108 黄金の道歩き
床にはタイルが並んでいる。
黒に近いグレーは、自分を招いた魔術師を思わせる色だ。
灰色のタイルは金色で縁取られており、時折きらりと輝き、笑う。
壁はくすんだ白で、シュヴァルの頭くらいの高さに金色のラインが走る。
金色の線はそう太くもないのに、ここが黄金の迷宮なのだと侵入者に強く思わせていた。
まずはまっすぐ。
分かれ道に行き当たったら、右へ。
そのまま歩いて行けば階段があって、降りる。
目の前に広がる景色と記憶をすり合わせながら、シュヴァルは進んだ。
背後の三人はなにも言わない。階段が見えてきたところで、少年は振り返って大人たちの姿を確認した。
誰も彼も、足音を抑えて歩いているようだ。自分しかいないのではないかと不安に思ったが、単に静かなだけだったらしい。
魔術師と神官はいいとして、鎧や剣まで身に着けているあの髭の戦士もあまり音を立てない。
どうやってそんな真似をしているのかわからず、いつか確認する必要があるだろう。
声をかけるかどうか、少年は少しだけ迷った。
魔術師の望むものについて、はっきりと示されていない。説明も命令もないまま、ただ「見せろ」と言われただけだ。
ただ行けばいいのか、それともなにかある時には声をかけたらいいのか。
そんな躊躇いも一瞬で消える。
背後にいる三人は、いちいち言わなくても理解するだろう。
迷宮とは一体なんなのか、シュヴァルはわからない。
けれど長い「紫」での潜伏や、短かった「黄」での道程で、危険なのは承知している。
歩くだけで精一杯のところで、魔術師も戦士も神官も、いい加減な真似はしないだろう。
息を整えて、階段へと向かう。
一歩一歩ゆっくりと降りていく。
松明や窓はどこにもないのに、迷宮の通路は明るく照らされているし、タイルや壁の金色はちらちらと光を受けて輝いている。
迷宮の輝きの中に、同居人の二人を思い出す。
レテウスとクリュはまったく似ていないが、髪と瞳の色はお揃いだ。髪は金色で、瞳は青。
同じ色でも、クリュの方は白く輝いている。白金色の髪に、氷のような薄い青い瞳をしている。
今頃なにをしているのだろう。無事に帰ってくるか、そわそわと待っているのだろうか。
そしてレテウスは、どこでどんな風に暴れているのだろう。
階段の一番下まで降りて、二層目へ。
考え事はすっぱりと終わりにして、シュヴァルは目の前に続く通路を見つめた。
しばらくはまっすぐ。
記憶ではそうで、現実も同じ。
曲がり角はない。前方から聞こえる音もない。
「紫」では現れた動物が、ここでは姿を現さないのだろうか。
大きな鼠だとか、蛇だとか。蔦や葉の生い茂る場所と違って、身を隠せないから?
わからないが、どれもこれも襲い掛かってきた。人間に対して、一切の怯えを見せない恐ろしい獣たちだった。
ナイフは使えるけれど、オンダやドームのようにはまだ戦えない。もっと練習しておけばよかった。
まだ早い、そんな必要はないと言われて、争いごとは周りの大人に任せてしまったから。
だから、今、こんな風に見知らぬ三人と地下を歩いている。
あまり思い出さないようにしていた記憶が蘇ってきて、シュヴァルは鋭く息を吐き出していた。
哀愁は今は必要ないので、ふっと強く吹き飛ばしていく。
もう少し進んだところにあったはずだ。違和感が。
歩く速度を少しだけ落として、目を凝らしながら行く。
同じ大きさ、同じ色のタイルが素知らぬ顔で並んでいるが、偽物が紛れ込んでいる。
本当に些細な違いがある。色味、盛り上がり、タイルの縁の継ぎ目にできた、ほんの少しの差。
前回、ずっと前を歩いている五人組の動きが乱れたのが見えたから。
それでなにかあるのではないかとシュヴァルは考え、たどり着いたところですぐに気が付いた。
迷宮の床のタイルはきっちりと並んでいるから、おかしいと思った。
踏んだらどうなるのかはわからない。ひょっとしたらたいしたことはないのかもしれない。
わからないけれど、避けて進んでいく。
真ん中に一か所、左右にもそれぞれ一か所。
仲間と広がって歩いていけば、誰かが引っかかるようなところに配置されている。
最初の床の罠を避けて、シュヴァルは進んでいく。
次の悪意も床のタイルの中に潜んでいる。
これについては、前を行く五人の姿で確認はできなかった。
間違えて踏んでから、しまったと気が付いたところだ。
タイルの見た目に変化はない。踏んだ感覚だけが違う。ふっと沈むような気配があって、慌てて足を離した。
左の壁から鋭い刃が飛び出して来て、危うく刺さってしまうところだった。
前回無事に通り抜けられたのは、シュヴァルが子供だったからだ。
刃の飛び出し口が高いところにあって、慌ててしゃがんだ十一歳の少年を捕らえることができなかったから。
オンダなら腕を貫かれていただろう。シュヴァルはそう考えながら、壁に穴でも開いていないか目を凝らし、確認していった。
床の仕掛けを踏んでしまうと、すぐ横から刃が飛び出してくる。
壁をじっと見つめて、何か所かおかしなところに気が付く。
足先の感覚にも集中をして、ゆっくり、慎重に進んでいった。それで、なんとか切り抜けられた。
この罠に気付かず、命を失う者がいるとして。
どうしてこんなに迷宮の中は美しいのだろう。
シュヴァルはふっとそんなことを考え、また前を見つめる。
オンダと自分は、紫色の床の上で力尽きたはずだ。
その話を髭の戦士に伝えたのに、なにが起きたのかは説明されなかった。
迷宮で倒れたら、外へ放り出されてしまうのだろうか?
まだ、なにもわからない。死んだ者はその場に崩れ落ちて、誰もいないところへ運ばれ、朽ちていくだけだと思っていたのに。
床だけではなく、壁、天井にも視線を走らせながら、シュヴァルは進む。
記憶だけでは足りない。ありとあらゆる感覚で危険を感じ取らなければいけなかった。
目を凝らし、耳を澄まして歩いているけれど、集中は少しずつほどけていってしまう。
気付いた瞬間に足を止めて、顔を両手で叩き、気合を入れる。
背後の大人たちはなにも言わず、ただ、あとを着いてくるだけだった。
もうひとつ罠をくぐり抜け、階段を降りる。
静けさと共に歩いて行くと、水が湧き出す泉があった。
「紫」では何度も水の湧く泉の世話になった。飲んだらなぜか元気になったし、ちょっとした怪我の痛みも消えた。
迷宮にはああいう、不思議なものがあるのだろう。明らかにただの水ではなかった。
泉を見たせいか、喉が渇いたとシュヴァルは思った。
自分で考えているよりもずっと体が疲れているのがわかって、息を吐き出していく。
頼りない眉毛との暮らしは平和そのもの、のんびりだらだらとしていたせいで、すっかり鈍っている。
永らく暮らして来た渓谷では、飛んだり跳ねたり、登ったり泳いだり。
のろまのままでは暮らせないところだった。野生の獣との遭遇もしょっちゅうだったのに。
こんなに家と人だらけの場所で、出来損ないの子分に養われることになるなんて。
「シュヴァル」
泉を睨みつけたまま動かない少年に声をかけてきたのは神官長で、穏やかな表情で袋を差し出している。
「なんだ、それ」
「水だよ。喉が渇いたんじゃないかな」
「ああ」
すぐそこに水が湧き出しているのに、こうして水袋を渡してくるのなら、あれは飲んではならないものだったのだろう。
素直に受け取り、喉を潤していく。
そんな少年の肩に手を置き、キーレイは目を閉じている。
背の高い神官長が小声でぶつぶつ呟くと、手のひらが淡く光を放ち、体の中に入ってくるような感覚があった。
それで、足は軽くなったし、頭がすっきりとしたように感じた。
「なにをした?」
「少し疲れたんじゃないかと思ったんだ」
「余計な真似するんじゃねえよ」
「すまなかったね。ウィルフレド、あなたも疲れたのではないですか」
お供の戦士と魔術師にも、同じように柔らかな光が与えられていく。
二人は黙って受け入れているし、水も飲んでいる。
似たような力を、街の隅で蹲っている時に使われた。
商人たちの雇った用心棒に殴られた傷を癒してくれたのは、神官だっただろうと思う。
神に仕える者は怪我を治してくれるのだと、ドームから聞いたことがあった。
街角で出会って納得したが、神官によって光の色が違うとか、受ける感覚に差があるのは新発見だ。
あの時の目をギラギラとさせた神官の癒しよりも、目の前にいる神官長の使う力の方が、暖かいし柔らかい。
体の奥に染み入るように流れ込んできて、よく眠った日の朝のようなスッキリした状態になっている。
疲れのとれた体で、くっきりとした視界で、シュヴァルは再び迷宮の道の先を見据えた。
九つある迷宮の中で、八番目に来るべきところ。
黄金の道は、最後のひとつと同じで、歩くことすら難しいのかもしれない。
シュヴァルも今進んでいけるのは、前回の経験があるからだ。
失敗してしまったところから先は知らない。
あの先にも行けと言われたら?
「状態はどうですか。まだいけますか?」
魔術師に問われ、シュヴァルは鋭く視線を向けた。
「行けるに決まってんだろ」
「良い答えです」
心の中を覗かれていたのではないだろうか。魔術師にはそれができるのではないだろうか。
不安を感じていたことも、隠そうとしていたこともすべてお見通しだったのではないだろうか。
反射的に答えてしまった。けれど強がった答えを灰色は気に入ったようで、満足そうに微笑んでいる。
どうあっても、行くしかない。行けないだとか、行きたくないなど、思っていても言いたくない。
大人たちの休憩はどうやら済んだようなので、シュヴァルは黙ってまた歩き出した。
泉の前を通り抜けて、更に先へ。
記憶を辿りながら、感覚を研ぎ澄ませながら、ゆっくりと。
矢だの槍だの刃だの、壁や天井から飛び出させないように。仕掛けに触れれば終わりだというのなら、触れなければいい。触れないために、事前に気が付かなければならない。
床の僅かな突起を避ければ、壁に手をついてしまいそうになる。
そこにまた、ほんの少しだけへこんだ個所がある。
なるほど、疲れていればバランスを崩して、罠の餌食になってしまう。
神官長が声をかけてきた理由はここでわかったし、シュヴァルは嬉しくなってにやりと笑った。
クリュを連れてこなくて良かった。こんな危険なところは嫌だ、子供を危険な目に合わせるなと騒いだだろうから。
喚いたり泣いたりする人間は、ここではただ邪魔なだけだ。灰色の判断は正しく、神官長も見る目がある。
背後の三人こそ、新しい子分にふさわしい人間なのかもしれない。
彼らのような役に立つ男たちがついてきてくれたら、すべて、取り戻せるだろう。
シュヴァルはふとそんなことを考えて、次の瞬間、雑念を振り払って迷宮の床に落とした。
余計な考えは今はいらない。自分がどれだけできるか見せつけ、わからせなければいけないのだから。
集中を取り戻して進んでいくと、無事に次の階段に辿りつくことができた。
記憶が正しければ、この先に「例の場所」がある。
灰色が率いる五人組を追いかけていって、失敗したところだ。
あの時は床の仕掛けに気が付かなかった。でっぱりがあると思って避けたが、その避けた先に罠が仕掛けられていた。
見抜いてやったという慢心が、死を招く。
最初のでっぱりも罠なのか、それともただの引っ掛けなのかはわからない。だから、どちらも避ける。
前回踏んでしまった仕掛けの先にもなにかないか目を凝らして見抜いて、安全な場所を選んで進む。
「そこまでです」
魔術師から声がかかり、シュヴァルは振り返る。
迷宮の床は点々と光っているところがあって、背後の三人はそれを踏まないように避けて歩いてきた。
「なんだ、その光は」
「危険な箇所をわかりやすくしたのです」
「そんな真似しねえと歩けないのか?」
「ウィルフレドとキーレイさんが安全に通り抜けるために必要です」
大柄な二人はひょいひょいと光を避けてやってきて、魔術師の隣に並んだ。
「ここまでか、ニーロ」
「もういいのかよ。俺はまだやれるぞ」
「いいえ、もう終わりです。あなたの能力は充分に見せてもらいました」
「充分だと?」
「その強気さもあなたの長所ですね」
わかったような言い方が気に入らず、シュヴァルはニーロを睨んだ。
だが次の瞬間にはもう、四人は迷宮の外に移動していた。
「黄」の迷宮の入り口の横にある、金色に輝く石で出来たステージの上。
なにがどうなったのかわからないが、とにかく魔術なのだろう。
「あれ以上進むと敵の出現率があがります」
「あそこまでなら出ないのか?」
「いいえ、今日はたまたま出てこなかっただけです」
運が良かったですね、とニーロは笑う。
「なにが出たって倒してやったのに」
「僕はあなたの強気さを誉めましたが、短所でもあります。なんでもそう簡単に考えてはいけません」
澄ました顔はやたらと腹立たしくて、シュヴァルはニーロに殴りかかった。
だが、繰り出した拳はウィルフレドに止められてしまった。
戦士はやたらと大きい癖に素早く前に出て少年の手首を掴み、魔術師を殴るという目標は果たされなかった。
「今日はこれで終わります。付き合ってくれて感謝します、シュヴァル」
襲われそうになったことなどなかったかのように、涼しい顔でニーロは話した。
小さな袋が差し出されて、少年は顔をくしゃくしゃにしかめている。
「なんだよそれは」
「報酬です」
「報酬?」
「探索に付き合ってくれたので」
魔術師に試され、応じた結果金を支払われる。
こんなにもはっきりとした上下の関係は腹立たしく感じられて、小袋をはたき落としてやろうとシュヴァルは思った。思ったし、手を振り上げていた。が、止めた。
頭をよぎっていったのは、レテウスとクリュ、二人の頼りない新しい子分の顔だ。
レテウスは稼ぐ方法が見いだせず、悩んでいるようだった。そして自分は、なにもできない。今はただ保護されるしかない。
これから先、もう盗んだり奪ったりすることはできないだろう。
複雑な気分ではあったが、ぐっとこらえてシュヴァルは手を差し出した。
ニーロは笑みを引っ込めて、感情のない顔で小袋を小さな手の上に置く。
「また付き合ってくれると嬉しいです」
「なあ」
「なんですか?」
小袋はずっしりとしていて重い。
「なんで俺をあんなところに行かせた?」
「あんなところとは?」
「変な魔術師の屋敷だよ」
隣で様子を見ていた大男の二人が、顔を見合わせている。
シュヴァルは強く睨みつけているが、ニーロは涼しい顔でこう答えた。
「僕が行かせたわけではありません。あなたがあの屋敷に行ったんです」
「お前の寄越した変な紙のせいだろう」
「あれは『帰還の術符』と呼ばれるもの。迷宮から一気に地上へ戻ることができるとても便利な道具ですが、あなたに渡したのは僕が改造をしたものでした」
うまくいって良かった、と魔術師は笑っている。
当然、シュヴァルは怒って、なんの話だと食って掛かった。
「あの術符は、使用者の望む場所に移動するようにしていたんです」
「使用者の望む場所?」
「渡す直前に、ホーカ・ヒーカムの屋敷の話をしましたね。あなたは僕の言うことをちゃんと聞いていて、あの屋敷に飛ばされたのです」
「なんだと……」
実験に協力してくれてありがとうございました、とニーロは呟く。
「あなたは随分素直な性格をしているようですね」
また殴りかかろうとした少年を、再びウィルフレドが止める。
魔術師は微笑みをひとつ残して振り返り、さっさとはしごを登っていってしまった。
神官長と髭の戦士に付き添われて、シュヴァルは家まで送られていた。
食事をしていこうとか、新しい服は必要ないかとか、二人はあれこれ話しかけてくれたが、すべてを無視して家に入る。
「シュヴァル! ああ、良かった」
クリュが笑顔で駆け寄ってきて、シュヴァルをぎゅっと抱きしめる。
柔らかな金色の頭をぽかんと一発殴り、少年はそばにあった椅子に荒々しく腰を下ろした。
「痛いよ、ひどいよシュヴァル」
青い瞳から大粒の涙をこぼしながら、クリュは怒った。迫力はなく、結局可愛いだけだ。
なんの反応もされずにとうとう諦めたのか、美青年は涙を引っ込め、怒った顔のままシュヴァルの隣に座った。
「本当に『黄』に行ってきたの?」
「ああ」
「怖かったんじゃない? あそこの罠はものすごく難しいって話だよ」
「別に」
「……それだけ?」
なにか言うことはないのか。クリュが立ち上がりかけたところで、レテウスが扉を開けて戻って来た。
太い眉毛をぴくぴくと動かし、上機嫌といった様子で中に入ってきて、二人に笑顔を向けている。
「今帰った!」
「おかえり、レテウス」
「ああ。サークリュード、ありがとう、今日は」
「スッキリした顔してるね」
良かった良かったと呟いているが、クリュは呆れたような瞳をレテウスに向けている。
家主は自分の部屋へ入り、着替えをしているようだ。
のんきなやつだと考えながら、シュヴァルは隣に立つクリュへこう問いかける。
「なあ、あの穴の中にある罠って、なんとかできるもんなのか?」
「ん? 迷宮の話?」
「他になにがあるってんだよ」
「そりゃそうか。罠はね、見つけたり外したりする専門家がいるんだよ。スカウトってやつ。最初のうちは練習用の仕掛けなんかを使って、解除の方法なんかを学ぶみたいだけど」
「練習なんかできるのか」
「今日行ったところのは無理だと思うよ。だけど『橙』とか『緑』あたりのは練習できるみたい。俺は詳しくないから、あんまりわからないけど」
専門家の知り合いはいないのかシュヴァルが尋ねると、クリュは首を傾げてぶつぶつ呟いている。
「カミルは駄目だと思うんだよなあ」
「腕が悪いのか?」
「わかんない」
「なんだよ、役に立たねえなリュードは」
「もう、なんでそんなひどいことばっかり言うの、シュヴァルは」
クリュが頬を膨らませたところにレテウスがやってきて、上機嫌でなんの話をしているのかシュヴァルへ問いかける。
スカウトの知り合いなどいないだろうと話すと、レテウスはぱっと顔を輝かせてこう答えた。
「この間ユレーが連れて来た、マージだったか。彼女はスカウトだと言っていただろう」
一体この数時間の間になにがあったのだろう。
レテウスの表情は明るく、肌がつやつやとしているように見える。
だが、それとレテウスの心当たりについては関係ない。
確かにユレーと一緒にやってきたマージなる人物は、探索をしていると話していた。
紹介された時にはわからなかったが、スカウトだと言っていたことが思い出されている。
「やだよ、あいつは」
「何故だ、シュヴァル」
「……いや、うるさかったから」
「確かに、やかましくはあったが。ユレーが来た時に聞いてみてはどうだろう」
「いいよ。余計なこと言うんじゃねえぞ、眉毛」
ぼんやりとした顔の近所の屋敷の管理人が紹介してくれた、家事手伝いのユレーには随分世話になっている。
掃除、洗濯、炊事など、生活に必要なあれこれを根気よく教えてくれて、シュヴァルも様々なことができるようになった。
ユレーが連れて来たマージのことはよく覚えている。
レテウス相手にぽっと頬を赤く染め、あれこれ問いかけ、眉毛は馬鹿正直に話す。
マージはレテウスから漂う駄目男の気配にガッカリし、レテウスも美女ではないからと興味を持たなかった。
シュヴァルはそんな乾ききった出会いをそばでただ見ていたのだが、今は「やはり」と思っている。
レテウスはやはり、マージが男だと気付いていない。
女の格好をして化粧もしていたが、骨や体つきは隠しきれていなかった。
世の中うまくいかないものだな、とあの時シュヴァルはしみじみ思ったものだった。
女になりたいのになれないマージが帰っていき、入れ替わるようにクリュが戻って来たから。
どうみても絶世の美女のようなクリュは、なかなか男に見られなくて困っている。
「どうしてスカウトを探しているんだ?」
「別に」
上機嫌で話していたレテウスは、そこではっとなにかに気付いたように表情を引き締めている。
「まさか、探索に興味が湧いたのか?」
意識が保護者に切り替わったらしく、貴族の青年はシュヴァルの両肩を力強く掴み、眉毛をぴくぴくと動かしている。
「サークリュードから話を聞いたのだろう。迷宮は恐ろしいところだ。子供が足を踏み入れてはいけない」
さっきまで八番目に挑むべき迷宮へ行っていたなどと、夢にも思っていないのだろう。
レテウスはしたり顔で何度も頷き、今は文字の読み書きや、美しい話し方を学ぶ時間だと続けた。
「サークリュードはあんな風だが、れっきとした大人だから。自分でなにもかもに責任を取れるようになってから考えなければならない」
話を振られたクリュは、笑いをこらえているのか手で口元を抑えている。
最後に「わかったな」と言い残し、レテウスは用を足しに部屋を出て行ってしまった。
「どうするの、シュヴァル。今日のこと黙っておく気?」
「言ったらあいつ、ひっくり返るかもしれないな」
「あはは、そうかも」
クリュは無責任に、見てみたいと笑っている。
「なあリュード、今日、報酬をもらったんだ」
「報酬? なにかいいもの手に入れたの?」
「いや、なんにも。迷宮に付き合った礼だとよ」
ニーロからもらった小袋を差し出すと、クリュは受け取って早速中を覗いた。
「結構な額が入ってる」
「そうなのか」
袋をゆらしてチャラチャラ鳴らし、美青年は目を丸くして唸っている。
「ついていっただけでこれ? さすが無彩の魔術師ってことなのかな。ものすごいお金持ちって話だけど」
「知らねえよ。あんな奴の話はするな!」
袋を取り戻し、思い出してムカムカしてしまい、シュヴァルは部屋の中をぐるぐると歩いた。
レテウスに渡せば喜んでもらえると考えていたのだが、今日のことを思いだすと胸がムカついて仕方がない。
散々まわって、シュヴァルは自分の部屋へ移動し、服を入れてある棚の奥に小袋をしまった。
いつか心の整理がついた時か、財政が破綻しそうな時か。
とにかく今ではない時に、あの金について話す機会が来るだろう。
窓からは夕暮れの橙色の光が入りこんでいる。
もうすぐ夜がやってきて、また一日が終わるのだろう。
「おい、眉毛!」
部屋から出て大きな声で呼びかけると、更にすっきりとした顔のレテウスが戻ってきて、シュヴァルは思わず笑っていた。
「どうしたシュヴァル。なにを笑っている」
お前がなんにも知らない、可愛い子分だからだ。
心の中で答えて、小さな親分はレテウスにこう訴えていく。
「腹が減った」
「私もだ。サークリュード、今日は一緒にどうだ」
シュヴァルが機嫌を良くしたことにほっとしたのか、クリュもにこにこと笑みを浮かべながら寄ってくる。
「うん。レテウスの好きな兎肉のステーキを出す店、あそこに行こうよ」
「そうだな。シュヴァルもあれが好きだろう」
「そうなの、シュヴァル」
「いや、知らねえ」
そっけない返事に慣れたのか、二人は呆れ顔で少年の背中や肩を叩いている。
「店では行儀よくするんだぞ」
「そうだよ、シュヴァル」
普段なら、俺に指図するんじゃねえ、と答えるところだ。
けれどシュヴァルは肩をすくめるだけにして、二人の子分と一緒に夕食を食べに出かけ、波乱の一日を終えた。




