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八月一日。
去年の十月十二日にラキとボナソサのライブに行ったことを思い出した。ライブのチケットを購入したのが八月ぐらいだった。こういうイベントの日付はしっかり覚えているのに、ミステリーの本を読むと登場人物の名前さえはっきり覚えられないまま読み終えることがある。犯人は関西弁だった。と、特徴でしか読後に残らない。
ラキとまるもちとは三ヵ月ほど、話していない。それでも、誰が何を話しているのかだけは気になるので、つき合いはやめたのにラキが昨日見たドラマのことを語っていたり、まるもちが二冊目の刊行にこぎつけたことなどは知っている。SNSで二人のことを追いかければ全部分かる。私はファンみたいになってしまっているが、別に応援したいから追いかけているわけではないので、追っかけとは違う。好きでもないのに人の行動を監視しておきたいと思うのは何故だろう。悪口、陰口を私は恐れているのだろうか。
いや、ラキがまるもちだけを褒めることがムカつくのかもしれない。ラキは興味のない相手の小説は適当に評価する。まるもちの小説も、盲目的に信望しているから高評価をするのだと思っていたが、まるもちの作品は世間の評価もいい。
つまりまるもちは実力者だ。じゃあ、ラキはなんなのだろう。まるもちの腰巾着のラキは自分の小説はそっちのけで、まるもちの作品を読むために時間を使っていることが多い。趣味で書いている人の考えることはよく分からない。
私SNSでラキ以外の人の応援をやめた。義務的に応援していたので、正直やめることができてほっとしている。応援返しをもらうこともなくなり、誰からも応援されなくなってはじめて、私はマイペースに執筆ができるようになった。
ライトノベルの新人賞に無理に応募しなくなった。そもそも私はファンタジーを好きで書いていないのかもしれなかった。ファンタジーは現実世界を舞台にしたときと比べて、とても書きやすいと思っていたのだが、ファンタジーこそしっかり設定を練る必要があるとプロ作家のユーチューブで聞いた。かといって、現実世界で私の書きたい主人公を苦しめる苦難の数々を書くのはエグすぎる。そう、正視に堪えないというか、生々しい話になりそうで自分でも怖くて書けそうにない。
それでも、現実世界を舞台にすれば、ファンタジーでバッドエンドにするよりも読者がつきそうな気がする。ファンタジーは夢がある話の方が受けるのだから。
誰にも見せずに書く。思えば、小説を書き始めたころは大学ノートに手書きだった。誰かに読んでもらえなくても、書き切っただけで幸福だった。あの頃に戻るべきか。




