でている。
「わたくしは神官ですから、傷は癒すことができます。それに、戦いの心得もあります」
ラフィの姿の中に、武器の類は見当たらない。
大きな荷物がないのはどこかに置いてきたからなのだろうが。
「剣も少しは使えます。ですが、それよりも得意な戦い方があるのです」
身一つで戦う武術の類の使い手、なのだろうか。
迷宮の中の魔法生物相手には、あまり有効とは言えないだろう。
いや。ただ進むだけならば、皮を剥いだり肉を削いだりしなければ、刃物は持たずとも良いのかもしれない。
「本格的に進むには、それなりの準備が必要です」
「どのようなところなのか、ほんの少し見てみたいだけですから」
お願いしても良いでしょうか。
物憂げな瞳で見上げられて、ウィルフレドは頷いてしまっている。
考えるよりも先に、体が勝手に受け入れてしまった。
あの瞳をまっすぐに向けられては、どんな願いも断ることは難しいだろう。
異常とも思えるほどに、ラフィの眼差しは魅力的だった。いや、蠱惑的だった。
カッカーの妻であるヴァージに初めて会った時、なんと美しい女性だろうと思った。
意思の強さを思わせる瞳と、色香を漂わせる肢体に心がくすぐられたものだが、その時に感じたものと今とではあまりにも違いがある。
ヴァージの女性としての魅力はとても健全で、ラフィから溢れるものはひどく煽情的だ。
服の隙間から大きな胸が見えているわけでもないし、腰を振って歩いているわけでもないのに。
体のど真ん中に訴えるものがある。目にしただけで、頭の奥が焼かれるような非常事態に陥いってしまう。
戦士が大柄で、夜の神官は小柄で細身。
濡れたような艶髪はウィルフレドの胸よりも下でさらさらと揺れている。
見慣れない肌の色に、西の果てで産まれた美貌に、街の男たちの視線は自然と集まっていく。
迷宮都市の東側、北へ続く大通りに、ラフィの振りまく甘い香りが充満しているかのように思える。
夜の神官が隣にいれば、あれは元騎士団長だっただの、王の懐刀だった男だのといった噂は消えてなくなるようだ。
普段の思考能力は失われてしまうのか、ウィルフレドが神官を連れて歩いて行きついたところは、「黒」の迷宮の入り口だった。
「この穴の底に見えるのが、迷宮の入り口なのですか?」
「そうです。ですが、申し訳ない。ここは『黒』の迷宮、入るなり強い敵が襲いかかってくるような危険なところなのです」
「ふふ」
ラフィは小さく首を傾げて笑う。髪がさらりと流れて形の良い耳があらわになり、黄色い小さな宝石がきらりと光って見えた。
「『黒』とは、夜の神官にふさわしいところですね」
危険なのだと伝わらなかったのだろうか。
それとも、戦いになっても切り抜けられる自信があるのだろうか。
「すぐに敵が出る可能性があります」
「大丈夫です。あなたがこの剣で守ってくれるでしょう?」
腰に提げた剣に、神官がそっと触れている。
剣だけではなくウィルフレドの腕にも触れて、ラフィは呟く。
「逞しい腕ですね」
確かに、腕には自信がある。ずっと鍛えてきたから。
「黒」の一層目くらいなら無事に歩いていけるだろう。そう長く進む必要もない。
敵が出ずに終わる可能性もある。中を少し歩いて、すぐに戻ればいい。
気が付くと神官が真正面にいて、ウィルフレドを見つめていた。
大きな瞳は瞬きもせずにじっと向けられていて、今更もう断れるはずはないのだと戦士は悟った。
「少しだけ、行ってみましょう」
「ええ」
地図は持っていないが、一層目の入り口付近程度なら迷わずに帰れるだろう。
これまでの「黒」の記憶を掘り起こしながら、ウィルフレドは迷宮へ続く穴の中へ降りていった。




