8
十二月五日。
今月は私の応募作の当落発表はない。
ツイッター上には結果発表で受賞報告が多数上がっていた。『〇〇コンテスト大賞受賞しました!』『銀賞いただきました』『はじめての新人賞応募で特別賞受賞できました』などの声が多数上がっている。眺めているだけなのに、気分が沈む。そのツイートの「いいね」数も、しゃくに障る。昨日まで無名だったアマチュア作家のコメントに「おめでとう」の声が群がる。
これが眩しいということなのだろうか。私は肌がじりじりと焼け、瞼が重くなる錯覚に襲われる。仲の良かった知り合いの一人が特別賞を取った。特別賞とは、満場一致で大賞にはならなかったけれど、誰かの一存で受賞させたり、その賞の趣旨から少し外れているけれど、作品レベルが高いとか、作者の伸びしろに期待して送る賞だと思っているのだが、出版にこぎつける特別賞と、ただ賞金が手に入るだけの特別賞がある。
調べてみると、その「特別賞受賞できました」さんが送った賞では、ほとんどの特別賞受賞作品が刊行まで至っている。きっと半年から一年後には本屋に並ぶ。私より年下で十代の「特別賞受賞できました」さんは、「まだ高校生で、親の許可を得て執筆するのが大変だった」と続いてツイートしていた。「小説を書いていないで、受験に集中しなさい」と毎日言われていたらしい。「そんな表紙が漫画みたいな本を書きたいの? と親の理解を得るのに苦労していた」とか。きっと親は夏目漱石や芥川龍之介といった文豪のようなものを、小説家の肩書に求めているのかもしれない。私はどんな小説を書きたいのだろう。
「特別賞受賞できました」さんとは、私はスペースで三回ほど話したことがある。書き方に対して私はアドバイスまでしていた。主人公は受動的じゃなく、もっと能動的に動かした方がいいとか、ヤンキーが登場する小説だったので、今はヤンキーと呼ばれる人たちがほとんどいなくなっているので、表現を変えた方がいいとか。そんなことを。
三回話しただけなのに、私の中ではその子は『仲の良かった子』だったのだが遠くに行ってしまったと感じた。もう、二度とその子の名前は「特別賞受賞できました」さんから変わらないだろう。私はラキとまるもちに何かもやっとしたこの茶色っぽい汚い気持ちを聞いてもらいたかった。「特別賞受賞できました」さんの受賞報告ツイートの下のリプライ欄にラキとまるもちもおめでとうとコメントしていて、やるせなくなった。一度、ツイッターから離れようと思ってスマホゲームに興じる。最初の十分ほどは調子が良かった。頭の隅に〈私は一次選考も通らないのに〉という声が聞こえた気がして、とたんにゲームで勝てなくなる。仕方なくツイッターを開いて、「特別賞受賞できました」さんに「おめでとう」と飾り気のない、味もしないリプライを送る。一分とかからず返事が来た。常にツイッターに張りついているらしい。喜びの悲鳴と、「夢が叶ったよ」の報告。「賞金で家族と焼肉に行く」宣言に加え、「中村アベレージ姉貴もがんばれよ」と励ましの言葉と、大量のハートマークが送りつけられてきた。
落選者の集いみたいなものが必用になるかもしれない。私は「特別賞受賞できました」さんが送った賞には応募していないんだけど。




