106 家宅捜索
「どうしたんですか、二人で揃って」
顔色が良くない、と魔術師は言う。
なにが起きたのか既に知っているのではないかと、キーレイは少しだけ考える。
「聞きたいことがあって来たんだ。今日は、ウィルフレドは?」
「カッカー様の屋敷に行っています。最近は剣の稽古に熱心な者が多いそうですよ」
灰色の魔術師の家には、寛ぐためのものが存在しない。
テーブルと椅子はあるが、座り心地がいいだとか、装飾が美しいだとか、そういった要素は皆無で簡素極まりない。出てくるのも水だけで、お菓子やお茶の用意は決してされないと決まっている。
その水も、出してもらえることはない。なのでキーレイはまずカップを三つ用意して、水を注いでテーブルに並べた。
「ジャグリンとファブリンのことだ」
「あの二人がどうかしましたか」
「なにから話すべきか……」
聞きたいのは「弟の存在」についてだが、何故こんな質問をするのか、理由を伝えておいた方がいいだろう。
「二人は命を落とした。『白』の迷宮の五層でだ」
「五層で?」
彼らが失敗するにしては浅すぎると思ったのだろう。
ニーロは顎に手をやって、わずかな沈黙の後に問うた。
「一緒に行っていたのですか」
「ああ、連れていかれたんだ」
「キーレイさんが?」
「私とマリートがだ」
ニーロは首を傾げている。
疑問に思うのは尤もであり、キーレイは話を続けた。
「以前スカウトとして試すために同行を頼んだ時、ニーロはどこで、誰と交渉した?」
「二人の家に行って、あの二人と交渉をしました。ジャグリンの方は話しませんでしたが」
「ファブリンは元気だったか?」
「どういう意味でしょう」
「彼には元気がある時とない時があると聞いたんだ」
「元気というのでしょうか、あの状態が」
探索の時と同じだったとニーロは言う。
最初から最後までしゃべりにしゃべって、無彩の魔術師がやって来たと大喜びされたのだと。
「彼らの弟には会ったか?」
「いいえ。弟がいたのですか? ファブリンとジャグリンは二人きりの兄弟だと話していたと思いますが」
「弟を名乗る男がいたんだ。本当かどうかはわからない」
「何者なのでしょう」
「ザッカリン・ソーと名乗っていたが、偽名なのだと思う。……彼も死んだ」
「『白』の五層で?」
キーレイは頷き、ニーロは眉をひそめている。
「なにがあったのですか、キーレイさん」
散々な探索に行く羽目になった経緯を話していくと、どうやら先にマリートが一人で連れていかれたことについて、ニーロが知らないのだとわかった。
「マリート、話してなかったのか?」
剣士は下を向いたまま黙っているが、言えずにいた理由もわかるような気がしている。
あの三人に無理矢理連れていかれたこと自体を恥だと考えていそうだし、道中嫌な思いを散々しただろうから。落ち込んでそれどころではなかったのだろう。
「よく行きましたね、マリートさん」
「逃げられなかったんだ」
「キーレイさんも?」
「そうだな。その場だけならなんとかできたかもしれないが、何度でも来そうだし、手段を選ばないんじゃないかと思って」
「その『弟』とやらがですか」
ニーロからこんな問いが出たのは、ファブリンが相手なら断り切れたからなのだろうか。
確かにやたらと煩かったが、ザッカリンほどの圧はなかった。
対応に苦慮させられたが、悪い人間ではなかったのだろう。
キーレイは心に陰が差し込んでくるのを感じて、スカウトの兄弟たちに安息が訪れるよう祈る。
彼らはマリートに二回目の襲撃をかけて、キーレイも攫って探索に付き合わせた。
狙ったのかどうかはわからないが、揃って外にいるタイミングを待っていたように思える。
まだ謎に満ちた「行き止まり」の話に乗るという確信もあったのかもしれない。
双子の弟を名乗るザッカリン・ソーの要望は一貫していた。
マリートとキーレイ、二人と共に探索に行きたい。
「白」と「黒」にある行き止まりを調べたい。
「行き止まりには辿り着いたのですか」
「いや、その前に終わった」
ジャグリンはなにも言わなかった。だから、三人もの命を奪った理由は推測するしかない。
ファブリンに刃を突き立てたのは、あれ以上苦しませたくなかったからなのだろう。
では、ザッカリンは? 一切の躊躇なく刃を走らせたのは、よほど強い感情の昂ぶりがあったからではないのか。
「ザッカリンはファブリンになにかしたのかもしれないな」
推測でしかないが、彼らの様子から、あまり他の可能性について考えられない。
呻くように声を絞り出すキーレイに、ニーロはまっすぐに視線を向けた。
「なんだと思いますか、キーレイさんは」
「いや、わからないが……」
本当は「生き返り」を使えたのかもしれない。可能性自体はゼロではない。
短期間のうちに何度も生き死にを繰り返して、ファブリンがおかしくなっていったのかもしれない?
「いや、しかし、無理じゃないか?」
「なにがですか」
「石の神殿のあとに他をあたって、そこで修行をした可能性も捨てきれないとは思う」
「『生き返り』を使えたかもしれないと?」
「絶対に無理だとは言い切れないからな」
ニーロはじっと相手の目を見て話す。
誰がなんと言おうと、追及することはあまりない。
心の中を覗いて、真意がどこにあるのか探っているのではないかと思う。
だから今、本当は生き返りが使えるはずなどないとキーレイが考えているのはお見通しなのだろう。
「マリートさんは『黒』の行き止まりに行ったのですね」
「ああ。……ニーロに話そうと思ったんだが、ちょっと」
「なにか問題が?」
「いや、問題はない。あの時もファブリンとジャグリンが死んだんだ。死んだ二人と一緒に脱出した」
帰還者の門にはふたつの大きな死体が転がっていて、そんな異様な状況にも、ザッカリンは平然としていて。
不快でたまらなかったとマリートは呟いている。
剣士には繊細なところがあるから、話す気にはなれなかったのだろう。
ニーロも決して「大切なことを黙っていた」とは考えないはずだ。
「先に行き止まりのことを聞いてもいいですか?」
迷宮に対する好奇心を抑えられないのか、ニーロに断りを入れられて、キーレイは思わず笑っている。
マリートは落ち着いていたが、話はまとまりがなく、思い出した順にあれこれと語っているようだ。
「『黄』の時と同じやつらが現れたと思う」
「見えない敵が出たのですね」
「あいつらはそれにやられた」
ファブリンとジャグリンが死んでしまったのは、いた位置が悪かったから。彼らは運がなかった。
マリートが気が付いて声をあげたが、遅かった。間に合わなかった。
ザッカリンはやられずに済んだので、脱出できた。
どうするつもりなのか、結局どうしたのかは確認せずに穴から出た。
「マリートさん」
「なんだ?」
「他になにがありましたか」
剣士はしばし、ぴたりと動きを止めたまま黙った。
瞳だけを右に、左に、何度か移動させたあと、腰のポーチを開けてなにかを取り出し、魔術師へ差し出した。
「あれも見えなかった」
ニーロの白い掌の上に、小さな珠がころりと落ちる。
「なにかが跳ねていた。剣で貫いたし手ごたえはあったが、残ったんだ。倒せたかどうかはわからない」
マリートはなにと出会ったのだろう。
見えないものについて説明するのは大変だし、慧眼の剣士の技はどうやら無意識のうちに繰り出されるようでもある。
曖昧な言葉の連続でなにがあったのかちっともはっきりしていないのだが、ニーロは頷き、渡された小さな珠をじっと見つめている。
「剣の先に刺さっていたんだ」
ニーロが手を動かすたびに、珠から放たれる光が色を変えていく。
珠そのものは黒に近い暗さだが、その中にあらゆる色が潜んでいるのだとわかる。
「大きさや姿はわからなかったのですね」
「見えなかったからな。だけど、大きさは子供くらいだったんじゃないかと思う」
「ニーロの探している、迷宮渡りとかいうものなのか?」
「どうでしょう。わかりませんが、とても興味深いですね」
魔術師は珠に夢中になってしまい、キーレイとマリートは二人でしばらく時が過ぎるのを待った。
途中でウィルフレドが帰ってきても、ニーロの観察は終わらない。
仕方ないので髭の戦士にも昨日の出来事について説明し、あの双子のスカウトが消えてしまったことを伝えた。
「マリートさん、これをもらってもいいですか」
「もちろんだ。ニーロに渡すつもりでいたんだから」
「ありがとうございます」
魔術師愛用の机の引き出しに、謎の珠はしまわれていった。
ニーロの唇の端には笑みが浮かんでおり、マリートの渡した珠は嬉しい発見だったようだ。
すっかり機嫌を良くした魔術師は、テーブルへ戻ってきてようやく戦士の帰宅に気が付いている。
「ウィルフレド、戻っていたのですね」
「ええ。二人から話は伺いました」
「そうでした。聞きたいことがあるのですよね」
この言葉にキーレイは思わず笑ったが、一番知りたかったザッカリンの存在を知っていたかどうかの確認はもう済んでいる。
ファブリンとジャグリンは二人だけの兄弟。
真実なのか、偽りなのか?
しかし、ファブリンがわざわざそんな嘘を言うとはあまり思えない。
キーレイが正直にこう話すと、ニーロは小さく頷いて答えた。
「その弟を名乗る男は、一体どこから湧いて出てきたのでしょう」
「石の神官を名乗っていたから、神殿に行って話を聞かせてもらったよ。石の神官長は、魔術師のザックレン・カロンという男ではないかと考えたようだ」
「魔術師だったのですか?」
「一年ほど前に『生き返り』を覚えたいとやって来たらしい。同一人物なのかどうかの確認はもうできないが、特徴や年齢については矛盾がなさそうだった」
「ザックレン・カロンですね。私塾をしている知り合いに確認してみましょう」
確認と同時に、訃報として話は広まっていくだろう。
どんな人間であろうと、迷宮で命を落としてしまった場合、故郷で待つ家族や知り合いに伝えるべきだという考えが迷宮都市にはある。
その日暮らしをしている安宿の客なら、彼らの持ち物は店主が始末してくれる。
貸家の契約をしている者なら、持ち主である業者に知らせれば感謝してくれるだろう。売家も同様だ。
住処や荷物がほったらかしになれば、周辺は荒れていく。そうならないよう、街の住人は協力し合っている。
キーレイがよろしく頼むと言い終わると、マリートが袋からなにかを取り出し、テーブルの上に置いた。
「ニーロはあいつらの家の場所がわかっているのか」
マリートとキーレイも訪れてはいるが、無理矢理連行されての招待だったから。大体の位置はなんとなくわかる程度で、たどり着ける自信がない。
「ええ、知っていますよ」
「これを渡されたんだ」
ジャグリンがわざわざマリートに手渡したもの。黒い棒状のものを見て、ニーロは答えた。
「鍵ですか。これを渡された?」
「ああ。最後の最後に、どうしてなのかはわからないが」
「行ってみましょうか」
ひょっとしたら家の鍵ではないかもしれない。
だが、違うのならなんの鍵なのか探るだけだ。
四人で連れ立って、夕方の街を歩いて行く。
街の北東、王都に続く大門の近くではないかとキーレイは考えている。
ニーロの進む方向は想像と同じで、初心者向けの安売り店が並ぶ通りが見えてくる。
品のない派手な看板を掲げた店が多く、背の低い石の神殿はいつまで経っても見えてこなかった。
小さな店がひしめく狭い通りを抜けていくと、急に人通りが絶えて、古めかしい家らしき建物が並び始めた。
「住宅街のようですね」
ウィルフレドが呟き、キーレイも頷いている。
「門にも近いし、店も多いし、この辺りも便利そうです」
誰かが住んでいそうな気配はあるが、中に灯りがついていそうな家は見当たらない。
商人や、乗合馬車の御者あたりが暮らしているのだろうか。
馴染みのない路地を、様子を窺いながら進んでいく。
「ここです」
ニーロが立ち止まり、仲間の三人も足を止めた。
あの二人の住処とは思えないほど、ごく普通の家だ。
通りに並ぶ家々となにも変わらない、同じ色の石を積んだ壁に、古びた木の扉が付いている。
マリートが渡された鍵を使ってみると、扉はあっさりと開いた。
中にはまず大きな部屋がある。キーレイとマリートが連れてこられ、ジャグリンに見張られながらああだこうだと言われた場所で間違いない。
ニーロが手をゆらりと振って、部屋の中に灯りをともしていく。
左側にテーブルがあり、椅子が五脚、方向もばらばらに並んでいる。
右側にもテーブルがあり、紙やカップなどが乱雑に積まれている。
連れてこられた時には気が付かなかったが、片付けには時間がかかりそうだとキーレイは思う。
「ここがあの二人のスカウトたちの家なのですか」
ウィルフレドが問い、マリートが頷く。
だがニーロは首を傾げて、自分が来た時にはこんな風ではなかった、と話した。
「物の位置が変わっています」
わざわざ口にするということは、ニーロには単なる模様替えだと思えないのだろう。
「なにかおかしいところがあるのか」
「ええ。部屋の中はとても片付いていましたし、すべての家具が対称になるように置かれていたはずです」
「対称に?」
「部屋の真ん中を中心にして、鏡に映ったように左右がまったく同じになるようにしてありました」
ニーロはゆっくりと首を振ってこう呟く。
「彼らがこんな風にするとは思えませんね」
最初にこの部屋を訪れたのはニーロ。
その時、ザッカリン・ソーはいなかった。見かけていないし名前すら出てこなかったという。
「マリートさんが一人で連れてこられた時は、どうでしたか」
「あんまり記憶にはないんだが……。でも、ニーロの言うような配置になっていたら気付いたと思う。ここまで物が溢れてはいなかった気がするが、なにもないと思うほど片付いてはいなかったはずだ」
「ファブリンが話さなくなったと言っていましたが」
「俺を『黒』に連れて行った時は、話はしていたよ」
「元気にですか?」
「いや、長々しゃべってはいたが、声は小さくて聞こえないくらいだったし、内容も陰気だった」
「陰気?」
「ずっと謝っていたんだ」
ニーロは黙って頷き、他の部屋を見てみようと話した。
正面と左右に一つずつ扉がある。まずは覗いてみると正面の部屋には鍵がかかっていて開かなかったが、左はジャグリン、右はファブリンの部屋だったのではないかと思える内装だった。
どちらもあまり物が置かれていない。最後の探索に持っていかなかった装備品と服だけが残されており、左は黒い物ばかり、右は白い物ばかりで揃えられている。
「ここだけ鍵がかかっているな」
「開けてみましょう」
ニーロが進み出て、鍵穴に手をかざしている。
恐ろしいことに、次の瞬間小さく音が鳴って、扉は開いた。
「魔術か」
「他では使いません」
ソー兄弟の最期について考えると、確かにこの最後の部屋を調べておきたいとは思う。
ニーロが街中の扉の鍵を開いてまわることは確かにないだろうし、これ以上咎めても仕方ないかとキーレイは考える。
「灯りをつけます」
魔術師がふわりと手を揺らすと、暗い部屋の中があかるく照らされていった。
広い真ん中の部屋同様に散らかっていて、さまざまなものが乱雑にばら撒かれている。
「双子の部屋と随分様子が違いますね」
ニーロがこう呟いて、三人の大人たちは揃って頷いていた。
誰かがファブリンとジャグリンの家を乗っ取って荒らした。
そう考えるのが一番、納得がいく。
「それにしても酷い散らかりようだ」
脱いだまま放り投げられた服だの、紙だの、食べ物を包んでいたであろう大きな葉だのばかりが見えている。
「なにか重要な物があるかもしれませんし、手分けして探してみませんか」
「いいのでしょうか、他人の家を」
ウィルフレドは戸惑っているようだが、これにはマリートが答えてくれた。
「ジャグリン・ソーは死ぬ前にわざわざ家の鍵を渡してきたんだ。なんの理由もなくそんな真似をするとは思えない」
「自ら命を絶ったんでしたか」
「そうです。二人を殺して、自ら首に刃を突き刺しました」
「あの大きな剣で?」
そう、あの大きな分厚い刃で。
ファブリンの苦しみを終わらせ、ザッカリンの首を刎ねて、自ら死を選んだ。
罪を償うためなのか、それとも、双子の運命を共にしたかっただけなのか。
わからないがとにかく、兄弟は迷宮の中に消え去っていった。
彼らの最期を知っているのはマリートとキーレイだけ。
鍵を渡してきたのは、なにか知ってほしいことがあるからなのかもしれない。
部屋の奥には大きなテーブルがあり、左右に大きな棚が置かれていた。
散らかっている物のせいで最初はわからなかったが、多少のずれはあるものの、家具はすべて左右対称に配置されていたように見える。
ニーロはテーブルを調べており、ウィルフレドは棚に並んだものを確認している。
マリートは床に落ちた衣類を拾い上げて広げていて、キーレイは隅に溜まっている雑多なものでできた山を崩していった。
多くは魔術について書かれたメモのようだが、紙の他にも様々な不用品が積まれている。
ぼろぼろになった布や、折れたナイフ、迷宮の中で採れる石、毒草のかけらなど。
ごみはちゃんと処分すればいいのに。キーレイはすっかりうんざりしていたが、捜索をやめようかと考えた瞬間、不用品の山の中から妙なものが出て来て唸った。
「どうしたキーレイ」
いつの間に来ていたのか、すぐ後ろにマリートが立って覗き込んでいる。
「なんだろう、これは」
紙の山の下敷きになっていた三つの輪っか。灰色で、なにかを編んだようなものでできている。
そのなにかが、人の髪の毛だと気が付いてキーレイは唸ったのだが、見せられたマリートは思い切り顔を歪めており、どうやら心当たりがあるようだ。
「わかるだろ」
「え?」
「あいつらがあんなにこだわってたんだから」
記憶を探ってみると、確かにすぐにわかった。ファブリンとジャグリンが愛してやまなかった、ニーロの髪の毛だ。
「三人とも腕につけていたのに」
「これを?」
「俺が最初に連れてこられた時には揃ってしていたよ」
ニーロの協力はいらない、とザッカリンは言った。
ファブリンとジャグリンがあれだけこだわり触れたくてたまらなかった無彩の魔術師に、関心はなさそうだった。
「魔術師は二人もいらなかったのか」
キーレイが呟き、マリートも頷いている。
「だからお前に来てほしかったんだな」
「……神官がいないから?」
脱ぎ捨てられた衣服の大半はただの普段着だったが、魔術師のローブも混じっていたとマリートは言う。
魔術師は裾の長いゆったりとした服を好んで着るが、なにか理由があるのだろうかとキーレイはぼんやりと考える。
ごみの山にはもうなんの発見もなくて立ち上がると、ニーロとウィルフレドも捜索を終えたようだった。
「なにか見つけたかな」
「『白』と『黒』の地図がありました」
「持って行っていなかったのか?」
「これは作成途中のものです。メモがたくさん書かれていますが、表記が独特で解読する必要がありますね」
ニーロはどこかうきうきとした様子で、地図の発見を喜んでいるのだろう。
「故郷や家族に関することは?」
誰からも返事はない。だが、誰かが頼まれていると名乗り出てくる可能性はある。
「万が一引き渡すように言われたら、返すんだぞ」
「わかっています。少し参考にさせてもらうだけにしますから」
この家の住人はもう帰ってこない。
そのうちいずれかの業者が片づけるだろうが、貴重なものと気付かずに処分されてしまうかもしれない。
あまり煩く言っても仕方ない。キーレイはそう心に決着をつけて、部屋の捜索を終えた。
ソー兄弟の家の戸締りを終えて、四人は家に帰った。
鍵はニーロが預かり、後始末を頼まれた相手を探してくれると決まった。
長い一日を終えて、この日もマリートと並んで眠る。
次の日はさすがに神殿に行かねばならず、朝早くに起き、剣士を残して家を出た。
早朝の番をしていた神官たちに勤めを急に休んでしまったことを詫びて、神官長の一日が始まる。
神像の前で祈りを捧げていると、誰かがやってきた気配があり、振り返って朝の挨拶を投げかけた。
「ニーロ」
やって来たのは無彩の魔術師で、辺りの様子ををゆっくりと見渡している。
まだ時間が早く、誰の姿もない。神官たちもキーレイがやって来たからと、仮眠室や自宅へ戻っていってしまったようだ。
「少しいいですか、キーレイさん」
「なにか話したくて来たんだろう」
「ええ」
神殿の一番前の長椅子に並んで座る。
前にもこんなことがあったなと思いながら、キーレイはニーロの話に耳を傾ける。
「随分昔に聞いただけなので、本当なのかどうかはわかりません」
「なんの話だ」
「ラーデン様から聞いた魔術に関する話です。昨日の夜帰ってから思い出しました」
ニーロがまだ幼い頃、師であるラーデンは様々なことを語っていたという。
教えようとしていたわけではなく、ただの独り言だったのだと思う。
そんな前置きの後に、無彩の魔術師はこんなことをキーレイに語って聞かせた。
「『生き返り』のようなものが、魔術として存在しているかもしれません」
「ようなもの?」
「他人を操るんです。心を支配し、術師の思い通りに動かすという魔術について聞かされたのです」
背中にじわりと汗が落ちていったような気がしていた。
キーレイはすぐには答えられなかったが、ニーロを見つめてこう問いかける。
「できるのか?」
「わかりません。ひょっとしたらできるかもしれません。魔術師は見えない力を掴んで操るもの。その中には、人間の心だとか生命力も含まれるという考え方があるのです」
「生命力?」
傷は放っておけば治る。
それは、人間の中に傷を治す力があるからだ。
深い傷を放っておけば死んでしまうかもしれないが、そんな状態だったとしても、治癒力自体が失われることはない。
「自然治癒の力を操れたら、傷も瞬時に埋められるのではないでしょうか」
「癒しと同じ効果が得られるのか?」
「どうでしょう。あれとは違うものになりそうな気がしますが」
神の力と同等かはわからないが、似たような効果を得られるのではないか。
だとしたら、ザックレンが癒しを使えたことにも納得がいく。
そして。人の内に潜む力を掴んで操れるようになれば、思考も支配できるのではないか?
そんな話をラーデンがしていたことがある、とニーロは言う。
「ファブリンたちはザックレンに支配されていたかもしれない?」
「そう思いませんか、キーレイさん。マリートさんは『黒』の探索で二人が死んでいたと話していましたが、ぎりぎりのところで助かっていたかもしれません。もしかしたら、死者ですら操る方法があるのかもしれませんけれど」
「なんと禍々しい話なんだ」
「こんな魔術を扱えるだとか、教えているという話は聞いた覚えがありません。ですがラーデン様が話していたのですから、研究している者がいる可能性は否定できないでしょう」
結局、真相はわからない。
三人とも死んでしまったのだから。
すべては迷宮の白に隠され、世界にはなんの影響もないだろう。
けれど今のニーロの話が本当ならば、あの違和感だらけの探索にも納得がいく。
様子のおかしいファブリンとジャグリン。彼らを駒のように扱っていた「ザッカリン」にも。
そして三人が揃って命を落としてしまった経緯にも、当然の理由があったのだと思える。
「ジャグリンはとても意思が強かったのでしょうね」
「……そうだな」
迷宮の中で殺人が起きたが、確かにジャグリンをただの悪人だとは思えなかった。
こんな自分の考えが正しいのかどうか、キーレイはわからずに迷っていたのだが。
「お、なんだ。ニーロもいたのか」
入り口に一人の男が現れ、ゆっくりと近づいてくる。
まさかのマリートの登場に、神官長は驚いていた。
「どういう風の吹き回しだ」
「神殿にやってきた人間にそんなことを言うのか、神官長のくせに」
大体、一緒に祈ろうと言ったのはお前だろう。
マリートに文句を言われ、キーレイは確かに良くなかったと反省していく。
「なにかわかったのか、ニーロ」
「いいえ、まだ、特になにも」
「そうなのか。祈りに来ただけ?」
「祈りはしません。僕は朝早くにここに来るのが好きなのです」
マリートに視線を向けられて、キーレイは静かに頷いて答えた。
確かにニーロはよく誰もいない早い時間にやってきて、一番左の端に座っている。
嘘ではないと納得がいったのか、剣士も頷くとこんな宣言をした。
「なあキーレイ、引っ越し先はあそこに決めるよ」
「そうか。良かった」
「もうあいつらがやって来ることもないからな」
だけどしばらくの間はキーレイのところで世話にならせてくれ。
剣士が言い出し、神官長はこくこくと頷いている。
「修繕の作業にちゃんと立ち会って、自分が使いやすくなるようにしたらいい」
「そんな面倒なことはいい」
「自分の家だろう?」
「キーレイがやってくれ」
「そんな馬鹿な話があるか」
小さな言い争いは、ニーロに諫められて終わった。祈りに来たのでしょう、と。
神像の前に跪き、キーレイは祈る。
恐ろしい企みがあったのかもしれないこと。
そしてそれが潰えたのかもしれないこと。
真実のわからない破滅の探索の記憶は重たい。
もう二度とあんなことは起きてほしくないし、仲間の上にも降りかからないで欲しい。
マリートもニーロも目を閉じて、静かに祈っている。
彼らと隣り合って今ここにいることが、どれだけ幸運なことなのだろうとキーレイは思い知っていた。
この後はバルシュートの店に行かねばならないし、神殿の番も追加で引き受けなければならないだろう。
こんなにも平和な日常の用事がいくつも自分を待ち受けていることに深く感謝をすると、キーレイは立ち上がり、いつもの業務へ戻っていった。




