107 初めての休日
家主の男が苛ついている。
皿を落として割り、洗濯をした服を破いている。
苛ついて荒々しくなった結果いろんなものを破壊して、それに更に苛ついて唸っている。
同居人たちは近頃そう感じていたが、そのうちの幼い方である少年シュヴァルはどうしたらいいのかわからずにいた。
苛つく大男というもの自体には慣れている。
これまでに散々見てきたので怖くはないのだが、彼らはみんなシュヴァルが一喝すれば頭を下げてきた。
すぐに「すみません、坊ちゃん」と謝って態度を改めていたのに。
レテウスはそうではなくて、眉間に深く皺を刻んだまま睨んでくる。
子分のくせに生意気な、とシュヴァルは思う。
問題は解決せず、親分である少年も苛立っていた。
ムカついたまま眠って、また朝が来て。
今度はカップを割ったレテウスに、シュヴァルは舌打ちをしている。
「またかよ、眉毛」
「眉毛などと呼ばないでもらいたい!」
「もういい、お前は皿を洗うな」
レテウスに家事を止めさせたら、すべて自分が引き受けなければならず、とてつもなく面倒ではある。
だが、日々減り続けるばかりの財政状況について、家主は深く悩んでいるようだった。
ならば、これ以上の損失は防いだ方が良い。
面倒でも自分がやれば、空気も悪くならずに済むだろう。
シュヴァルの考えはこんなものであり、出て来た嫌みは自然に発生したただの副産物でしかない。
だが、レテウスはそう受け止めない。
罵られたと考え、役立たず扱いされたと思う。
子供相手に喧嘩などという美意識でなんとかこらえてはいるが、態度は荒々しくなってしまい、そんなレテウスにシュヴァルはまた舌打ちをしてしまう。
「シュヴァル、そんな下品な真似をするな」
最低の悪循環がこの日もまた繰り返されてしまうのか。
シュヴァルはうんざりしたが、この日は部屋の奥の扉がちょうどいいタイミングで開いた。
「おはようシュヴァル、レテウス」
麗しい姿の青年には鎮静作用があるようで、声をかけられたレテウスは眉間に入っていた力を緩めている。
金色の髪は窓から差し込む朝日を受けてきらきらと輝き、青い瞳も同様。
シュヴァルの二人目の子分であるこの金髪は、いつもなら好き勝手に飲み食いした後、ふらっと出ていって夜まで戻って来ない。どこでなにをしているのかはさっぱりわからないが、とにかく夜になると戻ってきて、世間話をいくつかしてから自分の部屋で眠るという暮らしを続けている。
だが今朝はそうではないようで、唸る大男の前にやって来るとにっこり笑った。
「ちょっといい?」
クリュに手を引かれて、レテウスは大人しく部屋の隅へ去って行く。
「あのさ、レテウス。俺、ここんところ探索で結構稼げたんだ。だから、はい」
「これは?」
「多くてびっくりしてるんだろ」
シュヴァルは離れたところから二人の大人たちの様子を窺っている。
レテウスはどうやら金を渡されたようで、戸惑ったような表情を浮かべている。
「ちょっと遊びにいっておいでよ。いい店があるって聞いたからさ」
いい店とやらの情報は、小声で伝えられているのか少年の耳には届かない。
「シュヴァルは俺がおもりしてあげるし。一日くらい羽根を伸ばしてきたらいいと思う」
「いいのか、サークリュード」
「おいリュード、なんだよおもりって」
ふざけやがってと悪態をつくシュヴァルに、クリュはにこにこ笑いながら近寄ってきて、たまにはいいだろうと肩を叩いた。
レテウスは少し迷ったそぶりを見せたものの、結局すぐに出かける準備を済ませ、クリュに礼を言うと家を出ていってしまった。
「眉毛をどこに行かせたんだ」
「ああいう暴れん坊のための店があるんだよ」
「暴れるための店?」
「シュヴァルも大人になったらわかるんじゃない」
「お前もコソコソ行ってんのか、リュード」
「ううん。レテウスみたいに暴れん坊じゃないし、俺には向いてないところなんだ」
面倒なことが多くてさ、とクリュが呟く理由はシュヴァルにはわからない。
子供扱いしやがってとか、勝手な真似をするんじゃねえよとか。
あれこれ文句を言ってみても、まるで女のような金髪の青年は動じなかった。
「まあまあ、たまにはこんな日を作ってやらないとね。レテウスはずっと、貴族の暮らしをしてたんだから」
どうしてこうなったのかよくわからないまま始まった新生活も、随分長く続いている。
何故か同居することになった二人の大人について、レテウスよりはクリュの方がまだ頼りになりそうだとシュヴァルは思っていた。
すぐにめそめそ泣く弱虫だと最初は考えていたが、眉毛よりもずっと世間を知っている。
水場に残された食器を洗いながら、昼になにを食べようかとクリュは笑った。
そんな提案をされたのは初めてで、なんと答えたらいいのかわからない。
そもそもクリュと二人で家にいること自体が初めてなのだとシュヴァルは気が付き、腕組みをしている。
「どこかに食べに行くか。誰かと一緒なら店に入っていいんだろう?」
どこの店になら入っていいのか、シュヴァルにはよくわからない。
オンダと共に寄ったところや、盗みを働いた店以外にも寄ってはならないのか、詳しく説明してくれる者はいない。
「なにが好きなの、シュヴァルは」
「知らねえ」
「素直じゃないねー」
知らないものは仕方がない。料理の名前だの、材料が何なのかだの、わからないのだから。
誰かが食べ物を焼いたり煮込んだりして、それを出されたら黙って食べる。
シュヴァルにとって食事とはそういうものだった。出されたら、文句を言わずに食べる。子供の食事はそういうものだと決まっていた。
食器の片付けが済んだところで、扉を叩く音が響いた。
二人の視線がぶつかり、クリュは首を傾げている。
「心当たりある?」
「ない」
「俺も」
出るかどうか、悩んでいるのだろう。
シュヴァルは勝手な対応をしないよう厳しく言われており、そもそも知り合いもいないのだから、出るつもりはない。
「誰もいないのですか」
再び扉が鳴って、声が続いた。
その声には覚えがあって、シュヴァルは椅子を蹴って跳びあがり、扉を開けた。
「おい、シュヴァル」
「やっぱりてめえか、灰色野郎!」
そこに立っていたのは、いつか一発殴ってやろうと心に決めていた相手。
灰色の髪に灰色の瞳をした、すまし顔の魔術師で間違いなかった。
「なにしに来やがった」
「あなたを誘いに来ました」
「あ?」
「あなたの実力を見せてほしくて」
無彩の魔術師は微笑んだような表情をして、迷宮へ付き合うように少年へ話した。
そこにおそるおそる、クリュが近づいてくる。
大人としての責任を果たそうと考えたのか、シュヴァルの前に割って入って、緊張した様子で声をあげた。
「無彩の魔術師だよね」
「ニーロと言います。あなたは?」
「俺はサークリュード・ルシオ。みんなクリュって呼ぶよ」
「ここはレテウス・バロットの家ではないのですか」
「レテウスは今、留守にしてる。俺がかわりに留守を預かってる」
「そうですか」
ニーロは小さく頷いたが、話をしたいのはシュヴァルの方だとクリュに告げた。
金髪の美青年は一歩だけ後ずさったが、再び前へ出て、この子は外出させられないと勇気を振り絞って答えている。
だが、魔術師は顔色ひとつ変えない。そんな話は知ったことではないといった様子でこう話した。
「保護者がいれば問題ないでしょう」
「保護者って?」
「この街では最大限に身分を保証されている人物ですから、大丈夫です」
「大丈夫じゃないよ。この子はまだ十一歳なんだ。迷宮になんて行かせられない」
「無事に帰すよう、最大限の努力をしますよ」
「努力ってなんだよ」
「絶対に帰すなどという無責任な約束はできませんから」
クリュは呆れたように口をぽかんと開けたまま、黙ってしまった。
何度かなにか言いかけたが、いい文句が出てこないのだろう。
可愛いやつだとシュヴァルはにやりと笑い、同居人の腰をバンと叩いて隣に進み出る。
「リュード、俺は行くぜ」
「はあ? 駄目だよシュヴァル。なにを言ってんの」
「お前だってあの穴倉に行ってるんだろ?」
「そうだけど、子供にはまだ早いよ」
「入ったことならある」
「ええ? そうなの?」
驚く美青年に、シュヴァルはふんと笑ってみせる。
「紫んとこと、キラキラのところ」
「キラキラって? まさか『黄』? 嘘言うなよ、シュヴァル」
「嘘じゃねえよ。なあ灰色」
「『紫』に関しては初耳ですが、『黄』には確かに入っていました」
また口をぽかんと開けたままになってしまったのは、驚いたからなのだろう。
だがクリュはすぐに気を取り直すと、またお客の魔術師に向けてそれでも駄目だと訴え始めた。
「確かにシュヴァルはおっさんみたいな物言いをするけど、まだ子供だよ。迷宮になんて行かせられないよ」
「年齢は関係ありません。彼ならば大丈夫です」
「はあ?」
「充分な能力を持っているようなので」
クリュはシュヴァルを振り返り、可愛い顔をくしゃっとしかめてみせた。
その表情は腹立たしいが、その向こうで澄ましている魔術師はもっと腹立たしい。
いつか必ず一発かましてやりたい相手であり、シュヴァルとしてはこの機会を逃したくなかった。
「能力ったって、十一歳だよ。話聞いてた?」
「僕は十歳から探索をしています」
だから大丈夫、とニーロは言う。
クリュはまた戸惑い、シュヴァルは目の前の魔術師をますます生意気だと思った。
「ニーロ殿」
そこに一人、大きな影が現れて魔術師の後ろに並ぶ。
「やっぱりお前か、ヒゲオヤジ」
最大限に身分が保証されている人物とは、きっとウィルフレドを指すのだろうと思っていた。
だがその更に奥にもう一人、緑色の服を着た背の高い男がやってきて、シュヴァルは眉をひそめている。
見覚えがあった。キンキラの迷宮に入った時、灰色、ヒゲと共に歩いていた仲間のうちの一人。一番後ろにそっと控えて、なにも言わなかった男だ。
「お前誰だ、後ろの、緑ののっぽ」
「シュヴァル、樹木の神殿の神官長さんだ。あんまり変なこと言ったらダメだよ」
その神官長とやらは、扉を挟んで二人ずつ向かい合っている状況に小さく首を傾げていた。
「……君はアダルツォたちに連れてこられた、クリュだったかな」
「どうも」
「知り合いか、リュード」
「うん、まあ……」
金髪の青年は急に歯切れが悪くなって、神官長の説明はこれ以上為されないようだ。
「話はついたのかな。シュヴァル、私は樹木の神官、キーレイ・リシュラだ」
「嫌な色の服だな、お前」
「緑は嫌いかい」
「神官長なんだろ、お前。もっと立派な格好すりゃあいいじゃねえか。見たらすぐに偉いってわかるようなキンキラをつけろよ」
「神官はそんな格好はしないよ」
悪態は気にならないのか、キーレイは優しげに微笑んでいる。
うさん臭さがカケラもないのが気に入らなくて、シュヴァルは思いっきり顔を背けている。
「ニーロ殿、同行を断られたのなら、また後日でもよろしいのではないですか」
「断られてはいませんよ。彼は行く気です。あちらのクリュという青年が、子供は迷宮に連れていくものではないと言っているだけです」
突然やってきた無彩の魔術師は、シュヴァルを迷宮に連れて行きたいと言っている。
実力を見せてほしいのだと。
彼らはとても感心していた。「黄」の迷宮で罠にかかったまま、じっと耐え抜いた少年のことを。
だが、一緒にやって来た大柄なヒゲオヤジはあまり気乗りしていないようだ。
ヒゲはシュヴァルの母親の名前を知りたい。探していた女性に「イキウツシ」だから。
見知らぬ十一歳の少年のもとに何度も通った挙句、世間知らずの眉毛に家を用意させて面倒をみさせている。
いかにも強そうだし、どうしてこんな街にいるのか不思議な、妙に親切なこの男の思惑はよくわからない。
ついてきた地味な神官長は、たぶんオマケなのだろう。
彼らは仲間で、危険でシケた穴倉に入る時はいつも一緒に行動しているだけ。
だから今日も、特にシュヴァルに用があるわけではないはずだ。
因縁の相手にようやく会えた。
自分をコケにし、あの不気味な裸の連中がひしめく屋敷に閉じ込めた灰色にやり返すチャンスがやってきた。
迷宮だろうがなんだろうが行ってやる。
シュヴァルの決心はついており、あとはクリュを黙らせるだけだ。
「ねえシュヴァル、なにかの間違いで入っただけなんだろう? 迷宮は本当に危険なところだよ。行くにしても、順番ってもんがあるんだから」
「うるせえな、リュード。平気だって言ってるだろう?」
「あなたはウィルフレド・メティスだよね。後日でもいいんでしょ? 確かにめちゃくちゃ生意気だけど、まだ子供だよ」
「キーレイさんは六歳の時から迷宮に通っていますよ」
「そんなことは言わなくていい、ニーロ」
ウィルフレドが返事をする前に余計な情報が出て来て、クリュは口を閉ざしている。
六歳のガキでも行けるところに自分が行けないはずはなくて、シュヴァルはますます血をたぎらせていた。
「もういいから。邪魔すんな、リュード」
「レテウスが心配するよ」
「させときゃいいだろうが」
「わかった。じゃあ俺も行く。ねえ、俺も連れていって。十一歳を連れていけるんだから、俺もいいでしょ」
クリュはかなり思い切って手を挙げたようだが、ベテランたちの反応は鈍かった。
特に無彩の魔術師の視線は厳しくて、挙げた手はみるみる下がっていく。
「お前はおとなしく留守番してろ」
「シュヴァルさあ」
「お前までいなかったら眉毛が困るだろ。帰ってきて誰もいなかったら、あいつ、どれだけ取り乱すかわかんねえぞ」
「そうだろうね」
「こいつらはどう見てもタダモンじゃねえんだから。俺一人くらいどうにかして戻すだろうよ」
これで返す言葉は本当になくなったようで、話し合いは終わった。
クリュは留守番をして、レテウスの帰宅に備える。
シュヴァルは迷宮に行って、隙が見つかり次第灰色を殴る。
ウィルフレドの表情は冴えない。
キーレイは真顔で少年を見つめており、灰色の魔術師は満足そうに頷いていた。
「長い探索ではありません。少し確認をするだけですから、夜になる前には終わります」
ニーロの言葉に、クリュはしぶしぶ頷いている。
「絶対はないって言ってたけど、無事に戻して」
「彼が指示に従えば、危険な目には合わないはずです」
「シュヴァル、ちゃんと言うこと聞くんだよ」
「うるせえな。お前は飯でも食ってろ」
では行きましょう。
ニーロが言って、四人は歩き出した。
ウィルフレドがすぐ隣についてきたし、キーレイはその反対側を歩いている。
見知らぬ大人に挟まれて落ち着かないが、大男を左右に連れて歩くのは懐かしい。
いつでもこんな風に歩いていた。
もっともっと小さな頃には、よく肩車をしてもらっていた。
大柄なオンダの頭に捕まって、髪を引っこ抜かないでくださいよと頼まれた。
うんと高いところから見る景色が好きだった。少し怖くて、何度か髪を抜いてしまったが怒られることはなかった。
オンダとドーム、一番の子分だった二人組に思いを馳せながら、シュヴァルは無彩の魔術師の背中を追っていく。
「で、どこに行くんだ?」
「『黄』の迷宮です」
「それが順番通り?」
「あなたの同居人が言っていたのは、探索初心者たちが入る順番のことでしょう。それなら、『黄』は九つの迷宮の中では八番目と考えるのが妥当だと思います」
「難しいってことか?」
「そうです。『紫』に関しては人によりますが、大抵の探索者は六番か七番目にするでしょう」
「本当かよ、神官長」
自分よりもうんとちびっこ時代から迷宮に入っているという狂人に話を向けると、キーレイは小さく頷いて答えた。
「ニーロの言う通りだ。『黄』に入ろうと決めて挑戦できる探索者は、ほとんどいない」
「八番がほとんど入れないなら、九番は?」
「まともに歩くことすら難しいところだよ」
そう答えられるのは、きっと行ったことがあるからなのだろう。
三人の正体はまだよくわからないが、揃いも揃って隙がない。
それぞれ違った強さの持ち主で、今日はきっと無事に帰れるだろう。
悔しい気もするがシュヴァルはそう感じていて、強がりではなく、本当に不安はなかった。
北に向かって歩いているだけなのに、通りすがりの貧相な格好の若者たちはみんなニーロたちに気が付いたし、「あの」高名な探索者たちだと口々に囁いていた。
向けられる視線にはもれなく憧憬や尊敬が満ちている。
敵意や憎悪はなく、嫉妬すら含まれていない。
ご立派なことだ、とシュヴァルは思う。
そんな少年へ、隣を歩く大男から声がかかった。
「シュヴァル、おなかはすいていないかな」
「別に」
左側を歩いている神官長は柔和な笑顔を浮かべて、十一歳の男の子の様子を窺っている。
「あんた、本当に六歳の頃から迷宮に入ってんのか?」
「私の父はこの街で薬草を売る商売をしているんだ。迷宮の中でしか採れないものがいろいろあってね、私は父の手伝いをしていたんだよ」
「手伝いでもなんでも、とにかくあの穴倉に入ってたってことだろう?」
「確かに、迷宮には入っていたけれど」
入る迷宮は固定されるし、歩き方も少しだけ違うと、神官長は言う。
それに「ふうん」とだけ答えて、シュヴァルは反対側を歩くウィルフレドに目をやった。
キーレイもだが、髭の戦士は背中をぴんと伸ばしていて姿勢が良い。
大きな体はますます立派に見えて、こいつに喧嘩を売るのは大変だろうし、勝つとなるともっと大仕事になるだろうと思えた。
ウィルフレドはきれいな色の服を着て、きれいに磨かれた鎧を身に着けている。
腰から提げた剣も、美しい鞘にしまわれていて眩しい。
嫌な色と言ったが、本当はキーレイの着ている服もきれいだとシュヴァルは思っていた。
前を歩く灰色の魔術師がまとっている丈の長いローブもそう。
誰も薄汚れていないし、服にも破れているところがない。つぎをあてたところも見当たらない。
きっと触れたらなめらかで、着ていて気持ちの良いものなのだろうと思う。
「髪が短くなってんな」
魔術師の髪は肩よりも下に伸びていたはずだ。
男らしくない形で気に入らなかったのに、今日は短い。
「切ったので」
振り返りもせずに答えられて、シュヴァルは鼻に皺を寄せて呟いている。
「そんなのはわかってる」
会話はそれ以上続かず、四人は「黄」に向かって歩いて行った。
八番目に入るべき迷宮に近づくと人通りは一気に途切れて、街の喧騒も遠ざかっていく。
あんなにも大勢の人間が集まっている街なのに、突然どこか違うところに放り出されたような気分だとシュヴァルは思う。
そしてある気配に気が付いて、迷宮の待つ穴のそばにたどり着いたところで大人たちを止めた。
「ちょっと待ってくれ」
「どうかしましたか」
「ああ。おい、リュード、なんでついてきた!」
大きな声をあげると、近くの路地からひょいと金色の髪が見えて、クリュが近づいてきた。
「本当に『黄』なんかに行くのかと思って」
「他にどこに行くってんだよ」
「いや、わかんないけど」
「家で待ってろって言っただろ?」
「心配なんだよ。ねえ、俺もついていっちゃ駄目かな? 神官長さん、本当に駄目?」
女扱いをされるのを嫌がるくせに、こんな時だけクリュは愛らしさを全開にする。
どこから風が吹かせているのか、金色の髪をふんわりと揺らすし。
薄青の瞳をキラキラ、やたらと瞬きをしてまつ毛からぱたぱた音を立てるし、じっと見つめられた者を妙な気分にさせている。
真正面から見つめられたキーレイは困った顔で目を逸らしているが、それでもきっぱりと「駄目だ」と答えた。
「どうして?」
「わかるだろう、『黄』はとても危険なところだからだよ」
「シュヴァルはいいの?」
「今回は目的がはっきりとしているんだ。本格的な探索ではない」
「だったら良くない?」
「良くはない」
クリュが最終兵器として涙の粒を繰り出し、キーレイはますます困惑したようだった。
だがどうやら、灰色の魔術師にはどの攻撃も通用しないらしい。
「帰って下さい。素人は連れていけません」
「素人って……。ひどいよ、俺だって探索は結構しているよ」
「多少の経験程度が通用する場所ではないのです」
「シュヴァルは」
「彼には能力があると言ったはずです」
「俺にはないの?」
「ありませんね」
容赦のない断りに、さすがに心が折れてしまったようだ。
クリュは急にしおしおになって、がっくりと肩を落としてシュヴァルの前に立った。
「シュヴァル、ちゃんということ聞くんだよ」
「しつこいな。何回言うんだ」
「だって」
「わかったよ。指示には従う。あぶねえところなんだろう? 俺だってこんなところで死ぬなんてまっぴらだからな」
家を出る前に同じように言われた時、まともな返事をしなかったのが悪かったのか。
シュヴァルの返事に安心したのか、クリュの顔はようやく明るさを取り戻している。
「早く帰れ。寄り道するなよ」
「うるさいなあ、もう。絶対に帰ってきてよ!」
キラキラの金色が遠ざかり、見えなくなり、シュヴァルは待たせていた大人たち三人を振り返った。
「すまねえな、リュードが」
「あのクリュという子と君たちは一緒に暮らしているのか」
キーレイに問いかけられ、少年は「まあな」と返す。
「俺が眉毛の家に行った時にはもう住み着いてたぜ」
「眉毛……。レテウス様のことかな」
「はっ、様なんてタマかよ、レテウスが」
シュヴァルは笑い、キーレイは首を傾げてウィルフレドを見つめている。
だが髭の戦士からはなんの言葉もなく、呼称問題は流されて終わった。
「では、行きましょうか」
はしごをつたって、穴の底へ。
魔術師たちは「黄」と言うが、金色じゃないかとシュヴァルは思う。
扉も、その隣にあるステージのようなものも、美しく輝いている。
あれを割って持って帰れば一儲けできるのではないか。
ニーロを追って入った時に、そう考えたことを思いだす。
「誰もあの石を盗まねえのか」
「あれは魔術師が作ったもの。割れませんから、持ち帰ることはできません」
絶対に割れない石などあるのだろうか。
納得はいかないが、確かにキンキラのタイルは少しも欠けていない。
金色の扉が開かれる。
迷宮に入ると、ひんやりとした空気が頬を撫でていった。
今は街の立てる音のすべてが届かなくなって、しんと静まり返っている。
足音をさせてはならないような気分で、大人たちのあとを進んでいく。
「やはりあなたは素晴らしい」
先頭を行くニーロが、また振り返りもせずに声をあげた。
「俺のことか」
「ええ。とてもとても、普通の少年ではないのですね」
「なんでそんな風に言う」
「なんの躊躇もなく迷宮に入り、僕たちに続いています」
「お前が呼んだから来てやったんだろ」
「前回は罠にかかって、苦労をしたのに」
「今度は絶対に引っかからねえ」
「そうでしょうね」
魔術師はくるりと振り返り、満足げな笑顔で頷いている。
「見せて下さい。ここからはあなたが先頭です」
あまりにも意外な言葉を投げかけられて、シュヴァルは少しだけ焦る。
焦って、両隣を歩いていた二人へ視線を向けてしまう。
ウィルフレドとキーレイは揃って通路の端へ下がっていき、少年のために道を開けた。
魔術師ニーロは神官長の隣に立ち、さあどうぞ、と囁くように言う。
「生きて帰すんじゃねえのかよ」
「そのつもりです。危険な時は言いますし、言葉で間に合わない時にはなんとかしますので」
「なんだよ、なんとかって」
「いろいろな罠がありますから」
どうとでもできるのかもしれない。
魔術なんて、寝る前に聞かされた子供向けの話の中にしかなかったものだが、今はここにあるのだろう。
目の前の生意気な灰色は話の中の魔法使いのように、火も水も風も、命すらも操れるのか。
「……先頭を行けばいいのか?」
「ええ」
なにを見たいのかわからないが、同じ失敗は絶対にしない。しないとわからせてやる。
ついでに大層な有名人だという大人たちの力も、見せてもらおうじゃないか。
シュヴァルはそう考え、「黄」の道の上を歩き始めた。




